9,その話術はさるもので
「女将さん」
海の声の温度が低い。声そのものが低い。笑顔なのに目が笑っていない。
極寒のブリザードが吹き荒れている。
(もはやここは真夏の伊豆ではなく流氷押し寄せる真冬の旭川!)
志保は豪雪を背負った海の笑顔を黙殺し、アリスに完璧な笑顔を向けてきた。
「暁子さんの秘書さん、気を悪くしないでね。次にあなたに会ったときに私が素通りしても、決して無視しようと思ってのことじゃないのよ。誰だかわからないだけ。ああ、でもその時はわざわざ名乗ってくれなくても大丈夫よ。暁子さんの秘書さんっていつも長く続かないから、覚えても意味がないのよ。前の人の名前で呼んじゃいそうでかえって危ないから、知りたくもないの」
志保の笑顔よりも海のまとう冷気の凄まじさに、アリスは震えそうだった。
(体感気温が下がりすぎたせいか、しろくまとペンギンまで見えてきた! 南極・北極欲張りセットすぎる。女将さんの着物って冷気ガード機能でもついているの?)
しょうもない妄想が一瞬脳内を駆け抜けていったが、アリスは海にかばわれている場合ではないとすぐに思い直す。
おそらく志保は嫌味を言っている。ここまで堂々と目の前で悪口を言われた経験がないのでびっくりしたが、要するに「お前は眼中にない」と言っているのだ。
わざわざそれを出会い頭に言わねばならぬほど、アリスが目障りな存在であるということは志保の耳に入っているのだろう。
会長の跡継ぎになるかもしれない海が、自分の婚約者であると社内で宣言したこと。それにより、未来の社長夫人だなどと一部で言われ、副社長の暁子には秘書に指名されたこと。
現社長夫人である志保はアリスに対し、どこの馬の骨とも知れぬ女をつけあがらせてなるものか――という宣戦布告をしたのだ。あくまで「海の婚約者」ではなく「暁子副社長の秘書」に対して。
その喧嘩は、アリスのものだ。
アリスは志保に向かって、笑顔で口を開いた。
「私が研修した営業所の店長は、お客様の名前と顔が五千人一致するって言ってました!」
「はい?」
まさに藪から棒といった話題転換だが、アリスはすらすらと畳み掛けていく。
「店長は『サービス業に従事しているのだからひとの顔を覚えるのは当たり前のこと。退職するまでに一万名まで覚えたい』って言ってました! お客様の中には一回限りの方、もしくはご病気などでもう二度とお越しにならない方もいますから、まさに一期一会ですよね。でも、次回会うかもしれないときのために覚えられる限り覚える努力を決して怠らないそうです。各営業所のトップがそのように努力しているのが香空リゾートという会社です。まさか本店の女将が、たとえお客様ではないとしても今日出会った相手に対して『顔を覚えられなさそう』なんて弱気な姿勢であるわけがないと私は思います!」
全部心の底から湧き上がってきた言葉であったが、最後まで言い切ってからアリスはハッと我に返る。
(私これ、めちゃくちゃ煽ってることに……なってる!? よね!?)
聞く人が聞けば「香空リゾート本店『煌』の女将にして現社長夫人でもある佐々木志保ともあろうひとが、他店の店長以下だなんてそんなわけないですよね?」と言ってしまったところかもしれない。
さすがに口が過ぎたと焦り、素早く付け加えた。
「もしかしてお体の具合が悪い……とか? でなければひとの顔を覚えられないかもなんて弱音を口にしたりしませんよね?」
言ってしまってから、さらに「しまった」と血の気が引く。
(煽りの上乗せ! 三倍返しくらいの嫌味言っちゃったかも! そういうつもりではなく!)
新入社員のアリスに素晴らしい心得を教えてくれたその店長は「調子の出ない日もある、人間だから」と言っていたのだ。アリスはそれを思い出し、体調が悪いときに無茶言っていたらすみませんと言いたかっただけなのである。
もちろんいまの関係性では、100パーセントそんな気遣いは伝わらない。
背後に見たこともないようなどす黒い花を背負った志保の微笑を見たときに、アリスはそれを確信した。
「ぼんやりした見かけに不釣り合いなほど、よく口が回るわねえ。そういうところは暁子さんの好みなのかもしれないわね。私はちょっと趣味が悪いと思うけれど、暁子さんとはうまくいきそうだわ」
嫌味を言われているのはわかったが、同じレベルでやりあってはいけないということをアリスはよく知っている。
ここはもう、感謝とお礼の物量作戦で押し通そう! と腹をくくり、アリスはがばっと頭を下げた。
「お褒めいただいてありがとうございます!」
「あらまぁ。地味で優等生なだけが取り柄の見た目なのに、鈍くて図太いのね。面白いわねえ、いまの若い子は繊細な子が多くてどんどん辞めていくけど、あなたくらい鈍感なら仕事が面白くなるまで続くのかもしれないわ」
志保は決してアリスに気を許すつもりはないらしく、ひたすらごりごりと会話に嫌味をねじこんでくる。だが、アリスは「あれ?」と気づいてしまった。
(女将さんって、私に対してどれほどの嫌味を口にしても、必ずポジティヴな一言で会話をクローズしてるんじゃない?)
冗談と笑い合える余地を残しているのか、それとも隙を誘い出そうとしているのかはわからないが、単純にけなしているだけでは終わらないのだ。「暁子とはうまくいきそうだ」「仕事が続かない若い子より鈍くて面白い」と。
褒めて落とすのではなく、仲良くする気はないと線を引きつつも少しだけ「感心している」と伝えてくれる。
その話術に気づいたら、アリスは単純に志保を嫌うことはできなさそうだと思った。




