第30話 私は伊心麗
第30話 私は伊心麗
「えっ…」
シンレイが前で立ち止まった家も、「杉田」だった。
この家はうちの本家に当たる家で、「めーこさん」というおばあちゃんがおり、
うちの一族の長老になっている。
杉田の家にも女の子がいたが、いつの間にかいなくなっていた。
この地域の事だから、特別珍しい事ではない。
まさかとは思うが…。
「ここはめーこさんの家や、うちの本家に当たる。行ってみよか?」
「ううん、やめとく…」
「なんでやのん、お前の家かも知れへんやん」
「…私は伊心麗、もう杉田美映子じゃないの…!」
シンレイはかぶりを振った。
涙が彼女の動きに合わせてぱっと飛び散る。
「とし姉ちゃんと一緒にいたところから、また売りに出されて、
そこと台湾伊家の戦いで、ママとパパが私を見つけてくれたよ。
その時から私は伊心麗、台湾伊家の、ママとパパの子供なんだよ…」
「シンレイ、無理せんでええんやで…養女んなってん、肉親の情は捨てられへん」
俺はシンレイの肩を抱いた。
でも彼女は「いいの」と言って聞かなかった。
「ママとパパは私を養女にしてくれただけじゃなくて、本当の娘として可愛がってくれたよ。
だから私も何だってするって決めた。
少しでも弱点を減らしたくて子宮も卵巣も取った、厳しい訓練にも耐えた。
殺されそうになる前に殺す事も覚えた…全てはママとパパの心のために」
シンレイに生理の気配がないのは、彼女自身がそれを望んだからだった。
生殖が戦いの邪魔にならぬように。
シンレイは俺と結婚しても、俺の妻となる前に台湾伊家の殺し屋なのだ。
もし俺が彼女の両親や家に背く事あらば、彼女は迷いなく俺を殺すだろう。
たとえ俺がシンレイをどんなに愛しても、シンレイがどんなに俺を愛していても。
俺はそれが淋しくてたまらなかった。
こんな時俺の話に耳を傾けてくれる人は上杉、あの人しかいない。
…会いたい、でも会ってしまえばもう歯止めが利かなくなってしまう。
シンレイを愛していながら、俺は…。
東京に戻ってからの俺はずっと迷っていた。
それでも男の肉体は容赦しなかった。
シンレイのいない時を見計らい、上杉に連絡を取ってみた。
もう来ないと言うのなら、俺が会いに行っても良いかと。
3月も近い、底冷えのする午後だった。
「話なら聞くが、もう会わない方がいいと思う」
上杉からの返信はそっけなかった。
どうしてと返すと、上杉から電話がかかって来た。
「言さん、話とはなんだ? こっちは忙しい、手短かに話してくれ」
上杉は硬い口調でそう言って、俺の質問には答えてくれなかった。
「ごめん上杉…あのさ、お前もヤクザやんな」
「そうだけど?」
「家てそんな大事なもんなんか?」
「決まってるじゃん、そんなの…美映子と何かあったのか」
「…そうやないんやけど、ちょっとな」
俺は上杉に自分の感じた淋しさを話してみた。
愛か家か、ヤクザと結婚するとはそういう事なのか。
「シンレイの台湾伊家は台湾の組織だから、そうかも知れないけれど、
私は上杉の家という、日本の極道で姐をしていたからそうは思わない。
構成員の配偶者も大事な構成員だよ、彼女らの協力あってこその家だと思う。
上杉の家はそうやって続いてきたんだから…」
…おやじさんもあの光あふれる庭でそんな事を言っていた。
おやじさんの教えは上杉にもしっかり伝わっているのだ。
「おおきに、もうひとつ答えてくれへんか」
「何を」
「なんで俺と会いとうないんや」
「それは…私の都合、それでいいか?」
上杉は少し困惑し、言葉を一旦濁してから答えた。
「俺はお前に会いたいで」
「やめてくれ、そんな事言われても困る」
「何が困んねや」
「お前は美映子の男だからだ、他人の男を取るようなまねはしたくないね」
俺はくすりと笑った。
電話の向こうで上杉が口を尖らしているのが見えるようだ。
「どうか今まで通り友達でいてよ、私もあの日の事はただの気の迷いだって忘れるから。
会いたいなんて私を煽らないでよ、私だって本音は会いたい。
でも会ってしまえば深みにはまって、嫉妬に身を焦がしてしまう。
私、美映子の事嫌いになんかなりたくないよ…」
上杉はそんなに俺の事を思ってくれていたのか…!
たったそれだけの事がこの上なく嬉しいとは、なんと情けない事か。
「上杉、俺もお前の事思うてたで…ずっと。
シンレイが隣におってん、どないしてんお前の影が消えへん。
自分の心にやましい事したらあかんて思うてん、余計に強う思うだけや」
「言さん…!」
上杉は言葉を絶した。
俺たちは話す訳でもなく、電話を切るでもなく、ただ回線をつなげているだけだった。
涙の音が聞こえる。
電話の向こうで上杉が泣いているのがわかる。
…シンレイ、ごめん。
俺、どうしても上杉を放ってなどおけない、上杉には俺しかいない。
俺は部屋の隅に丸めて、放り出しっぱなしだった上着に手をかけた。
「あ、高岡くん!」
細身の身体に、白髪の多い髪をきれいに後ろに撫でつけた眼鏡の老人と、
上杉の家の近くで、ばったり出くわしてしまった。
武田のじいさんだった。
「武田さん…どないしたん?」
武田のじいさんはずいぶん慌てた様子だった。
「若と一緒じゃなかったのですか?」
「いや…上杉のやつ、またおらんようんなったんか?」
「はい、実は…」
「…さらわれてしもたんか?」
「それはないと思います、高岡くんに会いに行くと書き置きがありましたから…」
俺に会いに…?
「変やな、俺は上杉に会いに来たんやけどな」
「えっ…」




