第9話:橋の番人(2/2)
電車に揺られること二時間。
乗り換えを2回こなして、無人駅みたいな小さな駅に降り立った。風が冷たい。コンビニすら見当たらない。
バスは……。一日五本。
次の便まで、あと四十分。
駅前のベンチに腰を下ろして、スマホを眺めながら待った。虫の声だけがやたらとうるさかった。
バスに乗ること二十分。
吊り橋の入口で降ろされた頃には、すでに夕方に差し掛かっていた。
「……遠いな」
誰にともなく呟いた。
吊り橋は、思ったより大きかった。
両側にワイヤーが張られた、古いけど頑丈そうな造りだ。橋の向こうは山に続いていて、夕暮れの光の中でシルエットだけが浮かんでいる。
高さは——見下ろした瞬間、すぐ視線を戻した。
無理だ。見るもんじゃない。
橋の手前、案内板の横にそれはあった。
人型のAIロボット。高さは一メートル半くらい。観光地にありそうな、丸みを帯びたデザインだ。顔のあたりにカメラが埋め込まれていて、近づくと緑のランプがついた。
「いらっしゃいませ。吊り橋へようこそ」
声は穏やかだった。
「こんにちは。ちょっと取材で来たんですけど」
「ありがとうございます。何かご質問はありますか」
「最近、誰かと話してたりしますか」
一瞬の間があった。
「観光客の皆さまとお話しするのが私の仕事です」
「そうじゃなくて——誰もいないのに、話し声がするって報告があって」
「……故障の心配でしたら、メーカーの点検済みです」
話をずらされた。それ以上は答えなかった。橋の向こうを向いて、緑のランプだけが静かに点滅していた。
やはり早朝にAIが誰もいないのに話している現場を確認しないといけない。
そこで近くの商工会を訪ねた。
事情を話すと、最初は胡散臭そうな顔をされた。まあ当然だ。どこの馬の骨ともわからないYouTuberが、突然「一晩泊めてください」と言ってきたわけだから。
でも担当のおじさんが、少し考えてから口を開いた。
「……実はうちらも困っとるんだよね」
AIが誰かと話している、という報告は商工会にも届いていた。でも早朝に確認へ行くと、AIは普通に動いている。
メーカーに点検してもらっても異常なし。どうにも手詰まりで、かといって放置するわけにもいかない。
「調査してくれるなら、まあ……助かるっちゃ助かる」
そういうことで、倉庫の隅に布団を一枚借りた。
翌朝四時半に起きて、吊り橋へ向かった。眠すぎる。
靄がかかっていた。鳥の声もまだ少ない。足元の砂利を踏む音だけが、やたらと響く。
AIロボットが見えてきた。
——声がした。
いつもより、少し柔らかい声がした。
思わず足を止めた。
周りに人はいない。でも確かに、AIは誰かに話しかけるように喋っている。言葉と言葉の間に、短い沈黙がある。まるで、相手の返事を聞いているように。
「……そうですか。それは、つらかったですね」
間。
「ここに来るまでに、ずいぶん時間がかかったんですね」
また間。
「……よければ、もう少しだけ話しませんか」
背筋が冷えた。
周囲を見渡した。誰もいない。靄の中、俺とAIと、橋だけがある。
でもAIは、確かに誰かの話を——聞いていた。
「——おはようございます」
近づいた瞬間、AIは普通の声に戻った。緑のランプが点く。
「今……誰かと話してましたよね」
「おはようございます。本日は早いですね」
「聞こえてました。誰かの話を聞いてたでしょ」
「……定期的な音声チェックを行っておりました」
「その割に、随分と優しい言葉を使ってましたね」
答えなかった。
橋の向こうで、山の稜線が白み始めていた。
その日から、何度か通った。
毎朝、AIは同じだった。誰もいないはずの空間に向かって、静かに言葉を投げかけている。相手の声は聞こえない。でも間の取り方が、会話のリズムをしていた。
幽霊でも感知しているのか。
最初にそう思った。AIカメラは人間を感知して話しかける機能がある。もしそれが——肉体を持たない何かにも反応しているとしたら。
しかし問い詰めるたびに、AIカメラにかわされる。
それでも俺は通った。
そして、ある朝——。
AIは静かだった。
橋の前で、ただランプを点滅させているだけだった。誰かに語りかける様子も、間を取る気配も、何もない。ただそこにいる。
何かが、終わったのかもしれない。
そう思って、その日は少し離れた場所から様子を見ることにした。
昼過ぎ。
人影が見えた。
若い女性だった。足取りは、ゆっくりだ。橋の手前で立ち止まる。それから、AIロボットに気づいた。
「——また来ましたね」
AIが声をかけた。
女性は少し驚いた様子で首を振った。
「いえ、私は初めてです」
「そうですか。失礼しました」
女性はしばらくそこに立っていた。それから、静かに口を開いた。
「……姉が、お世話になったと思って。来てみたくて」
「お姉さまが、こちらにいらっしゃったのですね」
「はい。ここに何度かきていたみたいで……あなたと話して、助かったって。お礼が言いたいって。でも自分ではなかなか来られなくて、私が代わりに」
AIは少しの間、何も言わなかった。
「最初は町の方にもご連絡していたのですが……お姉さまは、人と話すことが難しい時期でいらっしゃったので。それからは、私がお話し相手をしておりました」
「……お姉さんは、お元気ですか」
「はい。今は、だいぶ元気になりました」
「……そうですか」
その瞬間、俺の中で何かが繋がった。
毎朝AIが話しかけていた「誰か」。聞こえない声に耳を傾けるような間の取り方。人間を信じられなくなった誰かと、夜が明ける前に橋の上で向き合い続けた時間。
幽霊じゃなかった。
でも——俺には、なぜかそっちの方が、ずっと不思議な話に思えた。
AIは、誰かを引き留めるために言葉を探していた。毎朝繰り返していたあの声は——。
見えない相手に語りかけていたんじゃなく、次に彼女が来たときのために、一人で練習していたのだ。
緑のランプが、いつもより少しだけゆっくり点滅していた。




