10話
王城の深奥に位置するプライベートな食堂。
そこは、テーリア王国の政務を司る厳格な場とは切り離された、家族だけの聖域だった。
重厚なマホガニーの扉が、訓練された侍従の手によって音もなく左右に開かれる。
「お母様!お父様!おまたせしました!アルとエマも一緒です!」
扉が開くのを待ちきれなかったかのような快活な声。
先頭を切って部屋に踏み込んだのは、シリルだった。
その足取りは、先ほどエルザから聞いた執務室で山積みの宿題を冷徹に処理していた王太子候補のそれとは思えない。
「えぇ。待っていたわ。さあ、こちらへいらっしゃい」
食卓の主賓席で、優雅にナプキンを膝に広げていた女王オフィーリアが、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて三人を迎えた。
「そういえば、シルは凄いなあ! 今日、家庭教師の先生たちから『今日のシリル殿下はやる気が漲っていた』と言われているぞ。出された難問も、今までにないほどのスピードで解き明かしたらしいじゃないか」
反対側の席で、すでに給仕されたワインを一口含んでいた王配ヴァルドが、顔を綻ばせて言った。
普段は厳格な武人であるはずの彼だが、息子と双子のことを語る時だけは、どこにでもいる「親バカ」の顔を全開にする。
その声には、自慢の息子を誇る気持ちが隠しきれずに溢れていた。
「あら?そうなの? 凄いじゃない、シル! ……でも、あなたがそこまで必死に頑張る理由といったら、やっぱり、アルちゃんとエマちゃん絡みなのかしら? ふふ……」
オフィーリアが、悪戯っぽく口元を扇で隠しながらシリルを見つめた。
母の鋭い視線は、息子の行動原理を完璧に見抜いている。
「い、いやぁ〜、お母様。そ、そんなことはありませんよ……多分……」
図星を突かれたシリルは、途端に視線を泳がせた。
先ほどまでの堂々とした態度はどこへやら、頬を微かに染め、言葉を濁す。
その狼狽えぶりは、周囲の侍従たちが必死に笑いを堪えるほどに顕著だった。
「やっぱり。アルちゃんとエマちゃんなのね。わかりやすいわねぇ本当に。」
オフィーリアが、確信を持って頷く。
実際、王宮内でのシリルの評価は二分されている。
政治の場では、若干七歳にして大人の貴族を手玉に取るような「完璧な王太子候補」
しかしアルとエマがその視界に入った瞬間彼は全ての論理を投げ打ち、本音がダダ漏れになる重度の「溺愛兄」へと変貌するのだ。
シリル本人もそれが自身の唯一の欠点であると自覚はしているのだが、自覚したところで止まるような愛ではなかった。
「仕方ないのです! アルとエマは、まるで天界からこの地に天使が降臨したかと思うような可愛さなのですよ!? この世の誰が、この無垢で愛らしい姿を前にして平然としていられるというのですか!? 僕あ、私は無理です!」
感情の高ぶりと共に一人称が混ざる。
最近、公の場では「私」と呼ぶように練習している成果が、双子の可愛さを熱弁する勢いの前では脆くも崩れ去っていた。
「それはそうだな。どうしても、彼らの前では本音が隠しきれなくなってしまう。それも、否定しようのない事実だ」
ヴァルドが、深く頷きながら追従する。
彼もまた、双子の三歳児とは思えない知性と、それでいて時折見せる幼子の愛くるしさに、日々ノックアウトされている当事者の一人だ。
「リアム! そんな風に肯定してしまったら……私も、それが真実だと言わなくてはならないではありませんか!」
オフィーリアが、頬を膨らませて夫を窘める。
しかし、その言葉の端々には「自分も同じ気持ちだ」というツンデレ気味な肯定が透けて見えていた。
その様子を、三歳の子供としてはあまりに冷めた視線で見守っている二人の影があった。
(ねぇアル。なんか私達、完全に空気だね。でも、その中に入って同調しようとは絶対に思わない。……それに、何なの、さっきからあの熱量は)
エメラインからの鋭い念話が、アルフレッドの脳内に直接響く。
(うわ! びっくりしたよ、エマ。……そうだね、最近の彼らが何を言っているのか、僕にもよく分からなくなってきた。僕達でも理解できない事象が、この世にはまだ存在するみたいだね。人間の心理学的な問題かな……今度、詳しく調べる?)
(いい。調べないほうが良さそう。深淵を覗く時は、深淵もまたこちらを覗いているっていうし)
(僕もそう思った。……ちなみに、調べない方がいいっていう根拠は何?)
(勘)
(……エマらしいね。それ以上の論理的な正解はないよ)
双子が脳内でそんなやり取りをしていると、不意に、シリルが椅子から身を乗り出すようにして声を上げた。
「あ、そうだ! お母様、お父様、アル、エマ!」
いきなり大声で名前を呼ばれ、思考の海に沈んでいた双子は肩を跳ねさせた。
「な、なあに? お兄様」
「なんですか?」
「僕ね! とってもいい案を思いついたんだ。今度、離宮で隠居生活をなさっているお祖母様も誘って、王宮の外れにある、お母様とお父様とよく行ったあのきれいな湖があったでしょう? そこに、家族全員でピクニックに行きたいです! だめでしょうか?」
シリルの提案に、双子の背中に冷たい汗が流れた。
その湖とは二年前に彼らが地下訓練場で魔力を暴走させかけた際シリルの案で密かに立ち寄り心を落ち着かせたあの場所のことだ。
「いいわね! 素晴らしい案だわ。すぐに予定を調整して空けるわね。ね、リアムも!」
「いいね。たまには家族で遠出も必要だ。アルとエマは、あそこにはまだ行ったことがないよね。本当に鏡のようにきれいな湖なんだよ。よし、行こう!」
やけに乗り気な両親の言葉を聞きながら、双子の脳内では緊急対策会議が始まった。
【あぁ〜……。お父様とお母様には、二年前、内密にあの湖に立ち寄ったこと、まだ内緒にしていたんだったわ…ねぇアル…】
【やばい。あそこで『懐かしいね』なんて口を滑らせたら、地下訓練場を半壊させかけたことが全部バレる。絶対に余計なことを喋らないようにしないと……今から緻密な言い訳を考えなきゃねエマ。】
そんな双子の焦燥を知る由もなく、ディナーは賑やかに、そして大量の愛情表現と共に幕を閉じた。
その日の夜。
王宮の回廊に、シリルの弾むような足音が響く。
ばん!!!
双子の部屋の扉が威勢よく開かれた。
「アル! エマ! 約束通り来たよ! お母様とお父様が私達のために立ててくださった、あの図書室の本を一冊持ってきたんだ。今日はこれを読んであげるね!」
シリルは得意げに、一冊の絵本を掲げて見せた。
それを見た双子は、全く同時に心の中で思った。
《文字、とっくの昔に全部読めるんだけどな……》
だが、そんなことを口にして、楽しみにしてくれている兄の心を折るような野暮なことはしない。
そのまま三人は、王家の特注品である広大なベッドに潜り込んだ。
シリルを真ん中にして、右側にアル。左側にはエマ。
三人の体温が混ざり合い、心地よい重みが布団越しに伝わってくる。
シリルが読み始めたのは、このテーリア王国に古くから伝わる伝統的な童話だった。
物語の筋書きはシンプルだ。
「不思議な力を持つ少女が、海の上で楽器を演奏し、嵐を鎮める」というもの。
普通なら「素敵なお話だね」で終わるところだが、双子の脳内解析は止まらない。
《……なるほど。この少女は、最低でも『風』と『水』の属性適性を極めて高いレベルで持っている。海面に立ち続けるための水圧制御と、音を遠くまで届けるための空気振動の操作……この二種類を巧みに操り、得意な楽器の周波数と同期させていたわけだ》
《理屈上、魔力の波長を楽器に通せば、私達にも容易に再現可能ね。楽器の基礎はもう習得済みだし、今度のピクニックの時にでも、この『魔法的演奏』の術式を組んでみようかしら?》
高度な魔導理論の検証を頭の中で繰り広げているうちに、シリルの朗読の声は心地よい子守唄へと変わっていった。
いつしか二人は、シリルの両腕をそれぞれの枕にするようにして、安らかな眠りへと落ちていった。
それは、どんな全知全能の加護よりも深く、双子の心を癒やす幸せな眠りだった。
「あぁ。両腕に僕の天使たちが……なんて最高な夜なんだ。このまま時が止まればいいのに……」
シリルのシスコン・ブラコン全開の独り言が暗闇に響いたが、それさえも、この幸せな夜の静寂を乱すことはなかった。
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