序章③ 果たされなかった約束
その日を境に、リゼリアの日常は静かに崩れ始めた。
聖女としての務めを解かれ、私室から出ることさえ制限されるようになった彼女には、治療を求める人々と顔を合わせることも許されない。廊下ですれ違う神官たちは目を伏せ、以前なら毎日のように届けられていた感謝の手紙も、いつしか途絶えていた。
代わりに聞こえてくるのは、扉の向こうで交わされる心ない囁きばかりだった。
疫病を広めたのは聖女自身ではないか。神に見放されたのだろう。そもそも、あの治癒の力さえ偽りだったのではないか。
声の主たちは、室内にいるリゼリアにも聞こえていることを知っているのかもしれない。それでも囁きが止むことはなく、日を追うごとに、その内容は残酷さを増していく。
以前は廊下を歩くだけで、誰かが声をかけてくれた。治療を終えた患者の家族が頭を下げ、幼い子供が駆け寄ってきて、摘んだばかりの花を差し出してくれることもあった。そんな何気ない光景が、今では遠い昔の出来事のように思える。
けれど、不思議と怒りは湧いてこなかった。
自分の治癒に何か問題があったのではないか。もっと早く病の原因を突き止めていれば、救えた命があったのではないか。人々の非難を耳にするたび、リゼリアの胸にはそんな疑念が生まれ、答えの出ない問いとなって心の奥へ沈んでいく。
誰よりも人々を救いたいと願っていたはずなのに、その願いが、かえって誰かを苦しめてしまったのだとしたら。
考え始めると、何も手につかなくなることがあった。
食卓に運ばれた料理は冷め、窓の外が夕暮れに染まっても、彼女は椅子に座ったまま動けない。膝の上で組んだ指先を見つめながら、過ぎ去った日々のどこで間違えたのかを、何度も思い返してしまうのだった。
そんなリゼリアを見つけるたび、マリアは決まって怒った。
「リゼリア様は、ちっとも悪くありません!」
彼女だけは、以前と変わらず毎日のように私室を訪れてくれた。
温かい食事を運び、お茶を淹れ、他愛のない話をする。ある日は厨房の修道女が菓子を焦がしてしまった話を、別の日には中庭へ迷い込んだ猫が神官の椅子を占領した話を、まるで大事件でも起きたかのように楽しそうに語って聞かせた。
リゼリアが食事に手をつけずにいれば、眉を吊り上げて叱ることもある。せっかく温かいうちに運んできたのだから、少しだけでも食べてほしい。そう言って皿を目の前へ差し出す姿は、聖女として忙しく働いていた頃と何も変わらない。
マリアが部屋へ来ると、それまで重苦しく感じられた空気が、ほんの少し和らぐような気がした。
彼女が笑えば、リゼリアもつられて笑う。食事の味が分からないほど塞ぎ込んでいた日でも、マリアの話を聞きながらなら、いつの間にか皿の半分ほどを食べ終えていることがあった。
その変わらない態度がどれほど救いになっているのか、リゼリアにはうまく言葉にできなかった。
ある夜、二人でお茶を飲んでいたときのことだった。
窓の外には薄い雲がかかり、月明かりが中庭の石畳を淡く照らしている。卓上の小さな灯火が揺れるたび、向かい合って座るマリアの顔にも柔らかな陰影が生まれた。
リゼリアはしばらく茶器を見つめていたが、やがて小さく口を開いた。
「……マリアは、私のこと怖くないの?」
茶を注いでいたマリアの手が止まる。
「怖い、ですか?」
「みんな、私を避けるようになったでしょう? 私の治癒が、病気を悪化させたのかもしれないって……」
声に出してしまうと、それまで胸の奥へ押し込めていた不安が、急にはっきりとした形を持ったように感じられた。リゼリアは視線を落とし、両手で包んだ茶器の温もりに意識を向ける。
マリアはすぐには答えなかった。
静かに茶器を置き、何かを考えるようにリゼリアを見つめている。その沈黙が怖くなり、リゼリアが顔を上げかけたところで、ようやく声が返ってきた。
「……怖いですよ」
胸がひやりとした。
けれど、マリアは真面目な顔のまま続ける。
「リゼリア様がまたご飯を抜いて、倒れちゃうんじゃないかって。それが一番怖いです」
思いがけない答えに、リゼリアは目を瞬かせた。
マリアは少しだけ笑うと、卓上に置かれた菓子皿を彼女の方へ押しやった。
「それに、私は知ってますから」
「……何を?」
「リゼリア様が、どれだけ一人で頑張ってきたか、です」
そう言って、マリアは椅子を引き寄せ、リゼリアの隣に腰を下ろした。
「南部から届いたお手紙、全部読みました。患者さんを助けたことも、子供からお花をもらったことも。あんなにクタクタだったはずなのに、私が心配しないように、楽しいことばかり書いてくれて……」
途中から、声がかすかに震え始める。
リゼリアが隣へ目を向けると、マリアは唇を結び、膝の上で両手を握り締めていた。
「私、すっごく悔しいんです」
その声には、普段の明るさとは違うものが滲んでいた。
「リゼリア様がずっと人のために頑張ってきたことを、どうして皆忘れちゃうんでしょうか。助けてもらった人だって、あんなにたくさんいるのに……っ」
マリアは俯いたまま、言葉を続けようとした。しかし、すぐには声にならず、握り締めた指先へさらに力がこもる。
「……私が、もっと偉い神官だったら……ちゃんとリゼリア様を守れたのに」
リゼリアは、何も言えなかった。
自分のために、こんなにも悔しがってくれる人がいる。
周囲の人々が次々と離れていく中で、マリアだけは変わらずそばにいてくれた。食事を運び、くだらない話で笑わせ、落ち込んでいれば叱ってくれる。その一つひとつが、どれほど自分を支えていたことか。
リゼリアはそっと手を伸ばし、膝の上で握られていたマリアの手を包み込んだ。
「……ありがとう、マリア」
それ以上の言葉は見つからなかった。
マリアは首を横に振り、空いている手で目元を拭った。
「お礼なんて、いりませんよ」
それから、何かを思い出したように鞄を開き、中から一枚の絵を取り出した。
以前、二人で眺めた湖の絵だった。
澄んだ青い水面を囲むように白い花が咲き、遠くには穏やかな山並みが続いている。春になったら一緒に行こうと約束した、あの場所。
「春になったら、絶対行きましょうね」
リゼリアは差し出された絵を見つめた。
ほんの少し前まで、手を伸ばせば届く未来のように思えていた。けれど、今の自分が大聖堂の外へ出られる日など、本当に訪れるのだろうか。
「……もう、行けないかもしれないよ」
思わずこぼれた弱音に、マリアはすぐさま首を振った。
「行けます!」
「でも……」
「聖女様じゃなくなったんなら、もっと気軽にお出かけできるじゃないですか」
あまりにも当たり前のことのように言うので、リゼリアは一瞬、返す言葉を失った。
マリアは笑っている。
南部へ出発する前、二人で湖の絵を眺めていたときと、何も変わらない笑顔だった。
その顔を見ているうちに、リゼリアの視界が滲み始めた。堪えようとしても涙は止まらず、気づけば隣に座る少女を強く抱きしめていた。
マリアは驚いたように身体をこわばらせたものの、すぐに背中へ腕を回し、何も言わずに抱き返してくれる。
その温もりに触れた途端、張り詰めていたものがほどけていった。
リゼリアはマリアの肩へ顔を埋め、声を上げて泣いた。
マリアはただ、彼女の背中をゆっくりと撫で続けていた。
◇
数日後、マリアは一つの計画を持ちかけてきた。
大聖堂の裏門を通り、夜のうちに王都を離れるというものだった。
郊外にはマリアの知人が営む小さな農家があり、しばらくの間なら身を隠せるらしい。そこから先のことは、安全な場所へ辿り着いてから考えればいい。マリアはそう説明したが、リゼリアには簡単に頷けなかった。
逃げれば、自ら罪を認めたことになるかもしれない。それ以上に、自分を助けようとしたマリアまで危険に巻き込むことが恐ろしかった。
しかし、マリアは譲らなかった。
「このままここにいたら、リゼリア様、殺されちゃいます」
「そんな……」
「大司教様たちは、もうリゼリア様の話を聞くつもりなんてないんです。昨日も、異端審問の準備をしてるって……っ」
そこで言葉を詰まらせたマリアの手が、小さく震えている。
リゼリアはその震えに気づき、胸が締めつけられる思いだった。マリアだって怖いのだ。大聖堂の決定に逆らい、聖女を逃がそうとすれば、自分まで罪に問われるかもしれない。
それでも、彼女はここへ来てくれた。
「……マリア」
「お願いです、リゼリア様」
差し出された手が、リゼリアの指を強く握る。
「今だけは、誰かを救うことより、ご自分のことだけを考えてください!」
リゼリアは、その手を見つめた。
小さな傷がいくつも残る指先は、日々の仕事によって少し荒れている。自分の世話をするために、何度も食事を運び、冷たい水で茶器を洗い、部屋を整えてくれた手だった。
この手まで失うことになるのが、何より怖い。
けれど、ここに留まり続ければ、マリアの言う通りになるのかもしれない。
長い沈黙の末、リゼリアはようやく頷いた。
◇
逃亡を決行したのは、その夜のことだった。
大聖堂の鐘が深夜を告げる頃、二人は人目を避けて回廊を進んでいた。
マリアが胸に抱えている小さな鞄には、替えの服とわずかな食糧、そして二人で湖へ行くために貯めていた金が入っている。準備をしているときにそのことを聞かされ、リゼリアはしばらく何も言えなくなった。
マリアは、あの約束を本当に楽しみにしてくれていたのだ。
外では冷たい雨が降り続いていた。
石造りの回廊には雨音が反響し、壁に取りつけられた灯火が吹き込む風に揺れている。磨かれた石床には淡い光が映り込み、二人の足元で不規則に震えていた。
リゼリアは裾を持ち上げ、足音を立てないように歩いた。濡れた石畳を踏むたびに靴底がわずかに滑り、普段なら何とも思わない回廊が、今夜ばかりはひどく長く感じられる。
巡回する騎士の足音が近づくと、マリアがすぐに彼女の手を引き、柱の陰へ身を隠した。甲冑の擦れる音が遠ざかるまで息を潜め、互いの顔を見合わせてから再び歩き始める。
裏門までは、あと少し。
門の向こうには夜の王都が広がっている。そこから人通りの少ない道を選べば、馬車を使わずに郊外へ出られると、マリアは事前に調べていたらしい。
何度も確認したのだろう。彼女の足取りには迷いがなく、分かれ道へ差しかかるたびに、リゼリアの手を引いて進むべき方向を示してくれた。
「……もう少しです」
マリアが小声で囁いた。
リゼリアは頷き、前方に見える暗い回廊の先へ目を向ける。
胸の奥に、久しく感じていなかったものが芽生えていた。
ここから逃げ延びることができたなら、どんな暮らしが待っているのだろう。
聖女としてではなく、ただのリゼリアとして生きていけるだろうか。朝になれば自分で食事を作り、誰かの顔色を窺うことなく外へ出て、マリアと並んで町を歩く。そんな、これまで考えたこともなかった日々を送れるのかもしれない。
そして春になったら、あの湖へ。
絵の中でしか見たことのない青い水面を眺め、白い花の咲く岸辺を歩いてみたい。
マリアはきっと、道中ずっと喋っているだろう。珍しい店を見つければ立ち止まり、見慣れない菓子があれば食べてみたいと言い出すに違いない。
そんな光景を想像すると、自然と口元が緩んだ。
そのときだった。
「そこまでだ」
低い声が、雨音に混じって響いた。
リゼリアは足を止めた。
回廊の先に、一人の騎士が立っている。
薄暗い灯火を受けて鈍く輝く甲冑。その右手には抜き身の剣が握られ、広い肩が、二人の進もうとしていた道を塞いでいた。
聖騎士団副団長、グレイヴ。
かつて戦場で重傷を負い、リゼリアの治癒によって命を救われた騎士だった。
「聖女リゼリア。異端の疑いにより、身柄を拘束する」
冷たい声が回廊に落ちる。
「グレイヴ様……」
リゼリアは思わず一歩踏み出した。
彼が瀕死の状態で運び込まれてきた日のことを、今でも覚えている。深い傷を負い、意識もほとんど失いかけていた彼は、治療を終えたあと、震える手でリゼリアの手を取り、必ずこの恩を返すと誓ってくれた。
あの言葉に、偽りはなかったはずだ。
「私が、何をしたというのですか。あなたは……私が……」
「……命令だ」
グレイヴは短く答えた。
その表情には迷いが滲んでいる。リゼリアと目を合わせようとせず、握られた剣もわずかに下がっていたが、それでも道を譲る様子はなかった。
マリアが一歩前へ出た。
「リゼリア様は何もしていません!」
少女の声が、石造りの回廊に響く。
「あなただって、助けていただいたんでしょう!? どうしてそんなひどいことができるんですか!」
「退け、修道女」
「絶対に嫌です!」
マリアは両腕を広げ、リゼリアを背後へ庇った。
小さな身体が、甲冑をまとった騎士の前に立ちはだかる。剣を握る相手と向き合うには、あまりにも頼りない姿だった。
「リゼリア様は、ずっと人のために頑張ってきたんです! 眠る時間も、ご飯を食べる時間も削って……それなのに、どうして誰も守ってくれないんですか!」
グレイヴの眉がわずかに動いた。
しかし、剣を収めることはない。
「……最後の警告だ」
彼が一歩踏み出すのとほとんど同時に、マリアがリゼリアの手を引いて駆け出した。
石畳を蹴る靴音に、鋭く金属の擦れる音が重なる。
直後、マリアの身体が不自然に揺れた。
引かれていた手から力が抜け、リゼリアの足が止まる。何が起きたのか理解できないまま振り返ると、マリアは驚いたような顔で、自分の胸元へ視線を落としていた。
白い修道服に、小さな赤い染みが浮かんでいる。
それは瞬く間に広がり、布地を深い赤へと変えていった。
「……マリア?」
少女の膝が折れた。
咄嗟に抱きとめた身体は、驚くほど軽かった。リゼリアはそのまま石床へ膝をつき、崩れ落ちるマリアを腕の中へ引き寄せる。
胸元から溢れ出す温かな血が、白い修道服を濡らし、リゼリアの指の間を伝っていく。
傷口へ手を当てると、指先に柔らかな光が灯った。
「待って……っ、今、治すから……!」
神聖魔法の淡い輝きが、マリアの胸元を包み込む。
しかし、南部で魔力を使い果たした身体には、まだ十分な力が戻っていなかった。傷を塞ごうとしても光は弱く、流れ出る血を止めることさえできない。
リゼリアは歯を食いしばり、さらに魔力を注ぎ込んだ。
手のひらから溢れる光が一瞬だけ強まるものの、すぐに頼りなく揺らぎ、傷口の奥へ吸い込まれるように消えていく。
「お願い……っ、お願いだから……!」
これまで何百人もの命を救ってきた。
瀕死の騎士を治したこともあれば、死の淵にいた子供を目覚めさせたこともある。苦しむ人々を前にすれば、自分にできることをすべて尽くしてきた。
なのに、どうして今だけ。
どうして、目の前にいるたった一人を救うことができないのだろう。
リゼリアは祈りながら、残された魔力を注ぎ続けた。視界の端が暗くなり、耳鳴りが頭の奥で響き始める。身体の芯から力が抜けていく感覚があったが、傷口へ押し当てた手を離すことだけはできなかった。
「……マリア、お願い……っ」
マリアの呼吸が浅くなっていく。
胸がわずかに上下するたび、喉の奥から苦しげな音が漏れた。リゼリアは傷を塞ごうと必死に魔法を使い続けたが、光は次第に弱まり、やがて指先にかすかな輝きを残すだけとなってしまう。
そのとき、マリアがそっと彼女の袖を握った。
「……リゼリア、様」
「喋らないで。今、治すから……!」
リゼリアは顔を近づけた。
マリアの頬には涙が伝い、唇はかすかに震えている。何かを伝えようとしているのか、少女は何度か口を動かしたものの、すぐには声にならなかった。
「……逃げて、ください……っ」
ようやく聞き取れた言葉に、リゼリアは首を振った。
こんなところへ置いていけるはずがない。
自分を助けようとしてくれたマリアを、一人残して逃げることなどできるわけがなかった。
しかし、少女はもう一度何かを言おうとして、弱々しく唇を動かした。
「……湖、行きたかった……な……」
その声は、雨音に紛れてしまいそうなほど小さかった。
握られていた袖から、ゆっくりと力が抜けていく。
リゼリアは、しばらく動けなかった。
腕の中の少女は、もう息をしていない。
つい先ほどまで自分の手を引き、暗い回廊を懸命に走っていた。怖いはずなのに、何度も振り返っては大丈夫だと微笑み、もう少しで外へ出られると励ましてくれた。
その声が、もう聞こえない。
笑うたびに細くなる目も、少し生意気な言い方も、食事を抜けば容赦なく叱ってくれるところも。
すべてが、腕の中で静かに失われていく。
それなのに、マリアの頬にはまだ温もりが残っていた。
「……起きて」
リゼリアは少女の顔を覗き込み、濡れた頬へそっと触れた。
「ねえ、マリア。起きてよ……っ」
返事はない。
いつもなら、名前を呼べばすぐに振り返ってくれた。少し眠そうな顔をしているときでさえ、目が合えば笑ってくれたのに。
「……約束、したでしょう?」
声が震える。
「春になったら、一緒に湖へ行くって……」
涙が頬を伝い、マリアの修道服へ落ちた。
青い湖と白い花。
あの絵を広げながら、二人で何度も話した場所。春になればきっと行けると、マリアは何の疑いもなく笑っていた。
まだ、その春さえ来ていない。
「まだ……春になってないよ……っ」
リゼリアは少女の身体を抱き寄せた。
冷たい雨が石畳を叩き続ける。背後ではグレイヴが何かを命じ、複数の足音が近づいてきていたが、その声も物音も、リゼリアの耳には届かなかった。
腕の中に残るわずかな温もりを失うまいとするように、彼女はただ、マリアの身体を抱きしめ続けていた。




