5,「俺を推そう?」
「海外支社から戻らなかったのは、人手不足と人材難だよ~。少しでも休むとすぐ電話かかってくるし、仕事に行けば四八時間とか七二時間とか平気で帰れなくなってしかもその次の日普通に出社して仕事……。エンドレス仕事……知らないうちに五年経っていたんだよね。五年? 五年で合ってる?」
夕食をさっと終えてリビングでコーヒーを飲みながら、ソファに膝を抱えて座った一香がしみじみと帰国に至る経緯を話し始めた。
「ホテル業は二四時間営業だから、悪いサイクルに入ると本当にそうなるんだよな。たとえば稼働率八十パーセント程度の従業員数なら絶対に百パーセントの予約はとらないとか線引きして立て直していかないと、人間がどんどん潰れていく。六十パーセント程度にしか対応できない数まで従業員が減っているのに、売上目標は下方修正しないままで続けているとキャパオーバーなんてものじゃない」
カウンター席に座っていた海が、頷きながら地獄のような光景を話す。アリスもまたその場面を思い浮かべて「わかります」と思わず言った。
「学生時代、席があれば予約がなくても飛び込みのお客さんを通すレストランでバイトしていたんです。クリスマスやバレンタインあたりは予約段階で満席でシフトも万全だったんですが、ある年店長がうっかりホワイトデーに気づかず、予約も多くなかったことから普通の平日シフトで組んでいたら飛び込み客で激混みになりとんでもないことに」
通常時とは異なる混雑に対応できる人手が確保できていない場合、サービス業は目に見えて営業にダメージを受ける。
キッチンで洗い物を終えてきた城戸も「ですね」と口を挟んだ。
「常時六十パーセントの稼働率であれば八十パーセント体制の従業員数は養えなくなるので、人員やシフトを減らすことになります。ただそうするといざというときに対応できなくなるため、無理をしてでも百パーセント取れる日は取っていきたいと考えてしまう。が、その結果苦情が出て評判を落とせばリピーター減と口コミ低評価につながり、長期的にはマイナスですね。ただ企業というのは、よほどの事情がない限り売上目標を前年比上乗せで考えていくので、各事業所が実情を訴え出ていかないことには……」
つまり「現場が回っていないので一時的に売上は落ちるが、評判で挽回して長期的に回復させる」など、まずは責任ある立場の人間が上層部を納得させていかねばならないのだ。それが受け入れられなければ人員削減などを飲まされることになるが、そうなると大抵は優秀な人材から流出する。さらには需要が回復しても、人材の育成が追いつかないあまりに満足な営業が行えず「できる人間にどんどん負担がかかる」サイクルから逃れられなくなる。
一香は疲れた様子でソファに身を投げ出し「そうそう、その通りなの」と答えた。
「うちの支社が取った路線は、人員削減などのコストカットではなくて、香空の戦略に則った富裕層向けプランの拡充と宣伝で客数を押さえたまま単価アップして業績をプラスに持っていく力技だよ。そうするとホテリエ個人の能力が重要で、人材が育つまではマネージャー・支配人クラスが無休に。最近になって一応目処がついたところで本社から呼び出しがあって、良い機会だから帰国したの」
サバサバと言いつつも、ソファの上でぐずぐずごろごろしている一香は、アリスが抱いていた「近づきがたいバリキャリ令嬢」のイメージとは少し違って見えた。
日本よりも海外が好きで「日本には馴染めない」と肩をすくめて言うタイプとか、自分が優秀なだけに周りに対しても相応の結果を求める緊張感のあるタイプかもしれないと身構えていたものの、実物の一香姫は良い意味で気が抜けていて隙のある印象だ。
(海外の富裕層の接遇をしていたホテリエなら優秀なのは間違いないんだけど……なんだかすごく可愛い! しかも海さんにこんなに似ているなんて、もう他人の気がしない! って言うと、色々と語弊があるんですが。私はまだ他人なのであって)
ローテーブルの上には一香のトランクから出てきたお土産のバクラヴァがガラスの器に盛られていた。密閉されていたこともあり、日本の酷暑でもダメージを受けていないらしいところにアリスは感心しながら手を伸ばし、ひとつ食べてみる。
サクッとした何層にも重なったパイの食感とピスタチオの風味。シロップがしっかり染み込んでいるものの、予期していたほど甘すぎず食べやすい。思わず二つ目に手が伸びる。
視線を感じて顔を上げると、隣に座った一香がにこにこと笑って見ていた。
「アリスちゃん、ご飯もお菓子もしっかり食べるねえ。海も料理のしがいがありそう。なんか安心しちゃったなぁ、地に足のついた生活。私ももう少しまともな働き方を考えなきゃ。今は良くても十年後、二十年後に響く……」
言っているうちに悲しくなってきたとばかりに、一香はソファに突っ伏してしまった。
「よく気づきましたね。そこに思い至らず闇雲に働き続けて体を壊すひとも多いですから。これを機に、しばらく国内の仕事に専念するかいっそ休んでみても良いのではないですか」
すました顔の城戸が、さらりと提案をした。
一香はソファの上に伏せたまま「ん~」と唸る。
「自分の限界って、自分ではわからないのよねえ。休んだ方が良いと頭ではわかっていても、頑張れば頑張れる気もするし。それこそうちの母親とか叔母さんの世代は『恋も仕事も家庭もできて当たり前』なんて言われて休まないまま走り続けてきたようなタイプじゃない? 休みたいって思う自分は惰弱なのかなぁと……」
横で聞いていたアリスは、思わず「わかります」と呟いた。
「自分の『限界』が見えてしまうのも怖いし、他のひとと比べて『甘え』ているだけかもって思うのは私もよくあります。私の場合、そういう風に迷っているときって答えは出ないんですよね。何をしてもしっくりこなくて納得感がなかったり後悔したり……。『気圧のせいかな』なんて言って、努力目標低めにして休んでみるしかないって最近は割り切ってます」
「気圧のせい。そうだなぁ……私も気圧のせいにしよう……」
答えた一香の声がだんだんと小さくなっていく。
少しの沈黙の後、海が「あれっ?」と声を上げた。
「もしかして寝た?」
言われてアリスも上体を傾け、一香の体に触れないようにして様子をうかがってみる。すや、と寝息が聞こえ、声をひそめて海へ返事をした。
「寝てます」
「そっか。勢いよく酒も飲んでいたし、フライトの疲れもでたんだろうな……。今日のところはそっとしておこう」
言いながら立ち上がり、リビングを出ていく。タオルケットを持ってくると、一香にそっとかけていた。
顔を上げると、帰り支度をしている城戸に目を向ける。
「今日のところはこのままここで寝させておく」
「持ち帰りませんよ」
「そう? 結構本気なのかと思った」
軽い会話を交わしてから、翌日の相談をしながら玄関へと向かい、送り出して戻って来た。
アリスは音を立てないように、ローテーブルの上からコーヒーカップやガラス皿を回収してキッチンへと運んでいたが、横に来た海が「置いたままで大丈夫だよ」と言う。
「アリスも今日は疲れているよね。明日からも忙しいし、もう寝てしまったほうがいい」
「忙しいのはたぶん、海さんですよ。バズからの推し活? が、どうなるかわかりませんけど地方巡業が控えているわけでして」
海はほとんど無意識のようにアリスを抱きしめながら「そうだなぁ」と呟いた。
「俺が地方に出て本社を空けたとしても、姉さんがどうなるかなんだよな。呼び戻したのがお祖父様の意向だとすると、本社勤務にさせるよりもこの機に『煌』系店舗に向かわせるんじゃないかという気はしているけど。うちの母親がその路線に乗らなかったばかりに、海外選任になっているから」
「となると一香姫は伊豆の本店勤務ですか。お疲れなのに、休む間もないですね……」
アリスは海の腕の中で話を聞き、力なく笑った。
(庶民の私としては「創業者一族のお嬢様」といえば、もう少し楽ができそうだと思うんですが、こと大空家に関していえばだいたい全員そこらの社員以上に働いている……)
働き詰めのところを呼び戻されたからといって、休めという意味ではないというのが恐ろしい。
大変だなあと思っていたところで、海の手がするっとシャツの裾から入ってきて肌を撫でたことに気づき、アリスは「わーっ」と色気のない悲鳴を上げながら素早くその腕から逃れた。
「お姉さんがすぐそこで寝ていますので、こういうのはですね!」
「起きないから大丈夫だよ」
にこにこと笑われて、アリスは「だめですってば」と小声で主張した。
「勢いでわーわー話して終わってしまいましたが、ろくな自己紹介も挨拶もしていません。もっときちんとお姉さんと話したいですし、まずは明日の仕事に備えて寝なくては」
宣言をしてキッチンを出る。
するとすぐに海が追いかけてきて、アリスの肩に手を置いた。振り返ったところで、真顔で尋ねられた。
「あの……アリス、推し変した?」
「推し変?」
海は視線をさまよわせながら「ええと」といつもより自信がなさそうに言う。
「姉さんのことをSSRとか……。えっ、俺は? って。姉さんに気を遣ってくれたり仲良くしてくれたりするのはすごく嬉しいんだけどね……こう……俺を推そう?」
アリスは真剣に聞いていたのだが、海の言わんとするところが珍しくよくわからない。一応思いつくことはあったが、まさかという思いで理解が追いつかないでいた。
(……嫉妬……!? いやまさか……お姉さんに? 私のことで? 海さんが?)
ぐるぐると考えながら「大丈夫ですよ」と答える。
「推しとリアコは別みたいな話で、お姉さんと海さんの立ち位置は全然違いますよね?」
ええっ、とさらに海の顔が弱気になった。
「それってなんか違わない? 俺は知らないひとに推されたいとは思わないけどアリスには推されたい……。姉さんは距離感も近いしぐいぐい行くから、なんていうか俺より存在感があるというか。やっぱり城戸に持って帰ってもらえばよかったかな……」
柄にもなくもじもじと言われて、アリスは思わず海へと手を伸ばした。
「か……」
「か?」
きょとんと聞き返される。アリスは堪えきれずに海を抱きしめながら小声で叫んだ。
「かわいそうかわいい……!」
ぎゅうっと抱きしめられるがままになりながら、海は「べ、べつにね」と最後の抵抗のように言う。
「姉さんにコンプレックスがあるとか、そういうんじゃないよ。姉さんだからというわけでもなく、アリスが目の前で自分以外の相手と楽しそうにしているとちょっと気になるっていうか。えっ、これがかわいそうでかわいいなの?」
最終的に、海もアリスを抱きしめ返しながら髪にキスを落としつつ「なんか俺、恥ずかしいな」と呟く。
「海さんは恥ずかしいかもしれませんが、私はなんだかそんな海さんが新鮮で清々しいです」
「ドSか」
えへへ、とアリスは笑い返した。
この夜が嵐の前の静けさであることに、このときはまだ気づいていなかったのであった。
※本日(2026年4月2日)はコミカライズ分冊版第二話配信日でーす(*´∀`*)
第一話配信時に各ストアレビューや感想での応援本当にありがとうございました!
今回も素敵な内容となっております!!




