探される側、見つける側
6話目、父のところにお客さんが来ます。
生後三ヶ月になった。
背が伸びた。
素振りは一万回のうち、四千回くらい振った。 半分には届いていない。
挨拶は続いている。
井戸、荷車、木、石、鍬、父の剣。
三ヶ月も続けると、分かるようになることがある。
井戸の水位は雨の二日後にいちばん上がる。
草は刈っても十日で戻る。鍬は父が使った日だけ土がついている。
誰も応えない。 それは変わらない。
─────
その日、村の外から人が来た。
馬ではなく歩きで、荷も少なかった。遠くから見ても分かるくらい、歩き方が村の人と違った。足の置き方が静かで、速い。
父が畑から戻ってきて、その人を見て、鍬を取り落とした。
「……ガース」
「よう」
─────
ガースという人は、父より年上に見えた。
髪は短くて、黄金に灰色が混ざっている。
顔の左に古い傷があって、目尻までかかっている。
背は父より低いのに、立っているだけで場所を取っているように見えた。
「生きてたか」と父が言った。 「生きてるさ」とガースさんが言った。
父は落とした鍬を拾って、土を払った。
「何年だ」 「六年」 「六年か」
ガースさんは数字をすぐ出した。父は出さなかった。 父は数が苦手だ。六年のあいだ、何年経ったか数えていなかったのだと思う。
それで済んでしまった。 男の人の挨拶は短いことがある。父とこの人のあいだには、特に短い。
母が出てきて、ガースさんに頭を下げた。 ガースさんも下げた。母に対してだけ、やや丁寧だった。
「まあ、上がってくれ」と父が言った。
─────
私は、その横に立っていた。
ガースさんは家に入って、土間で靴を脱いで、部屋を見回した。
見回して、父に向かって言った。
「この前生まれた子供は、寝てるのか」
「……は?」
父が止まった。
「3ヶ月前に生まれたと聞いた。見せろとは言わんが、起きてるなら挨拶くらいする」
父は何も言わず、私を指した。
ガースさんが、私を見た。
─────
見た、というより、見つけた、という顔だった。
目が合ってから、ガースさんは一度まばたきをした。 それから、もう一度私を見た。確かめるように見た。
「……すまん」
ガースさんは膝を折って、私と目の高さを合わせた。
「見えていなかった」
─────
「こんにちは。僕、カイルです」
「ガースだ」
ガースさんは、手を出してきた。大人が大人にするときの出し方だった。 握った。手が硬かった。
それからガースさんは立ち上がって、父に向き直った。
「紋は、入れたか」
「入れた。二ヶ月前だ」
「誰が」
「この村に来る助産師だ。エレナという」
「腕がいいな」
ガースさんは、そう言った。 褒めているようには聞こえなかった。
─────
「効きすぎてる」
ガースさんは土間に腰を下ろした。
「紋は、魂の匂いを隠す。隠れりゃ魔物に見つからん。それはいい。そのための紋だ」
「ああ」
「だが効きすぎると、人にも見つからん」
父が黙った。
「俺は、暗いところで頭数を数える癖がついてる。洞窟でも森でも、何人いるかは数えなくても分かる。」
ガースさんは私を見た。
「この子は、自然とは見つけられん」
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「目で見りゃ見える。声を出せば聞こえる。そこにいると分かってから見れば、ちゃんといる」
ガースさんは指を一本立てた。
「ただ、探すときにはいない」
父が座り込んだ。
「……そういうもんか」
「たまにある。紋が強く出すぎる子だ。親はそれに気づかんことが多い。親は探さんからな。いつもそこにいるんだから」
ガースさんは土間の床を指で叩いた。
「迷子になったら、見つからんぞ」
「……心当たりがあるのか」
「ある」
ガースさんは椀を置いた。
「昔、同じような子がいた。村の子だ。山で見失って、村ごと出て三日探した。声は届いてたはずだ。あんな狭い山だ」
「見つかったのか」
「四日目にな。洞穴で寝てた。元気だった。魔物には一匹も会わなかったそうだ」
父が息を吐いた。
「よかったじゃねえか」
「よかった」ガースさんは頷いた。「だが次も元気とは限らん」
─────
私は、話を聞いていた。
聞きながら、別のことを考えていた。
——また、戻ったのか。
誰にも見えなかったころ、私はずっとこうだった。 声をかけても振り向かれない。すれ違っても目が合わない。いるのに、見てもらえない。
あのころは、体がなかったからだと思っていた。
いまは体がある。走れる。喋れる。手を握ってもらえた。 名前もある。呼ばれる。それでも、探されると、いない。
─────
紋を入れたからだ、とガースさんは言った。
紋は、私を守るために入れたものだ。 エレナさんが、仕事として、きちんと入れてくれたものだ。
守られると、見つけてもらえなくなる。
そういうものらしい。
─────
夕食になった。
母が鍋を出して、父が酒を出した。ガースさんは酒を半分だけ飲んで、あとは水にしていた。旅の途中なのだという。
話は昔のことばかりだった。 私の知らない人の名前がいくつも出てきた。出てきて、そのうちの何人かは「あれは死んだ」で終わった。
「こいつはな」
ガースさんが私に向かって言った。私に話しかけるとは思っていなかったので、少し遅れて顔を上げた。
「魔法が使えんから、前に出るしかなかった。うちで一番前にいたのが、こいつだ」
「ガース」
「毎日剣を振ってたからな。宿でも振ってた。壁を叩いて主人に怒られてたこともある」
毎日、一万回振った。 父がそう言ったのは、嘘ではなかったのだ。
「三日、眠らずに歩いたこともある。あのときは――」
「ガース」
「分かった分かった」
ガースさんは笑って、水ではなく酒をまた少し飲んだ。 父は耳のあたりが赤くなっていた。酒のせいかもしれない。
「お前、なんで辞めた」
ガースさんが、酒の椀を置いて訊いた。
父は答えなかった。
答えずに、母のほうを見た。
母は鍋をかき混ぜていて、こちらを見なかった。かき混ぜる手は止まっていた。
「……ああ」
ガースさんは、それだけ言って、椀を取った。
それ以上は訊かなかった。
─────
「で、この子は魔法はどうなんだ」
話が変わったのは、鍋が半分になったころだった。
母の手が、少し遅れた。
「……魔力の量は、多いの」
「ほう」
「多いのに、出せないの」
ガースさんは私を見た。
「見せてみろ」
─────
やった。
集めるのはできる。指の先にマナの粒が集まって、渦を巻く。 母が息を呑むのも、もう聞き慣れた。
火よ。
——燃えるものが、ない。
散った。
「もう一度」
やった。散った。
三回やって、三回散った。
─────
ガースさんは、腕を組んで見ていた。
それから言った。
「押し出しが足りんな」
「押し出し」
「魔力は外に出すもんだ。腹から声を出すのと同じだ。中で捏ねてても出てこん」
母が首を振った。
「それは試したわ。何十回も」
「そうか」
ガースさんは、あっさり引いた。
引いたあと、肩をすくめて、こう言った。
「まあ、使えなくても死なねえよ」
─────
母の手が止まった。
鍋の木じゃくしを握ったまま、止まった。
「俺の知ってるやつで、魔法が使えんのは三人いた」ガースさんは指を折った。「ひとりは槍で食ってた。ひとりは罠を作るのがうまかった。ひとりは何もできんかったが、酒を注ぐのがうまくてな。みんな、俺より長生きしてる」
「……そう」
「ローグも魔法を使えん」
「そうだ、俺は使えん」父が言った。「一回も出たことがない」
知らなかった。
父は、魔法が使えないというより、そもそもマナとして一回も出たことがないのだった。 前に父は「俺も魔法なんて使えねえぞ」と言っていた。あれは励ましのための嘘ではなかったのだ。
─────
「あの」
母が口を開いた。
「魔法が使えない人は、魔力をどうしているんですか」
ガースさんが母を見た。
「どう、とは」
「体の中に魔力はあるはずです。集められないわけではないのなら、溜まっているはずで。溜まったものは、どこかへ行くはずです。使わないなら、どこへ」
ガースさんは、しばらく黙った。
「……どこへ、は考えたことがねえな」
「考えたことがない」
母が繰り返した。失礼な言い方になっていたが、母は気づいていなかった。学者が驚くときの言い方だ。
「魔力が体内から排出されずに溜まったら邪魔にならんのか、とは思ったことがある」ガースさんは腕を組んだ。「だが冒険しない間に魔法を使わなくても、体内の魔力が邪魔になったことはねえ。ローグも魔法は使えんが、魔力が全くのゼロという訳じゃないはずだ。それでもこうして生きている。」
母は口を閉じた。閉じてから、小さく「そうですね。すみません」と言った。 謝られたほうは、何を謝られたのか分かっていない顔をしていた。
─────
母の訊き方は、本を読んでいるときと同じだった。
溜まったものはどこへ行くのか。 母はいつも、そういう訊き方をする。何に変わるか、どこへ行くか、何が残るか。
ガースさんの答えは「考えたことがねえ」だった。 二十年近く魔物と戦ってきた人が、自分の中の魔力がどこへ行くかを一度も考えていない。
考えなくても、生きていけるのだ。 考えないほうが、たぶん生きやすい。
─────
鍋が空になったあと、ガースさんが椀を置いた。
「ローグ」
「なんだ」
「戻る気はないか」
父は、すぐには答えなかった。 母も何も言わなかった。母は、空になった鍋を見ていた。
「東で人が足りてない」ガースさんは続けた。「稼ぎはいい。今はな。前より悪くはない」
「……ガース」
「分かってる。断られると思って言ってるんだ」
「なら訊くな」
「訊かんと、来た意味がねえ」
ガースさんは笑った。笑ってから、真面目な顔に戻った。
「お前が辞めたとき、俺は止めなかった。止めるのは筋じゃねえと思った。だが六年経って、一度くらいは訊いておこうと思った。それだけだ」
父は、酒を飲んだ。
「悪いな」
「いいさ」
それで終わりだった。 ガースさんは、本当にそれ以上言わなかった。
用があって来たのだと、私はそこで初めて知った。 通りがかりではなかったのだ。そして用は、一回訊いて断られて、それで済むものだった。
済むようなことのために、この人は何日も歩いてきたらしい。
─────
母だけが、黙っていた。
ガースさんは落胆していない。父も落胆していない。 ふたりは、魔法が使えない人間が生きている世界を知っている。
母は知らない。
母の世界では、魔法は分かるものだ。 分かるものが分からないままになっているから、母は苦しい。
ガースさんの言い方は、母には届かなかったと思う。
─────
その夜、水を飲みに起きた。
土間でガースさんが荷をまとめていて、母がその前に立っていた。
「——この子のことは、誰にも言わないでください」
母の声だった。
「どこまでだ」
「全部です。走ることも、喋ることも、魔力の量も」
ガースさんは紐を結ぶ手を止めなかった。
「言わん」
「ありがとうございます」
「言わんが」
ガースさんは荷を置いた。
「隠しても仕方ねえぞ」
母が黙った。
「あと何年隠す。十年か。十年で足りるか。この村の外に一歩出た日に、誰かが気づく。気づかんのは、気づかん奴ばかりの村にいるからだ」
「……分かっています」
「分かってるなら、いいさ」
ガースさんは紐を結び直した。
「俺は言わん。俺が言わんだけだ」
─────
私は、水を飲まずに戻った。
母は、エレナさんにも同じことを頼んでいる。 これで二人目だ。
母は隠している。 たぶん、これからも誰かに頼み続ける。
ガースさんの言ったことは、正しいのだと思う。 母も正しいと分かっている。分かっていて、それでも頼んだ。
─────
翌朝、ガースさんは早く出ていった。
父が道のところまで送って、私もついていった。
母が、布に包んだものをガースさんに渡した。
「持っていって」
「すまんな」
「それと」
母は少しためらった。
「……ありがとう」
ガースさんは、何に対する礼かを訊かなかった。頷いて、荷に入れた。
母は、昨日の言葉に慰められてはいない。鍋の前で手が止まったままだったし、夜も本を読んでいた。 それでも、礼を言った。
「世話になった」 「またな」
「お前、まだその剣か」
父の腰を見て、ガースさんが言った。
「まだだ」
「十年以上だろう」
「十二年だ」
「打ち直せよ」
「打ち直した。三回」
「三回で足りるか」
「足りてる」
ガースさんは自分の腰を叩いた。父のものより新しい鞘だった。 それから、少し笑った。
「お前は、物を捨てんな」
「捨てる理由がない」
「そうだな」
─────
それだけで終わりそうになってから、ガースさんが振り返った。
「ローグ」
「なんだ」
「この子を、森に近づけるなよ」
父の顔が変わった。
「紋が強い子は、魔物に見つからん。だから森でも平気だと思うだろう。思うんだ、親は」
ガースさんは、私を見た。
「平気だ。魔物には見つからん。だが、はぐれたら、こっちも見つけられん」
─────
「誰も見つけられないなら、どうすればいいんですか」
私が訊いた。
ガースさんは少し考えて、答えた。
「お前が、見つけてくれ」
「え?」
「探される側でいるのを諦めろ。お前が人を見つける側に回れ。そのほうが早い」
それから彼は、手を一度上げて、歩いていった。 足の置き方が静かで、速い。見えなくなるのが早かった。
─────
その夜も、挨拶をした。
井戸。荷車。木。石。鍬。父の剣。
「こんばんは」
いつもと同じだ。 誰も応えない。
いつもと同じなのに、少し違って聞こえた。
─────
私は、探されても見つからない。
それは三ヶ月前からそうだったし、たぶん、死ぬ前からそうだった。 いまさら悲しくはない。慣れている。
でも、見つける側に回れとは、言われたことがなかった。
誰にも見えなかったころ、私は見てほしかった。 ずっと、見てほしかっただけだった。
見つける側に回るという考え方を、私は持っていなかった。
─────
井戸を覗いた。
水が見えた。水だけだった。
それでも、三ヶ月分の水位の上がり下がりは、私が覚えている。 たぶん、村の誰も覚えていない。
「また明日」
父の元仲間が来た回でした。 魔法はやっぱり出ませんでした。
次回、母が本をやめます。




