俺たちは付き合ってなんかいない
朝の教室というものは、放課後の部室とは違った意味で騒がしい。
登校してきた生徒たちが友人と挨拶を交わし、昨日のテレビ番組や宿題の話で盛り上がる。窓際では誰かが机を寄せ、廊下からは別のクラスの生徒を呼ぶ声が聞こえてきた。
そんな光景を眺めながら、藤森海斗は自分の席で文庫本を開いていた。
四月も半ばに差しかかり、新しい学校生活にも少しずつ慣れてきた。
授業の流れも分かってきたし、クラスメイトの顔と名前も大体一致する。友人と呼べる相手も、何人かできた。
もちろん、毎日が刺激的である必要はない。
むしろ海斗は、何も起こらない平凡な日々を歓迎していた。
授業を受け、昼休みに本を読み、放課後は文学部で過ごす。
それで十分だ。
……少なくとも、先週まではそう思っていた。
「なあ、藤森」
前の席に座っていた男子が振り返った。
「昨日の数学の宿題、最後の問題解けた?」
「解けたけど」
「マジか。あとで見せてくれよ」
「答えだけ写すなよ」
「分かってるって。途中式もちゃんと見るから」
そう言って笑うクラスメイトに、海斗も軽く笑みを返した。
別に、誰かと話すこと自体が嫌いなわけではない。
自分の時間も大切にしたいだけだ。
だからこそ、今は本の続きを読みたい。
海斗は視線をページに戻した。
そのときだった。
「……藤森くんって、あの子と仲いいの?」
不意に、近くの女子生徒がそんなことを尋ねてきた。
海斗は顔を上げた。
「……あの子?」
「ほら、昨日の放課後。廊下で一緒に歩いてた、青い髪の子」
「ああ、星野のこと?」
口にしてから、海斗は一瞬だけ考えた。
そういえば、昨日も一緒に帰ったのだった。
部室を出て、途中まで並んで歩いただけだ。特別なことをしたつもりはない。
「同じ文学部なんだよ。まだ知り合ったばかりだけど」
「ふうん……」
女子生徒は、なぜか意味ありげな顔をした。
「な、何?」
「別に?」
「いや、絶対何かあるだろ」
「だって、すごく楽しそうだったから」
「……本の話をしてただけだよ」
「へえ。そうなんだ」
納得したのかしていないのか、よく分からない返事だった。
海斗は少しだけ眉を寄せたものの、それ以上は追及しなかった。
女子生徒が自分の友人のところへ戻っていく。
その背中を見送ってから、海斗は本を閉じた。
……嫌な予感がする。
昨日から、どうにもこうにも、星野瑞希という少女を中心に予定が狂っている気がした。
まさか、今日も何か起きるのだろうか。
そんなことを考えた自分を、海斗はすぐに否定した。
考えすぎだ。
ただの偶然に決まっている。
そう結論づけた直後。
「藤森くん!」
教室の入り口から、聞き覚えのある声が響いた。
海斗は、ゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは、青い髪を左右で結んだ小柄な少女だった。
星野瑞希である。
「……なんでここに?」
思わず口から出た言葉に、瑞希はきょとんとした。
「え? 藤森くんに会いに来たんだよ?」
「それは見れば分かるけど……」
問題は、なぜ会いに来たのかということだ。
一年四組は海斗の教室であり、瑞希の教室ではない。
別のクラスの生徒が訪ねてくること自体は珍しくないが、少なくとも海斗には、わざわざ自分を訪ねてくる相手などいなかった。
「昨日、おすすめしてくれた本!」
瑞希は抱えていた文庫本を持ち上げた。
「もう読んだのか?」
「うん! 昨日の夜、読み始めたら止まらなくなっちゃって!」
「……最後まで?」
「最後まで!」
瑞希は満面の笑みを浮かべた。
「すっごく面白かった! 最初は主人公が何を考えてるのか分からなかったけど、最後まで読むと、あの行動にもちゃんと意味があったんだね!」
「そうそう。あの場面、最後の展開を知ってから読み返すと印象が変わるんだよ」
「分かる! 私、あそこをもう一回読み直しちゃった!」
二人の会話は、自然と弾み始めた。
海斗は、自分が思った以上に嬉しくなっていることに気づいた。
自分のおすすめした本を、相手が気に入ってくれる。
それは、なかなか悪くない気分だった。
「それでね、海斗くんにお礼を言いたかったの!」
「……わざわざ、それだけのために来たのか?」
「うん!」
迷いのない返事だった。
「すごく面白かったから、早く感想を伝えたかったんだもん」
「そっか。気に入ってくれたならよかった」
海斗がそう答えると、瑞希は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、こちらまで少し気分が明るくなる。
ただし。
二人の周囲が、妙に静かになっていることには気づいていた。
先ほどまで話していたクラスメイトたちが、ちらちらとこちらを見ている。
特に、さっきの女子生徒は友人と顔を寄せ合い、何やら小声で話していた。
海斗は嫌な予感を覚えた。
「……瑞希」
「なあに?」
「ちょっと聞いていいか?」
「うん!」
「ここに来る前、誰かに何か言われなかった?」
「え? 何も?」
「そうか……」
どうやら、瑞希自身は何も気づいていないらしい。
海斗は小さく息を吐いた。
「じゃあ、俺はそろそろ本を――」
「ねえ、海斗くん!」
「……何?」
「今日も放課後、部活に来るよね?」
「そりゃ、行くけど」
「よかった! じゃあ、また一緒に本の話をしようね!」
瑞希はそう言うと、ぱっと顔を輝かせた。
そして、海斗が返事をするよりも早く、教室の入り口へと戻っていった。
「じゃあね、海斗くん!」
「ああ……またあとで」
彼女の姿が廊下の向こうに消える。
その直後だった。
「……藤森」
前の席の男子が、ゆっくりと振り返った。
その顔には、妙に楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「お前、すごいな」
「……何が?」
「いやあ、別のクラスの女子がわざわざ会いに来るなんてさ」
「本を返しに来ただけだろ」
「本を返すだけなら、放課後に部室で渡せばいいじゃん」
「……それは」
確かに、その通りだった。
しかし、だからといって、そこに特別な意味があるわけではない。
「昨日、仲良く帰ってたって話も聞いたぞ」
「仲良くっていうか、途中まで一緒に歩いただけだ」
「ふうん?」
男子は、さらに笑みを深めた。
「で、いつから付き合ってるんだ?」
「付き合ってない!」
思わず声が大きくなった。
教室のあちこちから視線が集まる。
海斗は、しまったと思った。
「……いや、だから。俺と星野は、ただの部活仲間だよ」
「はいはい」
「本当だって」
「分かってる、分かってる」
まったく分かっていない顔だった。
海斗は深くため息をつき、文庫本を開き直した。
……面倒なことになってきた。
そして、彼の予感は、残念ながら当たっていた。
◇
昼休み。
海斗は弁当を持って、校舎の端にある図書室へ向かおうとしていた。
教室で食べるのも悪くないが、今日は少し静かな場所に行きたかった。
朝から妙な質問をされ続けたせいで、いつも以上に疲れている。
「藤森くん!」
聞き覚えのある声がした。
海斗は足を止めた。
振り返るまでもなく、誰の声か分かる。
「……瑞希」
「お昼、一緒に食べない?」
案の定、そこには瑞希がいた。
両手で弁当箱を持ち、期待に満ちた目でこちらを見上げている。
「……どうして俺がここにいるって分かったんだ?」
「廊下で見かけたから!」
「そうか……」
偶然らしい。
それなら仕方がない。
……いや、仕方がないのだろうか。
「今日は図書室で食べようと思ってたんだけど」
「じゃあ、私も行っていい?」
「……別に構わないけど」
「やった!」
瑞希は嬉しそうに跳ねた。
その様子を見て、海斗は小さく肩を落とした。
静かな昼休みを過ごすつもりだったのだが、どうやら今日も予定変更らしい。
二人は図書室の隅にある休憩スペースへ向かった。
そこには小さなテーブルと椅子が置かれており、昼食を取る生徒も少ない。
海斗にとっては、ちょうどいい場所だった。
……瑞希が隣に座るまでは。
「……瑞希」
「なあに?」
「椅子、もう少し離してもいいんじゃないか?」
「え? でも、ここ狭いよ?」
「いや、十分広いと思うけど……」
「そうかな?」
瑞希は首を傾げた。
結局、椅子の位置はほとんど変わらなかった。
海斗はもう諦めて、弁当の蓋を開けた。
「いただきます」
「いただきます!」
二人は昼食を食べ始めた。
最初の数分は、思いのほか静かだった。
瑞希も食事中は大人しいらしい。
海斗は少し安心しながら、卵焼きを口に運んだ。
「ねえ、海斗くん」
……やっぱり来た。
「何?」
「この前、おすすめしてくれた本の主人公なんだけどね」
「うん」
「最後に、自分の気持ちをちゃんと伝えたでしょう?」
「ああ」
「私、ああいうのって素敵だと思うんだ」
瑞希は箸を置き、少しだけ考えるように視線を上げた。
「自分がどう思ってるか、相手にちゃんと伝えるのって大事だよね」
「……まあ、そうだな」
「だって、言わなきゃ伝わらないこともあるもん」
海斗は、なんとなく彼女の顔を見た。
瑞希はいつものように無邪気な笑顔を浮かべていたが、その言葉だけは妙に真っ直ぐだった。
「……瑞希は、そういう経験があるのか?」
「え?」
「気持ちを伝えられなくて、困ったこととか」
「うーん……」
瑞希はしばらく考えた。
「好きなお菓子を友達に教えなかったら、買いに行ったときに売り切れてたことはあるよ!」
「……それは、ちょっと違うんじゃないか?」
「そうかな?」
「そうだと思う」
「えへへ。難しいね!」
瑞希は楽しそうに笑った。
海斗も、思わず口元を緩める。
やはり、彼女と話していると調子が狂う。
けれど、こういう何気ない会話は嫌いではなかった。
「だからね、海斗くん!」
「ん?」
瑞希は、何のためらいもなく言った。
「私、海斗くんと一緒にいるの、好きだよ!」
「…………」
海斗の手が止まった。
箸でつまんでいた卵焼きが、弁当箱の上で静止している。
「……え?」
「海斗くんと話してると楽しいし、好きな本の話もできるし!」
瑞希はにこにこと続けた。
「だから、これからもいっぱいお話ししたいな!」
「……あ、ああ。そういう意味か」
「え? ほかにどんな意味があるの?」
「いや、何でもない……」
海斗は慌てて視線をそらした。
一瞬、心臓が跳ねた気がした。
しかし、よく考えれば何もおかしくない。
瑞希は、自分と一緒にいるのが楽しいと言っただけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
「……まあ、俺も本の話をするのは楽しいよ」
「本当!?」
「ああ」
「やったあ!」
瑞希は嬉しそうに笑った。
その瞬間。
「……今の、聞いた?」
「聞いた聞いた!」
休憩スペースの入り口付近から、ひそひそとした声が聞こえてきた。
海斗はゆっくりと顔を向けた。
そこには、二人の女子生徒が立っていた。
どうやら、図書室を通りかかったところだったらしい。
二人は海斗と目が合うと、慌てて顔をそらした。
「……えっと」
片方の女子生徒が、気まずそうに笑う。
「ご、ごめんなさい。邪魔するつもりはなかったんだけど……」
「いや、別に……」
海斗が答えるより早く、もう一人が口を開いた。
「でも、すごく仲いいんだね。もしかして、二人って……」
「違う!」
海斗は即座に否定した。
「付き合ってないから!」
再び、声が大きくなった。
図書室にいた数人が、こちらを振り向く。
瑞希は目を丸くしていた。
女子生徒たちは顔を見合わせ、何とも言えない笑みを浮かべた。
「そ、そうなんだ……」
「ごめんね、変なこと聞いちゃって」
二人はそう言い残し、足早にその場を離れていった。
静寂が戻る。
海斗は、弁当箱の上に箸を置いた。
「…………」
「……海斗くん?」
瑞希が、不思議そうに顔を覗き込んできた。
「どうしたの?」
「……いや」
海斗は額を押さえた。
「どうして、こうなるんだ……」
「え?」
「何でもない……」
本当に、何でもない。
ただ、もう少し普通に昼食を食べたかっただけなのに。
どうやら、それすら難しいらしい。
一方、瑞希は何かを考えるように首を傾げていた。
「ねえ、海斗くん」
「……今度は何?」
「さっきの人たち、私たちが付き合ってると思ったのかな?」
「……そうみたいだな」
「へえ……」
瑞希はしばらく黙り込んだ。
海斗は、その反応を見て少し不安になった。
まさか、気にしているのだろうか。
もしそうなら、きちんと説明しておいたほうがいい。
「瑞希。別に、気にする必要はないからな。俺たちは同じ部活の仲間だし、普通に話してるだけだろ?」
「うん!」
瑞希は、あっさりと頷いた。
「私もそう思うよ!」
「……そ、そうか」
「でも、仲がいいって思われるのは嬉しいな!」
「…………」
海斗は、再び固まった。
「……瑞希」
「なあに?」
「そういうことを、あまり大きな声で言わないほうがいいと思う」
「えっ? どうして?」
「どうしてって……」
海斗は言葉に詰まった。
本人に悪気がないのは分かっている。
分かっているのだが。
「……もういい。とりあえず、昼飯を食べよう」
「うん!」
瑞希は元気よく返事をした。
そして、何事もなかったかのように弁当へと向き直った。
海斗は、残りの昼食を食べながら考えた。
今日だけで、何回「付き合っていない」と説明しただろう。
まだ昼休みの途中だというのに、すでに数えるのも嫌になっている。
……放課後には、いったい何回言うことになるのだろうか。
◇
放課後。
文学部の部室に入った海斗は、扉を閉めた瞬間に深いため息をついた。
「……疲れた」
「おや。今日はずいぶんとお疲れのようだね」
窓際の机で書類を整理していた春樹が、顔を上げた。
その隣では、怜奈が本を読んでいる。
「何かあったのかい?」
「……いえ、何も」
「本当に?」
「本当にです」
海斗は鞄を置き、椅子に腰を下ろした。
今日はもう、誰にも何も聞かれたくない。
静かに本を読んでいたい。
そう願った直後、部室の扉が開いた。
「こんにちはー!」
瑞希が元気よく入ってくる。
海斗は、机に額をつけた。
「……早いな」
「え? 今日は授業が早く終わったんだよ!」
「そうじゃなくて……」
「?」
瑞希は首を傾げたが、すぐに海斗の隣へ向かった。
もちろん、椅子は最初からそこにある。
「海斗くん、今日のお昼の話なんだけど!」
「……まだ続くのか?」
「うん!」
迷いのない返事だった。
海斗は顔を上げた。
「……何だよ」
「私たち、付き合ってるって思われちゃったね!」
「……ああ」
「びっくりしたね!」
「……そうだな」
「でも、私、海斗くんと仲良くなれて嬉しいよ!」
「……うん」
「だから、これからもよろしくね!」
瑞希は、にっこりと笑った。
その表情に、変な含みはない。
本当に、ただ嬉しいだけなのだろう。
海斗は、少しだけ肩の力を抜いた。
「……こちらこそ」
そう答えると、瑞希は満足そうに頷いた。
そのやり取りを、春樹がじっと見ていた。
「……なるほど」
嫌な予感がした。
「部長」
「何かな、藤森くん」
「今、何を考えているんですか?」
「いやあ、若い二人の友情は素晴らしいなと思ってね」
「その言い方、絶対に何か含んでますよね?」
「気のせいだよ」
春樹は爽やかに笑った。
怜奈が本を閉じ、呆れたように口を挟む。
「部長。あまり二人をからかわないでください」
「からかっていないさ。僕はただ、二人が仲良くしていることを喜んでいるだけだよ」
「その割には、ずいぶん楽しそうですけど」
「気のせいだね」
「……そうですか」
怜奈は、これ以上追及するのを諦めたらしい。
そのとき、瑞希が不思議そうに手を挙げた。
「ねえ、怜奈先輩」
「何ですか、星野さん?」
「どうしてみんな、私と海斗くんが付き合ってると思うのかな?」
部室の空気が、わずかに変わった。
春樹は口元を押さえた。
怜奈は一度、海斗を見た。
海斗は、今すぐ窓から逃げ出したい気分だった。
「……そうですね」
怜奈は慎重に言葉を選んだ。
「星野さんが藤森くんのところへよく行くから、そう見えるのかもしれませんね」
「えっ? でも、同じ部活だよ?」
「それはそうですが……」
「本の話もするし、一緒に帰ることもあるし……」
「……はい」
「それって、普通じゃないの?」
怜奈は、答えに困ったように黙り込んだ。
春樹はとうとう吹き出した。
「はははっ! いやあ、星野さんは本当に面白いね!」
「部長!」
海斗が声を上げる。
「何ですか、その反応は!」
「いや、ごめんごめん。でも、そうだね。仲良くなった相手と話したいと思うのは、自然なことだよ」
春樹は笑みを残したまま続けた。
「ただ、周囲の人たちは、二人の様子を全部知っているわけじゃないからね。見えたものだけで、勝手に想像してしまうんだ」
「……見えたものだけで?」
瑞希は首を傾げた。
「そう。例えば、星野さんが藤森くんを見つけると、すぐに駆け寄っていくこととか」
「うん!」
「藤森くんの隣に座りたがることとか」
「うん!」
「一緒にいると、いつも楽しそうに笑っていることとか」
「うん!」
「……それから、さっきの『海斗くんと一緒にいるのが好き』という言葉とかね」
「……っ!」
海斗は思わず顔を覆った。
「部長、どうしてそれを知ってるんですか!?」
「いや、今の話を聞いていれば想像はつくよ」
「そういうことですか……」
海斗は力なく椅子にもたれた。
春樹は、楽しそうに肩を揺らしている。
「まあ、あまり気にしすぎないことだね。二人がどういう関係なのかは、二人自身が分かっていればいいんだから」
「……そうですね」
海斗は小さく頷いた。
確かに、他人が何を想像しようと、二人が付き合っていないという事実は変わらない。
変わらないのだが。
「でも、海斗くん」
隣から瑞希の声がした。
「ん?」
「私、これからも海斗くんのところに行っていいんだよね?」
「……もちろん、同じ部活の仲間だからな」
「よかった!」
瑞希は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、明日もお昼に会いに行くね!」
「……え?」
海斗の表情が固まった。
「明日も?」
「うん!」
「いや、毎日来なくても……」
「えっ、駄目?」
瑞希の眉が、しゅんと下がった。
海斗は、またしても言葉に詰まった。
駄目だと言いたいわけではない。
ただ、毎日となると、少し心の準備が必要というか。
「……別に、駄目とは言ってないよ」
「本当!?」
「ただ、俺がいないこともあるかもしれないから……」
「そっか! じゃあ、いるときに行くね!」
「……うん」
結局、話は何も解決していなかった。
春樹は机に肘をつき、にこにこと二人を見守っている。
怜奈は小さくため息をつきながら、再び本を開いた。
海斗も、ようやく文庫本を取り出した。
もう、余計なことは考えない。
噂が広がろうと、周囲にからかわれようと、いつも通り過ごせばいい。
そう決めたのだ。
「ねえ、海斗くん」
「……何?」
「今日、帰りも一緒に行こうね!」
「……ああ」
「やった!」
瑞希が嬉しそうに笑う。
海斗は本に視線を落とした。
……やっぱり、少しは考えたほうがよかったかもしれない。
◇
活動を終え、二人は並んで校舎を出た。
夕方の風が、校門へ続く道を吹き抜ける。
瑞希の青い髪がふわりと揺れ、濃紺のリボンが夕日に照らされた。
しばらく歩いたところで、彼女が口を開いた。
「ねえ、海斗くん」
「今度は何だ?」
「今日、いっぱい迷惑かけちゃった?」
海斗は足を止めた。
瑞希は、いつもの笑顔ではなかった。
少しだけ不安そうに、こちらを見上げている。
「……どうして?」
「だって、みんなにいろいろ言われてたでしょう?」
「……ああ」
「私が海斗くんのところに行ったから、変な噂になっちゃったのかなって」
瑞希は、視線を落とした。
「私、海斗くんと仲良くなりたいだけなんだけど……。それで困らせちゃったなら、ごめんね」
その言葉を聞いて、海斗は少し驚いた。
彼女は何も考えていないように見えて、周囲の反応をまったく気にしていないわけではなかったらしい。
ただ、どうすればいいのか分からなかったのだろう。
海斗は、しばらく考えてから答えた。
「……瑞希」
「うん?」
「俺は、別に迷惑だなんて思ってないよ」
瑞希が顔を上げた。
「本当?」
「ああ。ちょっと驚くことは多いけどな」
「……えへへ」
「でも、本の話をするのは楽しいし。一緒にいて嫌だと思ったことはないよ」
口にしてから、海斗は少しだけ照れくさくなった。
普段、こういうことをわざわざ口にする機会はあまりない。
それでも、今はきちんと伝えたほうがいいと思った。
瑞希は、目を丸くしていた。
やがて、その頬がほんのりと赤くなる。
「……そっか」
小さな声だった。
「よかった……」
そして、いつもの笑顔が戻る。
「じゃあ、明日もいっぱいお話ししようね!」
「……ほどほどにな」
「えへへ。頑張る!」
やっぱり、そこは変わらないらしい。
海斗は苦笑した。
「ただ、一つだけお願いがある」
「なあに?」
「他の人がいるところでは、もう少し言葉を選んでくれると助かる」
「言葉?」
「ほら……『一緒にいるのが好き』とか、そういうの」
瑞希はしばらく考えた。
「……でも、私、本当に海斗くんと一緒にいるのが好きだよ?」
「……うん」
「本の話もできるし、優しいし、困ったときは助けてくれるし!」
「……うん」
「だから、好きって言っただけなんだけど……」
「……それは分かってる」
海斗は、遠い目をした。
彼女にとっては、何の特別な意味もない言葉なのだろう。
それが分かるからこそ、強く注意することもできない。
瑞希は、ふと思いついたように顔を輝かせた。
「じゃあ、こう言えばいいのかな?」
「……何を?」
「海斗くんは、私の大切なお友達です!」
「……まあ、それなら」
「よし! 明日からそう言うね!」
「……わざわざ言わなくてもいいけどな」
「えっ、そうなの?」
「そうだよ……」
瑞希は少し考えたあと、にっこりと笑った。
「じゃあ、言いたくなったときに言うね!」
「……頼むから、もう少し考えてくれ」
二人の笑い声が、夕暮れの道に響いた。
やがて、いつもの分かれ道に着く。
「じゃあね、海斗くん! また明日!」
「ああ。また明日」
瑞希は大きく手を振り、軽い足取りで歩いていった。
海斗は、その小さな背中をしばらく見送った。
……不思議な子だ。
初めて会ったときから、ずっとそう思っている。
距離感はおかしいし、思ったことをそのまま口にするし、こちらの予想を簡単に裏切ってくる。
なのに、一緒にいると退屈しない。
気づけば、本の感想を話す時間を楽しみにしている自分がいる。
明日、彼女はどんな話をするのだろう。
どんな本を持ってくるのだろう。
そんなことを考えている自分に気づき、海斗は小さく首を振った。
「……いやいや。俺はただ、読書仲間ができただけだ」
誰に聞かせるでもなく、そう言い聞かせる。
そうだ。
ただの読書仲間だ。
恋人でもなければ、特別な関係でもない。
……今のところは。
海斗は鞄を持ち直し、自分の帰り道へと歩き出した。
翌日、教室でどんな噂を聞かされることになるのか。
そして、瑞希がその噂にどんな反応をするのか。
それを知るのは、もう少し先の話である。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
星野瑞希と出会ってから、海斗の放課後は確実に騒がしくなっている。
そして、その騒がしさを。
彼は、以前ほど嫌だとは思わなくなっていた。




