7話
「わあ!こんな場所があったのですね!お兄様!」
地下訓練場の殺伐とした空気から一転、目の前に広がっていたのは、透き通ったとても幻想的な湖だった。
鏡のように静かな水面には、沈みゆく夕陽が溶け込み、周囲の木々を黄金色に染め上げている。
ここは、アルとエマが生まれるよりも前に、シリルが何度も両親とピクニックに来ていた思い出の場所だ。
幼いシリルの歩幅に合わせ、王と王妃が手をつないで歩いた、彼にとって世界で一番大切な、優しさに満ちた湖。
「きれいだろう?僕のお気に入りの場所だ」
シリルは、膝の上で安らかな寝息を立てるエマを見つめ、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
先ほどまでの崩落の危機など嘘のように、湖畔には穏やかな時間が流れている。
「そろそろいいかな。安眠魔法解除」
シリルの囁きと共に術式が解け、エマがゆっくりと瞬きをした。
「おはようエマ。ここは安全な場所だよ。大丈夫」
その声は、寄せては返す波のようにゆったりとしていた。
恐怖に震えていた妹の心を、シリルは魔法ではなく、その温かな言葉だけで救い上げようとしていた。
「エマ〜〜〜!ごめんね。」
泣きべそをかきながら、アルがエマにすがりつく。
「大丈夫よ。ちょっとびっくりしちゃっただけだから。」
エマは兄の膝の上で、小さく笑った。
その健気な姿に、シリルは心から安堵の息をつく。
「よかった。顔色も大丈夫だね!これならアレを使わなくても大丈夫!」
シリルのその一言に、アルの心臓が跳ねた。
《やばい、やばい!あと1回多く魔法使ってたら、お兄様に迷惑かけるところだったぁ!》
あの「治癒の血統魔法」を使わせる一歩手前だったのだ。
大好きな兄が、自分たちのために昏睡の淵に沈む姿を想像してしまいアルは顔色を失った。
「アル?どうしたの?さっきは怖かったね。もう大丈夫だよ」
シリルはアルの震える肩を抱き寄せ、優しく頭を撫でた。
「うん!僕は大丈夫だよ!」
アルは必死に笑顔を作ったが、内心では叫んでいた。
【違う!お兄様の心配をしてるの!僕は!】
普段は甘えん坊を装っているが、アルもまた、兄のためなら命すら惜しくない重度のブラコンであった。
自分たちの暴走で兄であるシリルを追い詰めた事実が、何よりも苦しかった。
「ねぇアル、エマ。そろそろ日が暮れる時間だね。戻ろうか」
シリルは名残惜しそうに、背もたれにしていた古木の幹を離れて立ち上がった。
「そうね!」
エマが立ち上がると同時に、シリルが問いかける。
「ねぇアル、エマ。魔法使える?」
『どうしてぇ?』
二人が不思議そうに見上げると、シリルの表情に僅かな影が差した。
「早く帰ったほうがいい。城の者は心配しているだろう。かくれんぼだけにこんなに時間かかるだなんて思ってないだろう。」
その不安は的中していた。
三人は顔を見合わせ、頷く。
3兄妹は言葉を交わさずとも魔力の波長が重なり合う。
『転移魔法』
景色が一瞬でかき混ぜられ、三人は王城のすぐ傍に広がる森へと降り立った。
「やっと着いたね。」
シリルが安堵の溜息を漏らした直後、森の静寂を切り裂く怒号が耳に飛び込んできた。
「シリル様!アルフレッド様!エメライン様!どこですか〜!」
「いたら返事してください!」
松明の火がうねるように動き、重厚な鎧の擦れる音と、侍女たちの悲痛な叫びが交差する。
一人なら「迷子」で済むかもしれない。
だが王族の子供三人が同時に姿を消したのだ。
それは「誘拐」か、あるいは「暗殺」か。
城内は国家存亡の危機に直面したパニックに陥っていた。
(お兄様、聞こえますか?これは念話です。対策会議をしましょう)
アルの声がシリルの脳内に響く。
三人は物陰に身を潜め、瞬時に計画を練り上げた。
3人の結論は一つ。
周囲の叫び声を聞くとどうやら国王夫妻が謁見の間で報告を待っているらしい。
そこへ直接「転移」し、弁明するしかない。
三人は覚悟を決め、互いの手を固く握りしめた。
『転移魔法』
しゅっっっっっん!
ドサッッッ!
空間を跳躍し、冷たい大理石の床に三人の小さな身体が落ちる。
静まり返った謁見の間。
謁見の間にはかつてないほど険しい表情のヴァルドと、震える手で扇を握るオフィーリアがいた。
そしてその周囲には、王国の重鎮である三大公爵家、通称「三公」が冷徹な視線を注いでいた。
『シル!アル!エマ!』
両親の叫びに、三人は我に返った。
「お母様!お父様!」
感情を爆発させたエマが、玉座から駆け下りてきた両親に飛びついた。
「今日ね怖かったの!」
一歳児としての精神が限界を迎え、エマは火がついたように泣きじゃくる。
そのあまりに悲痛な泣き声に、場にいた全員が息を呑んだ。
「オフィーリア。私はこのままエマのお部屋に行きますわね。」
見かねたお祖母様がエマを抱き上げ、おっとりとした、しかし有無を言わせぬ口調でその場を去っていった。
だが、残された二人への「審問」はここからだった。
「さ〜て。シリル、アルフレッド?なんで私のかわいいエマちゃんが泣いているのかしら?説明しなさい!」
オフィーリアの声には、慈愛の欠片もなかった。
その背後では、元軍人であるリアムが、一国の王配としての、そして一人の父としての底知れぬ圧力を放っている。
「あのですねぇ。えっと、」
シリルが口を開くが、言葉が続かない。
秘密の訓練場の存在、双子の規格外な魔法、そして崩落寸前の暴走……。
どれ一つとして、今の段階で話せることではなかった。
シリルは 生まれて初めて、本気で背筋が凍るような焦りを感じた。
隣を見れば、アルは泣きそうな目で俯き、完全に沈黙している。
(僕が言わなきゃ……兄はこういう時に、損だ……!)
「シリル、なぜ答えないのだ?なにか隠し事でもあるのか?ここには三公と王族しかいないから話しなさい。何があったのだ?そして、なぜお前の弟妹はこんなにも泣いているのだ?言いなさい。シリル・フォン・イグア・テーリア。」
ヴァルドの低く重い声が、広い謁見の間に響き渡る。
「王命よ。シリル言いなさい。」
母の冷徹な一言が、逃げ道を完全に塞いだ。
親子である前に、女王と王子。そして王配と王子。
王命を拒めば、それは王族としての義務を放棄することを意味する。
三公の鋭い視線が突き刺さる中、シリルは冷や汗を流しながら、震える唇を噛み締めた。
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