読む人と書く人
生後三ヶ月半になった。
母が、痩せた。
前から少し痩せていたけれど、はっきり分かるようになった。首のあたりの骨の形が見える。手首が細い。父が作った食事を、半分くらいで置く。
でも本を読む時間は増えた。
朝、父が畑に出たあとから読み始める。昼に一度やめて、また読む。夜は遅い。私が寝るときにはまだ起きているし、夜中に目が覚めても、まだ起きている。
ろうそくが減るのが早くなった。
父が、村の店でろうそくを買う回数が増えた。買ってくる父は、何も言わない。
─────
一度、訊いてみた。
「母さんは、火を出せますよね」
「出せるわ」
「それで、明るくできませんか」
母が本から顔を上げた。
それから、少し笑いそうな顔をして、机の端に手をかざした。
指の上に、小さな火が浮いた。前に見せてもらったのと同じ、ろうそくの先ほどの火だ。揺れずに、まっすぐ立っている。
机の上が明るくなった。母の字が読める。
「見える?」
「うん」
母は、本を開いた。
火が、消えた。
─────
「……あっ」
「こうなるのよ」
母は手を下ろした。
「出しているあいだ、ずっと考えていないといけないの。火の形を、大きさを、どこに置くかを。ぜんぶ頭でやるのよ」
「ずっと?」
「ずっとよ。一瞬でも別のことを考えたら、消えるわ」
母は、本の紙を指で弾いた。
「本を読むのも、頭でやるでしょう」
同じものを使うのだ。
灯りが欲しいのは、何かを見たいときだ。何かを見るには、頭を使う。
頭を使うと、灯りが消える。
欲しいときに、いちばん使えない。
「だから、ろうそくなの」
母はろうそくの芯を少し切って、指先を近づけた。
芯に火が移った。母が指を引いても、火は燃えている。
点けるのはできて、持たせるのはできないのだ。
「ろうそくは、何も考えなくても燃えているわ」
─────
「学院には、ろうそくはありますか」
「あるけど、少ないわ」
母は天井のあたりを指した。
「書庫の天井に、魔法陣が刻んであるの。考える役を、陣がやってくれるのよ。だから誰も見ていなくても、ずっと明るいわ」
「それ、家に作れませんか」
「刻める人が、この村にいないわ」
母はそこで、少し間を置いて付け足した。
「私も刻めないの。学者は、読む人だから」
─────
魔法は、続かない。
出したものを続かせるには、陣が要る。陣を刻める人は、村にいない。
だから村の夜は、火で持たせている。
魔法のある世界なのに、夜はろうそくなのだ。
私は、それを少し考えた。
考えて、そのときは何も思いつかなかった。
─────
本は増えていた。
『属性相互作用論』は第二巻までしか家になかったが、第三巻がどこかから来た。表紙が傷んでいて、前の持ち主の名前が端に書いてある。
父が、どこかから手に入れたのだと思う。
母はそれを一日で読んで、二日目にもう一度読んで、三日目に机に置いた。
「どうだった」
訊いてみた。
「書いていないわ」
母は、それだけ言った。
─────
夜、父が母に訊いた。
「第四巻は、どこにある」
「学院の書庫よ」
「借りられるか」
「借りられないわ。持ち出し禁止なの」
「写してくるやつは、いねえのか」
「写すのに三ヶ月かかるわ」
父は、それで黙った。
父は本を読まない。それでも、第三巻を探してきたのは父だ。
どこで手に入れたのかは言わなかった。
表紙の端に書いてある前の持ち主の名前を、母は一度だけ指で触って、それから触らなくなった。
─────
十日おきに、エレナさんが来る。
その日、エレナさんは私の紋を見て、背を測って、帳面に書いた。いつもと同じだ。
いつもと同じことをしてから、彼女は顔を上げて、母を見た。
長く見た。
「奥様」
「はい」
「お座りください」
母が座った。
エレナさんは母の手首を取った。私のときと同じ持ち方だった。それから目の下を見て、唇を見て、首のあたりを見た。
「食べていませんね」
「食べています」
「どのくらい」
母が答えなかった。
─────
「私は助産師です」
エレナさんは手首を離した。
「子供を取り上げるのが仕事だと思われていますが、違います。母親を見るのも仕事です。産後一年は、私の職務の範囲です」
母が、少し驚いた顔をした。
「ご存知なかったのですね」
「……知らなかったわ」
「申し上げます」
エレナさんは背を伸ばした。
「このままだと、奥様が倒れます。倒れたら、お子様の世話をする人が減ります。ご主人は畑と村の仕事があります。私は十日に一度しか来られません」
母が黙った。
「眠ってください。食べてください。これは、助産師としての職務上の指示です」
母が、口を開いた。
「……あと、どのくらいあるの」
「どのくらい、とは」
「私が倒れるまで。何日くらい」
エレナさんは、少し黙った。
「奥様。それを日数で訊かれる方は、だいたい、もう近いです」
「根拠は」
「経験です」
「何人分の」
エレナさんは、少し考えた。
「私が取り上げたのは、三十一人です」
母が、エレナさんを見た。
「あなた、おいくつ」
「十八です」
「……私の四つ下ね」
「はい」
母が、机に目を落とした。
三十一人。
その数が母の中で小さいほうに置かれたのが、横で見ていて分かった。母は数が書いてあるものを信じるが、小さい数は信じない。
「でも、帳面にあるのは三十一人分ではありません」
エレナさんは荷物から、もう一冊の帳面を出した。
私のことを書いているのと同じ形で、もっと古いものだった。革がすり切れて、角が丸い。背の糸が二度掛け直してある。
「二百十四人分あります」
「……どういうこと」
「前の助産師から引き継ぎました。その前の人のぶんも入っています」
母が、帳面に手を伸ばして、途中で止めた。
「見せてもらえる?」
「いけません」
エレナさんは、きっぱり言った。
「よそのお宅のことが書いてあります。お見せするなら、奥様のことも、どこかのお宅でお見せすることになります」
母が、手を引っ込めた。
「……そうね」
エレナさんは帳面を開かずに、表紙に手を置いたまま言った。
「二百十四人のうち、産んだあとで亡くなったお母様が、十一人います」
母が、顔を上げた。
「そのうち七人は、産んだときは元気でした」
エレナさんは帳面を閉じて、荷物に戻した。
母は何も言わなかった。
それから、長く息を吐いた。
数を出されたからだと思う。母は、数が書いてあるものを信じる。
「……いい仕事ね」
「はい」
「私のことは、何行書いてあるの」
「いまのところ、四行です」
エレナさんは荷物をまとめた。
「増やしたくありません。奥様、眠ってください」
─────
私は、横で聞いていた。
エレナさんは、紋のことは何も言わない。
言えないのだ。母に頼まれて、約束したから。
でも、母の体のことは言える。
それは彼女の仕事だから、約束と関係がない。
この人は、言えることだけで戦っている。
十日おきに来て、言えないことを帳面に書いて、言えることだけを口に出している。
─────
エレナさんが帰ったあと、母は長いあいだ座っていた。
机に本が三冊重なっている。
母はその一番上の背表紙を、指で撫でていた。
それから、三冊まとめて持ち上げて、棚に置いた。
上の段ではない。
手の届く下の段に、背を揃えて並べた。
「カイル」
「はい」
「本、やめるわ」
疲れた顔だ。だけど吹っ切れたように、にっこりと笑みを浮かべてそう言った。
─────
私は、何も言えなかった。
やめる。
母が本をやめる。
それはたぶん、良くないことだ。母の好きなものだった。第五巻も第六巻も、まだどこかにあるかもしれない。母はそれを探すのをやめる。
母が苦しいのは本のせいだから、やめたほうがいいのかもしれない。
でも、それは母が何かを手放すということだ。
私のために手放すのだとしたら、私はそれを黙って見ていることになる。
「母さん」
「なに」
「……ごめんなさい」
母が、私を見た。
それから、また少し笑った。
「なんで謝るの」
─────
「違うのよ、カイル」
母は棚のほうを指した。
「あの本は、答えが書いていないの。三冊読んで、十回読んで、書いていないことが分かったの」
「うん」
「書いていないものを探しても、出てこないわ」
母は机に戻って、座った。
「だから、読むのをやめる」
そこで母は、机の引き出しを開けた。
─────
引き出しから出てきたのは、白い帳面だった。
一枚もめくっていない、新しいものだ。父が村の店で買ってきたのだと思う。母が頼んだのだろう。
「書いてある人がいないなら、私が書くわ」
母は帳面を開いた。
「読む人をやめて、書く人になる。やめるんじゃなくて、始めるのよ」
─────
母は、やめていなかった。
本をやめたのは、本に見切りをつけたからだった。
千年ぶん誰も書かなかったことを、自分が最初に書くことにしたのだ。
学者というのは、そういうことを考えるものらしい。
「何を書くの」
「あなたのこと」
─────
それから、母は毎日、私を測るようになった。
朝に背を測る。壁に印をつける。印は十日ごとに増える。
腕の太さを紐で測って、紐に結び目を作る。
集められるマナの量を見る。母の学者の道具を手首に当てて、棒の色を記録する。
できたことを書く。
できなかったことを書く。
「今日は、何回やった」
「十二回です」
「出た?」
「出ません」
「書くわ」
母は書いた。十二回やって、十二回出なかったと書いた。
─────
測るほうは、だんだん細かくなった。
最初は背と腕だけだった。そのうち、手首に当てる棒の色を見るようになった。
「今日は、昨日より薄いわ」
「薄いと、どうなるんですか」
「出ている量が少ない、ということよ」
母は棒を外して、私の手首を見た。
「体の中にあるのが魔力。外に出たのがマナ。棒が見ているのは、出たほうだけなの」
「中は、見えないんですか」
「見えないわ」
母は棒を机に置いた。
「中にどれだけあるかを測る道具は、学院にもないの。出てきた分を数えて、そこから中を当てる。それしかできない」
「当たりますか」
「普通の子なら当たるわ」
母は、そこで一度止まった。
「あなたは、当たらない」
「どうしてですか」
「分からない」
母は帳面を開いて、書いた。
今日も、あの同じ文字を書いたのだと思う。
─────
帳面の一行目を、私は見せてもらった。
母の字は、本の字に似ている。読みやすい。
一行目はこう書いてあった。
『分からない』
その下に日付があって、その下から記録が始まっていた。
「これ、なんですか」
「いちばん大事なところよ」
母は帳面を閉じた。
「分かっていることから書くと、分かっていることだけ並ぶの。分からないことを先に書いておくと、忘れないわ」
─────
私は、エレナさんの帳面を思い出した。
——あとは、分からなかったこと。
——分からなかったことも、書くんですか。
——書きます。いちばん長く書きます。
同じだ。
母とエレナさんは、違うことをしている。
母は学者で、エレナさんは助産師だ。母は答えを探していて、エレナさんは約束を守っている。母は息子のために書いていて、エレナさんは百年後の誰かのために書いている。
それでも、始め方が同じだった。
分からないことを、先に書く。
二人は、お互いが同じことをしているのを知らない。
─────
母は、眠るようになった。
エレナさんに言われたからだと思う。夜は本を読まなくなったので、ろうそくの減りが遅くなった。食べる量も少しだけ戻った。
父は何も言わなかったが、ある日、母の椀に肉を多めに入れていた。母は気づかずに食べた。父は気づかれないほうが嬉しそうだった。
─────
ただ、帳面は夜も開いていた。
本をやめた代わりに、母は帳面を書いていた。昼に測ったことを、夜にもう一度、書き直している。
三日目の夜、父が帳面を閉じた。
母の手の下から、そっと引き抜くようにして閉じた。
「ローグ」
「前に、本を取った」
父は帳面を持って立った。
「今度は帳面を取る。やってることが変わってねえぞ、リン」
「違うわ。これは私が書いているの」
「本より悪い」
父は帳面を棚の上の段に置いた。母の手が届かない段だ。本を下の段に下げた分、上が空いていた。
「ローグ、返して」
「書いたもんは逃げん。明日になっても、同じことが書いてある」
「明日になったら、今日のことを忘れるかもしれないわ」
「忘れたら、俺が覚えてる」
母が、父を見た。
「……あなたが?」
「背が伸びたとか、腕が太くなったとか、そういうのは俺も見てる」
父は椅子に座った。
「数を書くのは俺の仕事じゃねえ。けど、見てはいる」
母は、何も言わなかった。
それから机の上を片付けて、寝る支度をした。
父は、帳面を上の段に置いたままにした。朝になったら下ろすのだと思う。
夜のあいだだけ、届かないところに置く。前に本を取り上げたときと、同じやり方だった。
測られるのは、悪くなかった。
朝に壁の前に立つ。背が伸びているかどうかを母が見る。印をつける。腕に紐を回す。手首に棒を当てる。
毎日、見られる。
─────
誰にも見えなかったころ、私は見てほしかった。
ずっと、それだけを思っていた。
道で声をかけて、無視されて、それでもまた声をかけていた。見てほしかったからだ。
いま、見られている。
毎朝、母が私を上から下まで見る。背を測る。腕を測る。
数字を書く。
欲しかったものを、もらっている。
─────
それなのに、何かが足りなかった。
しばらく分からなかった。
十日くらい分からなかった。
分かったのは、母が印をつけながら「ふうん」と言ったときだ。
母はここ最近、あまり笑わない。
─────
棚から、本を取ってきた。
下の段に置いてあるので、私でも届く。『属性相互作用論・第一巻』。いちばん読まれた一冊で、背の革が割れている。
母の机に置いた。
「カイル?」
「これ、好きって言ってた」
母は本を見た。それから私を見た。
「……覚えてるの」
「うん」
母は本を手に取った。
表紙を開いて、少しめくって、閉じた。
「好きだったわ」
─────
好きだった。
そう言った。
母は本を私に返して、帳面のほうに向き直った。
怒ってはいなかった。悲しそうでもなかった。ただ、そういうことになったという顔だった。
私は本を棚に戻した。
戻してから、何もできないと思った。
─────
魔法が出せれば、母は笑うのだと思う。
出せない。
四千五百回くらい剣を振ったが、魔法は一度も出ていない。
母が笑う方法を、私は持っていない。
─────
その夜、挨拶に出た。
井戸。荷車。木。石。鍬。父の剣。
「こんばんは」
誰も応えない。いつもと同じだ。
いつもと同じなのに、ガースさんの言葉を思い出した。
——探される側でいるのを諦めろ。お前が人を見つける側に回れ。
私は、見つける側に回ったことがない。
─────
考えてみると、おかしなことがあった。
母は、同じ家にいる。
朝に私を測って、昼に帳面を書いて、夜に眠っている。
それなのに、見つけにくい。
本を読んでいたころの母は、もっと見つけにくかった。声をかけても二回目で返事が来た。今は一回目で返ってくる。
返ってくるのに、まだ見つけにくい。
母は、どこか遠いところに座っている。
机の前にいるのに、遠い。
─────
翌朝、私は順路を変えた。
井戸、荷車、木、石、鍬、父の剣。
それから、家に戻った。
母は机の前にいた。帳面を開いて、昨日の数字を見ていた。
私は母の前に立った。
「おはよう。僕だよ」
─────
母が、顔を上げた。
「……おはよう」
「おはよう」
「二回言うの?」
「うん」
母は、帳面から手を離した。
それから、少し困った顔をして、こう言った。
「おはよう、カイル」
─────
応えてもらえた。
井戸は三ヶ月半、応えなかった。
荷車も、木も、石も、鍬も、父の剣も、一度も応えなかった。
母は、応えた。
当たり前だ。母は人間で、井戸は井戸だ。
当たり前のことなのに、私は少し、立っていられないような気持ちになった。
─────
順路に、母を入れた。
井戸、荷車、木、石、鍬、父の剣、母。
毎朝、最後に母を探しに行く。
母はいつも机の前にいるので、探すというほどのことではない。
それでも、探しに行くことにした。
いると分かっているところに、わざわざ行く。
そうしないと、見つからない人がいる。
─────
母はまだあの時のような笑い方はしない。
だけど、毎朝「おはよう、カイル」と言う。
二回言うのはやめた。一回でいいと母が言ったからだ。
母の帳面の一行目は、まだ『分からない』のままだ。
それでいいのだと思う。
分からないことが、まだ残っている。
母は本をやめて、書く人になりました。
次回、生後半年になります。村の子たちが魔法を習いはじめます。




