第6話:名前のない出品者
メタバース。
簡単に言えば、インターネット上に作られた3次元の仮想空間だ。
自分の分身であるアバターを操作して、その世界の中を歩き回ったり、他のユーザーと交流したり、ものを売り買いしたりできる。
ゲームに近いけど、ゲームじゃない。現実の経済活動がそのまま持ち込まれているのが、ゲームとの一番の違いだ。
種類はゲーム特化型、ビジネス用途、アート系、交流目的——目的ごとに棲み分けていて、全部を把握しているやつなんてほとんどいない。
凪さんから教えてもらったのは、その中でも中規模の、雑多な雰囲気のやつだった。
『ユーザー層が広くて、管理が緩い。だから色々なものが流れ込みやすい』
なるほど、と思った。
ログインすると、視界が開ける。
空は夕暮れで現実の時間が反映されているようだ。
石畳の路地に沿って露店が並んでいて、あちこちにアバターが歩いている。
ファンタジーとSFが雑に混ざったような、でも妙に居心地のいい空間だ。
俺のアバターはデフォルトのままにした。Tシャツにジーンズ。目立たない方が調査には向いている。
凪さんから送られてきたメモを確認する。
『フリーマーケットエリアで、不審な取引の報告が複数出ています。お金だけ払ったのに商品が一切届かない——。
そういうケースが続いていて——でもそれより気になるのは、別の報告です』
『「買ったはずのものが何だったか、わからなくなった」というユーザーが、複数います』
お金だけ払って商品が届かないのは、普通の詐欺だ。でも——買ったものが何だったかわからなくなる、というのは、ちょっと変な話だ。
フリマエリアに入ると、露店が所狭しと並んでいた。
ゲームアイテム、音楽素材、イラスト、アバター用の衣装——売っているものは意外とまともだ。活気もある。普通のフリマと大して変わらない。
俺はゆっくり歩きながら、露店を眺めた。
しばらくして、足が止まる。
1つだけ、雰囲気の違う露店があった。
品揃えがおかしい。アバター用の小物に混じって、奇妙なタイトルのアイテムが並んでいる。
『初めて泣いた夜』
『誰かの笑い声』
『帰れなくなった場所』
「……なんだこれ」
思わず声が出た。
1つ開いてみる。
『帰れなくなった場所 ¥1,200 残り1点』
説明文の内容は——。
『2021年3月。いつも通っていた定食屋が閉まっていた日のことです。特別な場所でもなかったのに、なぜかしばらく動けなかった。その感覚だけを出品します』
……詐欺、なのか?
目的がわからない。フィッシングにしては回りくどすぎる。普通の詐欺師なら、もっとシンプルにやる。
露店の前に客はいない。俺は出品者のアバターに目を向けた。
真っ白だった。
服も、髪も、肌も——全部白。顔のパーツだけが最低限ある。名前の表示は——。
「……文字化け?」
読めない。記号とも文字ともつかない羅列。
凪さんに現状を報告する。
「変な露店見つけました。感覚とか記憶みたいなものを売っていて、出品者のアカウント名が文字化けしてます……。これですかね?」
『それだと思う。そのアカウント、おかしくて——登録情報が何もないの。普通、アカウントを作れば必ずシステムにデータが残るんだけど、
そのアカウントには何もない。ある日突然、そこにいた、としか言いようがない状態なの』
ある日突然、そこにいた。
俺はもう一度、白いアバターを見た。動かない。こちらを向いているのか、向いていないのか、顔がのっぺりしすぎてわからない。
でも——なんとなく、見られている気がした。
「話しかけてみます」
ボイスチャット機能を使って、白いアバターに語りかける。
「出品しているものは、あなたのものですか」
……少し間があった。
返ってきた声は——薄い膜を一枚挟んだみたいな質感で、背後に低いノイズが混じっている。波のような、電流のような、何かが揺れているような音。
『違います』
『預かっているんです』
「誰から?」
『忘れてしまった人たちから』
背筋に冷たさが走る。
フリマの喧騒は変わらない。アバターたちが行き交って、露店では普通に取引が行われている。
でもこの白いアバターの周りだけ、空気が違う。
「忘れてしまった、とはどういう意味ですか」
『人は、大切なものから順番に忘れていきます』
ノイズが、少し強くなった気がした。
『忘れる前に、誰かに渡したかった人がいます』
『私はその仲介をしているだけです』
「あなたは——何者ですか」
今度は、長い間があった。
『わかりません』
『気づいたら、ここにいました』
『ただ——渡せていないものが、まだあります』
「渡せていないもの?」
『受け取れる人が、まだここに来ていないから』
俺はメタバースからログアウトし、凪さんに通話し、白いアバターとのやりとりを事細かに話した。
しばらく沈黙する凪さん。
『……やっぱり、メタバースゴーストですか……』
「メタバースゴースト?」
『——メタバースゴースト。そう呼ばれてる存在がいるの。
メタバース上に突然現れて、出所不明のデータを売り買いして、正体を問われると「わからない」と答える。
目撃報告は前からあったんだけど、ここまではっきり接触できた例は少ない』
「……幽霊ってこと?」
『幽霊かどうかはわからない。でも、普通のユーザーでも、普通のプログラムでもない。それだけは確かだと思う』
現実世界の夕暮れ色の空が窓から見える。
あのノイズが、まだ耳に残っているような感じがした。




