6,王位継承争い……!
「朝イチで軽く走ってきた。やっぱり日本は暑いね。少なくとも向こう二、三ヶ月は日中出歩くだけで命の危険があるってわかるような気がする。エアコン最高!」
朝起きたら、すでに一香はランニングしてシャワーを浴びた後であった。
物音に気づかぬまま健康的に熟睡して起きてきたばかりのアリスは、ノースリーブの軽装で涼んでいる一香の姿に眩しさを覚えて目を細める。
「さすが激務をくぐり抜けてきたホテリエは体力が違いますね!」
「習慣になっているから、体を動かさないと一日が始まらなくて」
にこっと爽やかな笑顔を向けられて、アリスはその場で溶け崩れそうになった。
(後光が差すって本当にあるんだ……。推したくなるのもわかる。これは沼への入口)
海とよく似た一香の、この「顔」に弱い。
相手が現実の人間である以上、出待ちなどのストーキング行為をしたら迷惑以外の何ものでもないので実行しようとは思わないが、ひとめ会えたらと惚れ込んでしまうひとの気持ちはよくわかる。
どの角度から見ても美しいと一香に見惚れつつ、アリスは苦笑を浮かべながら言った。
「私も運動を習慣にしたいって気持ちはあるんですけど、体力作りをする体力がないんです。ジムに通ったりしたほうが良いと頭でわかっていても、その時間があったら寝たいと思うし、そもそも『その時間』がなくて」
「悪いスパイラルに入っているときあるあるだよね。どこかで断ち切らないと」
すぱっと手刀で切断する仕草をする一香に、アリスは惚れ直してしまう。
「……アリス?」
不意に、キッチンに立っていた海から訝しんでいるかのような声をかけられる。前日のかわいそうかわいい嫉妬を思い出したアリスは、ぱっと振り返った。
「おはようございます! あ、あれ? 休日スタイル?」
朝まで同じ部屋のベッドで一緒に寝ていたはずだが、すでに活動を始めていた海は完全オフのスタイルだった。
今日は会社で何かと忙しいのでは、とアリスが言う前に海のほうから「土曜日!」と言ってくる。
「とりあえずSNSは炎上ではなくバズっているだけだし、この状況で不用意に会社に近づく気もない。広報部主導で様子を見ますってことで役員と関係する社員には連絡済み。今日は仕事しない」
「あー……最近、休日出勤も残業も当たり前過ぎて麻痺していたんですけど、土曜日ってことは仕事お休みですもんね……!」
騒ぎになったとほうぼうから連絡が入り、クルーズを切り上げて帰ってきただけにアリスは気持ちの上では臨戦態勢であった。しかし当事者かつ責任者である海が休むと判断したのであれば、今日は本当に休みなのだろう。
海は「コーヒー飲む?」と言って赤いチェック柄のマグカップを手にする。「自分で淹れます」とアリスは受け取ってコーヒーメーカーに向かった。
「危機管理の問題として、放っておいて後手に回るくらいならクルーズを切り上げて帰ってくる判断は必要だったと思う。後々大事になったときに『事態を把握していたのに無視した』ってなると社内的に面倒くさい。俺は取引先との打ち合わせを兼ねていたとはいえ、乗船している社員は他にもいたから。どこで誰に何を見られて勝手なことを言われるか」
「SNS騒動よりも、むしろその後の社内的な立ち回りが問題だと」
「そう。だから副社長も帰ってくるようにって言ったんだ。こういうときは、誰に対してもあまり隙を見せないほうが良い」
コーヒーのいい匂いが立ち上る中で、アリスは海の複雑な立場に思いを馳せた。
(私は同族経営の会社で、後継者と目される一族の人間を差し置いてまで自分が昇進できるとは考えていないけど……「弓倉部長」の地位や収入を妬むひとは当然いるよね。仕事で功績を上げれば、血縁でなくても社長への道は開けるって考え方もあるだろうし)
副社長の暁子が海に協力的なので普段は意識していないが、海は日常的に足を引っ張られる経験もしているのかもしれない。少なくとも、ただ待っていれば社長の座を転がり込んでくるとは考えていないだろう。それこそ、後継者候補は他にもいる……。
ハッと息を呑んで、アリスはストレッチを始めた一香を見た。
(すごく普通に仲良くしているから敵同士なんて考えなかったけど、もしかしてプリンセスの帰国をきっかけに、王位継承権争いが始まる……!?)
自分はもちろん海の味方ではあるとしても、海と一香が争うところは見たくない……と妄想の先走るアリスに、海が「おーい」と笑顔で声をかけてきた。
「何考えているか、すごくわかりやすい顔をしている。姉さんと俺が争うことは無いと思うから、そこは心配しなくていいよ。足を引っ張られるとしたら、もっと別の方向からだ」
「わー……完全に私の考えていること読めるんですね。そうです、いま私は麗しき姉弟による宿命の対決について考えていました。『無い』んですね。そうですか」
「えっ、なんでちょっと残念そうなの? 期待に応える男としてはアリスにそんな顔をさせたくないな。なに、どうすればいい? 姉さんと骨肉の争いをすればいい?」
とんでもないサービス精神を発揮しようとした海に対し、アリスは慌てて「望んでませんから!」と言う。
背後で聞いていた一香は、あははっと軽い笑い声を立ててから言った。
「二人、仲良いね。一応、私が海と争うつもりはないというのはその通りだよ。現場職が好きっていうのもあるし、年齢も年齢だから遅くとも数年以内に結婚も出産もしたいしその場合は仕事をセーブしたい。海が会社を守ってくれるなら、私は一社員として福利厚生を受けたいな」
「一社員として……」
「すごく当たり前の話なんだけど、経営者って休みが無くて当然の仕事だから。自営業とかフリーランスって、産休も育休も本人次第だけどその代わり稼ぎは激減するし会社が立ち行かなくなることもあるよね。大きい会社も基本は同じ。諸々考えると、私は一社員以上の待遇と引き換えに私生活を犠牲にする気はないから、社長には興味がない」
なるとしても副社長までかな、と可愛く付け足すところを見ると、一香は野心もやる気もないわけではないというのは伝わってきた。
(大空一族の生まれで、身を粉にして働いて会社に貢献してきた一香姫の結論がそうだとして、あとは……)
社内の人間関係を思い浮かべて、アリスは「いまの社長は」と呟く。一香が「そうなんだよ、良いところに気づいたね」と明るく言った。
「社長の佐々木さんはお祖父様のお姉さんの息子さんで、奥さんは伊豆の『煌』本店の女将。二人の息子の孝明さんも『煌』で店長をしている。つまり佐々木一族で本店をガッツリ固めているから、私が帰国したところで『煌』での研修は体よく断られると思うのよね」
「本当にお家騒動ってあるんですね!」
不穏な雲行きにアリスは思わずそう口走ってしまった。一香は立ち上がってにこにことしながら近づいて来る。
「あるんです。ということで、今日はせっかくの土曜日だし、ここはひとつ『煌』に行ってみようと思うんだ。プライベートで」
アリスが「飲みますか?」と淹れたばかりのコーヒーを持ち上げてみせると、一香は「ありがとう」と受け取る。もう一つマグカップを手にした海が、カウンター越しにアリスに手渡しながらさりげない口ぶりで言った。
「俺もそれが良いと思う。月曜日まで待っていると、姉さんが帰国したって話が向こうに届いて手を回されかねないから。さっさと挨拶に行っちゃったほうが良い。車出すから」
その一言で、この土日の行動を悟ったアリスは素早く進言をした。
「城戸さんも誘いますよね!? いいですね! 四人で伊豆旅行!」
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