俺の平穏な放課後は、小さな美少女によって終わりを告げた。
四月の午後というものは、どうしてこうも眠気を誘うのだろう。
窓から差し込む柔らかな日差し。グラウンドから聞こえてくる運動部の掛け声。廊下を行き交う生徒たちの楽しげな声。
高校に入学してから二週間。
藤森海斗は、ようやくこの学校での生活にも慣れ始めていた。
もっとも、慣れたからといって、毎日が楽しいとは限らない。
「……帰りたい」
放課後の廊下を歩きながら、海斗は小さく呟いた。
別に学校が嫌いなわけではない。授業だって、特別苦手な科目があるわけでもなかった。
ただ、入学して間もないこの時期は、何かと騒がしいのだ。
新しい友達。新しいクラス。部活動の勧誘に、先輩たちの妙に気合いの入った自己紹介。
どこへ行っても誰かが話しかけてくるし、教室に残れば残ったで、クラスメイトたちの会話に付き合わされる。
人付き合いが苦手というほどではないが、毎日それを繰り返していると、さすがに疲れてくる。
だからこそ、海斗は部活動に文学部を選んだ。
本を読むのは好きだ。物語について考えるのも嫌いではない。何より、運動部のように大声を出したり、汗だくになったりする必要がない。
静かな部屋で好きな本を読み、気が向けば感想を語り合う。
それくらいが、今の自分にはちょうどいい。
「よし。今日は誰とも余計な会話をせず、平和に過ごそう」
誰に聞かせるでもなく宣言し、海斗は特別棟の階段を上った。
文学部の部室は、三階の一番奥にある。
古い校舎の一角にあるその部屋は、窓が大きく、壁際には本棚が並んでいるらしい。見学に来たとき、三年生の部長がそう説明してくれた。
静かで、落ち着いていて、いかにも本好きが集まりそうな場所だった。
少なくとも、海斗が最後に訪れたときはそうだった。
ガラリ、と引き戸を開ける。
「こんにちは」
挨拶をしながら足を踏み入れた海斗は、そこで一度、動きを止めた。
窓際の机。
その椅子に、女の子が座っていた。
白いブラウスに紺色のブレザー。胸元には、一年生を示す青いリボンが結ばれている。
鮮やかな青色の髪は左右で二つに結ばれ、濃紺のリボンが揺れていた。前髪の隙間から覗く瞳もまた、透き通るような青色をしている。
小さな顔に、丸みのある頬。
机の上に開かれた本を読んでいる姿は、どこか小動物を思わせた。
身長は、見たところかなり低い。
椅子に座っているせいもあるだろうが、机の向こう側に見える頭の位置が、海斗の想像よりずっと下にあった。
彼女は本から顔を上げると、ぱちぱちと瞬きをした。
そして、ぱっと表情を明るくする。
「あっ!」
まるで、待ち望んでいた人を見つけたかのような顔だった。
「こんにちは!」
「……こんにちは」
反射的に返事をしたものの、海斗には彼女が誰なのか分からなかった。
同じ一年生だろうか。
制服のリボンは青い。つまり、学年は同じだ。
しかし、クラスは違うらしい。少なくとも、海斗のいる一年四組では見た覚えがなかった。
「えっと、君も文学部?」
「うん! 星野瑞希っていうの。よろしくね、海斗くん!」
「…………は?」
海斗は思わず聞き返した。
今、彼女は何と言った。
星野瑞希。
それは分かる。
問題は、その後だ。
「……どうして俺の名前を?」
「え? だって、部員名簿に書いてあったよ?」
瑞希は当たり前のように答えた。
「ああ、なるほど……」
確かに、入部届には名前を書いた。部員名簿に記載されていても不思議ではない。
それなら、下の名前まで知られていてもおかしくはないのだろう。
「それに、部長が教えてくれたの。今日、新しい部員が来るって!」
「そういうことか」
海斗は納得して、鞄を机の横に置いた。
「俺は藤森海斗。よろしく」
「うん! よろしくね、海斗くん!」
瑞希は嬉しそうに笑った。
それだけなら、何も問題はなかった。
問題が起きたのは、その直後だった。
「ねえ、海斗くん!」
「ん?」
「隣に座ってもいい?」
「……え?」
海斗が返事をするより早く、瑞希は本を抱えて立ち上がった。
そして、部屋の反対側に置かれた自分の椅子を引きずり、海斗の座ろうとしていた机の横へ運んできた。
ギギギ、と床を擦る音が響く。
「ちょ、ちょっと待って。そこ、俺が座るところなんだけど」
「うん! だから隣!」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
「よいしょっと」
瑞希は椅子に腰掛けると、満足そうに頷いた。
机と机の間は、ほとんど隙間がない。
肩を動かせば触れそうな距離だった。
「…………」
海斗は自分の椅子を見た。
次に瑞希を見た。
そして、もう一度椅子を見た。
「星野さん」
「瑞希でいいよ?」
「……じゃあ、瑞希さん」
「さんもいらないよ!」
「……瑞希」
「なあに?」
にこにこと見上げてくる彼女に、海斗は言葉を詰まらせた。
距離が近い。
とにかく近い。
同じ机を使うのならともかく、わざわざ椅子を移動してまで隣に座る必要があるだろうか。
「どうして、わざわざこっちに?」
「だって、海斗くんとお話ししたいから!」
即答だった。
あまりにも迷いのない答えに、海斗は一瞬、何も言えなくなる。
「……いや、俺たち、今日初めて会ったばかりだよな?」
「うん!」
「それなのに?」
「うん!」
「…………そうか」
何がそうかなのか、自分でもよく分からなかった。
瑞希はそんな海斗の困惑など気にも留めず、机の上に本を置いた。
「海斗くんは、どんな本が好きなの?」
「ミステリーとか、ファンタジーとか。あとは普通の小説も読むけど」
「本当? 私も好き!」
「へえ、そうなんだ」
「うん! あのね、最近読んだ本なんだけど――」
瑞希は身を乗り出した。
その拍子に、青い二つの髪束が肩から滑り落ちる。
彼女の瞳が、海斗の顔を覗き込むように近づいた。
「主人公がね、最初はすごく無愛想なの。でも、ヒロインと一緒にいるうちに、だんだん優しくなっていくんだよ!」
「……なるほど」
「それでね、ヒロインが困っていると、いつも助けてくれるの!」
「うん」
「でも、本人は全然、自分が優しいって思ってないの!」
「……うん」
「それがすっごく素敵なの!」
瑞希は両手を胸の前で握りしめ、目を輝かせた。
よほど好きな物語なのだろう。
話し方からして、普段から本をたくさん読んでいることが伝わってくる。
海斗も、こういう話をするのは嫌いではなかった。
むしろ、同じ趣味を持つ相手と出会えたのは嬉しい。
ただし。
「……瑞希」
「なあに?」
「顔、近くない?」
「え?」
瑞希はきょとんとした。
そして、自分の顔と海斗の顔の距離を確かめるように、少しだけ首を傾げた。
「そうかな?」
「そうだと思う」
「うーん……?」
彼女は考え込むように唸った。
それから、椅子をほんの少しだけ後ろへ引く。
「これくらい?」
「……まあ、さっきよりは」
「よかった!」
瑞希は満足げに笑った。
海斗は心の中で安堵した。
どうやら、話せば分かってくれる相手らしい。
そう思ったのも束の間。
「でも、海斗くんの声、近くで聞いたほうがよく聞こえるよ?」
「いや、普通に聞こえるから」
「本当?」
「本当」
「そっか!」
瑞希は再び椅子を元の位置へ戻した。
ギギギ、と床が鳴る。
「…………」
海斗は天井を仰いだ。
まだ、部活動が始まって十分も経っていない。
それなのに、すでに疲れた気がする。
この子は、悪気がない。
それは分かる。
分かるのだが、だからといって、こちらの心の準備が整うわけではない。
「ねえ、海斗くん」
「今度は何?」
「海斗くんって、背が高いよね!」
「……まあ、よく言われる」
身長は百八十五センチ。
中学に入ってから急に伸び始め、気がつけば同年代の男子より頭一つ分ほど高くなっていた。
便利なこともあるが、目立つのが嫌いな海斗にとっては、少々面倒な特徴でもある。
「すごいなあ。私、百四十二センチしかないんだよ」
「……そうなんだ」
「うん!」
瑞希は両手を広げた。
「ほら、こんなに違うの!」
「いや、見れば分かるけど……」
「海斗くんが隣にいると、みんなに見上げられる気持ちが分かる気がする!」
「それは、どういう感想なんだ?」
「えへへ。なんとなく!」
彼女は楽しそうだった。
本当に、楽しそうだった。
初対面の相手にここまで遠慮なく話しかけられるのは、ある意味ですごい。
海斗なら、相手がどんな人なのか分かるまでは、もう少し距離を置くだろう。
いや、そもそも自分から椅子を持って隣に座るなんて、絶対にしない。
「……瑞希は、誰にでもこんな感じなのか?」
ふと、疑問が口をついた。
「こんな感じって?」
「その……距離が近いというか」
瑞希は目をぱちくりさせた。
しばらく考えたあと、あっさりと答える。
「うん! 仲良くなりたい人とは、いっぱいお話ししたいもん!」
「……なるほど」
どうやら、そういう性格らしい。
海斗はそれ以上、何も言わなかった。
彼女に悪意がないことは、十分すぎるほど伝わってきたからだ。
とはいえ、これから毎日この調子なのだとしたら。
「……俺の平穏な放課後、終わったかもしれない」
「えっ? 何か言った?」
「いや、何でもない」
「そっか!」
瑞希はまた笑った。
その笑顔を見ていると、強く注意する気も失せてしまう。
まったく、困ったものだ。
そのとき、部室の扉が開いた。
「おや。二人とも、もう仲良くなったのかい?」
入ってきたのは、銀色の髪をした男子生徒だった。
すらりとした体格に、整った顔立ち。三年生を示す緑色のネクタイをきちんと締めている。
文学部の部長、進藤春樹だ。
その後ろから、長い紫色の髪をした女子生徒も入ってきた。細い眼鏡の奥から、落ち着いた視線がこちらを向く。
副部長の黒沢怜奈である。
「こんにちは、先輩!」
瑞希が元気よく挨拶した。
「こんにちは、星野さん。藤森くんも、ようこそ」
春樹は柔らかく微笑んだ。
それから、二人の座っている位置を見て、わずかに目を細めた。
机と机の隙間は、ほとんどない。
瑞希は海斗のすぐ隣で、嬉しそうに本を抱えている。
一方の海斗は、どこか遠い目をしていた。
「……なるほど」
春樹は意味ありげに頷いた。
「何がなるほどなんですか?」
海斗が即座に尋ねる。
「いやいや。新入部員同士、ずいぶん仲が良いようで何よりだと思ってね」
「まだ知り合って十分くらいですけど」
「十分快あれば、物語は始まるものさ」
「現実でそんなに簡単に始まらないでください」
「ははは。面白いことを言うね、藤森くん」
春樹は楽しそうに笑った。
隣で怜奈が小さくため息をつく。
「部長。新入部員をからかうのは、そのくらいにしてください」
「からかっているつもりはないんだけどなあ」
「その顔で言われても説得力がありません」
「おや、手厳しい」
二人のやり取りを聞きながら、海斗は少しだけ安心した。
少なくとも、まともな人もいるらしい。
そう思ったのだが。
「ところで、藤森くん」
春樹がこちらを向いた。
「星野さんは、うちの部でも特に人懐っこい子でね。最初は驚くかもしれないけど、悪気はないんだ。仲良くしてあげてほしい」
「はい。それは分かっています」
「本当? よかった!」
なぜか瑞希が嬉しそうに声を上げた。
「じゃあ、これからも隣に座っていい?」
「……それとこれとは話が別だろ」
「ええっ!?」
瑞希は目を丸くした。
まるで、世界の常識が覆されたかのような反応だった。
「隣に座るの、駄目なの?」
「駄目とは言ってない。ただ、毎回じゃなくてもいいんじゃないかって……」
「毎回じゃなくてもいいの?」
「……まあ」
「じゃあ、今日は隣!」
「今日も、の間違いだろ」
「えへへ。ばれちゃった!」
何がばれたのかは分からない。
春樹はとうとう声を出して笑い、怜奈は額に手を当てた。
「星野さん。藤森くんが困っているでしょう」
「えっ、そうなの?」
瑞希は慌てて海斗を見上げた。
「ご、ごめんね、海斗くん! 私、嫌なことしちゃった?」
その表情が、さっきまでとは違っていた。
心配そうに眉を下げ、こちらの返事を待っている。
海斗は少しだけ戸惑った。
こういう顔をされると、どうにも弱い。
「いや……嫌ってわけじゃないよ。ただ、もう少し離れてくれると助かるってだけで」
「そっか……。分かった!」
瑞希はこくりと頷いた。
そして、椅子を十センチほど横にずらした。
「これなら大丈夫?」
「……うん。ありがとう」
「よかった!」
再び笑顔が戻る。
どうやら、彼女なりに気を遣ってくれたらしい。
十センチという距離が適切かどうかは、ひとまず置いておくことにした。
「さて、それじゃあ全員そろったところで、今日の活動を始めようか」
春樹が手を叩いた。
「新入部員もいることだし、まずは自己紹介と、好きな本について話してもらおう」
「賛成です」
怜奈が頷く。
「藤森くんからお願いできるかな?」
「はい。藤森海斗です。好きなジャンルはミステリーとファンタジーです。よろしくお願いします」
簡単に自己紹介を済ませる。
続いて、春樹と怜奈がそれぞれ挨拶をした。
そして最後に、瑞希の番が回ってくる。
「星野瑞希です! 好きなものは本と、甘いお菓子と、おしゃべりです! 好きな作家さんは――」
彼女は楽しそうに語り始めた。
好きな本の話になると、驚くほど言葉が出てくる。普段から読書を楽しんでいることがよく分かった。
海斗も、いつの間にか話に聞き入っていた。
「あ、その作品、俺も読んだことあるよ」
思わず口を挟む。
「本当!?」
瑞希が勢いよく振り向いた。
「うん。最後の展開、よかったよな」
「分かる! あの最後の一文がすっごく好きなの!」
「そうそう。最初から読み返すと、伏線がちゃんとあるんだよな」
「うんうん!」
二人の会話が弾み始める。
さっきまでの困惑は、いつの間にか薄れていた。
好きな本について語る時間は、思っていた以上に楽しい。
瑞希の感想は少し感情的だったが、それがかえって新鮮だった。海斗が見落としていた部分にも気づいていて、同じ物語でも受け取り方が違うのだと感じさせられる。
「……藤森くん」
怜奈が、少し驚いたように声をかけてきた。
「はい?」
「楽しそうですね」
「え?」
海斗はそこで初めて、自分が笑っていたことに気づいた。
「あ、いや……本の話が面白かったので」
「そうですか」
怜奈は微笑んだ。
「なら、よかったです」
その隣で、春樹が何かを企むような顔をしていたが、海斗は気づかないふりをした。
こうして、文学部での最初の一時間は、思ったよりも穏やかに過ぎていった。
いや。
穏やかだったと言っていいのかは、少し疑問が残る。
活動が終わり、帰り支度をしていたときのことだ。
「海斗くん!」
瑞希が鞄を抱えて駆け寄ってきた。
「一緒に帰らない?」
「……え?」
「私、二年生の教室がある棟の前を通って帰るんだけど、海斗くんは?」
「俺は一年四組だから、反対側だな」
「そっかあ……」
瑞希は少し残念そうに眉を下げた。
しかし、すぐに顔を上げる。
「じゃあ、途中まで一緒に行こうよ!」
「……まあ、それくらいなら」
「やった!」
瑞希は満面の笑みを浮かべた。
海斗は小さく息を吐いた。
断る理由があるわけでもない。
それに、同じ本が好きな相手と話しながら帰るのも、悪くはないだろう。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
部室を出ると、廊下にはまだ多くの生徒が残っていた。
海斗が歩き出すと、瑞希も隣に並ぶ。
そして、数歩進んだところで。
「ねえ、海斗くん」
「今度は何?」
「明日も来るよね?」
「……部活だからな」
「そっか! よかった!」
瑞希は安心したように笑った。
「じゃあ、明日もいっぱいお話ししようね!」
「……ほどほどにな」
「えへへ。頑張る!」
頑張る方向が違う。
海斗はそう思ったが、口には出さなかった。
校舎の窓から、夕方の光が差し込んでいる。
青い二つの髪束が、歩くたびにふわふわと揺れていた。
小さな背中。
よく笑う声。
そして、こちらの都合などお構いなしに近づいてくる、不思議な女の子。
たった一時間前までは、名前すら知らなかった相手だ。
それなのに、明日も会うことが、もう決まっている。
「……変なやつ」
海斗は小さく呟いた。
「えっ? 何か言った?」
瑞希が見上げてくる。
「いや、何でもない」
「そっか!」
彼女は疑うことなく頷いた。
その笑顔を見て、海斗は思った。
静かな放課後を過ごしたい。
本を読んで、感想を語り合って、適当な時間に帰る。
それだけでよかったはずなのに。
どうやら、自分はとんでもない相手と知り合ってしまったらしい。
もっとも、そのときの海斗はまだ知らなかった。
明日からの放課後が、今日よりもずっと騒がしくなることを。
そして、いつかこの騒がしさがなくなったとき、自分が寂しいと感じるようになることも。
「じゃあね、海斗くん! また明日!」
校舎の分かれ道で、瑞希が大きく手を振った。
「ああ。また明日」
海斗も軽く手を上げて応える。
彼女の姿が見えなくなってから、海斗はようやく歩き出した。
――こうして、俺の平穏な放課後は終わりを告げた。
もっとも。
それが悪くない終わり方だったのかもしれないと、ほんの少しだけ思ってしまったのは。
誰にも言わないでおこう。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
海斗と瑞希の、ちょっと騒がしくて、少し不器用な放課後の物語が始まりました。
人との距離感がちょっぴりおかしい瑞希と、そんな彼女に振り回される海斗。二人の何気ない日常が、これからどんな物語になっていくのか、温かく見守っていただけたら嬉しいです。
笑って、少しだけドキドキして、ときどき胸が温かくなる。そんな青春ラブコメをお届けできればと思っています。
それでは、これから海斗と瑞希の物語を、どうぞよろしくお願いします!
次のお話で、またお会いしましょう!




