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2/22

どうして君は、いつも俺の隣に座るんだ?

翌日の放課後。


藤森海斗は、昨日の自分の判断を少しだけ後悔していた。


「……いや、別に後悔するようなことじゃないだろ」


誰もいない教室で鞄を肩に掛け直し、海斗は小さく呟いた。


昨日、文学部で知り合った星野瑞希。


青い髪を左右で結んだ、身長百四十二センチの小さな女の子。初対面にもかかわらず、まるで何年も前からの知り合いであるかのように話しかけてきた、あの不思議な新入部員だ。


本の趣味が合うことは嬉しかった。


話していて楽しかったのも事実だ。


ただし、あの距離感には、まだどうにも慣れそうになかった。


「今日は普通に過ごせるといいんだけどな……」


海斗は窓の外を一瞥した。


四月の空はよく晴れている。グラウンドでは運動部の生徒たちが練習を始めており、遠くから笛の音が聞こえてきた。


彼は前髪を軽くかき上げる。


少し癖のある濃い茶色の髪は、朝にきちんと整えたはずなのに、昼休みを過ぎるころにはいつも少し乱れてしまう。鏡を見るたびに直すほど気にしてはいないが、もう少し扱いやすければ楽なのに、とは思っていた。


窓ガラスに映る自分の顔を見て、海斗は目を細めた。


茶色の瞳は、よく眠そうだと言われる。


実際、今も少し眠い。


昨日は帰宅してから読書を始め、気づけば日付が変わる直前まで読み続けてしまったのだ。


もっとも、好きな本を読んで夜更かしするのは、海斗にとって珍しいことではない。


「さて、と」


これ以上、教室に残る理由もない。


海斗は鞄を持ち、文学部の部室へ向かった。


今日は本を読む。


できれば静かに。


昨日のように、椅子を引きずる音を聞くこともなく。


誰かに顔を覗き込まれることもなく。


ただ、好きな本を読む。


それだけでいい。


そう考えながら特別棟の階段を上り、三階の廊下を歩く。


部室の前に着いた海斗は、扉に手を掛けた。


「……頼むから、今日は平和であってくれ」


小さく祈り、引き戸を開ける。


「海斗くん!」


祈りは、あっさりと打ち砕かれた。


窓際の机に座っていた瑞希が、弾けるように立ち上がったのである。


昨日と同じ青い髪。


左右のツインテールを結ぶ濃紺のリボンも、胸元の青いリボンも変わっていない。


違うのは、その表情だった。


まるで、ずっと待っていた相手がようやく現れたかのように、彼女の顔はぱっと明るくなっている。


「こんにちは!」


「……こんにちは」


海斗は、できるだけ平静を装って返事をした。


そして、すぐに気づいた。


瑞希の隣には、昨日と同じように椅子が置かれている。


いや。


正確には、椅子が二脚並べられていた。


「……瑞希」


「なあに?」


「その椅子、何?」


「海斗くんの席!」


「まだ座ってもいないんだけど」


「だから、先に用意しておいたの!」


瑞希は得意げに胸を張った。


まるで、誰かに褒めてもらうのを待っているような顔だった。


海斗はしばらく椅子を見つめ、それから彼女に視線を戻した。


「……どうして俺の隣なんだ?」


「え?」


「いや、ほかにも席はあるだろ」


部室には、長机がいくつか置かれている。


窓際の席だけでなく、壁際にも、部屋の中央にも空いている椅子があった。


わざわざ隣に座らなくても、読書をする場所には困らない。


「だって、海斗くんとお話ししたいから!」


「昨日も聞いた、その答え」


「じゃあ、今日は違う理由にするね!」


「そういう問題じゃないんだけど……」


瑞希は少し考え込んだ。


そして、ぱっと顔を上げる。


「海斗くんの隣、窓からの風が気持ちいいんだよ!」


「……それ、俺の隣じゃなくてもよくない?」


「えっ」


瑞希は窓を見た。


次に、海斗を見た。


それから、隣の椅子を見つめる。


「……ほんとだ」


「気づいてなかったのかよ」


「でも、海斗くんもいるから!」


「結局それか」


海斗は深いため息をついた。


しかし、瑞希は気にする様子もなく、隣の椅子をぽんぽんと叩いている。


「ほら、座って!」


「……分かったよ」


ここで押し問答を続けても、時間が過ぎるだけだ。


海斗は諦めて椅子に腰を下ろした。


その瞬間、瑞希が嬉しそうに身を乗り出す。


「ねえねえ、昨日の続きなんだけど!」


「……何の?」


「ほら、あのミステリー小説! 海斗くん、犯人の正体に気づいた?」


「まだ最後まで読んでないって言っただろ」


「そっか! じゃあ、ネタバレしないように話すね!」


「それは助かる」


「でも、あの人、絶対怪しいと思うんだよね!」


「……瑞希」


「なあに?」


「それ、ネタバレじゃないか?」


「えっ!?」


瑞希は口元を押さえた。


「ご、ごめん! 今のは忘れて!」


「忘れろと言われてもな……」


「お願い!」


両手を合わせて頼み込む姿は、どうにも真剣だった。


海斗は苦笑した。


「分かった。まだ確定したわけじゃないしな」


「本当? よかったあ……」


瑞希は胸を撫で下ろした。


それから、何事もなかったかのように自分の本を開く。


海斗も鞄から読みかけの文庫本を取り出した。


これでようやく読書に集中できる。


そう思ったのだが。


「……海斗くん」


「ん?」


「その本、面白い?」


「今読んでるところ」


「どんな話?」


「……今、読んでるところなんだけど」


「うん!」


瑞希はにこにこと頷いた。


「だから、読み終わったら教えてね!」


「……分かった」


どうやら、静かな読書時間はまだ遠いらしい。


それでも、彼女が本当に悪気なく話しかけていることは分かる。


むしろ、こちらが何か答えるたびに、嬉しそうに笑ってくれるのだ。


強く拒絶するほどの理由もない。


海斗は文庫本を開き、物語の続きを読み始めた。


数分後。


「……海斗くん」


「今度は何?」


「この漢字、何て読むの?」


「どれ?」


瑞希が本の一節を指差す。


海斗は身を傾けて文字を確認した。


「これは『憂う』だな」


「うれう?」


「そう。心配する、とか、悲しむって意味」


「へえ……! 海斗くん、物知りだね!」


「本を読んでれば、自然に覚えるよ」


「私ももっとたくさん読もうっと!」


瑞希は感心したように頷いた。


そして、すぐに別のページを開く。


「じゃあ、これは?」


「……瑞希」


「はい!」


「自分で辞書を引くという選択肢は?」


「あっ!」


彼女は目を見開いた。


「その手があった!」


「今までどうしてたんだよ……」


「読めないときは、雰囲気で読んでた!」


「それでいいのか?」


「物語の内容は分かるから!」


「そういう問題なのか……?」


海斗は額に手を当てた。


本当に、飽きない子だ。


そう思ったとき、部室の扉が開いた。


「おやおや。今日もお隣同士かい?」


銀色の髪を揺らしながら、春樹が入ってきた。


その後ろから、怜奈も姿を見せる。


「こんにちは、部長。怜奈先輩」


瑞希が元気よく挨拶する。


「こんにちは、星野さん」


怜奈は穏やかに微笑んだ。


一方、春樹は二人の席を見るなり、意味ありげに口元を緩めた。


「藤森くん。昨日は初対面だったのに、今日はもう専用席まで用意されているんだね」


「専用席じゃありません」


「でも、椅子が並んでいるよ?」


「星野が勝手に並べただけです」


「へえ。星野さんがねえ」


春樹は瑞希を見た。


「海斗くんの隣がいいんだもん!」


瑞希は、何のためらいもなく答えた。


部室に、一瞬だけ沈黙が落ちる。


「……星野さん」


怜奈が眼鏡の位置を直した。


「もう少し、言い方を考えたほうがいいと思います」


「え? どうして?」


「どうしてって……」


怜奈は言葉に詰まった。


春樹は肩を震わせている。


「ははっ……! いやあ、いいねえ。青春だねえ!」


「部長、笑わないでください!」


海斗は思わず声を上げた。


「僕は笑ってなんかいないよ?」


「笑ってますよ!」


「いやあ、若いって素晴らしい」


「俺たち、同じ一年生ですけど!」


「そうだったね」


春樹は楽しそうに頷いた。


まるで、まったく反省していない。


怜奈はそんな部長にもう一度ため息をつき、手に持っていた書類を机に置いた。


「二人とも、あまりからかわないでください。星野さんも藤森くんも、まだ入部したばかりなんですから」


「はーい」


瑞希は素直に返事をした。


海斗も小さく頷く。


「ありがとうございます、黒沢先輩」


「いえ。気にしないでください」


怜奈は微笑んだ。


「ただ……」


「ただ?」


「二人が仲良くしているのは、いいことだと思いますよ」


「……先輩まで」


海斗は言葉を失った。


怜奈は何も言わず、静かに自分の席へ向かった。


春樹はその後ろ姿を見送りながら、まだ笑っている。


「さて、今日も活動を始めようか。まずは各自、好きな本を読んでくれて構わない。感想を話したい人は自由に話してくれればいいからね」


「分かりました」


海斗は、ようやく本に視線を戻した。


今度こそ、集中できるはずだ。


しかし、数分後。


瑞希がそっと袖を引っ張った。


「……海斗くん」


「どうした?」


「この主人公、ちょっと海斗くんに似てるね」


「……は?」


海斗は本から顔を上げた。


瑞希が読んでいるのは、昨日話していた恋愛小説だった。


「どこが?」


「普段は落ち着いてるけど、困ってる人を放っておけないところ!」


「俺、そんなことした覚えないけど」


「昨日、私が困ってたとき、ちゃんと教えてくれたよ?」


「漢字の読み方を?」


「うん!」


「……それだけで?」


「それだけでも!」


瑞希は自信満々に頷いた。


海斗は返す言葉を失った。


どうやら彼女の中では、辞書を引けば済む話を教えただけでも、十分に親切な行動らしい。


「……じゃあ、瑞希は?」


「私?」


「うん。自分はどんな登場人物に似てると思う?」


瑞希は少し考えた。


「うーん……。いつも元気で、好きな人のところにすぐ行っちゃう女の子かな?」


「……好きな人?」


「うん。好きな人!」


海斗の指が、文庫本のページの上で止まった。


「……それって、恋愛の意味で?」


「え? 違うよ?」


瑞希はきょとんとした。


「仲良くなりたい人って意味!」


「……ああ、そう」


海斗は心の中で、そっと息を吐いた。


なぜ自分が安心したのかは、よく分からなかった。


ただ、妙な誤解をするところだった。


「でもね」


瑞希は、再び本に目を落とした。


「私、海斗くんと仲良くなりたいよ」


その言葉は、あまりにも自然だった。


飾り気も、ためらいもない。


だからこそ、海斗は一瞬だけ返事に困った。


「……もう、十分仲良くなってるんじゃないか?」


「本当?」


「少なくとも、昨日よりは」


「えへへ……! やった!」


瑞希は嬉しそうに笑った。


その笑顔を見て、海斗も少しだけ口元を緩める。


本当に、調子の狂う相手だ。


けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。


その後、二人はそれぞれ読書を続けた。


時折、瑞希が感想を尋ね、海斗が短く答える。話題が合えば会話が弾み、違う意見が出れば互いに首を傾げながら理由を考えた。


昨日よりも、ずっと自然に話せている。


海斗自身も、それを感じていた。


ただし。


瑞希が椅子を動かして、少しずつ自分に近づいていることには、最後まで気づかないふりをした。


活動終了の時間になり、怜奈が時計を確認した。


「そろそろ片付けましょう。戸締まりもありますから」


「はーい!」


瑞希は本を閉じ、机の上を片付け始めた。


海斗も文庫本を鞄にしまう。


そのとき、瑞希がふと思い出したように顔を上げた。


「ねえ、海斗くん」


「今度は何だ?」


「明日も隣、いい?」


「……明日も?」


「うん!」


海斗は部室を見回した。


空いている席は、まだいくつもある。


わざわざ隣に座る必要はない。


ないはずなのだが。


「……好きにすればいいんじゃないか」


そう答えると、瑞希の顔がぱっと輝いた。


「本当!? ありがとう!」


「いや、お礼を言われるほどのことじゃ……」


「じゃあ、明日も椅子を用意しておくね!」


「……そこまでしなくてもいいから」


「えっ、でも、忘れちゃうかもしれないし!」


「忘れないだろ、普通……」


「そっか! じゃあ大丈夫だね!」


何が大丈夫なのか。


海斗には、もう分からなかった。


春樹が、少し離れたところから二人を眺めていた。


「いやあ、明日も楽しみだね」


「何がですか?」


海斗が警戒しながら尋ねる。


「もちろん、文学部の活動さ」


「……本当に?」


「もちろん」


春樹は爽やかに笑った。


その笑顔を見て、海斗は確信した。


絶対に何か面白がっている。


部室を出ると、夕方の廊下には、まだ部活動を終えた生徒たちの姿があった。


瑞希は今日も海斗の隣を歩いている。


「ねえ、海斗くん。明日は何の本を読むの?」


「まだ決めてない」


「じゃあ、おすすめの本を教えて!」


「いいけど、瑞希が好きかどうかは分からないぞ」


「大丈夫! 海斗くんのおすすめなら、読んでみたい!」


「……そうか」


海斗は少しだけ歩く速度を落とした。


瑞希はそれに合わせるように、隣を歩き続ける。


身長差が四十三センチもあるせいで、彼女は会話をするとき、自然と顔を上げることになる。


その青い瞳がこちらを向くたび、海斗はなぜか視線をそらしたくなった。


別に、見られて困ることなど何もない。


ただ、真正面から見つめられると、少し落ち着かないだけだ。


「……瑞希」


「なあに?」


「歩いているときくらい、前を見たほうがいいぞ」


「えっ?」


瑞希は慌てて前を向いた。


その直後、廊下の端に置かれた清掃用具入れに気づき、慌てて進路を変える。


「わっ!」


「危ない!」


海斗はとっさに彼女の肩を軽く支えた。


瑞希は驚いた顔でこちらを見上げる。


「……ありがとう、海斗くん」


「前を見て歩けって言ったばかりだろ」


「うん……。ごめんなさい」


今度は素直に反省したらしい。


しゅんとした表情を見て、海斗は少し困った。


「……別に、怒ってるわけじゃないよ」


「本当?」


「本当。怪我がなくてよかった」


「……えへへ」


瑞希の頬が、ほんのりと緩んだ。


「海斗くんって、やっぱり優しいね」


「だから、そんな大したことじゃないって」


「でも、私は嬉しかったよ」


その言葉に、海斗は返事をしなかった。


代わりに、彼女の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き出す。


明日も、彼女は隣に座るのだろう。


そして、きっとまた話しかけてくる。


本のこと。学校のこと。今日見つけた、何でもない出来事のこと。


静かな読書時間は、しばらく戻ってこないかもしれない。


それでも。


「……まあ、悪くないか」


海斗は誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。


「えっ? 何か言った?」


「何でもない」


「またそれ!」


瑞希が頬を膨らませる。


「海斗くん、秘密が多いね!」


「秘密なんてない」


「じゃあ、今度教えてね!」


「……考えておく」


「約束だよ!」


瑞希は小指を差し出しかけて、ふと手を止めた。


「あ、でも、海斗くんはそういうの苦手?」


「……いや、別に」


「じゃあ、約束!」


彼女は嬉しそうに笑った。


海斗は差し出された小指を見つめ、少し迷ったあと、自分の小指をそっと絡めた。


ほんの一瞬のことだった。


それだけなのに、瑞希はまるで大切な宝物を手に入れたような顔をした。


「えへへ。明日も楽しみ!」


「……俺は、いつも通り本を読むだけだからな」


「うん! 私も読むよ!」


「本当に?」


「たぶん!」


「たぶんって……」


二人の声が、夕暮れの廊下に響いた。


その日、海斗は一つのことを学んだ。


星野瑞希に、隣に座る理由を尋ねてはいけない。


どんな答えが返ってきても、最後には結局、隣に座られることになるのだから。


そして翌日。


海斗は部室の扉を開ける前から、廊下の向こうに聞き慣れた声が響いていることに気づいた。


「海斗くーん! こっちだよー!」


……どうやら、明日も平穏な放課後は訪れそうになかった。

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