63
モペッドを駐めた大岩のある場所まで下っていく途中、ケースにしまったビデオカメラを抱えていたテムが、何かを蹴飛ばした。重たいゴムを蹴飛ばしたような感触に、なんだろうとテムが目を凝らした。蛇でも蹴ったのかと見れば、それは人の肘から下の腕だった。
白い骨の周りを桃色の筋肉と、土色の皮膚が覆っている。
ココロ達も目を疑い、近づいて見るまでそれが何なのかわからなかった。
「あれって、腕だよね」
確認するように訊くと、エルマーとエミリも目を眇め、「腕だ」と答えた。
「……け、蹴っちゃった」
テムが靴に着いた黒い液体を触ろうとしたのを、エルマーが掴んで止めた。
「素手で触るな、ゾンビのだったらまずい」
「あれ、ゾンビのなの?」テムは声を震わせた。
「それはそれでイヤだけどな。ココロ、ビデオカメラのテープって」
「まだ二本残ってるけど、もしかして撮るの?」
「写真も一応、頼めるか?」
「いいけど、何の為に撮るの」
「守衛に伝える。うっかり森に人が入らないよう注意してもらわないといけない。ガンツ達が最近増えてるって言ってたの、多分これだ。けど、口で説明して、確認しに来たら危ない。これをやった奴がいるならなおさらだ。映像なり写真で見せたほうが」
「伝わりやすい、か」
納得できる理由だが、これをフィルムに残すのは抵抗があった。
「さすがエルマーくんですわ。さ、ココロさん、聞いたとおりです。早く準備なさい」
「命令すんなっつの」
ココロはテムにビデオカメラを任せ、カメラにフィルムをセットした。
イヤだ。こんなの撮りたくない。というか、近づきたくない。
そんな感情と戦いながら、ココロはテムが蹴飛ばした腕の傍に立ち、カメラを構えた。
雑草が剥げた地面に転がった腕の表面は、固まった血と土に覆われていた。
ファインダー越しに見ても、その血生臭さと不気味さは拭われず、むしろ生々しく写った。
なにか得体の知れない危険が迫っているような予感があって、シャッターボタンに添えた指が震えた。
まるで現実感が無い。
けれど、この異常な状態を知らせる効果的な方法はこれしかない。
シャッターを切り、フィルムに画が浮かび上がるのを待つ間、ココロ達は辺りに注意を払った。
問題はこの腕よりも、感染者をこうした存在だ。
この森に、何かがいる。
腰を屈めて落ちた腕を観察していたエルマーは、そこからほんの二三メートル離れた茂みの方へと血痕が続いているのを見つけた。
「この腕、落ちてるだけなのか?」
「どういう意味?」
「体の場所だよ、この血の跡、辿ったらわかるんじゃないか?」
「えー、やめようよ」テムは怖気づいた。
「そうはいかない。俺も守衛だったから、こんなの見たら放っておくわけにはいかねえよ。怖いならここにいろ、俺が見てくる。ココロも来てくれ」
「わたくしも行きます」エミリは当然のように言った。
「じゃあ、俺も行くよ」テムはそう言うしかなかった。
「無理するなよ?」
「俺も男だもん」
「よし。いいか、絶対血には触るな。あと、周囲には気を配っとけよ。もしかしたら、腕が千切れ落ちてるだけで、本体がまだこの辺りをうろついてるかもしれない」
エルマーは言うと、血の痕を辿った。
周囲に血が飛び散っている可能性もある。それにも注意を払い、血痕から一定の距離をあけ、点ではなく視界を広くとった。茂みを避けて、木の根に躓かないよう慎重に歩いた。
緊張が高まり、手汗が滲んだ。
そうして辿り着いた場所で目に映った光景に、顔から血の気がぎゅっと引いていくのを感じた。
「うわぁ!」
テムがびっくりして、ビデオカメラを抱えたまま尻餅を着いた。
ココロはファインダー越しに被写体を捉えたまま、機械のようにシャッターを切った。
食い散らかされた人の遺体――その残骸があった。
一目では、何がどうなっているのかはわからなかった。
ミンチの肉が木の幹に叩きつけられ、辺りに血を撒き散らし、潰れているようにしか見えない。
目を凝らしてようやく、それが人のものだとわかる。
ふくらはぎや太ももが千切れた脚、内臓が空っぽになった胴体、下あごを残して潰された頭、まるでマネキンか、蝋人形のようなそれは異臭を放ち、まるで作り物のように見えた。血を吸った土や木の幹が黒いシミを作り、辺りの雑草や小さな花にも、赤いペンキを散らしたように血液が付着している。
「……冗談じゃないぞ」エルマーは額に滲んだ汗を拭った。
「クマ、でしょうか?」エミリは目を眇めた。
この山には野生の獣も生息している。
人というより、感染者を襲ったと解釈する方が自然だが、こんな酷い状態で発見されるのを見聞きしたことはなかった。そもそもコロニーの外の、こんな山や森に入る時は、誰もがじゅうぶんな装備を整える。獣も学習するので、人には近づかないのが常だ。熊避けの鈴にしたって、下手に遭遇して争いたくはない人と熊の間に交されたルールのようなものだ。
人も熊も、基本は臆病で、互いに距離をとる。
そんな風に教えられたエルマーは特に、この現実を受け止めることが難しかった。
エルマーは深呼吸すると、その遺体に近づき、状態を間近で確認した。
顔の前を飛び回るハエが鬱陶しく、ひどい臭いに鼻を覆った。
目を凝らすと、剥き出しになった腕の筋肉が、微かに動いていた。
「マジかよ」
「どうしたの?」
ココロが訊くと、エルマーは深く息を吐いた。
「多分、まだ生きてるぞ。これ」
「心臓も、内臓も見当たらないのに?」
「感染者は死なないって、ここまでなってもなのか?」
エルマーは傍に落ちていた木の枝を拾い、剥き出しになった傷口を軽く突いた。その刺激に反応するように、全身が微かに縮まり、再び伸びた。惨すぎるな、とエルマーは目を眇めた。
「この状態で生きてるって、そんなの信じられない」ココロは言った。
「気分悪くなってきた」
「大丈夫ですか? あまり無理をなさらないでください」
エミリが気遣うと、エルマーは大丈夫、と手を上げた。
ココロもその惨状から目を逸らしたかったが、できなかった。
カメラのシャッターは切った。けれど、フィルムを確認する気にはなれない。
こんな状態でも生きているというエルマーの話も信じられないし、信じたくなかった。
自分の両親が、この世界のどこかでこんなひどい目に遭っている可能性を考えてしまった。
もしそうだったらと想像すると、頭が痛くなって、胸が苦しくなった。
「兄ちゃん、兄ちゃん!」
「どうした?」
「これ」
なんとか立ち上がったテムは、足元を指差した。
見ると、土が大きく抉れ、捲れあがっている。
「なんかの、足跡か?」
エルマーが訝しげに見ると、エミリが腰を屈め、抉れた土を指でなぞった。
「これは爪痕、ですわね」
よくわかるな、と驚いたが、エミリの追跡術はバカに出来ない。
「エミリ姉ちゃん、こっちにもある」
テムが呼ぶと、エミリが確認し、首を傾げた。
「……人の足跡ですわね、でもこれ」
「だとしたら、大きすぎないか?」
テムが見つけた足跡は、エルマー達が見ても人のものだとわかるものだった。
つま先で思い切り踏ん張ったようで、指の形がくっきりと残っている。が、その幅は広く、目測でも幅は三十センチ以上ありそうだ。少なくとも、殺された感染者のものではない。
「何がどうなってんのよ」ココロはうんざりした声を出した。
「鈴は皆、持ってるよな?」
「ええもちろん、持っています」
「もう少し、このあたりを調べてみよう」
「調べるの? すぐに戻った方がよくない?」ココロは言った。
「そうだよ兄ちゃん、急いで戻ろう。熊がいるかもしれない」
エルマーも同じ気持ちで、今すぐここから離れたいと顔に書いてあったが、苦渋の決断をするように、首を振った。
「陽があるうちに、できるだけ状況を細かく把握しておきたいんだ」
「あたし達に出来ることなんて、たかが知れてる」ココロは言った。
「だから少しでも状況を理解しておく必要があるんだ」
「だからどうしてよ」
「忘れたのか。俺達は、この森を何度か行き来しなきゃならなくなるんだぞ」
「……イヴ」
ココロが気づいたように言うと、エルマーは頷いた。
エミリもはっとした表情になり、逃げ腰だったテムもイヴのことを思い出して、苦い表情で唇を噛んだ。
「俺も、今思い出したんだ。あれを見て、イヴのことすっかり忘れてたけどな」
一瞬でも彼女のことを忘れてしまうくらいに、これは衝撃的だった。
だとしても、ここを離れるのが最も賢明な判断だ。それを頭でわかっていても、イヴを想うとそうもいかなかった。八つ裂きにされた感染者のように、あの子も同じ目に遭いかねない。当然、大きな人間の足跡も無視できない。
この森に、何が潜んでいて、何が起きているのか。可能な限り調べる必要がある。
誰にも守られていない山のなかで、ココロ達は味わったこともない感覚に囚われながらも、決断を下した。
「わかった。やろう」




