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3/6

俺たちは付き合ってなんかいない

朝の教室というものは、放課後の部室とは違った意味で騒がしい。


登校してきた生徒たちが友人と挨拶を交わし、昨日のテレビ番組や宿題の話で盛り上がる。窓際では誰かが机を寄せ、廊下からは別のクラスの生徒を呼ぶ声が聞こえてきた。


そんな光景を眺めながら、藤森海斗は自分の席で文庫本を開いていた。


四月も半ばに差しかかり、新しい学校生活にも少しずつ慣れてきた。


授業の流れも分かってきたし、クラスメイトの顔と名前も大体一致する。友人と呼べる相手も、何人かできた。


もちろん、毎日が刺激的である必要はない。


むしろ海斗は、何も起こらない平凡な日々を歓迎していた。


授業を受け、昼休みに本を読み、放課後は文学部で過ごす。


それで十分だ。


……少なくとも、先週まではそう思っていた。


「なあ、藤森」


前の席に座っていた男子が振り返った。


「昨日の数学の宿題、最後の問題解けた?」


「解けたけど」


「マジか。あとで見せてくれよ」


「答えだけ写すなよ」


「分かってるって。途中式もちゃんと見るから」


そう言って笑うクラスメイトに、海斗も軽く笑みを返した。


別に、誰かと話すこと自体が嫌いなわけではない。


自分の時間も大切にしたいだけだ。


だからこそ、今は本の続きを読みたい。


海斗は視線をページに戻した。


そのときだった。


「……藤森くんって、あの子と仲いいの?」


不意に、近くの女子生徒がそんなことを尋ねてきた。


海斗は顔を上げた。


「……あの子?」


「ほら、昨日の放課後。廊下で一緒に歩いてた、青い髪の子」


「ああ、星野のこと?」


口にしてから、海斗は一瞬だけ考えた。


そういえば、昨日も一緒に帰ったのだった。


部室を出て、途中まで並んで歩いただけだ。特別なことをしたつもりはない。


「同じ文学部なんだよ。まだ知り合ったばかりだけど」


「ふうん……」


女子生徒は、なぜか意味ありげな顔をした。


「な、何?」


「別に?」


「いや、絶対何かあるだろ」


「だって、すごく楽しそうだったから」


「……本の話をしてただけだよ」


「へえ。そうなんだ」


納得したのかしていないのか、よく分からない返事だった。


海斗は少しだけ眉を寄せたものの、それ以上は追及しなかった。


女子生徒が自分の友人のところへ戻っていく。


その背中を見送ってから、海斗は本を閉じた。


……嫌な予感がする。


昨日から、どうにもこうにも、星野瑞希という少女を中心に予定が狂っている気がした。


まさか、今日も何か起きるのだろうか。


そんなことを考えた自分を、海斗はすぐに否定した。


考えすぎだ。


ただの偶然に決まっている。


そう結論づけた直後。


「藤森くん!」


教室の入り口から、聞き覚えのある声が響いた。


海斗は、ゆっくりと顔を上げた。


そこに立っていたのは、青い髪を左右で結んだ小柄な少女だった。


星野瑞希である。


「……なんでここに?」


思わず口から出た言葉に、瑞希はきょとんとした。


「え? 藤森くんに会いに来たんだよ?」


「それは見れば分かるけど……」


問題は、なぜ会いに来たのかということだ。


一年四組は海斗の教室であり、瑞希の教室ではない。


別のクラスの生徒が訪ねてくること自体は珍しくないが、少なくとも海斗には、わざわざ自分を訪ねてくる相手などいなかった。


「昨日、おすすめしてくれた本!」


瑞希は抱えていた文庫本を持ち上げた。


「もう読んだのか?」


「うん! 昨日の夜、読み始めたら止まらなくなっちゃって!」


「……最後まで?」


「最後まで!」


瑞希は満面の笑みを浮かべた。


「すっごく面白かった! 最初は主人公が何を考えてるのか分からなかったけど、最後まで読むと、あの行動にもちゃんと意味があったんだね!」


「そうそう。あの場面、最後の展開を知ってから読み返すと印象が変わるんだよ」


「分かる! 私、あそこをもう一回読み直しちゃった!」


二人の会話は、自然と弾み始めた。


海斗は、自分が思った以上に嬉しくなっていることに気づいた。


自分のおすすめした本を、相手が気に入ってくれる。


それは、なかなか悪くない気分だった。


「それでね、海斗くんにお礼を言いたかったの!」


「……わざわざ、それだけのために来たのか?」


「うん!」


迷いのない返事だった。


「すごく面白かったから、早く感想を伝えたかったんだもん」


「そっか。気に入ってくれたならよかった」


海斗がそう答えると、瑞希は嬉しそうに笑った。


その笑顔を見ていると、こちらまで少し気分が明るくなる。


ただし。


二人の周囲が、妙に静かになっていることには気づいていた。


先ほどまで話していたクラスメイトたちが、ちらちらとこちらを見ている。


特に、さっきの女子生徒は友人と顔を寄せ合い、何やら小声で話していた。


海斗は嫌な予感を覚えた。


「……瑞希」


「なあに?」


「ちょっと聞いていいか?」


「うん!」


「ここに来る前、誰かに何か言われなかった?」


「え? 何も?」


「そうか……」


どうやら、瑞希自身は何も気づいていないらしい。


海斗は小さく息を吐いた。


「じゃあ、俺はそろそろ本を――」


「ねえ、海斗くん!」


「……何?」


「今日も放課後、部活に来るよね?」


「そりゃ、行くけど」


「よかった! じゃあ、また一緒に本の話をしようね!」


瑞希はそう言うと、ぱっと顔を輝かせた。


そして、海斗が返事をするよりも早く、教室の入り口へと戻っていった。


「じゃあね、海斗くん!」


「ああ……またあとで」


彼女の姿が廊下の向こうに消える。


その直後だった。


「……藤森」


前の席の男子が、ゆっくりと振り返った。


その顔には、妙に楽しそうな笑みが浮かんでいた。


「お前、すごいな」


「……何が?」


「いやあ、別のクラスの女子がわざわざ会いに来るなんてさ」


「本を返しに来ただけだろ」


「本を返すだけなら、放課後に部室で渡せばいいじゃん」


「……それは」


確かに、その通りだった。


しかし、だからといって、そこに特別な意味があるわけではない。


「昨日、仲良く帰ってたって話も聞いたぞ」


「仲良くっていうか、途中まで一緒に歩いただけだ」


「ふうん?」


男子は、さらに笑みを深めた。


「で、いつから付き合ってるんだ?」


「付き合ってない!」


思わず声が大きくなった。


教室のあちこちから視線が集まる。


海斗は、しまったと思った。


「……いや、だから。俺と星野は、ただの部活仲間だよ」


「はいはい」


「本当だって」


「分かってる、分かってる」


まったく分かっていない顔だった。


海斗は深くため息をつき、文庫本を開き直した。


……面倒なことになってきた。


そして、彼の予感は、残念ながら当たっていた。



     ◇



昼休み。


海斗は弁当を持って、校舎の端にある図書室へ向かおうとしていた。


教室で食べるのも悪くないが、今日は少し静かな場所に行きたかった。


朝から妙な質問をされ続けたせいで、いつも以上に疲れている。


「藤森くん!」


聞き覚えのある声がした。


海斗は足を止めた。


振り返るまでもなく、誰の声か分かる。


「……瑞希」


「お昼、一緒に食べない?」


案の定、そこには瑞希がいた。


両手で弁当箱を持ち、期待に満ちた目でこちらを見上げている。


「……どうして俺がここにいるって分かったんだ?」


「廊下で見かけたから!」


「そうか……」


偶然らしい。


それなら仕方がない。


……いや、仕方がないのだろうか。


「今日は図書室で食べようと思ってたんだけど」


「じゃあ、私も行っていい?」


「……別に構わないけど」


「やった!」


瑞希は嬉しそうに跳ねた。


その様子を見て、海斗は小さく肩を落とした。


静かな昼休みを過ごすつもりだったのだが、どうやら今日も予定変更らしい。


二人は図書室の隅にある休憩スペースへ向かった。


そこには小さなテーブルと椅子が置かれており、昼食を取る生徒も少ない。


海斗にとっては、ちょうどいい場所だった。


……瑞希が隣に座るまでは。


「……瑞希」


「なあに?」


「椅子、もう少し離してもいいんじゃないか?」


「え? でも、ここ狭いよ?」


「いや、十分広いと思うけど……」


「そうかな?」


瑞希は首を傾げた。


結局、椅子の位置はほとんど変わらなかった。


海斗はもう諦めて、弁当の蓋を開けた。


「いただきます」


「いただきます!」


二人は昼食を食べ始めた。


最初の数分は、思いのほか静かだった。


瑞希も食事中は大人しいらしい。


海斗は少し安心しながら、卵焼きを口に運んだ。


「ねえ、海斗くん」


……やっぱり来た。


「何?」


「この前、おすすめしてくれた本の主人公なんだけどね」


「うん」


「最後に、自分の気持ちをちゃんと伝えたでしょう?」


「ああ」


「私、ああいうのって素敵だと思うんだ」


瑞希は箸を置き、少しだけ考えるように視線を上げた。


「自分がどう思ってるか、相手にちゃんと伝えるのって大事だよね」


「……まあ、そうだな」


「だって、言わなきゃ伝わらないこともあるもん」


海斗は、なんとなく彼女の顔を見た。


瑞希はいつものように無邪気な笑顔を浮かべていたが、その言葉だけは妙に真っ直ぐだった。


「……瑞希は、そういう経験があるのか?」


「え?」


「気持ちを伝えられなくて、困ったこととか」


「うーん……」


瑞希はしばらく考えた。


「好きなお菓子を友達に教えなかったら、買いに行ったときに売り切れてたことはあるよ!」


「……それは、ちょっと違うんじゃないか?」


「そうかな?」


「そうだと思う」


「えへへ。難しいね!」


瑞希は楽しそうに笑った。


海斗も、思わず口元を緩める。


やはり、彼女と話していると調子が狂う。


けれど、こういう何気ない会話は嫌いではなかった。


「だからね、海斗くん!」


「ん?」


瑞希は、何のためらいもなく言った。


「私、海斗くんと一緒にいるの、好きだよ!」


「…………」


海斗の手が止まった。


箸でつまんでいた卵焼きが、弁当箱の上で静止している。


「……え?」


「海斗くんと話してると楽しいし、好きな本の話もできるし!」


瑞希はにこにこと続けた。


「だから、これからもいっぱいお話ししたいな!」


「……あ、ああ。そういう意味か」


「え? ほかにどんな意味があるの?」


「いや、何でもない……」


海斗は慌てて視線をそらした。


一瞬、心臓が跳ねた気がした。


しかし、よく考えれば何もおかしくない。


瑞希は、自分と一緒にいるのが楽しいと言っただけだ。


それ以上でも、それ以下でもない。


「……まあ、俺も本の話をするのは楽しいよ」


「本当!?」


「ああ」


「やったあ!」


瑞希は嬉しそうに笑った。


その瞬間。


「……今の、聞いた?」


「聞いた聞いた!」


休憩スペースの入り口付近から、ひそひそとした声が聞こえてきた。


海斗はゆっくりと顔を向けた。


そこには、二人の女子生徒が立っていた。


どうやら、図書室を通りかかったところだったらしい。


二人は海斗と目が合うと、慌てて顔をそらした。


「……えっと」


片方の女子生徒が、気まずそうに笑う。


「ご、ごめんなさい。邪魔するつもりはなかったんだけど……」


「いや、別に……」


海斗が答えるより早く、もう一人が口を開いた。


「でも、すごく仲いいんだね。もしかして、二人って……」


「違う!」


海斗は即座に否定した。


「付き合ってないから!」


再び、声が大きくなった。


図書室にいた数人が、こちらを振り向く。


瑞希は目を丸くしていた。


女子生徒たちは顔を見合わせ、何とも言えない笑みを浮かべた。


「そ、そうなんだ……」


「ごめんね、変なこと聞いちゃって」


二人はそう言い残し、足早にその場を離れていった。


静寂が戻る。


海斗は、弁当箱の上に箸を置いた。


「…………」


「……海斗くん?」


瑞希が、不思議そうに顔を覗き込んできた。


「どうしたの?」


「……いや」


海斗は額を押さえた。


「どうして、こうなるんだ……」


「え?」


「何でもない……」


本当に、何でもない。


ただ、もう少し普通に昼食を食べたかっただけなのに。


どうやら、それすら難しいらしい。


一方、瑞希は何かを考えるように首を傾げていた。


「ねえ、海斗くん」


「……今度は何?」


「さっきの人たち、私たちが付き合ってると思ったのかな?」


「……そうみたいだな」


「へえ……」


瑞希はしばらく黙り込んだ。


海斗は、その反応を見て少し不安になった。


まさか、気にしているのだろうか。


もしそうなら、きちんと説明しておいたほうがいい。


「瑞希。別に、気にする必要はないからな。俺たちは同じ部活の仲間だし、普通に話してるだけだろ?」


「うん!」


瑞希は、あっさりと頷いた。


「私もそう思うよ!」


「……そ、そうか」


「でも、仲がいいって思われるのは嬉しいな!」


「…………」


海斗は、再び固まった。


「……瑞希」


「なあに?」


「そういうことを、あまり大きな声で言わないほうがいいと思う」


「えっ? どうして?」


「どうしてって……」


海斗は言葉に詰まった。


本人に悪気がないのは分かっている。


分かっているのだが。


「……もういい。とりあえず、昼飯を食べよう」


「うん!」


瑞希は元気よく返事をした。


そして、何事もなかったかのように弁当へと向き直った。


海斗は、残りの昼食を食べながら考えた。


今日だけで、何回「付き合っていない」と説明しただろう。


まだ昼休みの途中だというのに、すでに数えるのも嫌になっている。


……放課後には、いったい何回言うことになるのだろうか。



     ◇



放課後。


文学部の部室に入った海斗は、扉を閉めた瞬間に深いため息をついた。


「……疲れた」


「おや。今日はずいぶんとお疲れのようだね」


窓際の机で書類を整理していた春樹が、顔を上げた。


その隣では、怜奈が本を読んでいる。


「何かあったのかい?」


「……いえ、何も」


「本当に?」


「本当にです」


海斗は鞄を置き、椅子に腰を下ろした。


今日はもう、誰にも何も聞かれたくない。


静かに本を読んでいたい。


そう願った直後、部室の扉が開いた。


「こんにちはー!」


瑞希が元気よく入ってくる。


海斗は、机に額をつけた。


「……早いな」


「え? 今日は授業が早く終わったんだよ!」


「そうじゃなくて……」


「?」


瑞希は首を傾げたが、すぐに海斗の隣へ向かった。


もちろん、椅子は最初からそこにある。


「海斗くん、今日のお昼の話なんだけど!」


「……まだ続くのか?」


「うん!」


迷いのない返事だった。


海斗は顔を上げた。


「……何だよ」


「私たち、付き合ってるって思われちゃったね!」


「……ああ」


「びっくりしたね!」


「……そうだな」


「でも、私、海斗くんと仲良くなれて嬉しいよ!」


「……うん」


「だから、これからもよろしくね!」


瑞希は、にっこりと笑った。


その表情に、変な含みはない。


本当に、ただ嬉しいだけなのだろう。


海斗は、少しだけ肩の力を抜いた。


「……こちらこそ」


そう答えると、瑞希は満足そうに頷いた。


そのやり取りを、春樹がじっと見ていた。


「……なるほど」


嫌な予感がした。


「部長」


「何かな、藤森くん」


「今、何を考えているんですか?」


「いやあ、若い二人の友情は素晴らしいなと思ってね」


「その言い方、絶対に何か含んでますよね?」


「気のせいだよ」


春樹は爽やかに笑った。


怜奈が本を閉じ、呆れたように口を挟む。


「部長。あまり二人をからかわないでください」


「からかっていないさ。僕はただ、二人が仲良くしていることを喜んでいるだけだよ」


「その割には、ずいぶん楽しそうですけど」


「気のせいだね」


「……そうですか」


怜奈は、これ以上追及するのを諦めたらしい。


そのとき、瑞希が不思議そうに手を挙げた。


「ねえ、怜奈先輩」


「何ですか、星野さん?」


「どうしてみんな、私と海斗くんが付き合ってると思うのかな?」


部室の空気が、わずかに変わった。


春樹は口元を押さえた。


怜奈は一度、海斗を見た。


海斗は、今すぐ窓から逃げ出したい気分だった。


「……そうですね」


怜奈は慎重に言葉を選んだ。


「星野さんが藤森くんのところへよく行くから、そう見えるのかもしれませんね」


「えっ? でも、同じ部活だよ?」


「それはそうですが……」


「本の話もするし、一緒に帰ることもあるし……」


「……はい」


「それって、普通じゃないの?」


怜奈は、答えに困ったように黙り込んだ。


春樹はとうとう吹き出した。


「はははっ! いやあ、星野さんは本当に面白いね!」


「部長!」


海斗が声を上げる。


「何ですか、その反応は!」


「いや、ごめんごめん。でも、そうだね。仲良くなった相手と話したいと思うのは、自然なことだよ」


春樹は笑みを残したまま続けた。


「ただ、周囲の人たちは、二人の様子を全部知っているわけじゃないからね。見えたものだけで、勝手に想像してしまうんだ」


「……見えたものだけで?」


瑞希は首を傾げた。


「そう。例えば、星野さんが藤森くんを見つけると、すぐに駆け寄っていくこととか」


「うん!」


「藤森くんの隣に座りたがることとか」


「うん!」


「一緒にいると、いつも楽しそうに笑っていることとか」


「うん!」


「……それから、さっきの『海斗くんと一緒にいるのが好き』という言葉とかね」


「……っ!」


海斗は思わず顔を覆った。


「部長、どうしてそれを知ってるんですか!?」


「いや、今の話を聞いていれば想像はつくよ」


「そういうことですか……」


海斗は力なく椅子にもたれた。


春樹は、楽しそうに肩を揺らしている。


「まあ、あまり気にしすぎないことだね。二人がどういう関係なのかは、二人自身が分かっていればいいんだから」


「……そうですね」


海斗は小さく頷いた。


確かに、他人が何を想像しようと、二人が付き合っていないという事実は変わらない。


変わらないのだが。


「でも、海斗くん」


隣から瑞希の声がした。


「ん?」


「私、これからも海斗くんのところに行っていいんだよね?」


「……もちろん、同じ部活の仲間だからな」


「よかった!」


瑞希は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、明日もお昼に会いに行くね!」


「……え?」


海斗の表情が固まった。


「明日も?」


「うん!」


「いや、毎日来なくても……」


「えっ、駄目?」


瑞希の眉が、しゅんと下がった。


海斗は、またしても言葉に詰まった。


駄目だと言いたいわけではない。


ただ、毎日となると、少し心の準備が必要というか。


「……別に、駄目とは言ってないよ」


「本当!?」


「ただ、俺がいないこともあるかもしれないから……」


「そっか! じゃあ、いるときに行くね!」


「……うん」


結局、話は何も解決していなかった。


春樹は机に肘をつき、にこにこと二人を見守っている。


怜奈は小さくため息をつきながら、再び本を開いた。


海斗も、ようやく文庫本を取り出した。


もう、余計なことは考えない。


噂が広がろうと、周囲にからかわれようと、いつも通り過ごせばいい。


そう決めたのだ。


「ねえ、海斗くん」


「……何?」


「今日、帰りも一緒に行こうね!」


「……ああ」


「やった!」


瑞希が嬉しそうに笑う。


海斗は本に視線を落とした。


……やっぱり、少しは考えたほうがよかったかもしれない。



     ◇



活動を終え、二人は並んで校舎を出た。


夕方の風が、校門へ続く道を吹き抜ける。


瑞希の青い髪がふわりと揺れ、濃紺のリボンが夕日に照らされた。


しばらく歩いたところで、彼女が口を開いた。


「ねえ、海斗くん」


「今度は何だ?」


「今日、いっぱい迷惑かけちゃった?」


海斗は足を止めた。


瑞希は、いつもの笑顔ではなかった。


少しだけ不安そうに、こちらを見上げている。


「……どうして?」


「だって、みんなにいろいろ言われてたでしょう?」


「……ああ」


「私が海斗くんのところに行ったから、変な噂になっちゃったのかなって」


瑞希は、視線を落とした。


「私、海斗くんと仲良くなりたいだけなんだけど……。それで困らせちゃったなら、ごめんね」


その言葉を聞いて、海斗は少し驚いた。


彼女は何も考えていないように見えて、周囲の反応をまったく気にしていないわけではなかったらしい。


ただ、どうすればいいのか分からなかったのだろう。


海斗は、しばらく考えてから答えた。


「……瑞希」


「うん?」


「俺は、別に迷惑だなんて思ってないよ」


瑞希が顔を上げた。


「本当?」


「ああ。ちょっと驚くことは多いけどな」


「……えへへ」


「でも、本の話をするのは楽しいし。一緒にいて嫌だと思ったことはないよ」


口にしてから、海斗は少しだけ照れくさくなった。


普段、こういうことをわざわざ口にする機会はあまりない。


それでも、今はきちんと伝えたほうがいいと思った。


瑞希は、目を丸くしていた。


やがて、その頬がほんのりと赤くなる。


「……そっか」


小さな声だった。


「よかった……」


そして、いつもの笑顔が戻る。


「じゃあ、明日もいっぱいお話ししようね!」


「……ほどほどにな」


「えへへ。頑張る!」


やっぱり、そこは変わらないらしい。


海斗は苦笑した。


「ただ、一つだけお願いがある」


「なあに?」


「他の人がいるところでは、もう少し言葉を選んでくれると助かる」


「言葉?」


「ほら……『一緒にいるのが好き』とか、そういうの」


瑞希はしばらく考えた。


「……でも、私、本当に海斗くんと一緒にいるのが好きだよ?」


「……うん」


「本の話もできるし、優しいし、困ったときは助けてくれるし!」


「……うん」


「だから、好きって言っただけなんだけど……」


「……それは分かってる」


海斗は、遠い目をした。


彼女にとっては、何の特別な意味もない言葉なのだろう。


それが分かるからこそ、強く注意することもできない。


瑞希は、ふと思いついたように顔を輝かせた。


「じゃあ、こう言えばいいのかな?」


「……何を?」


「海斗くんは、私の大切なお友達です!」


「……まあ、それなら」


「よし! 明日からそう言うね!」


「……わざわざ言わなくてもいいけどな」


「えっ、そうなの?」


「そうだよ……」


瑞希は少し考えたあと、にっこりと笑った。


「じゃあ、言いたくなったときに言うね!」


「……頼むから、もう少し考えてくれ」


二人の笑い声が、夕暮れの道に響いた。


やがて、いつもの分かれ道に着く。


「じゃあね、海斗くん! また明日!」


「ああ。また明日」


瑞希は大きく手を振り、軽い足取りで歩いていった。


海斗は、その小さな背中をしばらく見送った。


……不思議な子だ。


初めて会ったときから、ずっとそう思っている。


距離感はおかしいし、思ったことをそのまま口にするし、こちらの予想を簡単に裏切ってくる。


なのに、一緒にいると退屈しない。


気づけば、本の感想を話す時間を楽しみにしている自分がいる。


明日、彼女はどんな話をするのだろう。


どんな本を持ってくるのだろう。


そんなことを考えている自分に気づき、海斗は小さく首を振った。


「……いやいや。俺はただ、読書仲間ができただけだ」


誰に聞かせるでもなく、そう言い聞かせる。


そうだ。


ただの読書仲間だ。


恋人でもなければ、特別な関係でもない。


……今のところは。


海斗は鞄を持ち直し、自分の帰り道へと歩き出した。


翌日、教室でどんな噂を聞かされることになるのか。


そして、瑞希がその噂にどんな反応をするのか。


それを知るのは、もう少し先の話である。


ただ、一つだけ確かなことがあった。


星野瑞希と出会ってから、海斗の放課後は確実に騒がしくなっている。


そして、その騒がしさを。


彼は、以前ほど嫌だとは思わなくなっていた。

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