初めての魔法
3話目だよー! 保護紋のお話です。
エレナさんの笑い方が乾いていた。
私がお世辞を言ったせいだ。悪気はない。お綺麗ですね、は本当のことだし、挨拶はきちんとしろと父から教わっている。
ただ、生後一ヶ月の子供から言われると気味が悪いのだということは、彼女の顔を見て分かった。
言葉は便利だが、使いどころが難しい。 誰にも声が届かなかったころには、なかった悩みだ。
「——では、そうしましょう」
エレナさんが咳をひとつして、話を戻した。
「本来は歩き始めの時期に伺って、生育に合わせて保護紋を施すことになっております。だいぶ遅れておりますので、本日やらせてください」
「お願いするわ」と母が言った。
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母の名前はリン。金色の髪で、目は空の色をしている。二十二歳。魔法論理の学者だそうだ。 父はローグ。茶色の髪に、緋色の目。十八歳で、母より若い。本人の言によれば「元・冒険者」で、母の言によれば「冒険者崩れ」である。
ふたりは私を「カイル」と呼ぶ。
男の子ならカイルにすると、生まれる前から決めていたらしい。
何の由来もない、ただ好きな響きだったというだけの名前だと、父は胸を張って言っていた。胸を張る理由はよく分からない。
カイル。 悪くない名前だと思う。
誰かに名前で呼ばれるというのは、思っていたよりずっと、くすぐったい。
─────
エレナさんは床に布を敷いて、その上に鞄の中身を並べた。小さな鉢と、乾いた葉と、水の入った瓶。どれも使い込まれていて、鉢の縁は欠けている。師匠から受け継いだものだと言っていた。
「カイル君、服を脱いで、うつ伏せになれますか」
「はい」
自分で脱げてしまうのも、たぶんよくなかった。エレナさんの手が一瞬止まった。
床が冷たい。
「痛くはありませんよ」
これは私に言ったのだと思う。一ヶ月前までは、こういう言葉はぜんぶ母に向けられていた。
「紋は、魂の力を魔物から見えなくします。小さい子は、魂の匂いが強いので狙われるんです。だから隠すんです。それと、紋の形は選べません」
選べない。選べてもよく分からないから構わないけど。
「彫るのでも描くのでもなく、浮かんでくるんです。その子の魂の形が、そのまま出る。私は写し取るだけで、何も決められません。だから同じ紋はふたつとありません。——ただ、血の繋がった者同士は、よく似ます」
「ほら」
母が襟をずらして、左の肩の下を見せてくれた。
薄い藍色の線が、ゆるい渦を巻いていた。墨とは違う。皮膚の下に沈んでいるみたいな色だ。
「お父さんのも見せてあげて」
父が渋った。渋ったが、母に睨まれて袖を抜いた。父の紋も渦だった。母より太くて、荒くて、形はぜんぜん似ていないのに、巻いている向きだけが同じだった。
「不思議よね」母が言った。「魂って、血で似るのかしら」
「分かっていません」エレナさんはあっさり言った。「分かっていませんが、似ます」
─────
エレナさんの指先が、私の左肩の下に触れた。
温かい。
「最初だけ、背中の中央に紋が浮き出てきます。しばらくすると左肩の下に紋が移動しそのまま定着します。」
エレナさんが説明してくれた。
背中の中を何かが通った。痛くはない。くすぐったくもない。ただ、内側を一度だけ撫でられた感じがした。見えないところを、覗かれた感じ。
「——出ます」
母が息を呑む音がした。
自分の背中は見えない。だから、ふたりの顔を見るしかなかった。
母は、首をかたむけていた。 エレナさんは、動かなかった。
それから、しばらく誰も何も言わなかった。
長かった。 あまりに長かったので、私は首をひねって自分の背中を見ようしたがよく見えない。
「エレナさん?」
母の声だ。
エレナさんは、まだ私の背中を見ていた。 息を止めている。それが分かった。胸が動いていない。
「……エレナさん」
「——問題ありません」
エレナさんはそう言った。
嘘だ、と思った。
どうして分かったのかというと、彼女は嘘が下手だった。声が半拍遅れて、語尾が軽くなった。人の嘘を見るのは得意なのだ。誰にも見えなかったころ、私はずっと、人のことばかり見ていたから。
「似てないわね」母が言った。「私にも、ローグにも」
「ときどき、あります」
これも嘘だと思った。
「渦じゃないし。渦じゃないっていうか、何なのこれ。線が、閉じてない」 母の指が、私の背中の上で止まった。 「……色も、ないわね」
「ときどき、あります」
エレナさんはもう一度、同じ言葉を繰り返した。繰り返す人は、だいたい他に言うことがない人だ。
「薄いんじゃなくて、ないのよ。光の角度でしか見えない」
母は顔を近づけた。
「ガラスを押しつけたみたいな」
「——ときどき、あります」
三度目だった。
─────
エレナはこの時、師匠に報告すべきかどうかを考えていた。
一ヶ月前にも同じことを考えて、同じ結論に辿り着いている。あのとき彼女はリンに頼まれた。この子の話は誰にもしないでほしい、と。旅立つまでの十年を自分たちの手で育てたいのだと、母親はそう言った。
助産師は約束を守る職業である。産屋で見聞きしたことを外に出さないという一点で、この家業は千年以上続いてきた。
だから彼女は、約束を守ることにした。 二度目も、同じように。
ただし一ヶ月前と違って、今度は守りたくて守るのではなかった。
─────
エレナさんは布を畳み、鉢を鞄に戻し、立ち上がった。手際がよかった。手際がよすぎて、逃げるみたいだった。
「十日後に、また参ります」
十日後。 来月でも、半年後でもなく、十日後と彼女は言った。
玄関で、エレナさんが振り返った。
私を見た。
目が合った。 彼女は何か言おうとして、口を開けて、閉じた。
それから、何も言わずに出ていった。
言えることを言わない人だ、と思った。 ——その日、私も同じことをしていた。
─────
翌朝、母が私を膝に乗せた。
「カイル。魔法を、やってみましょうか」
母は魔法論理の学者だ。ものを燃やしたり凍らせたりする仕事ではなく、どうしてそうなるのかを調べる仕事だそうだ。
だから家には本がたくさんある。父は読めない。だが父はそれを少しも気にしていない。
母の調べているのは、属性の相性らしい。
火と光は隣り合っているから混ざりやすい。
火と水は向かい合っているから反発する。
どうしてそうなるのかは、まだ分かっていないのだという。
一度、母が開きっぱなしにしていた本を覗いたことがある。
読めない字も多かったけれど、図は分かった。
丸が五つ、輪になって線で繋がっている図だ。
マナが何に変わるのか。 どう変わるのか。 どうすれば混ざるのか。
そういうことばかり書いてあった。
マナが、どこを通るのか。 それは、一行も書いていなかった。
「本当はね、半年くらいからなの。言葉と、頭が追いつかないと使えないから」 母は私の髪を撫でた。
「早い子でも三ヶ月。でもあなた、三十日で走ってるし。お喋りはもう私より上手だし」
上手ではない。使いどころが分かっていないだけだ。
「だから、ちょっとだけ」
母が右手を上げて、人差し指を立てた。
「見てて」
指の先に、小さな火がついた。
ろうそくの先くらいの火だ。でも私が見ていたのは、火ではなかった。
火がつく前。 母の指のまわりに、細かい粒のようなものが集まっていた。
空気の中に、ずっと漂っているものだ。生まれた日から見えていた。ほこりが光に透けるときの、あの見え方に近い。誰も気にしていないようだったから、私も気にしないようにしていた。
それが、母の指に吸い寄せられていって、火になった。
「これがマナ。感じる?」
「見える」
母の手が止まった。
「……見えるの?」
その声で、言わないほうがよかったと分かった。
喋るのには慣れたけれど、何を喋っていいのかは、やはり分かっていない。
「見えるのね。すごい、ほんとに見えてる」母は早口になった。
「普通は感じるだけなの。見えるっていうのは相性がいい証拠で、つまり——いえ、いいわ。やってみましょう」
母は私の手を取って、人差し指を立てさせた。
「魔法はね、ふたつだけなの。思い描いて、組み立てる。思い描く——火がある、って思う。組み立てる——どんな火かを決める。大きさ、熱さ、形。それだけ」
それだけ。
「集めるのが先ね。あなたのまわりにあるのを、こっちへ。できる?」
できた。
やってみたら、できてしまった。 指の先に粒が集まって、ゆるく渦を巻いた。母がまた息を呑んだ。
「上手。すごく上手。じゃあ、火よ、って思って。それだけでいいから」
火よ。
─────
火よ、と思った。
その瞬間、私の頭が、勝手に別のことを考えた。
——燃えるものが、ない。
そう思ってしまったのだ。
何が燃えているのだろう。木でも油でもない。空気の中に燃えるものがあるとして、それは足りるのだろうか。使い切ったらどうなるのだろう。この熱はどこから来たことになるのだろう。熱は、どこかから持ってこないと生まれないはずで——
指の先で、粒が散った。
ふっと、散った。
母は待っていた。
「……もう一回、やってみよう?」
やった。
集まる。集まるのは毎回できる。 そして「火よ」と思った瞬間に、頭が割り込んでくる。
どこから。どうして。何が。
散る。
五回やった。十回やった。母は数えていたと思う。私も数えていた。
十二回目で、訊いてしまった。
訊くつもりはなかった。でも、十二回も同じところで止まると、どうしても知りたくなる。
「……どこから、来るの」
母の手が止まった。
「どこから?」
「火。どこから来るの」
母は私を見た。長く見た。それから、少し笑った。困ったときの笑い方だった。
「思ったら来るのよ」
来る。
「マナが火になるの。火は、思ったら来る」
来る、で済んでしまうのか。
私はもう一度、母の指先を見た。さっき母が作った火の、その前のところを。粒が集まって、火になった。あいだに何もなかった。何かが燃えたわけでも、どこかから熱が運ばれてきたわけでもない。
ただ、来た。
母は不思議がっていなかった。学者なのに。どうしてそうなるのかを調べる仕事なのに、そこは「来る」で終わっていた。この世界では、それでいいのだ。
私には、できない。
─────
母は火をあきらめて、水をやらせた。出なかった。 土も、光も、闇もやらせた。どれも出なかった。
集めることはできる。 出すことが、できない。
母は私の手を両手で包んで、しばらく動かなかった。それから鞄から細い棒を出して、私の手首に当てた。学者の道具らしい。棒の先が、ゆっくり色を変えた。
母はそれを、二回見た。
「……量は、足りてる」
母がつぶやいた。
「足りてるどころか、多いくらい。それなのに」
それなのに。
─────
私は、自分が誰だったかを覚えていない。
名前も、顔も、声も、たぶん性別も。 誰にも見えなかった長いあいだ、私は自分が何者なのかを知りたくて、通りかかる人に声をかけ続けていた。何も分からなかった。
なのに、ものが燃えるには燃えるものが必要だということは、知っている。 熱が無からは生まれないことも、知っている。
どうして、そんなことだけ覚えているのだろう。
いちばん知りたかったことは何ひとつ残らなくて、いちばんどうでもいいことだけが、こんなにはっきり残っている。
そして今、そのどうでもいい知識が、私の指先で火を消している。
─────
「おー、どうした。もう魔法か」
父が帰ってきた。肩に薪を担いでいる。
母が短く説明した。父は薪を下ろして、私の頭をがしがし撫でた。
「結構ではないか。魔法が使えぬのであれば、剣を振ればよろしい」
父は、こういう喋り方をするときがある。偉そうな言い方をすればそれで話が済むと思っているらしい。
「剣はな、振れば当たる。当たれば効く。実に論理的だ」
「ローグ」
「論理の話は妻の領分でしたな。失礼」
父は笑った。たぶん、本気で励ましている。父にとっては、本当にそれで済む話なのだ。
母は笑わなかった。
それで父は、急に話を変えた。重くなった空気を変えようとしたのだと思う。
「ところで、タイル村の話はしっているか?」
「……ローグ」
「いや、噂だ。噂だが。その日はカイルが生まれる前日の話しのようでな、騎士団と魔王軍がやり合って、村がひとつ消えたとか。勇者が生まれるという預言があったらしく、それで両方集まったとか」
勇者。
「して、肝心の勇者はどうなったのかという話なのだが」父は肩をすくめた。「生まれなかったそうだ。村ごと無くなったのでは、生まれるも何もないな」
「ローグ。子どもの前で」
「おう、悪い」
母が本当に怒ったので、父はそそくさと水を飲みに行った。
母はしばらく黙っていた。 それから父が戻ってから、さっきの剣の話にだけ答えた。
「——そうね」
そう言った母の手が、少し震えていた。
母は学者だ。 どうしてそうなるのかを調べる仕事だ。だから「分からない」で終われない。自分の子どものことで、終われるわけがない。
─────
私には関係のない話だ。 勇者がどうなろうと、村がどうなろうと、私には関係がない。
ただ、父が言った、私が生まれる前日ということだけが、気になった。
どうしてか、耳に残った。
─────
その夜、隣の部屋から、ずっと本をめくる音がしていた。
一枚。一枚。 ときどき戻って、また一枚。
家が静かになってから、私は布団の中で指を立てた。
誰も見ていない。母の期待も、父の励ましもない。 誰にも見られていないのは、得意なはずだった。
集めた。集まった。
火よ。
——燃えるものが、ない。
散った。
十回やって、十回散った。 やめようと思った。
でも、隣の部屋の音がまだしていたので、もう一回だけやった。
散った。
─────
私は、どうにもできなかった。
喋れる。走れる。母の膝にも座れる。挨拶もできる。 それなのに、母が泣きそうなのを、どうにもできなかった。
ああ、と思った。
これは、知っている。
誰にも見えなかったころと、同じだ。
見えている。聞こえている。すぐ隣にいる。 それでも、届かない。
名前をもらっても、声が届くようになっても、そこは変わらないのか。
─────
布団の中で、私は昼間のことを思い出していた。
紋が浮かんだとき、エレナさんが息を止めたこと。 母が「色がない」と言ったこと。 エレナさんが三度、同じ言葉を繰り返したこと。
それから、帰り際にこちらを見て、口を開けて、閉じたこと。
十日後に、また来ると言ったこと。
あの人は、何か知っている。
私のことを、私より先に。
母がいちばんつらい回でした。
次回、カイルはよそ見をはじめます。




