本と紋と挨拶と
5話目、母の本の話です。
生後二ヶ月になった。
走るのは前からできていたけれど、跳べるようになった。井戸の縁に腰かけられるようになった。父から渡された棒を両手でなく片手で持てるようになった。
鏡がないので自分の顔は知らない。
母が言うには、金色の髪で、目は緋色だそうだ。
髪は母、目は父。半分ずつもらっている。
一万回のうち、たぶん二千回くらいは振った。
父は数えていない。私は数えている。
二千回くらいになると、振った音が変わる。
最初は「ぶん」だったのが、「しゅ」になった。
父が言うには、それは棒が空気を切れている音らしい。
「よし。それでいい」
「あと八千回だよ」
「まだそんなに残っているのか」
父は自分で一万回と言ったのに、残り八千回とは数えていない。
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挨拶は、毎日続けている。
順番は決めた。家を出て、まず井戸。
「おはようございます。僕です」
井戸は深い。声が落ちていって、少し遅れて戻ってくる。戻ってくるので、応えているように聞こえる。ただの反響だと分かってはいても最初の三日はそれで嬉しくなった。
次が納屋の裏の荷車。
「おはようございます」
傾いたまま、草がまた伸びている。車輪のない側が、少しずつ沈んでいる。沈む速さは、たぶん一年で指一本ぶんくらいだ。
畑の端の木。布は色が抜けたままだ。 道の分かれ目の石。朝は露で濡れている。 納屋の鍬。父が使ったあとは、刃に土がついている。
最後に、父の剣。
夕方にもう一周する。 夜に鍬だけもう一度行くこともある。鍬がいちばん手入れされていないので、少し気の毒だからだ。
誰も応えない。 当然だ。何もいないのだから。
父だけが、たまにすれ違って「おう」と言う。挨拶をしている私に挨拶をしているのか、ただ通りかかったのか、よく分からない。訊いていない。
母は気づいていない。 母は、本を読んでいる。
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字が読めるようになった。
母が教えてくれたのではない。母が開いている本を横から見ていたら、形と音が結びついた。たぶん前の世界で字を読んでいたのだと思う。
何語だったのかは覚えていないが、読むという動作のやり方だけが残っている。
魔法と同じだ。 いちばん要るものは残っていないのに、要らないものだけが残っている。
「読めるの?」
母が本から顔を上げた。
「少し」
「どこまで」
私は指で追った。背表紙の文字を読んだ。『属性相互作用論・第二巻』。
母は、本を閉じた。それから開いた。もう一度閉じて、置いた。 動作に意味はなかったと思う。手が勝手に動いていた。
「……カイル。隣に座る?」
座った。
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それから、母と並んで本を読む時間ができた。
母は読みながら、ときどき声に出す。独り言なのか、私に説明しているのか、境目があいまいだった。たぶん母にもあいまいなのだと思う。
「火と光は隣。だから混ざる。火と水は向かい合い。だから反発する」 「うん」 「ここまでは、分かっているの。もう千年前から分かっていること」
母は紙をめくった。
「問題は、どうして隣なら混ざるのか。ここが分かっていない」
私は図を見た。 丸が五つ、輪になって線で繋がっている。火、土、闇、水、光。 隣り合うものは溶け合い、向かい合うものは弾き合う。
きれいな図だった。 きれいすぎると思った。
「母さん。この輪は、誰が描いたの」 「分からないわ。千年前からこの形よ」 「合っているの?」 「合っているわ。使えば合っているのが分かるから」
使えば分かる。 使えない私には、分からないままだ。
「この輪の、真ん中は何?」
丸が五つ、輪になっている。その内側は、何も描かれていない。ただの余白だ。
母は、少し考えた。
「何もないわ。輪を描いたら真ん中が空くでしょう。それだけよ」
それだけ、と母は言った。
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母の本には、たくさんのことが書いてある。
どの属性がどの属性と混ざるか。 混ざるとどうなるか。 どうすれば混ざりやすいか。 混ざらないものを無理に混ぜるとどうなるか。
ぜんぶ、マナが何に変わるかの話だった。
マナが、どこを通るのか。 それは、この巻にも、次の巻にも、書いていなかった。
一行もない。
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私は、それを知っている。
第二巻の最後まで読んで、知っている。 母はたぶん、この本を十回以上読んでいる。だから母も知っているはずだ。書いていないということを。
でも、母は探している。
書いていないところを探している人に、書いていませんよと言うのは、どういうことなのだろう。
言わなかった。
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三日目か四日目に、母が手を止めた。
長く止まった。
それから、独り言にしては大きい声で言った。
「……マナは、何を通って火になるのかしら」
私は息を止めた。
母は紙の端を指で押さえたまま、宙を見ていた。
「集めて、思って、火になる。間がない。間がないのがおかしいのよ。何かを通らないと、何かが何かに変わるはずが——」
言った。 母が言った。
私は口を開けた。何を言えばいいのか分からないまま開けた。
そして母が、首を振った。
「いえ。違うわ」
違わない。
「それは、問いの立て方が悪いの」
母は紙を押さえていた指を離して、机を軽く叩いた。学者の癖だと思う。考えを捨てるときに、机を叩く。
「マナが何に変わるかは観測できる。変わる前のことは観測できない。観測できないことを問うのは、学問じゃないわ」
そう言って、母は次の行を読み始めた。
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私は、しばらく動けなかった。
母は、答えに触った。 触って、自分で払いのけた。
観測できないから問わない。 それは正しい作法なのだろう。正しい作法だからこそ、母はそこで止まる。
母の本には一行もない。 千年、誰も書かなかった。
書かなかったのではなく、書くべきことだと思わなかったのだ。
息の吸い方を、誰も研究しない。
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「母さん」
「なに」
「……この本、好き?」
「好きよ」
母はすぐ答えた。
「分からないことが、まだ残っているから」
母は笑った。久しぶりに見る笑い方だった。
私は、言わなかった。きっと分かる、とは言えなかった。
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その日の夜、父が母の本を取り上げた。
正確には、母が机に伏せて眠ったあと、父が本を閉じて、棚の上のほうに置いた。 母の手が届かない高さだ。父は背が高い。
「父さん」
「寝ろ」
「その本、母さんの」
「知っている」
父はろうそくを消した。
「痩せたからな」
それだけ言って、父も寝た。
翌朝、母は棚の上を見上げて、三十秒くらい黙って、それから踏み台を持ってきた。 父は何も言わなかった。 母も何も言わなかった。
本は机に戻った。
父は、たぶん分かっていてやったのだと思う。
取り上げても戻されると分かっていて、それでも一晩だけ取り上げた。
一晩ぶん、母は眠った。
父のやることは、いつも理屈が合わない。
合わないのに、効いている。
─────
十日おきに、エレナさんが来る。
来るたびに紋を見て、同じことを書く。
鞄から薄い帳面を出して、文字を並べて、また鞄に戻す。
「何を書いているんですか?」
三度目の訪問で、訊いてみた。
「記録です」
「どんな?」
「日付。体の大きさ。できるようになったこと。紋の状態」
エレナさんは手を止めずに答えた。
この人は、手を止めずに答えるときは本当のことを言う。止めて答えるときは、違う。
「あとは、分からなかったこと」
「分からなかったことも、書くんですか?」
「書きます。いちばん長く書きます」
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「それ、誰が読むんですか?」
エレナさんは、そこで手を止めた。
止めて、考えていたのだと思う。
「……今は、誰も読みません」
「今は?」
「はい」
彼女は帳面を閉じて、紐を巻いた。
「助産師の家には、代々の記録が残っています
私のところには、師匠のものと、師匠の師匠のものと、その前のものがあります。いちばん古いのは、二百年ほど前です」
二百年。
「読んだのですか?」
「読みました。ほとんど役に立ちません」エレナさんは少し笑った。
「昔の人は字が下手で、紙も傷んでいます。半分は読めません」
「じゃあ、なぜ書くんですか?」
「半分は読めたからです」
エレナさんは、鞄から別の帳面を出した。 薄い布でくるんであった。
紐が二重に巻かれている。
「見ますか」「はい」
見た。
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紙は茶色くなっていて、端が粉のようになっていた。
字は、確かに下手だった。母の本の字とはぜんぜん違う。
はねる方向が逆だったり、同じ字の形が行ごとに変わったりしている。
読めたのは、三行くらいだった。
「雨。四日続く。道が悪い」
それが最初の行だった。
二百年前の助産師が、まず書いたのは天気のことだった。
「次の行は」
「『生まれた。女。元気』です」
「そのあとは」
エレナさんは、指で止めた。
「ここは、私も迷っています」
字が崩れていて、私には読めなかった。 エレナさんが読んでくれた。
「『紋が、出ぬ』」
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紋が出ない。
「そういうことがあるんですか」
「あるようです。私は見たことがありません」
「その子は、どうなったんですか」
「書いていません」
エレナさんは紙をめくった。次の頁は、別の日の別の子のことだった。雨はやんでいた。
「書いていないんです。だから、分からないままです」
彼女は帳面を布に戻して、紐を二重に巻いた。
「分からないままのことが、二百年ぶん積んであります」
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エレナさんは、鞄を閉めた。
「記録は、私が死んだあとも残ります」
さらりと言った。
十八歳の人が言う言葉には聞こえなかった。
たぶん、師匠から同じことを言われたのだと思う。
そしてその師匠も、その師匠から言われたのだと思う。
「だから、分からないことは書いておきます。百年後の誰かが、分かるかもしれませんから」
私は、彼女を見た。
この人は、約束を守っている。 母に頼まれたとおり、誰にも話していない。
でも、書いている。
誰にも話さずに、百年後に渡そうとしている。
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それは、黙っているのと同じではない。
母は探して、見つけられない。 エレナさんは見つけて、言えない。 私は知っていて、言わない。
三人とも黙っている。 でも、三人のうち一人だけが、黙ったまま将来に送っていた。
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その夜も、挨拶をした。
井戸。荷車。木。石。鍬。 最後に、父の剣。
「こんばんは」
かたん、と鳴った。
鞘が、納屋の壁に当たった音だ。 立てかけ方が浅かったのだろう。風も少しあった。
私はしばらく待った。
何も起きなかった。 当然だ。
「……また明日」
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布団に入ってから、気づいたことがある。
挨拶をするのが、楽しくなっていた。
誰にも見えなかったころ、あれは楽しくなかった。
応えてほしくてやっていて、応えてもらえないから、そのたびに少し減っていった。
今は違う。 応えないと知っていて、それでも言いに行く。
井戸は、今日も水だけだった。 荷車は、今日も傾いていた。 木は、木だった。
明日も同じだろう。 それが、少し楽しい。
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母は、書いていない本を読み続けている。 エレナさんは、誰も読まない記録を書き続けている。
私は、応えないものに挨拶を続けている。
この家の周りにいる人間は、みんな同じことをしているのかもしれない。
母がいちばん答えに近づいて、自分で引き返した回です。
次回、村に客が来ます。




