第十一話 兄嫁アイリス
執務室から、アイリスの待つ応接室まで向かう間、ホーレンは、スペランツァの手を取りエスコートしていた。その細やかさは、母を気遣う思いの深さにリベルタは感じられた。
突然目が見え難くなった上に、眩暈などの体調不良を訴えたスペランツァは、リベルタに会うまで一生治らない病なのだと絶望していた。
その気持ちは、近くで見ていたホーレンにも痛いほど通じていたはずだ。
今元気だからと言って、ずっと元気とは限らない。
「母上」
「なに?」
「今日からは、ゆっくり休んでいただきますからね」
体調不良で今にも死にそうなスペランツァの記憶がこびりついているホーレンは、リベルタが彼女に施した治療のことを知らない。折角元気になったのに、張り切り過ぎて元に戻ってはと心配でならないのだ。
確かに、白内障はともかく、メニエール病には無理は禁物で、疲れすぎたりすると再発することもある。
「そうですね、お義母様、ここはホーレンお兄様の言うとおりになさった方が良いですわ」
スペランツァの為を思って同調したリベルタだったが、
「リベルタさん! 今、ホーレンお兄様と呼びましたね? もう一度言ってもらえますか?」
妙に興奮したホーレンが騒ぎ出した。どうやら、兄上と呼ばれることには慣れているが、お兄様と呼ばれるのは初めてらしい。
「いや~、やはり、良いものだな、妹というものは」
上機嫌になったホーレンは、やや声が大きくなっていたようだ。
「旦那様、そのように大きな声を出したら、息子が起きてしまいますわ」
応接室に入った途端、一人の少女にお叱りを受けた。
「あぁ、ごめんごめん、アイリス。静かに話すよ」
放浪癖で周りに迷惑をかけてきたヴォルケンを叱った声と愛妻アイリスに向ける優しい声は、音域で言うなら三オクターブくらい違う。こうも話し方が変わると、もう別人級だ。大きな体を小さく縮め、小柄な愛妻の横に座るホーレンは、先ほどの威厳のある長男から、借りてきた子猫ちゃんになっていた。
――ギャップ萌えといっても、これはちょっと……。
流石のリベルタでも引くレベルなのだが、それ以上に、義姉になるアイリスの容姿の方に視線は釘付けだ。
――なんだか……コケシみたい。
印象的な黒髪は、前髪パッツン。前世を思い出させる薄い顔で、開いているのか開いていないのか分からない瞳は、優しく半月のような曲線を描いている。そして、チョコンと紅の塗られたおちょぼ口も、負けず劣らず動いているのか分からない程の微かな開け閉めで言葉を発していた。
こうなると勝手に髪が伸びる呪いの人形にも見えてくるのだが、不思議なことに、なんとも言えない愛嬌があった。それは、プックリしたほっぺのせいか、それとも、真ん丸なお顔のせいかは分からない。
だが、リベルタは、アイリスを小さなフィギュアにして鞄に付けたいと思うくらいには好印象を持った。
――確かに、このお顔が好みだったら、ホーレンお兄様の嫁探しは難航を極めていたでしょうね。
リベルタ自身、アイリスと同じ系統の顔は見たことがない。民族的に別種族の血が流れているのかもしれないが、この国での美人の基準とは大きくかけ離れていた。
ホーレンが公爵家次期当主という優良物件であったにもかかわらず、二十代後半まで婚約者を決めなかったのは、彼の美的感覚が人とかなり違うからだった。そして、自分でも好みが分からなかった彼が、アイリスを見た瞬間、彼女に会うために自分は今まで恋をしなかったのだと気づいたのだ。
なんともメルヘンな話だが、偏屈な息子と結婚してくれるなら誰でもいいとさえ思っていた両親にすれば、アイリスの人当たりの良さと、ホーレンすら御する肝の太さは宝くじに当たったくらいラッキーなことだった。
「初めまして、ホーレン・ナーハフォルガーの妻、アイリスでございます」
「こちらこそ、遅い時間に申し訳ございません。この度、シャイネン様と縁を結ぶこととなりましたリベルタ・ベリッシモと申します」
「今を時めくリベルタ様にお会いできるなんて、本当に嬉しいです」
「私こそ、アイリス様とお子様にお会いするのを楽しみにしていました」
アイリスは、同年代の女性に飢えていた。しかも、それがリベトワやマジックバッグを開発したリベルタだと知らされれば、会う前から俄然ウェルカムな気分だった。
そして、リベルタも、ナーハフォルガー公爵家に同じ年頃の女性が既に嫁いでいることで、今後もお付き合いがし易くなると嬉しく思っていた。
年相応にはしゃぐ二人の可愛いご挨拶を横で見ていた長男と末っ子の顔は、姿絵に残してはいけないレベルで崩れていた。それを見た母の残念な者を見る視線に、二人が気づくことはない。
「さぁ、折角皆が集まったのですから、お茶を楽しみましょう」
スペランツァが声を掛けると、侍女達が流れるような手際の良さで沢山のケーキや焼き菓子を運んできた。その中に、リベルタが前世で食べた菓子が紛れている。
「これって……」
驚きで思わず皿ごと自分の方へ引き寄せる無作法をしてしまったリベルタに、アイリスは微笑みながら答えてくれる。
「穀物を茹でて潰して焼いたものです。名前は、シェンベーですわ」
「煎餅!」
リベルタは丸くて大きなソレを手で割って口に入れてみた。素朴な塩味だったが、確かにそれは昔日本で食べた煎餅そのものだった。その懐かしさに、つい涙を流してしまった。
「リベルタさん、大丈夫ですか?」
「はい、シャイネン先生。その、あまりにも美味しくて……」
リベルタの潤んだ瞳が悲し気に細められるのを見て、シャイネンは察した。
――昔を思い出させるものだったんだね。
ハンカチで目の縁をそっと押さえてやりながら、反対の手をリベルタの背に置いた。その温かさに、リベルタは益々涙を溢れさせてしまう。
「リベルタ様が、そこまでこのお菓子を気に入ってくださるなんて、本当に嬉しいです。これは、私の亡くなった曽祖父が考案したものらしいのです」
アイリスの話によると東の国の名前はジュポーネというらしい。そこの貴族であったアイリスの祖母が、フリーデン王国に留学中恋に落ちてそのままこちらに嫁いだらしい。
「私は祖母に瓜二つらしく、絵姿を見た皆様が親しみを覚えて下さったようで。それで、ジュポーネに居る親戚の方が色々と送ってくださるのです。私は行ったこともない国なのですが、いつかお礼に行きたいなと思っております」
「そ、その時は、是非私もご一緒させてください」
リベルタは、アイリスの手を握ると前のめりで頼んだ。ジュポーネには和食文化が存在している可能性があるとしたら、リベルタには行かないという選択肢はないのだ。
「えぇ、その時は、是非ご一緒に。でも……、何年先になるか」
「えぇ! あ、でも、そうですよね……とても残念ですが」
アイリスのお腹の中には、第二子がいる。そして、第一子であるリースも、まだまだ幼い。ジュポーネへ行けるのは、十年以上先だろう。天国から地獄へ落とされたリベルタの顔は、垂れ目が更に垂れさがり、なんとも情けない顔になっていた。
そんな彼女を見て放って置けないアイリスは、リアル天使だった。
「リベルタ様、もしジュポーネの食材にご興味があるのでしたら、明日厨房を見に行きませんか?今まで頂いた調味料などがありますから、多少でしたらお譲りできるかと」
「いいのですか?」
多分とても貴重なものを、アイリスは惜しみなく分けてくれようとしている。その崇高な優しさに心打たれたリベルタは、ホーレン以上にアイリスに忠誠を誓おうと心に誓った。
こうして天国地獄天国と驚異のアップダウンを短時間で繰り返したリベルタの顔は、既に涙で化粧が剥がれ目が赤くなっている。
アイリスは、なんだかリベルタのことが息子と同じ幼子に見えてしまい、笑いを堪えようと唇を噛みしめるしかなかった。
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