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大魔王ターニャんの致命的な誤算  作者: 籠崎 莉々
第二部

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第26話 追想

 夜の森はわずかな音が微かに響いていた。

 

 枝を踏む音。 

 風に揺れる葉。

 自らの耳鳴り。

 遠くには獣の気配。

 

 全部が近い。

 ターニャは木々の間を歩きながら、ため息を吐いた。


 疲れている。

 身体ではなく、頭が。

 眠れていない。 

 いや、眠れない。

 

 目を閉じても、気配が消えないのだ。

 

 誰かが来る。

 

 そんな感覚ばかりが、ずっと背中に貼り付いていた。

 ターニャは立ち止まり、自分の左手を見た。

 包帯が巻いてある。

 昼間についた傷。

 ――のはずだった。


「……は?」


 包帯を外す。

 そこに傷はない。

 浅く裂けていた皮膚は、もう塞がっていた。

 痕だけが薄く残っている。

 ターニャはしばらく無言でそれを見つめ、ゆっくり包帯を巻き直した。


「……気持ちわる」


 ぽつりと呟く。


 寒気はない。

 夜風も冷たく感じない。

 それが余計に嫌だった。

 人間じゃなくなっていくみたいで。


 ターニャは視線を逸らすように歩き出した。

 しばらく進み、開けた場所へ出る。

 崩れた石壁。 

 昔は何かの小屋だったのかもしれない。


 今日はここで休むか。


 そう思い、ターニャは小さく火を起こした。

 ぱち、と薪が鳴る。


 炎を見つめる。

 赤い。

 普段よりも赤く見えた。


 ぼんやり眺めていると、不意に昔の声が蘇る。



『火が弱いからそのヴェール可燃材にしようよ』


『嫌です』


『リリちゃん家事能力皆無であぶなっかしいよね』


『誰のせいで野営が増えてると思ってるんですか』


『魔王討伐のためだから仕方ないね』


『絶対違います』


 ふ、と小さく笑いそうになって。

 でも、すぐ消えた。


「……リリちゃん」


 名前だけが、夜に落ちる。


 会いたい。


 ――来てほしくない。


 来れば巻き込む。


 もう自分は、聖女の隣に立てる人間じゃない。


 ターニャは焚き火へ木を放り込み、顔を伏せた。


 胸に手を当てる。


「ここに…来るなぁ」


 呟きは、炎に溶けた。










 リリは地図を逆さに持っていた。


「……」


 数秒考え。

 そっと回す。


「……なるほど」


 全然わかっていなかった。


 森の中。

 小さな焚き火。

 火力は弱い。

 鍋は半焼け。

 パンも焦げている。


 時間を置き過ぎた。


 なら、強火にすれば?

 結果はきっと同じ。焦げる。


 リリは無表情で焦げた部分を見つめた。



『そんな詰め込んでブサイクなハムスターみたいだね、リリちゃん』


「誰のせいで急いで食べてたと思ってるんですか」


 反射的に返してから、思わず口を閉じる。


 当然、返事はない。


 ぱち、と薪が崩れる。


「……」


 リリはパンをかじる。

 硬い。

 焦げてる。

 美味しくない。



『火が弱いからそのヴェール可燃材にしようよ』


「嫌です」


『リリちゃん家事能力皆無であぶなっかしいよね』


「……」


 リリはじっと焚き火を見た。

 それから、むすっとした顔になる。


「思い出したらなんだかムカついてきましたね」


 口元は少し緩んでいた。

 リリは小さく息を吐き、空を見上げる。


 星の瞬きがいつもより美しく見える。

 こんなとき、こんな状況、それなのに。

 それだから、なのか。リリにはわからない。


 ターニャはきっと、自分を遠ざけようとしている。


 危険だから。


 巻き込みたくないから。


 でも。


「知りません」


 リリは毛布を握る。


「今さらです」


 小さく、でもはっきりと呟いた。








 聖教会特務部隊。

 黒衣の兵たちが森を進む。


 灯りは最小限。

 無駄口もない。


 先頭を歩く男が地図を閉じた。


「痕跡は近い」


 その後ろ。

 四人の枢機卿がいた。


「境界反応が不安定になっています」


「魔王因子の侵食でしょうな」


「……速やかに処理を」


「‥‥‥‥」


 声に感情は薄い。


 だが、それは冷酷だからではなかった。


 彼らにとって必要なことだった。


 枢機卿殺し。

 魔王因子保持。

 境界汚染。


 どれも看過できない。

 英雄ターニャは、もう存在しない。

 ただそれだけの話だった。









 ターニャは目を開けた。


 気配を捕えた。


 反射的に剣へ手が伸びる。

 音を立てずに立ち上がる。


 森の奥には誰かがいた痕跡。


 ターニャは慎重に近づき――止まった。


「……は」


 思わず声が漏れる。


 焚き火跡。


 薪の組み方が雑。

 灰の散り方も適当。

 火も完全には消えていない。


 痕跡を隠す気配がまるでない。

 普通の冒険者ならありえない。


 ターニャは額を押さえた。


「……リリちゃんだ」


 即座に分かってしまった。


 長い旅の癖だった。


 こんな危なっかしい焚き火をするのは、一人しかいない。


 ターニャは思わず笑みがこぼれた。


「ぷはっ、ほんと雑…!」


 次の瞬間、その表情が消える。


 視線が森の奥へ向く。

 今度は痕跡ではない、人の気配。


 遠くには灯り。

 複数の気配。

 追っ手であることは明らか。


 ターニャの顔から血の気が引いた。


「……まず」


 リリの焚き火跡。


 追跡部隊。

 近すぎる。


 ターニャは剣を掴み、森を睨んだ。


「なんで来たのよ、リリちゃん……」

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