足りないもの
4話目です。カイルが外に出ます。
魔法は、次の日も出なかった。
その次の日も、その次の日も出なかった。 母は毎朝「やってみようか」と言ってくれていたけど、三日目にはもう言わなくなった。
言わなくなったほうが、気が楽だった。 母の顔を見なくて済むからだ。
隣の部屋の本をめくる音は、まだ続いている。
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「カイル。外へ出るぞ」
魔法が教えてもらった日から四日目に、父が言った。
「紋を入れたのだからな。魔物に気取られない。この家の敷居を越えてよし」 父は腰に手を当てて、顎を上げていた。
「つまり、俺の許可が下りたということだ」
父は私を抱えて、さっさと外へ出た。
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外は、思っていたより明るかった。
家の前に道があって、道の向こうに畑があって、畑の向こうに森がある。 家はいくつか見える。数えると九つ。それが村のぜんぶらしい。
生まれてから一ヶ月と少し、私はこの世界の屋根の下しか見ていなかった。
空が高い。 雲の形は、前の世界と同じだった。
「よし、剣だ」
父が木の棒を二本持ってきた。一本は父の背丈くらい、もう一本は私の背丈くらいだ。私のほうを渡された。
握ってみると、思っていたより重かった。腕が短いので、振り上げると後ろにひっくり返りそうになる。
「振ってみろ」
振った。
棒の先が地面を叩いた。
「下を叩くな。空を切れ」
振った。 今度は空を切った。切った音は、情けないほど小さかった。
「もう一度」
振った。
「それでいい。あと一万回だ」
一万回。
「父さん。一万回って、どのくらいかかるの」
「振っていたらいつかは終わる」
父は数や計画というものが苦手なのだと思う。
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父は、剣が意外にうまかった。
偉そうな喋り方をするときの父は中身がふざけているのだが、棒を持つと急に黙る。腰から下が動かなくなって、肩から先だけが鳴る。空気が切れる音が、私のときとぜんぜん違った。
元・冒険者というのは、たぶん本当なのだろう。
「父さん」 「なんだ」
「それ、どこで覚えたの」 「……毎日、一万回振った」
父は答えをはぐらかすのが下手だ。母と同じで、嘘が下手なのだと思う。この家は全員そうなのかもしれない。
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五十回を越えたあたりで、私は手を止めて、まわりを見ていた。
「よそ見をするな」
父が言った。
「ごめんなさい」
振った。 そして、またまわりを見ていた。
探していたのだ。
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誰にも見えなかったころ、私には見えていたものがある。
人には見えないものだ。 古い傘や夜の踏切。路地裏。
そういう場所に、何かがいた。姿がはっきりしているわけではない。
ただ「いる」というのが分かった。
目が合ったような気がしたこともある。
話しかけてみたこともある。 応えてはくれなかった。
人間に無視されるのと同じように、無視された。
あのころ私は、人にも、人でないものにも、相手にされていなかった。
それでも、いた。
いるのが分かっているだけで、私はひとりではなかった。
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父が水を飲みに戻ったあいだ、私はひとつずつ見て回った。
村の真ん中に井戸がある。
縄が黒くなっていて、石の縁が片側だけ削れている。長く使われている井戸だ。 覗き込んだ。 水が見えた。水だけだった。
納屋の裏に、壊れた荷車がある。車輪が片方なくて、傾いたまま草に埋まっている。もう何年もそのままなのだろう。
何もいない。
畑の端に、大きな木が立っている。幹に布が巻かれていて、何かを祀っているように見えた。
父に訊いたら「雷が落ちた木だ。縁起がいいとか悪いとか、誰かが言っていた」と答えた。
その木も、ただの木だった。
道の分かれ目に、丸い石が置いてある。 納屋には使い込まれた鍬がある。
村の外れには、焼けた跡のある石積みがある。
どこにも、何もいない。
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雷の落ちた木のところで、村のいちばん年寄りに会った。
腰の曲がった人で、畑から帰る途中だったらしい。
私を見て、しばらく目を細めていた。顔を覚えられていないのだろう。
無理もない。私は一ヶ月前に生まれて、今は走っている。
「ローグんとこの子か」 「はい」
「もう歩くのか」 「走れます」
「そうか」
そうか、で済んでしまった。 年寄りというのは、驚くのが面倒になるのかもしれない。
「この布は、何ですか」
木の幹に巻かれた布を指した。色が抜けて、端がほつれている。何年もそこにあるのだと思う。
「まじないだ」 「どういう」
「雷が、二度落ちぬように」
なるほど、と思った。
それなら前の世界にもあった。たぶんあった。
よく覚えていないが、こういうことをする人たちがいたという感じだけが残っている。
だから、訊いてみた。
「この木に、何かいるんですか」
年寄りは、止まった。
「……何か?」
「はい」
「何かとは、何だ」
「えっと」
困った。 説明しようとして、できなかった。
木にいるものを、何と呼べばいいのか分からない。人ではない。魔物でもない。獣でもない。前の世界では、見えていたのに、名前を知らなかった。
「木にいる、何か」
「木は、木だろう」
年寄りはそう言って、少し笑った。馬鹿にした笑い方ではなかった。
孫の言うことを聞き流すときの笑い方だ。
「布は、人が巻いたんだ。木が頼んだわけじゃあない」
それから彼は、腰を伸ばして歩いていった。
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私は、その場に立っていた。
私の伝えたいことは伝わらなかった。
言葉が足りなかったのではないのだと思う。
この世界には元の世界とは根本的な考え方が違うのだ。
前の世界では、たぶんあった。
私は幽霊より前を覚えていないけれど、あの傘を見たときには「何かがいる」と思ったのだから。
ここには、それがない。
いないだけではない。 概念が存在しないのだろう。
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「父さん。この村に、人は何人いるの」
「三十人ほどだな」
「人と、あとは何がいるの」
「あとは」父は少し考えた。
「魔物だ。森に出る。あとは牛と鶏と、犬が二匹」
「それだけ?」
「それだけだ」
父は不思議そうな顔をした。 不思議そうな顔をされるとは思っていなかった。
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人はいる。 魔物もいるらしい。牛も鶏も犬もいる。
けれど、足りない。
井戸にも、荷車にも、雷の落ちた木にも、道の石にも、鍬にも。 人が長く使ったもの、人が長く通った場所。そういうところに、何もいない。
この世界は、人や動植物と魔物しかいないのだ。
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おかしなことに、私はそれを少し、怖いと思った。
魔物が怖いのではない。 足りないことが、怖かった。
誰にも見えなかったころ、私は見てもらえなかった。
声も届かなかった。触れることもできなかった。
それが、ずっと寂しかったのだと思う。たぶん。あのころは悲しいも寂しいもよく分かっていなかったけれど。
今、私は見てもらえる。 名前を呼ばれる。抱き上げられる。剣を教えてもらえる。
その代わり、私だけが見てやれる相手は、一人もいない。
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夕方になって、父が片付けを始めた。 父は棒を二本まとめて、納屋の壁に立てかけた。それから腰の剣を外して、布で拭いた。
父の剣だ。
鞘は擦り切れていて、革が白くなっている。柄の巻きが手の形にへこんでいる。きっと十年は使っている。
いちばん、何かいそうだった。
長く持たれて、長く振られて、たぶん何度か人を助けたり、助けられなかったりした物だ。前の世界なら、こういうものには何かがいた。
私は近づいて、覗き込んだ。
何もいなかった。
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それでも、言ってみた。
「こんばんは」
父が顔を上げた。
「誰に言っている」
「剣に」
「剣に……」
「うん。僕、挨拶してるんだ」
父は三秒くらい黙って、それから笑った。
「よし。挨拶は大事だ」
それだけ言って、父は剣を拭く作業に戻った。 何をしているのかと重ねて訊かれることもなかった。
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父は、たぶん何も分かっていない。
分かっていないのに、止めなかった。 変だとも言わなかった。
その夜、私は決めた。
毎日、挨拶をすることにする。
井戸にも、荷車にも、木にも、石にも、鍬にも、父の剣にも。
応えないのは知っている。 誰にも見えなかったころ、私はずっとそうしていた。応えてもらえたことは一度もない。
それでも、やめなかったから、あの夜テレビを見ていた人の隣に座れたのだ。
やめた人間には、何も起こらない。
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その夜、水を飲みに起きたら、母が机に伏せて眠っていた。
本が開いたままだった。ろうそくが短くなって、蝋が机に垂れている。 母の頬に、紙の跡がついていた。
起こさないほうがいいと思った。 でも、そのままでは冷える。
毛布は寝室にある。取ってきた。引きずってきた。重かった。
母の背に届かなかった。 背が足りないのだ。腕を伸ばしても、肩のところまでしか上がらない。
椅子に登った。 登って、かけた。
母は起きなかった。
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降りてから、私はしばらくそこに立っていた。
魔法は出せない。母の仕事は手伝えない。母が何を調べているのかも分からない。 昨日まで、私は何もできないと思っていた。
毛布は、かけられた。
一回だ。 それでも、ゼロではない。
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保護紋を施してもらってから十日後、エレナさんが来た。
「紋を見せてもらえますか」
服を脱いで、背中を向けた。 エレナさんの指が、左肩の下に触れた。
「……移動して、定着していますね」
「順調ですか」
母が訊いた。母は少し痩せたように見える。
「はい。移動の仕方は、普通です」
移動の仕方は。
「……あの、エレナさん」母が言った。「形のことなんだけど。あれ、やっぱり珍しいのよね」
「珍しくはあります」
「調べられる?」
「紋を調べる方法は、ありません」エレナさんは手を止めずに答えた。
「助産師は写し取るだけで、読む術は持っていません。読めるという家があるとも聞きません」
エレナさんは、そこだけはっきり言った。言い方で分かることがある。
嘘をつかないために、言う範囲を狭くする人がいる。
「そう」
母は食い下がらなかった。 食い下がれば、エレナさんが困ることになると分かったのだと思う。
それから彼女は、十日前と同じように紋を見ていた。 十日前と同じように、何も言わなかった。
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帰り際、玄関で、エレナさんが振り返った。
十日前と同じだ。 同じように私を見て、同じように口を開けた。
「カイル君」
今度は、声が出た。
「もし、何か——」
そこで止まった。
「変わったことが、あったら」
長い間があった。
「……いえ。何でもありません。失礼しました」
エレナさんは頭を下げて、出ていった。
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私は、何も言わなかった。
言えなかったのではない。言わないことにしたのだ。
変わったことを言うには、普通と違うはずだと思っている普通を先に説明しないといけない。
それは、たぶん変だ。生後一ヶ月の子供が言うことではない。
喋れるようになっても、喋れないことは残る。
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でも、ひとつ分かったことがある。
エレナさんは、訊いた。
変わったことがあったら、と訊いた。
あれは、何か心当たりがある人の訊き方だ。
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その夜も、私は井戸に挨拶をした。
「こんばんは」
水が見えた。水だけだった。
「また明日」
カイルが外に出ました。 何もいない世界で
次回、十日おきの客人と、母の本の話をします。




