第16話 終わらぬ夜
夜の森を、風が裂く。
枝が頬をかすめる。
地面を蹴る音が、不規則に響く。
「……はぁ……っ、はぁ……っ」
リリの呼吸は、すでに限界に近かった。
それでも――
止まれない。
止まった瞬間、終わると分かっているから。
「もう少し」
前を行くターニャが、振り返らずに言う。
「……うん……」
声はかすれていた。
――逃げている。
その事実だけが、現実感を持っていた。
さっきまで、自分たちは。
“悪”と戦っていたはずだった。
でもその相手は人格者と言われていた一人の枢機卿。
理解が追いつかなかった。
「……どうして……」
ぽつりと、言葉が漏れる。
答えは返ってこない。
ただ。
ターニャの速度が、わずかに落ちた。
「……見える?」
「え……?」
「空」
言われて、リリは顔を上げる。
木々の隙間。
その向こうに――
光。
白い、巨大な魔法陣が。
空中に展開されていた。
「あれ……」
「指名手配」
ターニャの声は、平坦だった。
「広域伝達魔法。顔と罪状、全部バラまかれてる」
リリの心臓が、強く跳ねる。
――罪状。
「私たち……」
「違う。よく見て」
リリは顔をあげた。
それは――
「そう。指名手配されてるのはターニャだけ。罪状は枢機卿殺しと聖女の誘拐…魔王の因子を持つ可能性有りとも書かれてるね。
あっさりと、言う。けど――
「今この瞬間から、世界中の“敵”」
紡いだ言葉は重かった。
足が、止まりかける。
――ぐいっ
また、手を引かれた。
「止まらない」
短い命令。
リリは、歯を食いしばる。
「……っ」
走る。
ただ、それだけに意識を集中させる。
でも。
頭の中は、止まらなかった。
――違う
――私たちは、何もしてない
――説明すれば、分かってもらえる
そう思ってしまう。
そして――
森が、途切れた。
視界が開ける。
小さな村。
灯りが、ぽつぽつと点っている。
「……あ」
思わず、声が漏れる。
「人……」
一歩、踏み出す。
「待って」
ターニャの声が、止める。
「でも……!」
「ダメ」
「助けてもらえば――」
「無理」
重ねて、断ち切られる。
「もう、顔出てる」
「……っ」
言葉が詰まる。
それでも。
リリは、止まらなかった。
――違うかもしれない
その一縷に、縋るように。
「すみません……!」
村へ、駆け込む。
扉を叩く。
「助けてください……!」
中で、物音がする。
足音。
扉が、ゆっくりと開く。
中年の男だった。
その目が、リリを見て、後ろのターニャを見た。
そして。
一瞬で表情が変わった。
「……お前」
その声に、警戒が混じる。
「その顔……」
知っている。知られている。
――違う
言おうとする。
「ちが――」
――バタンッ!!
扉が、閉められた。
内側から、鍵の音。
「……え……」
理解が、追いつかない。
その時。
背後で、声が上がる。
「いたぞ!!」
振り返る。
複数人の村人たち。
それぞれが武器を持っている。
それは戦うためじゃない。
追い払うためのもの。
「来るな!」
「近づくな!」
石が、飛ぶ。
「っ……!」
リリが、身をすくめる。
その前に。
ターニャが立つ。
石は、見えない壁に弾かれて、落ちた。
「……行くよ」
低い声。
リリは、何も言えなかった。
ただ、引かれるままに、走る。
背後で、誰かが叫ぶ。
「教会に知らせろ!」
その言葉が。
何よりも、重かった。
――助けは、もうない。
森に戻る。
暗闇が、包む。
しばらく走って。
ようやく、足が止まった。
「……はぁ……っ……はぁ……っ……」
リリは、その場に崩れ落ちる。
「……なんで……」
声が、震える。
「……私たち……」
ターニャは、何も言わない。
ただ、空を見上げる。
まだ、光は消えていない。
「……もう」
リリの声が、かすれる。
「どこにも……行けないの……?」
少しの沈黙、そして。
「うん」
短い肯定。
「街は無理。村も無理」
「……っ」
「人は、頼れない」
その言葉は。
あまりにも、現実だった。
ターニャは、続ける。
「でもさ」
リリを見る。
「終わりじゃないよ」
「……え……?」
「逃げる場所は、ある」
その目は、まっすぐだった。
「ただし」
言葉を選ぶ。
「見つかったら終わり」
静かな宣告。
リリは、息を呑む。
そして。
小さく、頷いた。
「……行こ」
再び、手が差し出される。
リリは。
その手を、取った。
――逃げるために。
生きるために。
夜は、まだ終わらない。




