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幽霊だけど異世界転生してもいいですか?  作者: 針鼠堂 夏目颯真


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7/7

読む人と書く人

生後三ヶ月半になった。

母が、痩せた。

前から少し痩せていたけれど、はっきり分かるようになった。首のあたりの骨の形が見える。手首が細い。父が作った食事を、半分くらいで置く。

でも本を読む時間は増えた。


朝、父が畑に出たあとから読み始める。昼に一度やめて、また読む。夜は遅い。私が寝るときにはまだ起きているし、夜中に目が覚めても、まだ起きている。

ろうそくが減るのが早くなった。

父が、村の店でろうそくを買う回数が増えた。買ってくる父は、何も言わない。

          ─────

一度、訊いてみた。

「母さんは、火を出せますよね」

「出せるわ」

「それで、明るくできませんか」

母が本から顔を上げた。

それから、少し笑いそうな顔をして、机の端に手をかざした。


指の上に、小さな火が浮いた。前に見せてもらったのと同じ、ろうそくの先ほどの火だ。揺れずに、まっすぐ立っている。

机の上が明るくなった。母の字が読める。

「見える?」

「うん」


母は、本を開いた。

火が、消えた。

          ─────

「……あっ」

「こうなるのよ」

母は手を下ろした。


「出しているあいだ、ずっと考えていないといけないの。火の形を、大きさを、どこに置くかを。ぜんぶ頭でやるのよ」

「ずっと?」

「ずっとよ。一瞬でも別のことを考えたら、消えるわ」

母は、本の紙を指で弾いた。

「本を読むのも、頭でやるでしょう」


同じものを使うのだ。

灯りが欲しいのは、何かを見たいときだ。何かを見るには、頭を使う。

頭を使うと、灯りが消える。

欲しいときに、いちばん使えない。

「だから、ろうそくなの」

母はろうそくの芯を少し切って、指先を近づけた。

芯に火が移った。母が指を引いても、火は燃えている。


点けるのはできて、持たせるのはできないのだ。

「ろうそくは、何も考えなくても燃えているわ」

          ─────

「学院には、ろうそくはありますか」

「あるけど、少ないわ」

母は天井のあたりを指した。

「書庫の天井に、魔法陣が刻んであるの。考える役を、陣がやってくれるのよ。だから誰も見ていなくても、ずっと明るいわ」

「それ、家に作れませんか」

「刻める人が、この村にいないわ」


母はそこで、少し間を置いて付け足した。

「私も刻めないの。学者は、読む人だから」

          ─────

魔法は、続かない。

出したものを続かせるには、陣が要る。陣を刻める人は、村にいない。

だから村の夜は、火で持たせている。


魔法のある世界なのに、夜はろうそくなのだ。

私は、それを少し考えた。

考えて、そのときは何も思いつかなかった。


          ─────

本は増えていた。

『属性相互作用論』は第二巻までしか家になかったが、第三巻がどこかから来た。表紙が傷んでいて、前の持ち主の名前が端に書いてある。

父が、どこかから手に入れたのだと思う。

母はそれを一日で読んで、二日目にもう一度読んで、三日目に机に置いた。

「どうだった」

訊いてみた。

「書いていないわ」

母は、それだけ言った。


          ─────

夜、父が母に訊いた。

「第四巻は、どこにある」

「学院の書庫よ」

「借りられるか」

「借りられないわ。持ち出し禁止なの」

「写してくるやつは、いねえのか」

「写すのに三ヶ月かかるわ」

父は、それで黙った。


父は本を読まない。それでも、第三巻を探してきたのは父だ。

どこで手に入れたのかは言わなかった。

表紙の端に書いてある前の持ち主の名前を、母は一度だけ指で触って、それから触らなくなった。


          ─────

十日おきに、エレナさんが来る。

その日、エレナさんは私の紋を見て、背を測って、帳面に書いた。いつもと同じだ。

いつもと同じことをしてから、彼女は顔を上げて、母を見た。

長く見た。

「奥様」

「はい」

「お座りください」

母が座った。


エレナさんは母の手首を取った。私のときと同じ持ち方だった。それから目の下を見て、唇を見て、首のあたりを見た。


「食べていませんね」

「食べています」

「どのくらい」


母が答えなかった。


          ─────

「私は助産師です」

エレナさんは手首を離した。

「子供を取り上げるのが仕事だと思われていますが、違います。母親を見るのも仕事です。産後一年は、私の職務の範囲です」

母が、少し驚いた顔をした。

「ご存知なかったのですね」

「……知らなかったわ」

「申し上げます」


エレナさんは背を伸ばした。

「このままだと、奥様が倒れます。倒れたら、お子様の世話をする人が減ります。ご主人は畑と村の仕事があります。私は十日に一度しか来られません」


母が黙った。

「眠ってください。食べてください。これは、助産師としての職務上の指示です」

母が、口を開いた。

「……あと、どのくらいあるの」

「どのくらい、とは」

「私が倒れるまで。何日くらい」

エレナさんは、少し黙った。


「奥様。それを日数で訊かれる方は、だいたい、もう近いです」

「根拠は」

「経験です」

「何人分の」

エレナさんは、少し考えた。


「私が取り上げたのは、三十一人です」

母が、エレナさんを見た。

「あなた、おいくつ」

「十八です」

「……私の四つ下ね」

「はい」

母が、机に目を落とした。


三十一人。

その数が母の中で小さいほうに置かれたのが、横で見ていて分かった。母は数が書いてあるものを信じるが、小さい数は信じない。


「でも、帳面にあるのは三十一人分ではありません」

エレナさんは荷物から、もう一冊の帳面を出した。

私のことを書いているのと同じ形で、もっと古いものだった。革がすり切れて、角が丸い。背の糸が二度掛け直してある。


「二百十四人分あります」

「……どういうこと」

「前の助産師から引き継ぎました。その前の人のぶんも入っています」

母が、帳面に手を伸ばして、途中で止めた。

「見せてもらえる?」

「いけません」

エレナさんは、きっぱり言った。

「よそのお宅のことが書いてあります。お見せするなら、奥様のことも、どこかのお宅でお見せすることになります」

母が、手を引っ込めた。

「……そうね」

エレナさんは帳面を開かずに、表紙に手を置いたまま言った。

「二百十四人のうち、産んだあとで亡くなったお母様が、十一人います」


母が、顔を上げた。

「そのうち七人は、産んだときは元気でした」

エレナさんは帳面を閉じて、荷物に戻した。

母は何も言わなかった。

それから、長く息を吐いた。

数を出されたからだと思う。母は、数が書いてあるものを信じる。


「……いい仕事ね」

「はい」

「私のことは、何行書いてあるの」

「いまのところ、四行です」

エレナさんは荷物をまとめた。


「増やしたくありません。奥様、眠ってください」

          ─────

私は、横で聞いていた。

エレナさんは、紋のことは何も言わない。

言えないのだ。母に頼まれて、約束したから。

でも、母の体のことは言える。

それは彼女の仕事だから、約束と関係がない。

この人は、言えることだけで戦っている。

十日おきに来て、言えないことを帳面に書いて、言えることだけを口に出している。


          ─────

エレナさんが帰ったあと、母は長いあいだ座っていた。

机に本が三冊重なっている。

母はその一番上の背表紙を、指で撫でていた。

それから、三冊まとめて持ち上げて、棚に置いた。

上の段ではない。

手の届く下の段に、背を揃えて並べた。

「カイル」

「はい」

「本、やめるわ」

疲れた顔だ。だけど吹っ切れたように、にっこりと笑みを浮かべてそう言った。


          ─────

私は、何も言えなかった。

やめる。

母が本をやめる。

それはたぶん、良くないことだ。母の好きなものだった。第五巻も第六巻も、まだどこかにあるかもしれない。母はそれを探すのをやめる。

母が苦しいのは本のせいだから、やめたほうがいいのかもしれない。

でも、それは母が何かを手放すということだ。

私のために手放すのだとしたら、私はそれを黙って見ていることになる。


「母さん」

「なに」

「……ごめんなさい」

母が、私を見た。

それから、また少し笑った。

「なんで謝るの」


          ─────

「違うのよ、カイル」

母は棚のほうを指した。

「あの本は、答えが書いていないの。三冊読んで、十回読んで、書いていないことが分かったの」

「うん」

「書いていないものを探しても、出てこないわ」

母は机に戻って、座った。

「だから、読むのをやめる」

そこで母は、机の引き出しを開けた。


          ─────

引き出しから出てきたのは、白い帳面だった。

一枚もめくっていない、新しいものだ。父が村の店で買ってきたのだと思う。母が頼んだのだろう。

「書いてある人がいないなら、私が書くわ」

母は帳面を開いた。

「読む人をやめて、書く人になる。やめるんじゃなくて、始めるのよ」


          ─────

母は、やめていなかった。

本をやめたのは、本に見切りをつけたからだった。

千年ぶん誰も書かなかったことを、自分が最初に書くことにしたのだ。

学者というのは、そういうことを考えるものらしい。

「何を書くの」

「あなたのこと」


          ─────

それから、母は毎日、私を測るようになった。

朝に背を測る。壁に印をつける。印は十日ごとに増える。

腕の太さを紐で測って、紐に結び目を作る。

集められるマナの量を見る。母の学者の道具を手首に当てて、棒の色を記録する。

できたことを書く。

できなかったことを書く。

「今日は、何回やった」

「十二回です」

「出た?」

「出ません」

「書くわ」

母は書いた。十二回やって、十二回出なかったと書いた。


          ─────

測るほうは、だんだん細かくなった。

最初は背と腕だけだった。そのうち、手首に当てる棒の色を見るようになった。

「今日は、昨日より薄いわ」

「薄いと、どうなるんですか」

「出ている量が少ない、ということよ」

母は棒を外して、私の手首を見た。

「体の中にあるのが魔力。外に出たのがマナ。棒が見ているのは、出たほうだけなの」

「中は、見えないんですか」

「見えないわ」

母は棒を机に置いた。

「中にどれだけあるかを測る道具は、学院にもないの。出てきた分を数えて、そこから中を当てる。それしかできない」

「当たりますか」

「普通の子なら当たるわ」

母は、そこで一度止まった。

「あなたは、当たらない」

「どうしてですか」

「分からない」

母は帳面を開いて、書いた。

今日も、あの同じ文字を書いたのだと思う。


          ─────

帳面の一行目を、私は見せてもらった。

母の字は、本の字に似ている。読みやすい。

一行目はこう書いてあった。

『分からない』

その下に日付があって、その下から記録が始まっていた。

「これ、なんですか」

「いちばん大事なところよ」

母は帳面を閉じた。

「分かっていることから書くと、分かっていることだけ並ぶの。分からないことを先に書いておくと、忘れないわ」


          ─────

私は、エレナさんの帳面を思い出した。

——あとは、分からなかったこと。

——分からなかったことも、書くんですか。

——書きます。いちばん長く書きます。

同じだ。

母とエレナさんは、違うことをしている。

母は学者で、エレナさんは助産師だ。母は答えを探していて、エレナさんは約束を守っている。母は息子のために書いていて、エレナさんは百年後の誰かのために書いている。

それでも、始め方が同じだった。

分からないことを、先に書く。

二人は、お互いが同じことをしているのを知らない。


          ─────

母は、眠るようになった。

エレナさんに言われたからだと思う。夜は本を読まなくなったので、ろうそくの減りが遅くなった。食べる量も少しだけ戻った。

父は何も言わなかったが、ある日、母の椀に肉を多めに入れていた。母は気づかずに食べた。父は気づかれないほうが嬉しそうだった。


          ─────

ただ、帳面は夜も開いていた。

本をやめた代わりに、母は帳面を書いていた。昼に測ったことを、夜にもう一度、書き直している。

三日目の夜、父が帳面を閉じた。

母の手の下から、そっと引き抜くようにして閉じた。

「ローグ」

「前に、本を取った」

父は帳面を持って立った。

「今度は帳面を取る。やってることが変わってねえぞ、リン」

「違うわ。これは私が書いているの」

「本より悪い」

父は帳面を棚の上の段に置いた。母の手が届かない段だ。本を下の段に下げた分、上が空いていた。

「ローグ、返して」

「書いたもんは逃げん。明日になっても、同じことが書いてある」

「明日になったら、今日のことを忘れるかもしれないわ」

「忘れたら、俺が覚えてる」

母が、父を見た。

「……あなたが?」

「背が伸びたとか、腕が太くなったとか、そういうのは俺も見てる」

父は椅子に座った。

「数を書くのは俺の仕事じゃねえ。けど、見てはいる」

母は、何も言わなかった。

それから机の上を片付けて、寝る支度をした。

父は、帳面を上の段に置いたままにした。朝になったら下ろすのだと思う。

夜のあいだだけ、届かないところに置く。前に本を取り上げたときと、同じやり方だった。

測られるのは、悪くなかった。

朝に壁の前に立つ。背が伸びているかどうかを母が見る。印をつける。腕に紐を回す。手首に棒を当てる。

毎日、見られる。


          ─────

誰にも見えなかったころ、私は見てほしかった。

ずっと、それだけを思っていた。

道で声をかけて、無視されて、それでもまた声をかけていた。見てほしかったからだ。

いま、見られている。

毎朝、母が私を上から下まで見る。背を測る。腕を測る。

数字を書く。

欲しかったものを、もらっている。


          ─────

それなのに、何かが足りなかった。

しばらく分からなかった。

十日くらい分からなかった。

分かったのは、母が印をつけながら「ふうん」と言ったときだ。

母はここ最近、あまり笑わない。


          ─────

棚から、本を取ってきた。

下の段に置いてあるので、私でも届く。『属性相互作用論・第一巻』。いちばん読まれた一冊で、背の革が割れている。

母の机に置いた。

「カイル?」

「これ、好きって言ってた」

母は本を見た。それから私を見た。

「……覚えてるの」

「うん」

母は本を手に取った。

表紙を開いて、少しめくって、閉じた。

「好きだったわ」


          ─────

好きだった。

そう言った。

母は本を私に返して、帳面のほうに向き直った。

怒ってはいなかった。悲しそうでもなかった。ただ、そういうことになったという顔だった。

私は本を棚に戻した。

戻してから、何もできないと思った。


          ─────

魔法が出せれば、母は笑うのだと思う。

出せない。

四千五百回くらい剣を振ったが、魔法は一度も出ていない。

母が笑う方法を、私は持っていない。


          ─────

その夜、挨拶に出た。

井戸。荷車。木。石。鍬。父の剣。

「こんばんは」

誰も応えない。いつもと同じだ。

いつもと同じなのに、ガースさんの言葉を思い出した。

——探される側でいるのを諦めろ。お前が人を見つける側に回れ。

私は、見つける側に回ったことがない。


          ─────

考えてみると、おかしなことがあった。

母は、同じ家にいる。

朝に私を測って、昼に帳面を書いて、夜に眠っている。

それなのに、見つけにくい。

本を読んでいたころの母は、もっと見つけにくかった。声をかけても二回目で返事が来た。今は一回目で返ってくる。

返ってくるのに、まだ見つけにくい。

母は、どこか遠いところに座っている。

机の前にいるのに、遠い。


          ─────

翌朝、私は順路を変えた。

井戸、荷車、木、石、鍬、父の剣。

それから、家に戻った。

母は机の前にいた。帳面を開いて、昨日の数字を見ていた。

私は母の前に立った。

「おはよう。僕だよ」


          ─────

母が、顔を上げた。

「……おはよう」

「おはよう」

「二回言うの?」

「うん」

母は、帳面から手を離した。

それから、少し困った顔をして、こう言った。

「おはよう、カイル」


          ─────

応えてもらえた。

井戸は三ヶ月半、応えなかった。

荷車も、木も、石も、鍬も、父の剣も、一度も応えなかった。

母は、応えた。

当たり前だ。母は人間で、井戸は井戸だ。

当たり前のことなのに、私は少し、立っていられないような気持ちになった。


          ─────

順路に、母を入れた。

井戸、荷車、木、石、鍬、父の剣、母。

毎朝、最後に母を探しに行く。

母はいつも机の前にいるので、探すというほどのことではない。

それでも、探しに行くことにした。

いると分かっているところに、わざわざ行く。

そうしないと、見つからない人がいる。


          ─────

母はまだあの時のような笑い方はしない。

だけど、毎朝「おはよう、カイル」と言う。

二回言うのはやめた。一回でいいと母が言ったからだ。

母の帳面の一行目は、まだ『分からない』のままだ。

それでいいのだと思う。

分からないことが、まだ残っている。


母は本をやめて、書く人になりました。

次回、生後半年になります。村の子たちが魔法を習いはじめます。

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