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幽霊だけど異世界転生してもいいですか?  作者: 針鼠堂 夏目颯真


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4/7

足りないもの

4話目です。カイルが外に出ます。

魔法は、次の日も出なかった。

その次の日も、その次の日も出なかった。 母は毎朝「やってみようか」と言ってくれていたけど、三日目にはもう言わなくなった。


言わなくなったほうが、気が楽だった。 母の顔を見なくて済むからだ。

隣の部屋の本をめくる音は、まだ続いている。

          ─────

「カイル。外へ出るぞ」

魔法が教えてもらった日から四日目に、父が言った。


「紋を入れたのだからな。魔物に気取られない。この家の敷居を越えてよし」 父は腰に手を当てて、顎を上げていた。

「つまり、俺の許可が下りたということだ」

父は私を抱えて、さっさと外へ出た。


          ─────

外は、思っていたより明るかった。


家の前に道があって、道の向こうに畑があって、畑の向こうに森がある。 家はいくつか見える。数えると九つ。それが村のぜんぶらしい。

生まれてから一ヶ月と少し、私はこの世界の屋根の下しか見ていなかった。

空が高い。 雲の形は、前の世界と同じだった。

「よし、剣だ」


父が木の棒を二本持ってきた。一本は父の背丈くらい、もう一本は私の背丈くらいだ。私のほうを渡された。

握ってみると、思っていたより重かった。腕が短いので、振り上げると後ろにひっくり返りそうになる。


「振ってみろ」


振った。

棒の先が地面を叩いた。


「下を叩くな。空を切れ」

振った。 今度は空を切った。切った音は、情けないほど小さかった。


「もう一度」

振った。


「それでいい。あと一万回だ」

一万回。


「父さん。一万回って、どのくらいかかるの」

「振っていたらいつかは終わる」


父は数や計画というものが苦手なのだと思う。


          ─────


父は、剣が意外にうまかった。


偉そうな喋り方をするときの父は中身がふざけているのだが、棒を持つと急に黙る。腰から下が動かなくなって、肩から先だけが鳴る。空気が切れる音が、私のときとぜんぜん違った。


元・冒険者というのは、たぶん本当なのだろう。


「父さん」 「なんだ」

「それ、どこで覚えたの」 「……毎日、一万回振った」


父は答えをはぐらかすのが下手だ。母と同じで、嘘が下手なのだと思う。この家は全員そうなのかもしれない。


          ─────


五十回を越えたあたりで、私は手を止めて、まわりを見ていた。

「よそ見をするな」

父が言った。


「ごめんなさい」

振った。 そして、またまわりを見ていた。

探していたのだ。


          ─────


誰にも見えなかったころ、私には見えていたものがある。

人には見えないものだ。 古い傘や夜の踏切。路地裏。

そういう場所に、何かがいた。姿がはっきりしているわけではない。

ただ「いる」というのが分かった。


目が合ったような気がしたこともある。

話しかけてみたこともある。 応えてはくれなかった。

人間に無視されるのと同じように、無視された。


あのころ私は、人にも、人でないものにも、相手にされていなかった。

それでも、いた。

いるのが分かっているだけで、私はひとりではなかった。


          ─────


父が水を飲みに戻ったあいだ、私はひとつずつ見て回った。

村の真ん中に井戸がある。

縄が黒くなっていて、石の縁が片側だけ削れている。長く使われている井戸だ。 覗き込んだ。 水が見えた。水だけだった。


納屋の裏に、壊れた荷車がある。車輪が片方なくて、傾いたまま草に埋まっている。もう何年もそのままなのだろう。

何もいない。


畑の端に、大きな木が立っている。幹に布が巻かれていて、何かを祀っているように見えた。

父に訊いたら「雷が落ちた木だ。縁起がいいとか悪いとか、誰かが言っていた」と答えた。


その木も、ただの木だった。


道の分かれ目に、丸い石が置いてある。 納屋には使い込まれた鍬がある。

村の外れには、焼けた跡のある石積みがある。


どこにも、何もいない。


          ─────


雷の落ちた木のところで、村のいちばん年寄りに会った。

腰の曲がった人で、畑から帰る途中だったらしい。

私を見て、しばらく目を細めていた。顔を覚えられていないのだろう。

無理もない。私は一ヶ月前に生まれて、今は走っている。


「ローグんとこの子か」 「はい」

「もう歩くのか」 「走れます」

「そうか」


そうか、で済んでしまった。 年寄りというのは、驚くのが面倒になるのかもしれない。


「この布は、何ですか」

木の幹に巻かれた布を指した。色が抜けて、端がほつれている。何年もそこにあるのだと思う。


「まじないだ」 「どういう」

「雷が、二度落ちぬように」


なるほど、と思った。

それなら前の世界にもあった。たぶんあった。

よく覚えていないが、こういうことをする人たちがいたという感じだけが残っている。


だから、訊いてみた。

「この木に、何かいるんですか」

年寄りは、止まった。


「……何か?」

「はい」


「何かとは、何だ」

「えっと」

困った。 説明しようとして、できなかった。


木にいるものを、何と呼べばいいのか分からない。人ではない。魔物でもない。獣でもない。前の世界では、見えていたのに、名前を知らなかった。


「木にいる、何か」

「木は、木だろう」


年寄りはそう言って、少し笑った。馬鹿にした笑い方ではなかった。

孫の言うことを聞き流すときの笑い方だ。

「布は、人が巻いたんだ。木が頼んだわけじゃあない」


それから彼は、腰を伸ばして歩いていった。


          ─────


私は、その場に立っていた。

私の伝えたいことは伝わらなかった。


言葉が足りなかったのではないのだと思う。

この世界には元の世界とは根本的な考え方が違うのだ。


前の世界では、たぶんあった。

私は幽霊より前を覚えていないけれど、あの傘を見たときには「何かがいる」と思ったのだから。


ここには、それがない。

いないだけではない。 概念が存在しないのだろう。


          ─────


「父さん。この村に、人は何人いるの」

「三十人ほどだな」

「人と、あとは何がいるの」

「あとは」父は少し考えた。

「魔物だ。森に出る。あとは牛と鶏と、犬が二匹」

「それだけ?」

「それだけだ」


父は不思議そうな顔をした。 不思議そうな顔をされるとは思っていなかった。


          ─────


人はいる。 魔物もいるらしい。牛も鶏も犬もいる。

けれど、足りない。


井戸にも、荷車にも、雷の落ちた木にも、道の石にも、鍬にも。 人が長く使ったもの、人が長く通った場所。そういうところに、何もいない。


この世界は、人や動植物と魔物しかいないのだ。


          ─────


おかしなことに、私はそれを少し、怖いと思った。

魔物が怖いのではない。 足りないことが、怖かった。


誰にも見えなかったころ、私は見てもらえなかった。

声も届かなかった。触れることもできなかった。


それが、ずっと寂しかったのだと思う。たぶん。あのころは悲しいも寂しいもよく分かっていなかったけれど。


今、私は見てもらえる。 名前を呼ばれる。抱き上げられる。剣を教えてもらえる。

その代わり、私だけが見てやれる相手は、一人もいない。


          ─────


夕方になって、父が片付けを始めた。 父は棒を二本まとめて、納屋の壁に立てかけた。それから腰の剣を外して、布で拭いた。


父の剣だ。


鞘は擦り切れていて、革が白くなっている。柄の巻きが手の形にへこんでいる。きっと十年は使っている。


いちばん、何かいそうだった。


長く持たれて、長く振られて、たぶん何度か人を助けたり、助けられなかったりした物だ。前の世界なら、こういうものには何かがいた。


私は近づいて、覗き込んだ。

何もいなかった。


          ─────


それでも、言ってみた。

「こんばんは」

父が顔を上げた。

「誰に言っている」

「剣に」

「剣に……」

「うん。僕、挨拶してるんだ」


父は三秒くらい黙って、それから笑った。

「よし。挨拶は大事だ」


それだけ言って、父は剣を拭く作業に戻った。 何をしているのかと重ねて訊かれることもなかった。


          ─────


父は、たぶん何も分かっていない。

分かっていないのに、止めなかった。 変だとも言わなかった。

その夜、私は決めた。

毎日、挨拶をすることにする。

井戸にも、荷車にも、木にも、石にも、鍬にも、父の剣にも。


応えないのは知っている。 誰にも見えなかったころ、私はずっとそうしていた。応えてもらえたことは一度もない。


それでも、やめなかったから、あの夜テレビを見ていた人の隣に座れたのだ。

やめた人間には、何も起こらない。


          ─────


その夜、水を飲みに起きたら、母が机に伏せて眠っていた。

本が開いたままだった。ろうそくが短くなって、蝋が机に垂れている。 母の頬に、紙の跡がついていた。

起こさないほうがいいと思った。 でも、そのままでは冷える。

毛布は寝室にある。取ってきた。引きずってきた。重かった。


母の背に届かなかった。 背が足りないのだ。腕を伸ばしても、肩のところまでしか上がらない。

椅子に登った。 登って、かけた。

母は起きなかった。


          ─────


降りてから、私はしばらくそこに立っていた。

魔法は出せない。母の仕事は手伝えない。母が何を調べているのかも分からない。 昨日まで、私は何もできないと思っていた。


毛布は、かけられた。

一回だ。 それでも、ゼロではない。


          ─────


保護紋を施してもらってから十日後、エレナさんが来た。

「紋を見せてもらえますか」


服を脱いで、背中を向けた。 エレナさんの指が、左肩の下に触れた。

「……移動して、定着していますね」

「順調ですか」


母が訊いた。母は少し痩せたように見える。

「はい。移動の仕方は、普通です」

移動の仕方は。

「……あの、エレナさん」母が言った。「形のことなんだけど。あれ、やっぱり珍しいのよね」

「珍しくはあります」

「調べられる?」

「紋を調べる方法は、ありません」エレナさんは手を止めずに答えた。

「助産師は写し取るだけで、読む術は持っていません。読めるという家があるとも聞きません」

エレナさんは、そこだけはっきり言った。言い方で分かることがある。

嘘をつかないために、言う範囲を狭くする人がいる。


「そう」

母は食い下がらなかった。 食い下がれば、エレナさんが困ることになると分かったのだと思う。


それから彼女は、十日前と同じように紋を見ていた。 十日前と同じように、何も言わなかった。


          ─────


帰り際、玄関で、エレナさんが振り返った。

十日前と同じだ。 同じように私を見て、同じように口を開けた。

「カイル君」

今度は、声が出た。

「もし、何か——」

そこで止まった。

「変わったことが、あったら」

長い間があった。

「……いえ。何でもありません。失礼しました」

エレナさんは頭を下げて、出ていった。


          ─────


私は、何も言わなかった。

言えなかったのではない。言わないことにしたのだ。

変わったことを言うには、普通と違うはずだと思っている普通を先に説明しないといけない。

それは、たぶん変だ。生後一ヶ月の子供が言うことではない。

喋れるようになっても、喋れないことは残る。


          ─────


でも、ひとつ分かったことがある。

エレナさんは、訊いた。

変わったことがあったら、と訊いた。

あれは、何か心当たりがある人の訊き方だ。


          ─────


その夜も、私は井戸に挨拶をした。

「こんばんは」

水が見えた。水だけだった。

「また明日」

カイルが外に出ました。 何もいない世界で

次回、十日おきの客人と、母の本の話をします。

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