3.結婚の終焉と牧野えり
入学した時と別の名前で卒業することになった大学だったが、結婚したとたんに周囲から隔離されてしまったかのように、記憶が無い。
唯一覚えているのが、一生懸命書いた卒論に「剽窃の疑いあり」ということで、資料をすべて持って大学に来るようにと言われたことだった。こういうのを寝耳に水、と言うのであろう。
旅行用の大型のカバンに参考資料一式を詰めて、大学への道を歩いて行った。
私の読み尽くした観のある書類一式を見て、剽窃の疑いは晴れたようだが、教授二人は不満そうに見えた。私の卒論と全く同じ文献を発見したかったのだろうか。または、それだけ私の文章は達意の文章であったということか。ま、好きなように考えるしかない。
私はまた、重い資料を引きずって、婚家に戻ったのであった。
卒業した時は、おなかが大きかった。
21歳で結婚し、22歳で母となった訳である。
生まれた子供が、先天性の心疾患(ファロウ四徴症)を持った子供だった。
8ヶ月で亡くなってしまい、私は、そのすべてを受け入れられなかったのだろう。
毎晩、隠れて飲酒するようになった。
夫となった人は、社会人になり、出張したついでに女を作って、行く時とは、別人となって家に戻って来た。
私の何もかもが気に入らなくなったらしかった。
子供も満足に産めない女のレッテルが、貼り付けられているようだった。
誰かが責めを負わねばならず、子供の責めを負うのは、母親と決まっているようだった。
唯一の味方だと思っていた相手に嫌われるという地獄のような日々だったが、私は若く、家族としての夫を愛しており、パスポートを取って、ハワイ大学に短期留学するという道を選んだ。
ハワイにて、夫を待つ若妻である。経費は自前であったと覚えている。バイトバイトで、明け暮れた大学生活であった。
今にして思えば、不倫夫に見切りをつける手段だったのかもしれぬ。家族としては愛していたが、男として人としては、最低の人間であった。ま、当時の私には相応しかったのかもしれぬが。
義理のお父さんお母さんを実の親以上に慕ってはいても、結局のところ、夫の両親というのは、息子の味方でしかない、と思い知ったのも、この時だった。
うちのバカ母が、夫のお母さんと電話で喧嘩したあげく、「娘を引き取る」と言ったらしく、今までのご縁がすべて嘘だったかのように、さっさと荷造りをされて、実家に送り返されてしまった私だ。
行くも地獄、残るも地獄。
実家では、毎日毎晩、あの母から、結婚も満足にできない詰まらない女だの、女の子なんて産むんじゃなかっただの、私が泣くまで、罵倒される日々が待っていた。
まだ学生だった弟が、「いい加減にしろ!」と止めてくれたのが、唯一の救いだった。
そうそう。
この結婚期間中は、牧野えりのお披露目期間でもあった。
色々な投稿に、牧野えりが登場するようになった期間である。




