序章⑤ 祈りの果てに
鐘の音が、途切れた。
大聖堂の鐘楼では、今も鐘撞きたちが決められた間隔で綱を引き、巨大な青銅の鐘を揺らしているはずだった。広場を埋め尽くす人々のざわめきも、神官たちの祈りも続いている。誰もが声を発しているはずなのに、その一切が聞こえてこない。
音だけではなかった。
肌を撫でていた風が止み、広場に掲げられた旗は、折り目を残したまま空中で静止している。陽光に照らされていた石畳には、太陽の位置と無関係に濃い影が生まれ、隙間から滲み出すように周囲へ広がり始めた。
最初に異変へ気づいた神官が、怪訝そうに顔を上げる。
広場の端に、黒い影が落ちていた。
建物が作るものではない。陽光を遮るものなど何もない場所に、そこだけ夜が訪れたかのような暗がりが生まれている。
闇は石畳を覆い、壁を這い、立ち尽くす人々の足元へ静かに忍び寄っていく。その中へ取り込まれた影は、深い水底へ沈むように輪郭を失い、やがて周囲の暗がりと区別がつかなくなった。
誰かが後ずさった。
それをきっかけに、周囲の人々も次々と足を引き始める。
そして、広がる闇の奥から、一人の男が姿を現した。
藍黒の長い外套をまとい、片手には星屑を閉じ込めたような小さなランタンを提げている。銀色の髪が額にかかり、整った顔立ちは、遠目にはごく普通の青年のようにも見えた。
しかし、一度その顔へ視線を向けた者は、すぐに奇妙な違和感を覚えることになる。
右の瞳は夜明け前の空を思わせる静かな黒。対して左の瞳には、溶かした金のような光が宿り、その奥には、どこまで続くのかも分からない深い暗がりが広がっていた。
外套の裾から覗く闇も、地面に落ちる影とは明らかに異なっている。濃淡を変えながら絶えず形を変え、青年が一歩進むたび、足元から波紋のように広がっていくのだ。
男は周囲を見回すことも、誰かを警戒する素振りも見せず、まっすぐ処刑台へ向かっていた。
その歩みに合わせ、群衆が自然と左右へ分かれていく。
誰かに命じられたわけではない。男が近づくにつれ、人々は理由の分からない恐怖に駆られ、自ら道を譲っていた。
通りの中央に取り残された男が慌てて隣人へしがみつき、少し離れた場所では、母親が幼い子供を抱き上げて建物の中へ逃げ込んでいく。誰もが口を開き、何かを叫ぼうとしているのに、声は聞こえてこなかった。
周囲の音が失われた広場で、ただ一つ、ランタンの中に灯る小さな光だけが、奇妙なほど鮮明に揺れている。
リゼリアは処刑台の上から、その光景を見つめていた。
神聖魔力を奪われた身体は鉛のように重く、呼吸のたびに胸の奥が軋む。膝をついた姿勢を保つことさえ難しかったが、彼女はどうにか顔を上げ、広場を進んでくる男へ視線を向けた。
先ほどまで処刑台を覆っていた黄金の光は、今も使徒の掌へ集まり続けている。
しかし、その輝きは男の周囲へ届かなかった。
光が闇に触れるたび、境界を曖昧にすることもなく、ただ静かに途絶えていく。まるで、そこから先へ進むことを許されていないかのようだった。
使徒の動きが止まった。
リゼリアへ向けられていた白い顔が、ゆっくりと広場の端へ向く。
その瞬間、処刑台を囲む神官たちの間に動揺が走った。祈りの言葉が途切れ、何人かが胸元を押さえて膝を折る。見えない何かに内側から押し潰されるような圧迫感に、彼らは声を出すことさえできなくなっていた。
「何者だ!」
沈黙を破るように、グレイヴが剣を抜いた。
聖騎士団副団長の声に応じ、数人の騎士が男の前へ進み出る。神聖教会の紋章を刻んだ甲冑は陽光を受けて白く輝き、手にした武器には、魔物を討つための加護が施されていた。
「ここは神聖なる裁きの場だ! 何奴であろうと、許可なく立ち入ることは許さん!」
騎士たちが一斉に武器を構える。
しかし、男は答えなかった。
グレイヴへ視線を向けることさえなく、変わらぬ歩調で近づいてくる。
「止まれと言っているのが分からんのか!」
怒声とともに、前列の騎士たちが槍を突き出した。
その穂先が男へ届くより早く、石畳に伸びていた騎士たちの影が、音もなく立ち上がった。
黒い布を思わせる闇が足首へ絡みつき、膝を覆い、甲冑の隙間から這い上がっていく。やがて、それらは獣のような輪郭を帯び、騎士たちの身体へ次々とまとわりついた。
突然の出来事に、騎士たちは武器を振り回した。だが、刃が触れても影は裂けず、引き剥がそうとすれば指の間をすり抜けてしまう。身動きの取れなくなった者から順に膝をつき、やがて甲冑の姿さえ黒い塊の中へ埋もれていった。
男は歩みを緩めない。
彼の進路を塞ごうとした者だけが、足元から伸びる闇に捕らえられていく。
グレイヴは恐怖を振り払うように叫び、長剣を振り上げた。
「この、化け物めっ!」
刃に神聖魔力が宿り、眩い光が走る。
かつて数多の魔物を斬り伏せてきた剣だった。頑丈な鱗も、邪悪な魔力による障壁も、その一撃の前には砕かれてきた。
だが、今度ばかりは違った。
グレイヴが踏み込んだ瞬間、足元の闇がわずかに盛り上がる。
それだけで、剣は止まった。
黒い獣のような影が甲冑へ絡みつき、振り上げた腕ごとグレイヴの身体を包み込んでいく。金属が軋む音が短く響き、抵抗しようとした騎士の姿は、瞬く間に闇の奥へ消えてしまった。
影が石畳へ戻ると、そこには血も、砕けた甲冑も残されていない。
つい先ほどまで一人の男が立っていた場所に、ただ何もない空間が広がっていた。
リゼリアは、その光景を呆然と見つめていた。
グレイヴ。
マリアを殺した男だった。
あの夜、剣を振るい、彼女の胸を貫いた騎士。どれほど治癒を施しても救うことができず、腕の中で冷たくなっていくマリアを見下ろしていた男が、今は何の抵抗もできずに消えてしまった。
胸の奥に、奇妙な感情が生まれる。
ざまあみろ。
思考よりも早く、そんな言葉が浮かんだ。
リゼリアは息を呑み、思わず唇を押さえた。口にしたわけでも、誰かに聞かれたわけでもない。それでも、その一言が自分の中から生まれたことに動揺を隠せなかった。
そして、それ以上に恐ろしかったのは、グレイヴがいなくなったことに、安堵している自分がいたことだった。
石畳に残された空白を見つめていると、あの夜の光景が鮮明に蘇る。
床に広がる血。動かなくなったマリアの手。何度名前を呼んでも、二度と開かれることのなかった瞳。
あの男がいなければ、マリアは今も生きていたかもしれない。
そう考えた瞬間、リゼリアは唇を噛み締めた。
誰かの不幸を望んではならない。苦しむ者がいれば手を差し伸べなさい。幼い頃から繰り返し教えられ、自分でもそうありたいと願ってきたはずなのに、今だけは、その教えに従うことができなかった。
彼女は俯き、震える指先を握り締める。
銀髪の男は、そんなリゼリアへ目を向けることもなく、処刑台へ向かって歩み続けていた。
◇
神の使徒が動いた。
六枚の白い翼が大きく広がり、周囲の空気が震え始める。黄金の光が使徒のもとへ集まるにつれ、広場に刻まれた魔法陣は一斉に輝きを増していった。
人々はその光を見上げ、先ほどまでの恐怖を振り払うように歓声を上げた。
神の御使いが、邪悪な侵入者を裁こうとしている。
誰もが、そう信じたのだろう。
使徒が片腕を掲げると、天を覆うほど巨大な黄金の魔法陣が現れた。幾重にも重なった聖句が光輪となって回転し、空気そのものを押し潰すような圧迫感が広場へ広がっていく。
石畳には細かな亀裂が走り、周囲の建物では窓が震え始めた。神官たちは慌てて後退し、騎士たちも人々を広場の外へ押し戻そうとするが、すでに術式は完成へ近づいている。
使徒の掌に集まった黄金の輝きは、周囲の景色さえ歪ませるほどの密度に達していた。
リゼリアは、その術式を知らなかった。
けれど、今の身体で受ければ確実に命を落とすことだけは分かる。男だけでなく、その後方にいる人々まで巻き込まれかねないほどの力だった。
思わず周囲を見回す。
処刑台の下では、逃げ遅れた母親が子供を抱きしめていた。男たちは互いを押しのけながら出口へ向かい、倒れた老人を踏み越えていく者さえいる。
その光景を目にした瞬間、リゼリアの身体が反射的に動いた。
治癒を。結界を。何でもいいから、あの人たちを守らなければ。
鎖に繋がれた両手を持ち上げ、必死に魔力を巡らせようとする。
しかし、掌には何の光も灯らない。
何度祈りの言葉を思い浮かべても、指先に温もりが戻ることはなかった。
リゼリアは震える手を見つめた。
その間にも、黄金の光は膨れ上がっていく。
次の瞬間、使徒の掌から光の奔流が放たれた。
大聖堂の尖塔さえ覆い尽くすほど巨大な一撃。凝縮された神聖魔力が空間を歪ませ、進路上にあるものすべてを呑み込もうと迫ってくる。
地上のいかなる騎士や魔術師であっても、まともに受ければ跡形もなく消し飛ばされるだろう。
だが、銀髪の男は動かなかった。
片手にランタンを提げたまま、ただ静かに立っている。
光の奔流がその身体を呑み込もうとした瞬間、ランタンの小さな蓋が音もなく開いた。
足元に広がっていた闇が、ゆっくりと口を開く。
黄金の光は、その奥へ流れ込んでいった。
爆発も、衝撃も起こらない。
地面を砕き、建物を吹き飛ばすはずだった膨大な力が、底のない海へ注ぎ込まれる水のように、静かに消えていく。
眩い輝きが次第に衰え、やがて最後の光が闇の奥へ吸い込まれると、広場には再び薄暗い静寂が戻ってきた。
男の外套には傷一つない。
ランタンの灯も、先ほどと変わらず揺れている。
神の使徒が放った一撃は、最初から存在しなかったかのように消え去っていた。
六枚の白い翼が、不自然に震えた。
リゼリアは、その動きを見逃さなかった。
使徒の身体が、わずかに後退している。
空中に浮かぶ存在に足音はないが、先ほどまで処刑台の真上にいた白い姿が、いつの間にか数歩分だけ遠ざかっていた。
使徒には顔がなく、表情を読み取ることもできない。それでも、その動きは何かを恐れ、距離を取ろうとしているように見えた。
神聖教会の教えでは、神の使徒は恐怖を知らない存在とされている。
人々の祈りに応え、邪悪を裁き、神の意志を地上へ伝える絶対の使者。
その使徒が、目の前の男から離れようとしていた。
リゼリアがその意味を理解するより早く、銀髪の男がわずかに顔を上げた。
すると、使徒の背後に夜が生まれた。
何もなかった空間が静かに黒く染まり、その奥から巨大な影が姿を現す。翼の形をなぞるように広がった闇は、白い羽根を一本ずつ包み込みながら、使徒の身体へ絡みついていった。
使徒は抵抗した。
黄金の光を何度も放ち、背後の闇を振り払おうと翼を広げる。しかし、いかなる光も闇に触れた瞬間、音もなく消えてしまう。
逃れようとする白い身体が、ゆっくりと引きずられていった。
四肢が闇へ沈み、六枚の翼も次々と姿を消していく。最後に顔のない頭部だけが残り、それが銀髪の男へ向けられた。
まるで、何かを訴えるように。
あるいは、理解できないものを前にして、最後まで抵抗しようとするかのように。
けれど、男は何も言わなかった。
手を振り上げることも、勝利を誇ることもなく、ただ静かに立っている。
そして、闇が閉じた。
六枚の翼も、白い身体も、黄金の光も、すべてが消え去った。
大聖堂の鐘は、まだ鳴らない。
広場には、誰一人として声を上げる者がいなかった。
つい先ほどまで神の奇跡を讃えていた人々は、目の前で起きたことを理解できず、呆然と立ち尽くしている。
使徒の消えた場所には、何の痕跡も残されていない。砕けた羽根も、散らばった光の粒もなく、見上げれば、処刑が始まる前と変わらない青空が広がっていた。
誰かが震える声で神の名を呼び、それに続いて祈り始める者もいたが、言葉は途中で途切れてしまう。
リゼリアもまた、使徒が消えた空を見つめていた。
先ほどまで自分の命を奪おうとしていた光は、完全に失われている。
胸の奥に安堵が広がる一方で、何を感じればよいのか分からなかった。
幼い頃から神聖教会に仕え、聖典を学び、神の教えに従って生きてきた。その教えの中でも最も神聖とされる存在の一つが、たった今、目の前で消えてしまったのだ。
それでも、悲しみは湧いてこない。
使徒が姿を消したことよりも、自分へ向けられていた裁きの光が失われたことの方が、はるかに現実味を持って感じられた。
「ば、馬鹿な……っ」
震える声が響いた。
大司教ヴァレントだった。
処刑台の上で腰を抜かした老人は、使徒が消えた空を見上げている。威厳に満ちていたはずの顔は青ざめ、唇が小刻みに震えていた。
「神の……神の御使い様が……!」
何度も首を振り、やがて銀髪の男へ視線を向ける。
「き、貴様……何者だ! 神を冒涜するつもりかっ!」
その声には、もはや先ほどまでの威厳など残っていなかった。
長年、大聖堂の最も高い席から人々を見下ろし、自らの言葉を神の意志として語ってきた老人が、今は処刑台の上で後ずさっている。
男は答えない。
ただ、ランタンを持つ手をわずかに動かした。
その瞬間、ヴァレントの足元へ細い影が伸びる。
老人は慌てて身を引いたが、影は滑るように石畳を進み、その足首へ絡みついた。
「ま、待てっ……!」
ヴァレントは震える手を伸ばした。
「私を誰だと思っている! 神に仕える者だぞ! この王国の民を、守るために……っ!」
だが、影は止まらなかった。
老人の身体をゆっくりと包み込み、処刑台の床へ引きずり込んでいく。ヴァレントは悲鳴を上げ、石畳に爪を立てたが、何かに掴まることもできない。
長年にわたり神の名を掲げ、多くの者へ裁きを下してきた大司教が、今はただ一人の人間として、自らの命を失うことに怯えていた。
やがて、最後の声が途切れる。
影は何事もなかったかのように石畳へ戻り、処刑台には再び静寂が訪れた。
リゼリアは、その一部始終を見ていた。
グレイヴが消えたときのような激しい感情は生まれなかった。ただ、ヴァレントが最後に伸ばした手を、ぼんやりと眺めている。
その手は、誰にも届かなかった。
助けようと駆け寄る者はおらず、神官たちは処刑台の端で震えているばかりだった。
かつて自分が治療した患者たちも、あのように手を伸ばしていたことがある。
助けを求める声が聞こえれば、考えるより先に身体が動いた。魔力が足りなければ無理をしてでも力を絞り出し、どれほど重い病であっても、最後まで諦めたくないと思っていた。
けれど、今のリゼリアは動かなかった。
ヴァレントが影に呑み込まれていく間、身体を起こそうとさえしなかったのだ。
助けたいという衝動が、まったく湧いてこなかった。
リゼリアは自分の両手へ視線を落とした。
かつては、この手で何百人もの命を救ってきた。
今は神聖魔力も失われ、伸ばされた手を握り返すことさえできなかった。
両手を繋ぐ鎖が小さく揺れ、金属の冷たさが手首へ伝わる。
彼女はそれを見つめたまま、しばらく顔を上げられなかった。
◇
やがて、リゼリアの前で銀髪の男が足を止めた。
間近で見ると、その姿は奇妙なほど人間に似ていた。
藍黒の外套の下には確かに人の輪郭があり、ランタンを握る手も、何ら人間と変わらない。しかし、その存在を正しく捉えようとするほど、目の前にいるものが人ではないと理解させられる。
外套の奥に広がる暗がりには底がなく、星も月もない深い夜が、そこに収められているかのようだった。
広場へ差し込む陽光も、周囲の建物が作る影も、男の近くでは意味を失っているように見える。外套の裾に触れた小さな砂埃が、風に流されることなく黒い闇の中へ消えていった。
リゼリアはゆっくりと顔を上げた。
男は何も言わず、彼女を見下ろしている。
目が合ったのかどうかさえ分からなかったが、彼の関心が自分へ向けられていることだけは感じ取れた。
その視線が胸元へ移ると、ランタンの灯がかすかに揺れる。
リゼリアの身体には、使徒に奪われたはずの神聖魔力が、ほんのわずかに残っていた。祈りを唱えることもできないほど微弱な光だったが、男は何かを確かめるように、わずかな間だけ動きを止めた。
しかし、リゼリアはその変化に気づかなかった。
ただ、男の足元で揺れる影を見つめている。
グレイヴを呑み込み、神の使徒を消し去った闇が、今は彼女のすぐそばにあった。
少し身じろぎするだけで、その中へ引きずり込まれるかもしれない。それでも、逃げようとは思わなかった。
身体に力が残っていないこともあったが、それ以上に、逃げたいという気持ちそのものが失われていた。
もしこのまま闇に呑み込まれたとしても、もう何かを失うことはないような気がしていた。
男はしばらく彼女を見下ろしていたが、やがてゆっくりと片手を差し出した。
リゼリアは、その手を見つめる。
何を求められているのか分からなかった。
もしかすると、神の使徒以上に恐ろしい存在なのかもしれない。差し出された手を取れば、二度と帰れない場所へ連れていかれるのかもしれなかった。
けれど、男は何も言わずに待っている。
その沈黙が、リゼリアには奇妙に感じられた。
これまで彼女の前に現れた人々は、いつも何かを求めていた。
病を治してほしい。傷を癒やしてほしい。奇跡を起こしてほしい。教会のために働いてほしい。民のために罪を認めてほしい。
誰かの願いに応えることが、聖女として生きる自分の役目だった。
それなのに、目の前の男は何も言わない。
命令も、嘆願も、問いかけさえなく、ただ彼女自身がどうするのかを待っている。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥へ押し込めていたものが、堪えきれずに溢れ出した。
「……もう、誰も助けたくない」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
誰かを助けるたびに嬉しかったし、感謝の言葉をもらえなくても構わなかった。ただ、苦しんでいた人が再び笑えるようになることが、何よりも幸せだった。
そのはずなのに、今は誰かの悲鳴を聞くことさえ怖い。
また手を伸ばしてしまうのではないか。
また、すべてを失ってしまうのではないか。
そんな自分が、悲しかった。
「もう……祈りたくない……っ」
リゼリアは俯いた。
涙が石畳へ落ちる。
男は何も言わなかった。
慰めの言葉も、励ましの言葉もなく、ただ静かに手を差し出したまま、彼女を待っている。
「もう、聖女なんて……嫌だよ……っ」
最後の言葉は、ほとんど嗚咽に掻き消された。
震える指先が、差し出された手に触れる。
その手は冷たかった。
人の肌とは思えないほど、静かで冷たい手だったが、リゼリアがそっと指を重ねると、男は静かに握り返した。
強く握り締めるわけではない。
拘束するためでも、逃がさないためでもなく、彼女が手を離さない限り、その指を支えているような握り方だった。
リゼリアはしばらく、その手を見つめていた。
やがて、自分の身体がふわりと持ち上がったことに気づく。
男が、彼女を抱き上げていたのだ。
あまりにも自然な動作だった。
先ほどまで広場を覆っていた闇を操り、神の使徒を消し去った存在が、今は彼女の身体を静かに支えている。
リゼリアは抵抗しなかった。
男の腕は冷たく、外套には花の香りも、陽光に温められた布の匂いもない。それでも目を閉じると、身体を強張らせていた力が少しずつ抜けていった。
処刑台から見えていた大聖堂の尖塔が、ゆっくりと視界の端へ流れていく。
遠くで誰かが叫んでいる気がしたが、その言葉は聞こえなかった。騎士たちが何かを命じているのかもしれず、神官たちが祈りを唱えているのかもしれないが、それらはすべて、別の世界で起きている出来事のように感じられる。
リゼリアは男の外套へ頬を寄せた。
冷たい布の感触が、熱を持った額に心地よかった。
何日も眠っていない身体は限界を迎えていた。瞼は重く、指先にはほとんど力が残っていない。
意識が遠のいていく中で、彼女はもう一度だけ目を開けた。
すぐそばで、ランタンの灯が揺れている。
その小さな光を見つめていると、不意にマリアの顔が浮かんだ。
春になったら、湖へ行きましょうね。
そう言って、嬉しそうに笑っていた。
リゼリアはその笑顔を思い出し、唇をわずかに動かした。
「……マリア……」
小さな呟きが、こぼれる。
男は何も答えなかった。
ただ、彼女を抱く腕が、ほんのわずかに動いた。
リゼリアはもう目を開けず、ランタンの灯が滲んでいくのを感じながら、深い眠りの中へ沈んでいった。
◇
雲海の遥か上に、一つの宮殿が浮かんでいた。
それは、地上の人々が宮殿という言葉から思い描くものとは、あまりにもかけ離れた存在だった。
幾重にも連なる白亜の尖塔が空へ伸び、その足元には壮麗な回廊や広大な庭園が続いている。宮殿の内側には深い森が広がり、澄んだ湖が陽光を映し、緩やかな山々の稜線に沿って古びた石造りの建物が並んでいた。
空中に浮かぶその威容は、一つの都市どころか、小さな国を丸ごと空へ持ち上げたかのようだった。
島の外縁を巡る城壁には幾つもの高塔が立ち、塔と塔を結ぶ回廊の一部は、遥か眼下の雲海へ長い影を落としている。
もし地上の者がその姿を目にすれば、神々の住まう天上の国が現れたのだと信じただろう。
だが、その場所は、神々のために造られたものではなかった。
宮殿の最深部、外界の喧騒から切り離された長い回廊を、一人の男が歩いていた。
藍黒の外套をまとい、片手には星屑を閉じ込めたような小さなランタンを提げている。
磨き上げられた床に足音は響かず、外套の裾から伸びる闇だけが、青白い灯火に照らされた回廊を静かに滑っていた。
左右には天井まで届く巨大な柱が連なり、その表面には複雑な幾何学模様が隙間なく刻み込まれている。柱の間には精緻な彫刻を施された壁面が続き、遥か前方には、回廊そのものを塞ぐような重厚な両開きの扉がそびえていた。
男は、その扉へ向かって歩いていた。
やがて回廊の終わりが近づくにつれ、扉の前に佇む五つの姿が見えてきた。
黒鉄の甲冑をまとった長身の騎士。その甲冑の表面には大小無数の鍵穴が刻まれ、腰に佩いた長剣の柄には、見慣れぬ紋章が浮かんでいる。
隣には、優美な衣装をまとった女性が静かに佇み、白い指先で長い髪を整えていた。その背後には、七つの黒い棺が影のように付き従っている。
さらに奥には、人の形をしていながら、人ではないと一目で分かる者たちもいた。
白磁の肌に球体の関節を持つ男性型の人形が背筋を伸ばして直立し、その傍らでは、青いリボンを結んだ幼い少女が、退屈そうに爪先で床を叩いている。
そして一歩引いた位置には、何かを思い出そうとするように、宙を見つめたまま動かない守護者の姿があった。
誰も武器を構えていない。
周囲を警戒する者もいなかった。
けれど、その場には奇妙な緊張感が漂っていた。
五つの姿はただ静かに立っているだけなのに、広大な回廊の空気が、彼らを中心に張り詰めているかのようだった。
男が近づくと、彼らは自然に視線を向けた。
甲冑の騎士がわずかに頭を動かし、優美な衣装の女性は、男の手にあるランタンへ一瞬だけ目を留める。
やがて、そのうちの一柱が口を開いた。
「……首尾はどうだ?」
短い問いだった。
男は歩みを止め、問いかけた相手へ顔を向けると、無言のまま頷いた。
それだけで十分だったらしく、問いかけた者は、それ以上の説明を求めなかった。わずかに頷き返すと、再び巨大な扉へ視線を戻す。
他の者たちも、特に驚いた様子は見せなかった。
任務を終えた部下を迎える上官の姿も、帰還した仲間を歓迎する様子もない。
彼らはごく自然に男を迎え入れ、男もまた、何のためらいもなくその間へ加わった。
回廊の大窓の向こうには、残る二柱の姿もあった。
雲海の上では、古い鐘と鎖を寄せ集めて人の形に組み上げた山のような巨人が、宮殿の外壁に片手をついている。
さらにその上空を、数キロにも及ぶ黒い骨鯨が、肋骨に嵌め込まれた青いステンドグラスで陽光を砕きながら、ゆっくりと泳いでいた。
彼らは宮殿の内側へ入ることはできないが、窓越しに男の帰還を見届けると、巨人は胸の鐘をひとつ鳴らし、鯨は高度を下げて静かに頭を垂れた。
こうして八柱が揃ったとき、扉の表面に刻まれた文様へ青白い光が走った。
幾重にも重なった紋様が順番に輝き、巨大な扉の内側から、重厚な機構が動き始める。
扉を縁取る金属装飾がわずかに浮き上がり、複雑に組み合わされた部品が滑るように位置を変えていく。
やがて、巨大な扉が音もなく左右へ開かれた。
その向こうには、広大な玉座の間が広がっていた。
高い天井を支える巨大な柱が左右へ連なり、磨き上げられた床には、天窓から差し込む陽光が幾筋もの帯となって落ちている。
壁面には精緻な装飾が施され、天井を覆う壮大な紋様は、広間の奥へ向かうほど複雑さを増していた。
左右に並ぶ柱の向こうには、さらに別の回廊や高い窓が見え、その先にも宮殿の建造物が続いていることが窺える。
広間の最奥には緩やかな階段が設けられ、その頂に、一つの玉座が据えられていた。
重厚な背もたれには幾何学的な紋様が刻まれ、両側には金属とも鉱石ともつかない素材で作られた装飾が施されている。
王権の象徴として飾り立てられたものというより、この宮殿そのものと一体になっているかのような、奇妙な存在感を放っていた。
そして、その玉座には一人の青年が座っていた。
黒髪の青年だった。
王冠を戴いているわけでも、豪奢な装束をまとっているわけでもない。整った顔立ちには幼ささえ残り、外見だけなら、地上の街を歩く若者たちと大きく変わるところはなかった。
ただ、その青年の周囲には、玉座の間の荘厳な装飾とは明らかに異質なものが存在していた。
幾つもの青白い光の板が、空中に浮かんでいる。
薄い板の表面には無数の文字と複雑な図形が並び、その中心では、金属の骨格を思わせる立体的な構造がゆっくりと回転していた。
青年が指先を動かすたび、構造の一部が細かな部品へ分解され、別の配置へ組み替えられていく。
光の板は彼の動作に合わせて位置を変え、時には重なり合い、時には細い線となって互いを結んだ。
まるで見えない工房が玉座の周囲に広がっているかのように、無数の構造が生まれては消えていく。
青年は、扉が開いてもすぐには顔を上げなかった。
目の前に浮かぶ構造図の一部を拡大し、内部の配置を確かめるように指を動かしている。
やがて幾つかの部品を組み替えると、回転していた図形が一つの形に収まった。
その様子をしばらく眺めてから、青年はゆっくりと視線を上げる。
開かれた扉の向こうには、八柱が並んでいた。
青年が彼らを見渡す。
その表情に、驚きも緊張も浮かばなかった。
八柱もまた、何も言わない。
ただ、青年の視線を受けると、静かに広間へ足を踏み入れた。
磨き上げられた床に甲冑の重い足音が響き、その後ろを衣の裾が滑るように続く。
黒衣の男が提げたランタンの灯は、広間を満たす陽光の中でも変わらず揺れ、足元には細い闇が寄り添っていた。
それぞれの歩調は異なっていたが、列が乱れることはなかった。
やがて八柱は、玉座へ続く階段の手前で足を止める。
誰かが号令をかけたわけではない。
互いに視線を交わすことさえなかった。
それにもかかわらず、彼らはまるで最初から決められていたかのように、同時に片膝をついた。
甲冑の擦れる微かな音が響き、衣の裾が床へ広がる。
黒衣の男もまた、古びたランタンを傍らへ置き、深く頭を垂れていた。
八つの影が、磨き上げられた床に並んでいる。
それぞれが異なる姿を持ち、異なる気配を纏いながら、その誰もが等しく、一人の青年に向かって頭を下げていた。
玉座の青年は、何も言わなかった。
ただ、階段の下に並ぶ八柱へ静かに視線を向けている。
やがて彼が指先をわずかに動かすと、周囲に浮かんでいた青白い光の板が、一枚、また一枚と消えていった。
最後の光が消えると、広大な玉座の間には、天窓から差し込む陽光だけが残された。
八柱は、誰一人として頭を上げなかった。
玉座に座る、ただ一人の青年を前にして。




