どうして君は、いつも俺の隣に座るんだ?
翌日の放課後。
藤森海斗は、昨日の自分の判断を少しだけ後悔していた。
「……いや、別に後悔するようなことじゃないだろ」
誰もいない教室で鞄を肩に掛け直し、海斗は小さく呟いた。
昨日、文学部で知り合った星野瑞希。
青い髪を左右で結んだ、身長百四十二センチの小さな女の子。初対面にもかかわらず、まるで何年も前からの知り合いであるかのように話しかけてきた、あの不思議な新入部員だ。
本の趣味が合うことは嬉しかった。
話していて楽しかったのも事実だ。
ただし、あの距離感には、まだどうにも慣れそうになかった。
「今日は普通に過ごせるといいんだけどな……」
海斗は窓の外を一瞥した。
四月の空はよく晴れている。グラウンドでは運動部の生徒たちが練習を始めており、遠くから笛の音が聞こえてきた。
彼は前髪を軽くかき上げる。
少し癖のある濃い茶色の髪は、朝にきちんと整えたはずなのに、昼休みを過ぎるころにはいつも少し乱れてしまう。鏡を見るたびに直すほど気にしてはいないが、もう少し扱いやすければ楽なのに、とは思っていた。
窓ガラスに映る自分の顔を見て、海斗は目を細めた。
茶色の瞳は、よく眠そうだと言われる。
実際、今も少し眠い。
昨日は帰宅してから読書を始め、気づけば日付が変わる直前まで読み続けてしまったのだ。
もっとも、好きな本を読んで夜更かしするのは、海斗にとって珍しいことではない。
「さて、と」
これ以上、教室に残る理由もない。
海斗は鞄を持ち、文学部の部室へ向かった。
今日は本を読む。
できれば静かに。
昨日のように、椅子を引きずる音を聞くこともなく。
誰かに顔を覗き込まれることもなく。
ただ、好きな本を読む。
それだけでいい。
そう考えながら特別棟の階段を上り、三階の廊下を歩く。
部室の前に着いた海斗は、扉に手を掛けた。
「……頼むから、今日は平和であってくれ」
小さく祈り、引き戸を開ける。
「海斗くん!」
祈りは、あっさりと打ち砕かれた。
窓際の机に座っていた瑞希が、弾けるように立ち上がったのである。
昨日と同じ青い髪。
左右のツインテールを結ぶ濃紺のリボンも、胸元の青いリボンも変わっていない。
違うのは、その表情だった。
まるで、ずっと待っていた相手がようやく現れたかのように、彼女の顔はぱっと明るくなっている。
「こんにちは!」
「……こんにちは」
海斗は、できるだけ平静を装って返事をした。
そして、すぐに気づいた。
瑞希の隣には、昨日と同じように椅子が置かれている。
いや。
正確には、椅子が二脚並べられていた。
「……瑞希」
「なあに?」
「その椅子、何?」
「海斗くんの席!」
「まだ座ってもいないんだけど」
「だから、先に用意しておいたの!」
瑞希は得意げに胸を張った。
まるで、誰かに褒めてもらうのを待っているような顔だった。
海斗はしばらく椅子を見つめ、それから彼女に視線を戻した。
「……どうして俺の隣なんだ?」
「え?」
「いや、ほかにも席はあるだろ」
部室には、長机がいくつか置かれている。
窓際の席だけでなく、壁際にも、部屋の中央にも空いている椅子があった。
わざわざ隣に座らなくても、読書をする場所には困らない。
「だって、海斗くんとお話ししたいから!」
「昨日も聞いた、その答え」
「じゃあ、今日は違う理由にするね!」
「そういう問題じゃないんだけど……」
瑞希は少し考え込んだ。
そして、ぱっと顔を上げる。
「海斗くんの隣、窓からの風が気持ちいいんだよ!」
「……それ、俺の隣じゃなくてもよくない?」
「えっ」
瑞希は窓を見た。
次に、海斗を見た。
それから、隣の椅子を見つめる。
「……ほんとだ」
「気づいてなかったのかよ」
「でも、海斗くんもいるから!」
「結局それか」
海斗は深いため息をついた。
しかし、瑞希は気にする様子もなく、隣の椅子をぽんぽんと叩いている。
「ほら、座って!」
「……分かったよ」
ここで押し問答を続けても、時間が過ぎるだけだ。
海斗は諦めて椅子に腰を下ろした。
その瞬間、瑞希が嬉しそうに身を乗り出す。
「ねえねえ、昨日の続きなんだけど!」
「……何の?」
「ほら、あのミステリー小説! 海斗くん、犯人の正体に気づいた?」
「まだ最後まで読んでないって言っただろ」
「そっか! じゃあ、ネタバレしないように話すね!」
「それは助かる」
「でも、あの人、絶対怪しいと思うんだよね!」
「……瑞希」
「なあに?」
「それ、ネタバレじゃないか?」
「えっ!?」
瑞希は口元を押さえた。
「ご、ごめん! 今のは忘れて!」
「忘れろと言われてもな……」
「お願い!」
両手を合わせて頼み込む姿は、どうにも真剣だった。
海斗は苦笑した。
「分かった。まだ確定したわけじゃないしな」
「本当? よかったあ……」
瑞希は胸を撫で下ろした。
それから、何事もなかったかのように自分の本を開く。
海斗も鞄から読みかけの文庫本を取り出した。
これでようやく読書に集中できる。
そう思ったのだが。
「……海斗くん」
「ん?」
「その本、面白い?」
「今読んでるところ」
「どんな話?」
「……今、読んでるところなんだけど」
「うん!」
瑞希はにこにこと頷いた。
「だから、読み終わったら教えてね!」
「……分かった」
どうやら、静かな読書時間はまだ遠いらしい。
それでも、彼女が本当に悪気なく話しかけていることは分かる。
むしろ、こちらが何か答えるたびに、嬉しそうに笑ってくれるのだ。
強く拒絶するほどの理由もない。
海斗は文庫本を開き、物語の続きを読み始めた。
数分後。
「……海斗くん」
「今度は何?」
「この漢字、何て読むの?」
「どれ?」
瑞希が本の一節を指差す。
海斗は身を傾けて文字を確認した。
「これは『憂う』だな」
「うれう?」
「そう。心配する、とか、悲しむって意味」
「へえ……! 海斗くん、物知りだね!」
「本を読んでれば、自然に覚えるよ」
「私ももっとたくさん読もうっと!」
瑞希は感心したように頷いた。
そして、すぐに別のページを開く。
「じゃあ、これは?」
「……瑞希」
「はい!」
「自分で辞書を引くという選択肢は?」
「あっ!」
彼女は目を見開いた。
「その手があった!」
「今までどうしてたんだよ……」
「読めないときは、雰囲気で読んでた!」
「それでいいのか?」
「物語の内容は分かるから!」
「そういう問題なのか……?」
海斗は額に手を当てた。
本当に、飽きない子だ。
そう思ったとき、部室の扉が開いた。
「おやおや。今日もお隣同士かい?」
銀色の髪を揺らしながら、春樹が入ってきた。
その後ろから、怜奈も姿を見せる。
「こんにちは、部長。怜奈先輩」
瑞希が元気よく挨拶する。
「こんにちは、星野さん」
怜奈は穏やかに微笑んだ。
一方、春樹は二人の席を見るなり、意味ありげに口元を緩めた。
「藤森くん。昨日は初対面だったのに、今日はもう専用席まで用意されているんだね」
「専用席じゃありません」
「でも、椅子が並んでいるよ?」
「星野が勝手に並べただけです」
「へえ。星野さんがねえ」
春樹は瑞希を見た。
「海斗くんの隣がいいんだもん!」
瑞希は、何のためらいもなく答えた。
部室に、一瞬だけ沈黙が落ちる。
「……星野さん」
怜奈が眼鏡の位置を直した。
「もう少し、言い方を考えたほうがいいと思います」
「え? どうして?」
「どうしてって……」
怜奈は言葉に詰まった。
春樹は肩を震わせている。
「ははっ……! いやあ、いいねえ。青春だねえ!」
「部長、笑わないでください!」
海斗は思わず声を上げた。
「僕は笑ってなんかいないよ?」
「笑ってますよ!」
「いやあ、若いって素晴らしい」
「俺たち、同じ一年生ですけど!」
「そうだったね」
春樹は楽しそうに頷いた。
まるで、まったく反省していない。
怜奈はそんな部長にもう一度ため息をつき、手に持っていた書類を机に置いた。
「二人とも、あまりからかわないでください。星野さんも藤森くんも、まだ入部したばかりなんですから」
「はーい」
瑞希は素直に返事をした。
海斗も小さく頷く。
「ありがとうございます、黒沢先輩」
「いえ。気にしないでください」
怜奈は微笑んだ。
「ただ……」
「ただ?」
「二人が仲良くしているのは、いいことだと思いますよ」
「……先輩まで」
海斗は言葉を失った。
怜奈は何も言わず、静かに自分の席へ向かった。
春樹はその後ろ姿を見送りながら、まだ笑っている。
「さて、今日も活動を始めようか。まずは各自、好きな本を読んでくれて構わない。感想を話したい人は自由に話してくれればいいからね」
「分かりました」
海斗は、ようやく本に視線を戻した。
今度こそ、集中できるはずだ。
しかし、数分後。
瑞希がそっと袖を引っ張った。
「……海斗くん」
「どうした?」
「この主人公、ちょっと海斗くんに似てるね」
「……は?」
海斗は本から顔を上げた。
瑞希が読んでいるのは、昨日話していた恋愛小説だった。
「どこが?」
「普段は落ち着いてるけど、困ってる人を放っておけないところ!」
「俺、そんなことした覚えないけど」
「昨日、私が困ってたとき、ちゃんと教えてくれたよ?」
「漢字の読み方を?」
「うん!」
「……それだけで?」
「それだけでも!」
瑞希は自信満々に頷いた。
海斗は返す言葉を失った。
どうやら彼女の中では、辞書を引けば済む話を教えただけでも、十分に親切な行動らしい。
「……じゃあ、瑞希は?」
「私?」
「うん。自分はどんな登場人物に似てると思う?」
瑞希は少し考えた。
「うーん……。いつも元気で、好きな人のところにすぐ行っちゃう女の子かな?」
「……好きな人?」
「うん。好きな人!」
海斗の指が、文庫本のページの上で止まった。
「……それって、恋愛の意味で?」
「え? 違うよ?」
瑞希はきょとんとした。
「仲良くなりたい人って意味!」
「……ああ、そう」
海斗は心の中で、そっと息を吐いた。
なぜ自分が安心したのかは、よく分からなかった。
ただ、妙な誤解をするところだった。
「でもね」
瑞希は、再び本に目を落とした。
「私、海斗くんと仲良くなりたいよ」
その言葉は、あまりにも自然だった。
飾り気も、ためらいもない。
だからこそ、海斗は一瞬だけ返事に困った。
「……もう、十分仲良くなってるんじゃないか?」
「本当?」
「少なくとも、昨日よりは」
「えへへ……! やった!」
瑞希は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、海斗も少しだけ口元を緩める。
本当に、調子の狂う相手だ。
けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。
その後、二人はそれぞれ読書を続けた。
時折、瑞希が感想を尋ね、海斗が短く答える。話題が合えば会話が弾み、違う意見が出れば互いに首を傾げながら理由を考えた。
昨日よりも、ずっと自然に話せている。
海斗自身も、それを感じていた。
ただし。
瑞希が椅子を動かして、少しずつ自分に近づいていることには、最後まで気づかないふりをした。
活動終了の時間になり、怜奈が時計を確認した。
「そろそろ片付けましょう。戸締まりもありますから」
「はーい!」
瑞希は本を閉じ、机の上を片付け始めた。
海斗も文庫本を鞄にしまう。
そのとき、瑞希がふと思い出したように顔を上げた。
「ねえ、海斗くん」
「今度は何だ?」
「明日も隣、いい?」
「……明日も?」
「うん!」
海斗は部室を見回した。
空いている席は、まだいくつもある。
わざわざ隣に座る必要はない。
ないはずなのだが。
「……好きにすればいいんじゃないか」
そう答えると、瑞希の顔がぱっと輝いた。
「本当!? ありがとう!」
「いや、お礼を言われるほどのことじゃ……」
「じゃあ、明日も椅子を用意しておくね!」
「……そこまでしなくてもいいから」
「えっ、でも、忘れちゃうかもしれないし!」
「忘れないだろ、普通……」
「そっか! じゃあ大丈夫だね!」
何が大丈夫なのか。
海斗には、もう分からなかった。
春樹が、少し離れたところから二人を眺めていた。
「いやあ、明日も楽しみだね」
「何がですか?」
海斗が警戒しながら尋ねる。
「もちろん、文学部の活動さ」
「……本当に?」
「もちろん」
春樹は爽やかに笑った。
その笑顔を見て、海斗は確信した。
絶対に何か面白がっている。
部室を出ると、夕方の廊下には、まだ部活動を終えた生徒たちの姿があった。
瑞希は今日も海斗の隣を歩いている。
「ねえ、海斗くん。明日は何の本を読むの?」
「まだ決めてない」
「じゃあ、おすすめの本を教えて!」
「いいけど、瑞希が好きかどうかは分からないぞ」
「大丈夫! 海斗くんのおすすめなら、読んでみたい!」
「……そうか」
海斗は少しだけ歩く速度を落とした。
瑞希はそれに合わせるように、隣を歩き続ける。
身長差が四十三センチもあるせいで、彼女は会話をするとき、自然と顔を上げることになる。
その青い瞳がこちらを向くたび、海斗はなぜか視線をそらしたくなった。
別に、見られて困ることなど何もない。
ただ、真正面から見つめられると、少し落ち着かないだけだ。
「……瑞希」
「なあに?」
「歩いているときくらい、前を見たほうがいいぞ」
「えっ?」
瑞希は慌てて前を向いた。
その直後、廊下の端に置かれた清掃用具入れに気づき、慌てて進路を変える。
「わっ!」
「危ない!」
海斗はとっさに彼女の肩を軽く支えた。
瑞希は驚いた顔でこちらを見上げる。
「……ありがとう、海斗くん」
「前を見て歩けって言ったばかりだろ」
「うん……。ごめんなさい」
今度は素直に反省したらしい。
しゅんとした表情を見て、海斗は少し困った。
「……別に、怒ってるわけじゃないよ」
「本当?」
「本当。怪我がなくてよかった」
「……えへへ」
瑞希の頬が、ほんのりと緩んだ。
「海斗くんって、やっぱり優しいね」
「だから、そんな大したことじゃないって」
「でも、私は嬉しかったよ」
その言葉に、海斗は返事をしなかった。
代わりに、彼女の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き出す。
明日も、彼女は隣に座るのだろう。
そして、きっとまた話しかけてくる。
本のこと。学校のこと。今日見つけた、何でもない出来事のこと。
静かな読書時間は、しばらく戻ってこないかもしれない。
それでも。
「……まあ、悪くないか」
海斗は誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「えっ? 何か言った?」
「何でもない」
「またそれ!」
瑞希が頬を膨らませる。
「海斗くん、秘密が多いね!」
「秘密なんてない」
「じゃあ、今度教えてね!」
「……考えておく」
「約束だよ!」
瑞希は小指を差し出しかけて、ふと手を止めた。
「あ、でも、海斗くんはそういうの苦手?」
「……いや、別に」
「じゃあ、約束!」
彼女は嬉しそうに笑った。
海斗は差し出された小指を見つめ、少し迷ったあと、自分の小指をそっと絡めた。
ほんの一瞬のことだった。
それだけなのに、瑞希はまるで大切な宝物を手に入れたような顔をした。
「えへへ。明日も楽しみ!」
「……俺は、いつも通り本を読むだけだからな」
「うん! 私も読むよ!」
「本当に?」
「たぶん!」
「たぶんって……」
二人の声が、夕暮れの廊下に響いた。
その日、海斗は一つのことを学んだ。
星野瑞希に、隣に座る理由を尋ねてはいけない。
どんな答えが返ってきても、最後には結局、隣に座られることになるのだから。
そして翌日。
海斗は部室の扉を開ける前から、廊下の向こうに聞き慣れた声が響いていることに気づいた。
「海斗くーん! こっちだよー!」
……どうやら、明日も平穏な放課後は訪れそうになかった。




