第28話 上杉の雨
第28話 上杉の雨
「上杉…お前、一体いつからここにおってん…こない濡れて、寒いやろお」
俺は上杉の濡れた背中に手を回して、そっとさすった。
「寒くない…! 雨なんかちっとも寒くない! ひとりでいる事の方がずっと寒いし怖いよ!
おやじさんが亡くなっちゃったよ、言さん…たったひとりの家族だったのに!
…私を離さないで、ひとりにしないで、ひとりは淋しいよ。
私、もうひとりでどこにも行きたくないよ…淋しくて淋しくて、ひとりは怖いよ…!」
「私を離さないで、ひとりにしないで」…シンレイもそんな事を言っていたな。
そんな事を言うのは、上杉もまたどこかからさらわれて来たからなのだろう。
ある日突然、故郷から、実家から、親きょうだいから、ひとり引き離されて。
上杉は俺の胸に顔を埋めて、涙を次から次へと生み出すだけだった。
普段、くだらない冗談や喧嘩ばかりの上杉悠一という友達は、
上杉淑子という女になって、俺の心に悲愴の雨を降らせる。
シンレイが女だった頃の上杉を、それは美しかったと何度も繰り返す。
でも俺にはこの腕の中で涙を流す細身の男の方が、何倍も美しく、女らしく見える。
名前を変えて、胸を潰して、身体の丸みを消して、男物の服を着て、
男言葉を話して、男のように振る舞っていても、
彼が女である事はこの雨と同じで少しも隠せていない。
服からはみ出す肉体の、仕草や言葉の端々から、その事実が時々こぼれ出す。
しっとりと、たおやかに。
女が見せる女らしさよりも、はるかに鮮やかに強く。
秘密を共有し、胃袋をつかみ、俺にだけ弱みを見せる…。
…上杉、お前は本当に上手いね、しかもその全てが計算じゃないって事が。
俺だけがこの人の事をわかっている、この人には俺しかいない、
俺が守ってやらないと、俺が一生そばについててやらないと、
男にそう思わせるには、お前はあまりにも十分過ぎる。
まるで色恋の神がそっくりそのまま、お前という女に化けたみたいだよ…。
部屋で上杉の濡れた髪をタオルで拭いていると、テーブルの上の電話が鳴った。
武田のじいさんからだった、きっと上杉を探しているのだろう。
「…はい、来たはります。でもえろお雨に濡れたはるし、だいぶ憔悴もしたはる。
今日のとこはうちで一日休ましたってもええやろか?
…はい、おおきに武田さん…ほんなら上杉が落ち着いて来たら電話しますしい」
「言さん…電話、武田からか?」
電話を切ると、上杉が眉根を寄せてそう聞いた。
「お前の事、上杉の家でちょっとした騒ぎになっとるらし。
今風呂沸かしとるから、風呂入ったらちょっと休みい。
シンレイも仕事で明日までおらん、ふとんを独占してゆっくり昼寝でんしたらええわ。
家には夕方でも俺から迎えの電話しといたる」
「…帰りたくない」
「なんでやのん、お前上杉の姐やんか。悲しいのんは俺もおんなじやけど、
お客さんかてようさん来はんやろが…」
すると上杉は俺の背中を抱きしめて、必死にしがみついた。
「帰りたくない、帰ったらひとりを思い知らされてしまう…。
言さん、そばにいて…私をひとりにしないで、今夜だけでもそばにいて」
「…それは俺に言う台詞やない、女が男を落とす時の決め台詞や」
俺は背を向けたままそう冷たく言った。
上杉のためではなく、男として自分自身と戦う俺のために。
「それでいい、私は女だから…私を抱いてよ、言さん。
たった一夜の遊びでいい、少しでも情けがあるなら私を抱いてよ…!」
…俺の背中に涙の気配を、女の身体の柔らかさと匂いを感じる。
俺は後ろを振り返ってしまった。
そこには上杉という悲しい女がいるだけだった。
俺はもう何も見えなくなった。
友達の濡れた唇は、今まで見た事のあるどの料理よりも甘美だった。
くわえてしゃぶる指の先から続くその素肌は、黒いクレジットカードより扇情的だった。
出っ張りのない喉から漏れ出す甘く細い声は、どんな愛の言葉にも勝る。
…見事というより恐ろしいくらいだ、お前の本気は。
俺のちっぽけな百戦錬磨など簡単に蹂躙してしまう。
次から次へと新しい欲望が湧いて、まっ白に溶けて流れていっても尽きる事を知らない。
男としてこんなに燃えて、女を抱いた事があっただろうか。
「ずっとこうして欲しかったんだと思う…私、言さんの事ずっと好きだったんだと思う。
男として生きて行こうと決めたのに、初めて出来た大事な友達だったのに、
だめだね、私は…どんどん女に戻って行って、今じゃ女だった頃より女だ」
「上杉…お前は女以上の女や、そんな女はお前しかおらん。
俺のたったひとりの友達は、一生忘れられない永遠の女やったんやね…」
上杉は俺の腰を抱き寄せると、脚を開いて膝を立てた。
「言うね、美映子を愛してるくせに…来てよ言さん、言さんが欲しい。
私の中の女が言さんに渇いてる、欲しくて欲しくて泣いてるよ。
私の雨になってよ、言さん…」
いつか握手したあの切ない手の先で、指が動く。
雨に曇った窓ガラスに、友達の恥ずかしい欲望がぼんやりと映り込む。
俺がこんなに燃えてもまだ足りないのか。
上杉、お前は一体何人の男を攻め落としたら満足するの。
大勢の男たちが軍をなしてひれ伏し、お前ひとりだけを熱愛しても、
お前はそれでもなお愛を乞うか。
「…もうここには来ない」
情事と情事の合間に、上杉は俺の下でうつぶせになってかすれた声で言った。
「なんでやの、上杉」
「自分が恥ずかしい…私は禁を犯した、言さんを求めてしまった。
そんなやつがどうして平気な顔して、美映子のいるこの部屋に来られるの…。
他の誰にでもなく、自分の心に恥ずかしい」
ずるい女だ、あんな大胆な事をしておきながら恥じらうなど。
それがどんなに男を燃やすのかわからないのか。
俺は無理矢理上杉を振り向かせると唇を奪った。
潤った大地から豊穣が芽吹くように、切ない手が、脚が伸びて俺の上で交差する。
…雨が降る。
雨は友達の身体に降り注ぎ、その心をしっとりと濡らして、
悲しいほどの槍になって深く刺し、自分を染み込ませる。
痛いほどの恋を雨音が歌う。
いつの間にか眠ってしまったらしい、目を覚ますと夜明けだった。
「上杉…」
隣に上杉の姿を探したが、ふとんには俺ひとりだった。
帰ってしまったのか…。
でも枕元に女の足が見える。
「言さん、ただいま」
上杉じゃない、枕元にはシンレイが座っていた。
しまった…これは言い訳出来ない。
脱ぎ散らかした衣類、丸めたちり紙、灰皿の中の銘柄が違う吸い殻、
枕の上の長さの違う毛髪、身体に残る無数の情痕…。
「言さん、今朝はいい匂いがするね」
…さすがのシンレイもこれだけの痕跡には気付いてしまったか。




