序章② 救いの代償
南部で原因不明の疫病が突如として猛威を振るい始めたのは、それから五日後のことである。
最初に緊迫した報告が届いたのは、王都から馬車で四日ほど南へ下った、小さな農村だった。村人の数人が原因不明の高熱に倒れ、腕や胸元に不気味な金の紋様が浮かび上がっているという。地元の神官が急ぎ治癒を施したものの症状は一向に改善せず、二日後には隣村でも全く同じ病が確認された。大聖堂の分厚い医術書を総動員して調べても該当する病名は見つからず、やがて三つ目の村からも必死の救援要請が届くに至り、王都の神官たちの間には急速に不安の色が広がり始めていた。
リゼリアは、自ら進んで南部の被災地へ向かうことを申し出る。だが、大司教ヴァレントは当初、彼女の派遣に露骨な難色を示した。王都には聖女の治療を待ちわびる高貴な身分の者たちも多く、地方の得体の知れない疫病に長期間拘束されることを快く思わなかったのだ。しかし、南部の死者が日増しに増え始めると、王国中から早急な対応を求める声が上がり、最終的に派遣が決定。リゼリアは数名の神官を従え、重苦しい空気の中を王都発つこととなった。
出発の朝、マリアは馬車の前で彼女の姿をじっと待っていた。その手には、小さな布包みがしっかりと抱えられている。
「これ、道中で食べてくださいね。蜂蜜をたっぷり使ったお菓子ですから」
「ありがとう、マリア。大事にするよ」
「それと……どうか無理をなさらず、ちゃんと休んでください。治療ばかりに夢中になって、また倒れたりなんて……絶対ダメですからね?」
いつものように小言じみた口調ではあったが、その瞳の奥には隠しきれない強い不安が揺れていた。
「……あの、私も一緒に行っちゃダメですか?」
マリアは、消え入りそうな小さな声で尋ねる。
「お洗濯でもご飯の準備でも、何でもやります。少しでもリゼリア様の力になりたいんです」
リゼリアは少しだけ迷い、それから優しく首を横に振った。
「今回は危険すぎるからダメだよ。どんな感染症なのか、まだ誰も分かっていないんだから」
「でも……っ」
「マリアには、ここで留守番をしていてほしいの。お願いね」
そう諭すように告げると、マリアはキュッと唇を結んだ。納得していないのは明白だったが、やがて諦めたように小さく頷く。
「……分かりました」
リゼリアが馬車のステップに足をかけようとした瞬間、マリアがその袖をギュッと掴んだ。
「リゼリア様」
「ん?」
「春に湖へ行く約束、絶対に忘れないでくださいね」
リゼリアは柔らかく微笑む。
「うん、もちろん。必ず元気に帰ってくるから、安心して待っていて」
マリアはやっと、いつものような笑顔を見せた。その笑顔を胸の奥にしっかりと刻み込み、リゼリアを乗せた馬車は南部へと走り出した。
◇
村に到着したのは、冷たい雨が打ちつける陰鬱な夕暮れ時だった。馬車の窓から覗き込んだ光景は、すべての家々の窓が固く閉ざされ、人影一つない異様な通りである。普段なら畑仕事を終えた村人たちで賑わうはずの時間帯だというのに、広場には誰一人としていない。井戸の脇には水桶が置き去りにされ、家畜小屋の奥から聞こえる掠れた鳴き声だけが、この村にかつて人の営みがあったことを辛うじて伝えていた。
村の礼拝堂は、すでに悲惨な施療所へと姿を変えている。長椅子は壁際に追いやられ、冷たい床には藁と毛布が無造作に敷き詰められていた。薄暗い堂内には薬草を強引に煮詰めた独特の匂いが充満し、その奥からは苦しげな乾いた咳が途切れることなく響いてくる。村の神官は、リゼリアの姿を認めるなり、その場に崩れ落ちるように深々と頭を下げた。
「おお、聖女様……! よくぞ、本当によくぞお越しくださいました……!」
その顔には、限界を超えた疲労が色濃く刻み込まれている。話を聞けば、村人の半数近くが何らかの症状を訴えており、重症者だけでもすでに三十人を超えているという。すでに命を落とした者も少なくなく、神官たちは何日も満足に眠る暇すらなかった。
リゼリアは外套を脱ぎ捨てると、休む間もなく患者の待つ床へと歩み寄る。最初に診察したのは、八歳ほどの小さな少女だった。母親にしっかりと抱きかかえられた少女は、高熱に浮かされて意識が完全に朦朧としている。その細い腕には、木の枝が絡みつくようなおぞましい金の紋様が不気味に広がっていた。
「この子、昨日まで元気に外を歩いてたんです……!」
母親は、引き裂かれそうな声で縋りつく。
「なのに、朝になったら急にこんな高熱が出て……何を飲ませても、どんなに冷やしても全然ダメで……っ!」
言葉の途中で堰を切ったように涙が溢れ出た。リゼリアは少女の小さな手を取る。その指先は、かつて貧民街で救った少年のときと同じように異常なほど熱かった。
「大丈夫ですよ。もう私が来たからね」
できる限り穏やかな笑みを貼り付けて声をかける。
「もう少しだけ、一緒に頑張ろうね」
掌から純白の光が溢れ出し、温かな治癒の力が少女の小さな身体へと流れ込んでいく。だが、そこでリゼリアは奇妙な違和感を覚えた。普段なら、負傷や病を癒やすとき、相手の身体のどこに不調があるのかを魔力を通じて朧げに感じ取ることができる。しかし、今回は違っていた。高熱によって衰弱しきった肉体を癒やすことはできるのだが、腕に浮かぶ金の紋様へ魔力を向けた瞬間、何か硬い鉱物にでも遮られるような強い抵抗が生じるのだ。
それでも、懸命の祈りが通じたのか、少女の荒かった呼吸は少しずつ穏やかになり、額に浮かんでいた大量の汗が引き、閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上がった。
「……おかあ、さん……?」
母親は息を呑み、そして我が子をきつく抱きしめて号泣した。
「……ああ、よかったぁ……っ! 本当に、本当にありがとう……!」
少女をしっかりと抱きしめる母親の姿を見て、リゼリアもホッと安堵の息をつく。だが、少女の腕に刻まれた金の紋様は依然として消えてはいなかった。いくらか薄くなったものの、完全に残ったままである。リゼリアはその事実を心に留め、経過を細かく観察するよう村の神官に頼んだ。その後に診た患者たちも皆同じで、治癒の力によって熱は下がり、衰弱しきった肉体は持ち直すのに、あの金の紋様だけはどうしても消し去ることができなかった。
やがて夜が更け、礼拝堂の屋根を叩く雨音が激しさを増しても、リゼリアは治療の手を休めなかった。患者たちは彼女の震える手を何度も強く握りしめ、涙を流して感謝の言葉を繰り返す。助かった家族は歓喜に涙し、隣の寝台で苦しむ者を必死に励ます。施療所の内部には、失われかけていた希望の光が少しずつ戻り始めていた。その光景を目にするたび、リゼリアは自分を奮い立たせる。まだ救える命がある、まだ自分にできることは残されているのだと、そう強く信じ込んでいた。
だが、過酷な現実が容赦なく牙を剥く。三日目の朝、一人の男が静かに息を引き取った。前日の夕方に治療を受け、いったんは見事に回復して笑顔を見せていた中年の農夫だった。夜半から再び急激な高熱を発し、神官たちが総出で懸命の治癒を施したものの、夜明けの訪れと共に心臓が止まってしまったという。リゼリアが駆けつけたとき、妻は冷たくなった夫の寝台の傍らに崩れ座り、その固く冷えた手をいつまでも握りしめていた。
「……昨日は、あんなに笑ってたんです」
妻は、うつろな目で夫の顔を見つめたまま呟く。
「聖女様のおかげで、もうすぐ畑に戻れるって……春になったら、また二人で並んで種を蒔こうねって、そう言ったのに……っ」
リゼリアは喉の奥が詰まり、何も言葉を発することができなかった。
「どうして……っ!」
妻が、絶望に満ちた顔でガバッと顔を上げる。
「どうしてですか……! ちゃんと治してもらったはずなのに、どうして……!」
その絞り出すような問いに、リゼリアは答えることができない。ただ深く頭を垂れるばかりで、謝罪の言葉すら喉の奥で引っかかって出てこなかった。
その日を境に、彼女は患者たちの経過をこれまで以上に細かく記録し始めた。熱が下がった後も数日間は施療所に留まってもらい、皮膚に浮かぶ紋様の変化を徹底的に監視する。食事の量から睡眠の質まで神官たちと情報を共有し、少しでも異変があれば間髪入れずに治療を重ねた。
それでも、また新たな発症者が現れる。何の問題もなく完全に平癒する者がいる一方で、数日後に突然高熱を再発させる者もおり、その決定的な違いがどうしても見えてこない。リゼリアは夜遅くまで灯りの下で医術書にかじりつき、朝が来れば休む間もなく患者のベッドを回った。神官たちが体調を気遣って休養を勧めても、彼女は頑なに首を横に振る。今度こそ、誰一人として取りこぼしたくなかったのだ。
最初の一週間が過ぎる頃には、リゼリアの顔色は見る影もないほど悪くなっていた。治癒の奇跡を起こすたびに消費する魔力は膨大で、食事をとっても極度の疲労が脳から抜けない。石造りの階段を一段上るだけで息が切れ、長く立ち続けていると足元がフラフラと揺らいだ。それでも、施療所のベッドに運ばれてくる苦しそうな患者がいる限り、彼女は震える手を伸ばし続けた。
ある夕方のこと、一通りの治療を終えて重い足取りで外に出ると、小さな少年がトコトコと駆け寄ってきた。その小さな手には、道端で泥まみれになりながら摘んできたらしい、くたびれた白い花が握りしめられている。
「聖女様っ!」
少年は少し緊張した面持ちで、花を差し出した。
「お母ちゃんを助けてくれて、本当にありがとう!」
リゼリアは驚いて目を瞬かせる。少年の母親は、数日前まで死の淵にいた重篤な女性だった。今はまだ絶対安静が必要だが、自力で少しずつ食事を摂れるまでに回復していた。
「……こちらこそ、ありがとうね」
リゼリアはふらつく身体をこらえて膝を折り、両手でその花を受け取る。少年は照れくさそうにはにかむと、パタパタと足音を立てて自分の家へ駆けていった。
その小さな背中を見送りながら、リゼリアは暫しの間その場から動けなかった。手の中にあるのは、ちっぽけな白い花だ。茎は短く、花びらの端には泥がこびりついている。それなのに、今の彼女の目には、どんな宝石よりも美しく輝いて映った。
マリアが描いてくれたルミエ湖の絵が脳裏をよぎる。来年の春になれば、あの湖の畔にもこんな美しい花が一面に咲き誇るのだろうか。温かいお茶をいれて、マリアとくだらないお喋りをして笑い合いたかった。だが、礼拝堂の奥から新たな患者を呼ぶ切実な声が響き渡ると、リゼリアは花を大切に胸元へしまい込み、再び薄暗い施療所へと身を翻した。
◇
見えない疫病との泥沼の闘いは、優にひと月以上に及んだ。リゼリアは近隣の村々や町を休む間もなく巡り歩き、各地の神官たちと一丸となって治療の陣頭指揮を執る。王都からは追加の薬草と医療スタッフが届き、感染者を完全に隔離するための特設施設も急ピッチで整えられていった。
彼女の不眠不休の治癒によって命を救われた者は数百人にのぼり、すべての命を救うことはできなかったものの、新たな感染者の数はようやく下火になり始めた。施療所には空きベッドが目立つようになり、ずっと閉ざされていた村の商店も、一軒また一軒と板を外して扉を開け始める。久しぶりに市場の露店に新鮮な野菜が並んだ日、村人たちは互いの顔を見合わせて心から笑い合い、子供たちが元気に広場を駆け抜け、畑には再び農夫たちの力強い姿が戻ってきた。
リゼリアが最初期に訪れたあの村を発つ日、多くの村人たちが道の両脇に集まって盛大に見送ってくれた。あの時、泥だらけの白い花をくれた少年も、すっかり元気になった母親と一緒に満面の笑みで立っている。
「聖女様、絶対にまた遊びに来てねー!」
少年が大きく手を振ると、リゼリアは疲労の滲む顔に優しい笑みを浮かべ、穏やかに手を振り返した。
「うん、必ず来るからね。みんなも元気でね」
ようやく、本当に終わったんだ。心からそう実感する。王都へ無事に帰還したら、まず何よりもマリアに謝らなければならない。きっと、「無理ばかりして!」とぷくっと頬を膨らませて叱られるだろう。それから二人で温かいお茶を飲んで、来春の旅行の計画を心ゆくまで話し合うのだ。そう想像するだけで、強張っていた足取りが嘘のように軽くなった。
しかし、その束の間の安堵は、あまりにも残酷に打ち砕かれる。王都へ戻る道中、南部から再び最悪の知らせが届いたのだ。
一度は完全に回復したはずの患者たちが、ここにきて次々と再び昏睡状態に陥り始めているという。最初は数人の例外だと思われたが、日を追うごとに報告の数は増え続け、前回と同じ不気味な金の紋様が再び体表に浮き上がり、今度はリゼリアの治癒の力をもってしても症状の進行を抑えきれない重症者まで現れ出していた。
リゼリアは血の気が引く思いで馬車を今すぐ引き返させようとしたが、同行していた高位神官が必死の形相でそれを制止する。
「聖女様、どうかお思い留まりください! 今のボロボロのお身体でこれ以上の過酷な治療を続ければ、あなたの命が持ちません!」
「だけど……! 私を待っている人たちが、あそこにいるのに……っ!」
「王都からはすでに別の精鋭神官団が現地へ向かっております! 聖女様は一度、大聖堂に戻って静養されるべきです!」
リゼリアは悔しさに唇を激しく噛み締めた。確かに、彼女の肉体はすでに限界を突破している。度重なる無謀な治癒の酷使により、失った魔力の回復速度は以前より遥かに遅くなっていた。それでも、再び得体の知れない苦しみに怯えている人々の顔を思い浮かべると、胸が締め付けられて息ができない。
結局、彼女は説得に押し切られる形で王都への帰路を急ぐことになったが、その頃には、南部一帯ですでに新たな悪質な噂が猛烈な勢いで広がり始めていた。
「聖女の治癒を受けた者たちが、どうして再び倒れるんだ?」
最初はほんの些細な不安の呟きだったそれが、原因不明のまま死者の数が増加するにつれて、じわじわとどす黒い疑念へと変質していく。
「聖女様の治療は、本当に正しかったのか?」
「あの体に浮かぶ金の紋様は、本当に神の奇跡なのか?」
「もしや……あの紋様を消そうとした聖女の術こそが、かえって病気を悪化させている元凶なのではないか?」
もちろん、リゼリアの献身的な治療によって命を救われた大勢の住民たちは彼女を熱烈に擁護した。「聖女様がいなければ、とうの昔に家族全員が死んでいた」と声を荒げて訴える村人もいれば、デマを流す者を厳しく叱り飛ばす神官もいた。
だが、冷酷な現実として、愛する家族を疫病で失った遺族たちにとって、そんな理屈は一粒の慰めにもならなかった。なぜ自分の家族だけが救われなかったのか、なぜ隣の家は平気なのに自分の子どもは二度も倒れたのか――やり場のない怒りと答えのない問いが重なり合い、人々は少しずつ、その憎しみの矛先を「誰かの責任」へと向け始めたのである。
そして、そのタイミングを見計らったかのように、教会の上層部から突然の公式発表が下された。
「南部で確認された金色の紋様には、古来より禁忌とされる神聖術式と酷似した不穏な反応が確認されている」
徹底的な調査の結果、その禁断の術式に最も深く関与し、魔力を悪用した疑いがある人物として――あろうことか、聖女リゼリアの名前が名指しで公表されたのだ。
発表を聞いた一般民衆は最初こそ激しい動揺と戸惑いを示したものの、絶対的な権威を持つ大聖堂の神官たちが「厳正な調査の結果だ」と断言すれば、その言葉を疑うことなど素朴な民にはできるはずもなかった。
疑念はあっという間に確信へと変わり、悪意ある噂は爆発的に拡散していく。
「聖女が、わざと病気を広めたんだ」
「あの女が禁じられた邪法を使ったせいで、俺たちの家族は……!」
「聖女の奇跡なんて、最初から真っ赤な偽物だったんだ!」
リゼリアがすべての真実を知ったのは、心身ともに疲弊しきった状態で王都の門をくぐり、大聖堂へと戻って間もない頃だった。
◇
重厚な扉で閉ざされた大聖堂の奥深い会議室には、肌がヒリつくような重苦しい沈黙が淀んでいた。
長いマホガニーの机の向こう側に座るのは、大司教ヴァレント、冷徹な目を光らせる王国の宰相、そして数名の厳めしい高位神官たちである。彼らの手元には、南部から回収された膨大な治療記録が山のように積み上げられていた。リゼリアは、その書類が一枚一枚、かつて自分が現地で夜を徹して書き留めたものだと一目で気づく。患者の氏名、詳細な症状、そして日々の経過――すべてが、そこにあった。
「聖女リゼリア」
重い沈黙を破り、ヴァレントが冷ややかな声を落とした。
「お前が南部で行った一連の治療行為について、包み隠さず詳細な説明をしてもらおうか」
リゼリアはゆっくりと頷き、自分の知る限りのすべてを真っ直ぐに語った。金の紋様が神聖魔法に対して異常なまでの反発反応を示したこと、治癒によって一時的に症状は劇的に改善したものの、一部の患者に不可解な再発が見られたこと、そして、自分の力では根本的な病原を特定できず無力だったこと。
だが、彼女が言葉をすべて紡ぎ終える前に、冷酷な表情の宰相が鼻で笑って遮った。
「つまり、あなたが施したその薄っぺらな治療のせいで、救われるはずだった者たちが再び病に倒れ、被害を拡大させた。そういう結論でよろしいですね?」
「違います! 確かに出戻った患者もおりますが、何百人もの方々は完全に回復して日常に戻っていますし……!」
「その見苦しい自己弁護の言い訳を、我が国の民が納得して信じると思いますか?」
リゼリアは言葉を失い、喉が引きつった。宰相は、積み上げられた報告書の束を冷たく指先で叩く。
「現在、南部一帯は一触即発の暴動状態にあります。教会の出張施療所が暴徒に襲撃され、無実の神官たちが石を投げつけられて負傷した。王国の初動対応が遅れたと、中央の貴族たちからも非難が殺到している。このまま放置すれば、民の燃え盛る怒りは、やがて王家そのものへと矛先を向けるでしょう」
「そんな……でしたら、もっと多くの専属神官や医師団を現地に派遣して、一刻も早く治療を……!」
「おや、話を聞いていなかったのですか。私たちが問題にしているのは、今後の医療体制などではありません」
宰相の声には、虫けらを見るような露骨な苛立ちが滲んでいた。
その隣で、大司教ヴァレントがゆっくりと視線を上げ、一枚の白紙の書類をテーブルの上に滑らせた。
「リゼリア。お前はこれまで、我が国の為に多くの命を救い、多大な貢献をしてくれた。神に仕える聖女として、そのこれまでの献身には心から感謝している」
「……っ、ありがとうございます」
「だからこそ……どうか最期の最後まで、我が国の民のために『汚れ役』を引き受けてほしいのだ」
差し出された書類に目を落としたリゼリアは、その文字を見た瞬間、心臓が凍りついたように止まった。
そこには、リゼリア自身が私欲のために禁じられた邪悪な神聖術式を用い、この未曾有の疫病の発生と拡大に深く関与したことを、『自発的に認める』という旨の自白文が記されていたのだ。
しばらくの間、脳がその文字の意味を理解することを拒絶した。
「……これ、は……一体なんですか?」
「見れば分かるでしょう。お前の罪を正式に認めるための調書だ」
「どうしてですか……! 私はそんなこと、一瞬たりとも……!」
「お前が実際に病を広げた真犯人であるかどうかなど、今となっては王国にとって大した問題ではないのです」
ヴァレントは、かつての慈悲深い表情を完全に仮面のように脱ぎ捨て、酷く穏やかな、だからこそ悍ましい口調で言い放った。
「民は、誰かに責任をなすりつけるための『分かりやすい理由』を求めているのです。誰かがすべての罪を被って処罰されなければ、あの民の怒りは決して収まらない。もし教会と王国の権威がこのまま失墜すれば、国内は大混乱に陥り、先ほどとは比較にならないほど多くの犠牲者が出る。……分かりますね?」
リゼリアは、目の前に座る老人の顔をまじまじと見つめた。幼い頃から自分に優しく手を差し伸べ、道を導いてくれた恩人だった。神への無私の奉仕を説き、人々を救うことの尊さを誰よりも熱く語ってくれた人。
その敬愛していた口から今、一片の良心もなく、「無実の自分がすべての罪を被って悪人になれ」と冷酷に告げられている。
「……私が、この架空の罪をすべて認めれば……皆さんは、安心なさるのですか?」
「ああ、そうだ。民の怒りは鎮まり、秩序は保たれる」
「私が、一度もやった覚えのない、身に覚えのない罪であっても、ですか?」
ヴァレントは、質問には答えず、ただ静かに目を伏せた。
その沈黙の持つ絶望的な意味を完全に理解した瞬間、リゼリアの胸の奥で、かつて温かな光で満ちていた何かが音を立てて冷たく凍りつき、そして砕け散った。
彼らは、最初から真実など1ミリも求めちゃいなかったのだ。誰かを本当の意味で救うために、別の誰かを「トカゲの尻尾切り」の生贄にすることを、彼らは為政者の特権として当然のように受け入れている。それも、最も尊い『神の名』を大義名分にして。
「……私には、そんなことできません」
リゼリアは震える小さな首を、わずかに、しかしはっきりと横に振った。
「やっていない無実の罪を、自分の口で『やった』と認めることなど……絶対にできません」
ヴァレントの細い目が、冷酷な光を帯びてわずかに細められた。
「リゼリア……それが、我が国の多くの民を救うための生贄だとしても、拒絶するのか?」
「……はい」
会議室に、再び息が詰まるような重い沈黙が落ちた。
やがて、大司教ヴァレントは、すべてを諦めたかのように深く長く息を吐き出すと、傍らに控えていた黒衣の神官たちへと冷たく目配せをした。
「……実に、残念でなりません」
その冷たい一言が、かつて聖女と呼ばれた少女の耳には、ひどく遠く、地の底から響くように聞こえていた。




