第二八話 深淵の中で差し伸ばされた手
ああ、全てが悪夢のようだ。悪夢が、再現されている。何も出来ぬ無力な子どものように里愛はその光景を眺める事しか出来なかった。
何時まで経っても私は無力な子供。その真実が覆ることは無く、目の前に広がる現実こそが真実だ。
今思えば昔から感情を表に出すのが苦手な子供だったと思う。いや、愛情を知らずに育ったため、どこかしら性格が歪んでいたのだろう。
その結果、何の因果か知らないが永遠と過去を見させられている。視線を逸らしても、耳を塞いでも閉ざされるのは一時のみ。
永遠に続くその光景を見続けているうちにキリキリと痛みを発していた感情が何も感じなくなり始めていた。
闇が、私を取り込もうとする。
抗う事も出来ず、なされるがまま闇に包み込まれそうになった時だった。
「やっと見つけた」
静かな空間に声が響いた。聞いたことも無い声に里愛は閉じていた瞳をゆっくりと開く。横たわるように倒れていた里愛が最初に見えたのはくたびれた靴だった。
続いて古びた外套に身を包んだ人が立っていた。顔は見えない。まるでそこだけ闇が凝縮したように真っ黒だ。
だが、何故か笑っているのが分かった。何故だろう……口元はおろか、輪郭すら見えないのに。
突然現れた存在に私を取り込もうとしていた闇が急に慌しく動き出す。更に私を取り込もうと全身を包んだ時だった。
外套を着た人が両手を伸ばしてきた。里愛の腕を掴むと、勢い良く引き上げる。
闇は怒っているような、悲鳴のような、何とも言えない音を発したが外套を着た人に「黙りなよ」と一括され、何も言わなくなった。
どうやら彼の方が強いらしい。闇を叱咤する姿を見るに仲間ではないが、似たようなものなのだろう。
普段だったら疑問に思う事も、長いこと傷つけられた心は麻痺し、助けられた事も気づかないほど里愛はぼうっとしていた。
そのまま地面に降ろされた後もしゃがみ込むように崩れ落ちる里愛を他所に外套の男は興味深そうに辺りを見渡している。
折角聞こえなかった物音も、声も、助けを呼ぶ声も、再び繰り返すように響きだす。
何かを叩くような音が聞こえる。
――叩かれているのは私だ。
助けを求めているか細い声が聞こえる。
――助けを求めているのは私だ。
離れて行く女性を引き止めようと必死にすがる声が聞こえる。
――離れて行く母親を引き止めようとする私だ。
ずっと、ずっと昔から誰かに助けを求めてきた。でも、誰も助けてなどくれなかった。
他人が気づくのは何時だって全てが終わって、心も体もボロボロになった後だ。
地面に崩れ落ちたまま動かない里愛を見下ろしていた男だったが、ふいに隣にしゃがみ込むのが分かった。
重い鎖がじゃらり、と音を奏でる。反射的に視線を向けた里愛だったが、罪人のように両手を前で固定されたその姿に言葉を失った。
虚ろな瞳が初めて男を真正面から捉えた。
深く被ったフードから見えるのはほっそりとした輪郭だった。艶やかな金髪が輪郭を覆い隠すように垂れている。
声は低かったから多分、隣に座っているこの人は男性なのだろう。しかし、外見が見えないため判断出来なかった。
相手はそんなことを気にしていないように胡坐を掻くと、顔に薄い笑みを張りつけた。
まるで先程まで聞こえていた物音や、叫び声、助けを求める声は全てBGMにでもなってしまったかのように気にならない。
本当に不思議だ。そんなことを思いながら観察していると、里愛に語りかけてきた。
「さてと、とりあえず深淵に沈む事は無くなったようだし、ここからは長期戦だ。まずは自己紹介から始めようか。僕の名はルベリエ・E・ベルモンド。呪術士だ」
「呪術士?」
「そう。人の負の感情を糧に相手を呪い殺したりするのが主な仕事の根暗な職業さ」
自分で根暗な割にはずいぶんとあっけらかんとしている。魔術師とは違うようだが、確かに呪術士など聞いたことがなかった。
顔に出ていたのか男は「呪術士はあまりいないからね」と補足してくれる。お陰で分からない部分は大抵答えてくれた。
「さて、君の名前を聞かせてもらってもいいかな?」
「名前?」
名前……名前。里愛は考える。名前とは、何だっただろうか。首を傾げ、しばし考える。
名前など忘れるはずが無いのに久しく呼ばれていないような気がした。
「じゃあ今は便宜上のため『リディア』という名を使用させてもらおう」
「リディア?」
「そう、リディア。嫌かい?」
別に嫌ではなかった。親しみを持てる名前だ。でも、それは自分の本当の名前ではない。あだ名みたいなものかもしれない。
そもそも日本人の自分がそんな外人のような名前を持っているはずが無いのだ。
そんなことを思いながら男の言葉に耳を傾ける。不思議と聞いているだけで心が解れるような柔らかい言葉だった。
「単刀直入にいうけど、僕は君を救出して欲しいと頼まれて来たんだ」
「救出?」
「そう、救出。ここがどこだか君は分かるかい?」
「んん……、過去……かな」
でも、過去とはちょっと違うような気がする。永遠と見させ続けられたせいで何が何だか分からなくなってしまったのだ。
目の前ではちょうど幼子が遠退いて行く母親にすがりつく姿が見えた。まだ四歳くらいの時だ。
言葉を覚えたばかりの頃……。喋る言葉など片言だけだ。それでも必死にすがりつく姿はいっそ滑稽といっても良いだろう。
自分でも冷めた目で見ているのに気づく。結局、私はこのまま見捨てられたのだ。母親に。
まるで心が鉛になってしまったかのように重く苦しい。
そんな里愛を眺めながら男はんー、と間延びした声を漏らしながら「半分だけ正解」と答えた。
「ここはね、君の心が作った世界。過去ばかり見えるのは呪術を掛けられたから。君に悲しい思いをいっぱいに満たしてもらってから闇に引きずりこもうとしたんだ」
「それって……」
「さっきの闇。あれがそう。だから結構危なかったんだよ、君」
薄っぺらい笑みを浮かべているためそんな危ない場面だったとは全く気づかなかったが、確かにそうかもしれない。
あの時の里愛は確かに闇に呑み込まれてしまっても良いと、本気でそう思っていたからだ。
「で、ここからが本題だ。君には思い出してもらわなくちゃいけない」
「何を?」
「生きる意味をさ。いいかい?この膨大な呪術を跳ね除けるだけの希望、願い、それらは全て生きる意味に繋がる。つまり、唯一この世界で呪術を跳ね返すことの出来る力というわけだ。まあ、本来なら助けに来た僕が何とかすべきなんだけど……今の僕は力を封じられているからね」
そう呟きながら目の前で揺すられる両手には枷が嵌められている。それは罪人に付ける拘束具に酷似していた。
いや、本物なのだろう。力を封じられていると言ったのは目の前の男だ。
里愛の無遠慮な視線を受け、男は小さな笑い声を漏らした。
「昔にね、ちょっとばかり悪さをしでかしてしまったんだ。これはその代償。本当なら命を刈り取られても文句は言えない立場だったんだよ、これでも。それくらい色んな人たちから恨みを買っていたし、憎まれていた。でも、僕は生きていて……君を助けるために呼ばれた」
「誰に頼まれたの?」
「さてね。それは君が元の世界に戻って確認しなよ。僕が依頼されたのは君を助ける事。元の世界に戻った時のことまでは面倒見切れないよ」
随分と投げやりだが、彼の言う事は正しい。つまり、生きて元の世界に戻れというのだ。
だが、私の生きる理由は何なのだろう?
「しょうがないなあ。忘れている君のためにヒントをあげよう。君は本当の世界に何が何でも戻らなければいけない。何故ならば目覚めた世界は君の本当の世界じゃ無いからだ」
「それは……」
「そう。君はリディアじゃないだろう?」
「私はっ――」
「そうだ、君の名前は……」
――里愛。そう、私の名前は里愛。
無理やりシリウスにこの世界に連れてこられ、元の世界に戻る為に翻弄する女子高校生。それが『私』だ。




