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猪可以飛  作者: ヨシトミ
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第9話 俺は醜い豚

第9話 俺は醜い豚


つゆが沸けば中でうどんも踊る。

うどんはふやけきって限界まで太くなったかと思えば、だんだんに形を崩していく。

澄んだつゆが濁り、最後は白濁になって、うどんはつゆに溶け込んでしまった…。


女を抱くまでこんなに時間をかけた事なんてなかった。

こんなに心を込めて女を抱いた事なんてなかった。

女なんてただのおもちゃだった。

終わってこんなに優しい気持ちになる事もなかった。

俺は身体を離すことなく、そのままの姿勢でシンレイの髪や頬をずっと撫でていた。


「言さん、言さんは下手だね…今まで私を抱いた男はみんなもっと上手かったよ」


シンレイは俺の裸の背中に下からしがみついて、うふうふ笑っていた。


「またそんな…今のん男はぐさあって来るで」

「…でもね言さん、言さんほど私を思ってしてくれた男は一人もいない。

すごーく素敵だし幸せだと思う、男とするってこういう事なんだね…」


そう嬉しそうに言うシンレイの目には涙の粒が浮かんでいた。

俺と同い年、今年40のばばあなのにまるで処女のようだった。

可愛い、大事にしたい、愛おしい…。

女に若さと身体しか求めて来なかった俺が嘘みたいだ。

別な意味でぐさっと来る、俺はまた動いた。


「言さん、私も…私も言さんと一緒にしたい」

「可愛い事言いよる。俺も初めてやで、こんなばばあを可愛い思うのん…奇跡やな」


シンレイは俺に合わせて動く。

涙を浮かべていた少女が急に成熟した大人の女に変身した。

そんな顔もするんだ、そんな事もするんだ。


「豚が飛ぶ事を奇跡って言うよ、私が言さんを飛ばしてあげる。

猪可以飛…豚は飛べる、奇跡も現実になるよ…」


豚は飛べるって…俺は豚かよ。

でもそんな奇跡があるなら、俺は醜い豚でいい。



目覚めるとシンレイはいなかった。

夜に食べ散らかした食器がそのままのテーブルの上に、書き置きを見つけた。

「しごとにいってきます」、街頭で配られていたビラの裏に書かれたシンレイの文字は、

平仮名ばかりで下手くそだった。

シンレイは「今は台湾人」と言っていたな…。

それにしては日本語での会話がやけに上手い、下手な書き文字はともかく。

まるでネイティブの日本人レベルだ。

あの母親と同じく、元は日本人だったのだろうか。


しかし仕事とは、シンレイはどうやって会社と連絡を取っているのだろう。

俺といる時、彼女が携帯電話の類をいじっているのをまず見た事がない。

本人にいじる事はほとんどなくとも、スマホぐらい持たされてはいるのだろう。


「えー、だって言さんが家にいるとコンセントいっぱいじゃん。

言さんがいない時じゃないと充電できないよ〜」


その翌日の朝、帰って来たシンレイにその疑問をぶつけてみると、

彼女は笑ってポケットからスマホを出して見せてくれた。


「…なるほど、確かに」


俺が家にいると、確かにタップを使ってもまだ数少ないコンセントの口は、

ゲーム機やポット、レンジなど、電化製品でいっぱいになっていた。


「しかし何やのこんスマホは…センス悪っ」


シンレイのスマホは安そうな黒の物で、何のストラップもなく、

画面を開くといつ撮ったのか、俺が最高にデブに見える奇跡の一枚が壁紙にされてあり、

通知音もいつ録ったのか、ぶひょぶひょ俺の無様な悲鳴に設定されてあった。


「素敵でしょ言さん? これで仕事中も言さんと一緒だよ」

「嫌やそんなん、もっとこうかっこええ画像とかないのんか?

ほら、そこのカレンダーみたいな…ああいうイケメンをやな。

あとネットに声優時代のイケメンボイスかて、ぐぐればようさん落ちとるやろが」

「キモ」


シンレイは俺の太い胴に腕を回して、「デブ」、「デブ」と俺を冷やかしてはしゃいだ。


「なんでやのん、どう考えてんイケメンボイスやんか」

「ぐぐってみたけど、あれのどこがイケメンボイスなのさあ。下手だし。

何の特徴もない超モブ声じゃん、言われなきゃ誰の声かもわかんないよ。

てか、全部おんなじキザキザな演技だよね? 他の種類とかない訳?

しかもなんかいちいち、ぜいぜいはあはあ息苦しそう、病人じゃあるまいし」

「モブ…? 息苦し…? セクシーボイスて言うてや、セクシーボイス!」


反論はしたが、正直ぐうの音も出なかった。

シンレイの感じた印象は当たっている、確かに声優時代の俺は演技が下手だった。

しかもキザなモテ男の役ばかりを選んでいたから、演技の幅も狭いと来ている。

声優をしていたくせに、その声に何の特徴もないってのもわかっていた。

ただの顔要員、それだけであの日までひたすら誤魔化し続けてきた。

自分の下に誰もいないのをいい事に、したい放題してきた。

そこそこの顔の若いやつさえ来てしまえば、事務所はそいつを推し、

俺など干されるのが目に見えていても、俺はその現実を見つめようともしてこなかった。


「そういやさ、なんでシンレイはあん時あそこにおったん?

アニメが好き言う訳でもない、ましてや声優が好きとか、そう言う訳でもない…」


シンレイは「このデブ」、「すごい腹だ」と、白い手で俺の腹をぎゅうぎゅう押して遊んでいた。


「ああ…あれは任務の途中だったんだよ」

「嘘お、誰狙うとったん? 俺?」

「まさか、誰が言さんとかモブい声優なんか狙うかよ。

あの時は単独行動じゃなくて2人チームでの仕事でさ、その相方がしくじってさ、

敵組織に追われてたのさ、そしたらあのイベントを見つけてさ…」


仕事の途中だったのか…しかも追われていたとは。

でなきゃシンレイのような女が、あの腐向けイベントなんかに来るはずないよな。

あの時だって相当浮いてたし。


「女は女の中に隠せばいい、そう思って客からチケット盗んでさ、

観客のふりをして休憩がてらイベントを見てたんだけど、つまんなくってさ。

高岡言とかすかしたやなやつもいたし、眠くなって寝ちゃったよ、そしたらさ…」


そしたら、俺がシンレイにむかついて殴ってしまった…。

俺は腹に抱きつく彼女のあごを、下からすくうようにして上げさせた。


「…シンレイ」

「どしたん? 言さん、なんだか泣きそう…」


シンレイは俺をじっと見つめた。

彼女は右目に黒の眼帯をしているから、見つめるのも左目だけだった。


「そん右目…もしかしてあん時のんか?」


天狗になっていた俺は、シンレイの被害状況を知ろうともしなかった。

片目失明なら実刑を喰らうのも納得だ。


「…言さんは私の右目を見たいか?」


シンレイはそう言って恥ずかしそうにうつむいた。

俺は彼女の右目を覆う黒い眼帯をそっとはずした。

まっ白に濁った瞳が、目の縁の大きな傷跡が、俺の心をまっすぐに見つめてえぐる…。


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