第二九話 心の階段を駆け上がる
「リア?それが君の名前なのかい?」
「ええ。そうよ」
「いい名前だね。リディアなんて名前よりずっと君に馴染んでいる名だ。本来真名は不用意に教えてはいけないものなんだけど……まあ、今回だけは聞かなかった事にしてあげるよ」
薄っぺらい笑みを浮かべたままそういうルベリエに里愛は瞳を瞬いた。そういえばこの世界に来たばかりの頃、同じような事をシリウスにいわれた気がする。
真名を教えたら大変な事になると言っていたが、実際は何が起きるのだろう?まあ、知らなくても良いことが世の中いっぱいあるからあえて聞こうとは思わないけど。
ルベリエのお陰でようやく自我を取り戻した里愛は辺りを見渡す。本当にそこは何も無いところだった。
いや、実際には里愛の過去が常に再生されているのだが、それさえなければ何も無い空間というべき場所だった。
「どうやってここから出れば良いの?」
「自我を取り戻した途端ずいぶんと元気になったね。まあ、元気な分だけ早く元の世界に戻れるから良いんだけどさ」
そう呟きながらルベリエは詠唱を始める。聞いたことも無い言葉が辺りに響き渡ると、空高くらせん状の階段が現れた。
無骨な作りをした階段は天を貫き、先が見えないほどだ。里愛はぽかんと口を開いたまま見上げる。
何だこれ。まさか、これを登って行かないといけないのだろうか?
そんな里愛の疑問に答えるようにルベリエは笑みを深めた。
「勿論これを登らないと元の世界には戻れないよ」
「……」
久しく運動をしていなかった里愛にとっては地獄のような時間が開始した。
最初は軽やかな足取りで登っていけたのだが、次第に息苦しくなり、最終的には手足が重たくなってきた。
身体が登る度に重くなって行く。いや、むしろ今までが軽すぎたのか、と頭のどこかで思う。
本来だったらここまで登る事など出来ないだろう。だが、ここは深層心理。登れて当たり前の筈なのに……登るのがひどく億劫だった。
更に恨めしい事にルベリエは軽々と登って行く。両手に重い鎖が付いた枷を嵌めていると言うのにも関わらず、だ。
普段牢獄に閉じ込められている奴に負けるなんて……どんだけ体力無いのだ、と思うがついに足が上がらなくなってしまった。
足が鉛のように重く、これ以上は動かせそうになかった。乱れた呼吸を整える里愛を見下ろしながら憎たらしいまでに余裕なルベリエの声が聞こえてきた。
「ほらほら、急がないと日が暮れちゃうよ。何時までもこの螺旋階段があると思ったら大間違いだからね。僕の力が尽きたら最初からまた登る羽目になるんだから頑張ってよ」
……今、空恐ろしい科白が聞こえたんだけど。え、何?この階段って消えたりするの?
青褪めた様子そんな事を考える里愛を眺めながら笑みを浮かべたルベリエが首肯した。
「勿論だよ。だから死ぬ気で頑張ってね。これでも僕、牢獄に閉じ込められていたせいで体力が落ちてるんだからさ、急いでよ」
「この、鬼ぃ、悪魔ぁ!」
「ひどい言われようだなぁ。でも、本当の事だから急いでね」
「ぐっ……」
これでは自分のせいで遅れているといわれているようなものだ。まあ、実際そうなのだろうがもっと優しく言えないのだろうか。
確かに急がないと不味いと言うのは何となく感じ始めているのだが……。
「おや、もう下の方階段消え始めているよ」
「えええっ!」
ルベリエがのんきにそう呟くものだから驚いたように視線を下に落とせば本当に下の方の階段が消えていた。
このままだと里愛のいる場所も簡単に消えてしまうだろう。これは悠長に登っている場合ではない。
全力で登らないと本気で下に落っこちる羽目になるだろう。そもそも中間くらいまで来ているのにこの高さから落ちたりしたらどうなるのかなど考えたくなかった。
真っ青な表情のまま勢い良く登り始めた里愛にルベリエも再び登り始める。
必死で追いかけているのに一向に距離が縮まないのは何故だろうか。本当に奴の体力は底なしなのではないかと思ってしまうほどだ。
時折休憩をする度にルベリエに階段が消えると脅され、急いでかけあがるという行動を繰り返していると、何時の間にかゴールに辿り着いたらしい。
登る階段がなくなった事に心底安堵した里愛は思わずその場に崩れ落ちる。
はあああっ、と深い溜息を零す里愛を他所にルベリエは息一つ乱していないのだから憎たらしいことこの上なかった。
だが、彼のお陰でここまで登ってこられたのも確かで、里愛は呼吸が整うと礼を告げた。
「ありがとう、貴方のお陰でここまで来られたわ」
「まあ、確かに君一人じゃここまで絶対登って来られなかっただろうね。僕に感謝するといいさ」
「……その上から目線の発言をどうにかすればもう少しマシなのに」
思わず皮肉を言えば、何故か嬉しそうに笑われた。……可笑しい。別に奴が喜ぶような事を言った憶えはないのだが。
しきりに首を傾ぐ里愛だが、ふいにルベリエが指差す先に見た事もない扉がある事に気づいた。
「何あれ?」
「あれが出口だよ。ご苦労様。これでお別れだ」
じゃあね、とあっさり別れの言葉を告げて何処かに行こうとするルベリエに里愛は驚いたようにその後ろ姿にしがみ付いた。
突拍子もない行動にルベリエも驚いたのか、バランスを崩しながらも此方を振り返る。微かにフードが揺れた拍子にルベリエの素顔が見えた。
左半分に燃え上がる炎のような刺青があり、自然と視線が釘づけになる。反射的に片手で顔を隠すルベリエ。
顔を見られるのがどうやら好きではないようだ。別に醜いわけではないし、むしろ整っている方だと思う。
だが、その炎を模した刺青が目立つため、軽い雰囲気の彼には妙に不釣合いにも見えた。
身をよじるように逃げるルベリエとの間には妙な距離感があった。助けてもらったのに、避けられてしまったようだ。
多分今の感じだとあの刺青は彼が好んで入れたものではないのだろう。何も言わなければそのまま姿をくらましてしまいそうなルベリエに何といえば良いのか考える。
下手な言葉を言えばもう二度と彼と会えない気がした。だから、里愛は正直な感想を告げる事にした。
「その刺青……ルベリエみたいで格好いいと思う!」
「…………はぁ?」
たっぷり間を開けてから呟かれる間の抜けた声。表情は見えないが、間抜け面をしている事は間違いないだろう。
里愛は弛みそうになる口元を引き締めながら言葉を続けた。
「だってさぁ、ルベリエにはピッタリじゃない。気紛れそうな青い炎なんて」
「……まったく、君ってやつは……」
溜息を零した後、ルベリエは参ったといわんばかりに天を仰ぐ。まるで自分が変なことをしたような仕草に里愛は心外だといわんばかりに眉をひそめた。
まあ、確かに上手い事は言えなかったが、綺麗だったのも事実なのだ。似合わなくとも、ルベリエの一部ならば大切な物に変わりはない。
何せ命の恩人なのだ。このくらいいったって罰はあたらないだろう。
「早く行きなよ。あの門の先でみんなが待っているよ」
「みんな?」
「そうさ。君が目覚めるのを待っている人たちだ」
「ルベリエは?」
「いや……」
「ルベリエは待ってないの?」
「あのね、僕は罪人なの。用が済んだら帰るに決まっているでしょ」
呆れた様にそう言うが、ちゃんと面と向かって礼を言いたい里愛は先に一人で帰ろうとするルベリエの腕をガッシリ掴む。
逃がさないと言わんばかりの必死な形相にルベリエが苦笑いを浮かべるのが分かった。
「本当に変わっているね、君」
「お互いさまでしょ。とにかく、勝手に消えるのは許さないからね!」
「どうして?」
「どうしてって……ちゃんとお礼を告げたいからに決まっているでしょ。こんな場所じゃなくて、面と向かって言いたいの!」
「……お人よしの上に、変わり者だ」
一人で帰ろうとしていたルベリエだったが、里愛の必死な様子に諦めたのか、肩の力を抜きながら笑うのが分かった。
それは今までのように張り付けたような笑みではなく、自然と零れ落ちた笑みだった。




