序章① 春を願う聖女
リゼリアが白い処刑台の上で膝をついたとき、その両手にはもう、ひとかけらの光も残されてはいなかった。
◇
聖女リゼリアにとって、人を救うことは一度として恐ろしいことなどではなかった。十二歳の冬、彼女は王都の貧民街で、一人の少年の命を救い出している。
その日は、朝から雪が降り続いていた。王都の大通りには馬車が慌ただしく行き交い、商店の軒先には色鮮やかな布が飾られて賑わいを見せている。だが、城壁に近い貧民街まで足を運ぶ者は、ほとんどいない。狭い路地には汚れた雪が積もり、石造りの家々の隙間から吹き込む風は、薄い外套などいとも簡単に通り抜けてしまうほど冷え切っている。
リゼリアが訪れたのは、そんな路地の奥にある小さな家だった。室内には暖炉すらなく、粗末な寝台の上では七歳ほどの少年が苦しげに息をしている。母親は少年の手を強く握りしめ、何度も濡れた布で額を拭っていたが、熱は一向に下がる気配がない。
「お願いです……どうか、この子を助けてください」
母親はリゼリアの姿を見るなり、縋るように床に膝をついた。
当時のリゼリアは、神聖魔法を学び始めたばかりの身である。簡単な傷を塞ぐことはできても、重い病を治せるほどの力は備わっていない。付き添っていた神官からも、無理をしてはいけないと繰り返し忠告を受けていた。それでも、少年の小さな手に触れた瞬間、リゼリアはどうしてもその場を離れることができなくなる。指先は驚くほど熱く、少年は薄く目を開けたものの、何かを話そうとしても乾いた唇がかすかに動くだけである。
「……大丈夫だよ」
リゼリアは、少年の手を両手で優しく包み込んだ。
「少しだけ、頑張ってね」
祈りを捧げると、掌から淡い光が溢れ出す。身体の奥に蓄えられた魔力が、少しずつ少年へ流れ込んでいくのが分かった。最初は何も変わらなかったが、やがて額の汗が引き、苦しげだった呼吸が穏やかになり始める。その頃には、リゼリア自身の視界が霞みかけていた。付き添いの神官が肩を掴み、もう十分だと告げても、彼女は決して手を離さない。もう少しだけ、あと少しだけ、この子が苦しまなくなるまで、と。
どれほどの時間が過ぎたのか。気がつくと、少年が薄く目を開けていた。
「……お母さん」
か細い声が響く。母親は息を呑み、それから少年をきつく抱きしめて泣き崩れた。リゼリアも、我慢できずに涙をこぼす。自分が奇跡を起こせたからではない。少年がもう一度母親の声を聞き、その手を握り返せるようになったことが、ただひたすらに嬉しかったからだ。母親は何度も頭を下げ、神様があなたを遣わしてくださったのだと、この恩は一生忘れないと、涙で声を詰まらせながら何度も繰り返した。
あの日、リゼリアは心に誓った。もっと多くの人を救えるようになろう。苦しんでいる誰かに、もう一度明日を迎えてもらえるように、と。その純粋な願いが、いつか自分自身を絶望の淵へ追い詰めることになるなど、幼い彼女は想像すらしていなかった。
◇
それから九年が過ぎ、二十一歳になったリゼリアは、王国で最も尊ばれる聖女と呼ばれるようになっていた。
白銀の髪と澄んだ青い瞳を持つ彼女は、幼い頃から類まれな神聖魔法の才能を示し、数々の病や負傷者を癒やしてきた。戦場では死の淵にあった騎士を救い、飢饉に苦しむ村では病人たちを治療して回る。彼女の訪れた土地には感謝の祈りが捧げられ、教会には、その功績を讃える手紙が毎日のように届く。人々は彼女を神に愛された娘と呼び、その祈りに不可能はないと信じる者さえいた。
けれど、リゼリア自身は、そうした称賛の言葉を聞くたびに胸の奥がわずかに痛むのを感じている。救えなかった人々の顔を、彼女ははっきりと覚えているからだ。治療が間に合わず亡くなった老人、神聖魔法を施しても目を覚まさなかった少女、自分の手を握りながら、家族に会いたいと泣き叫んでいた兵士。人々は救われた百人を奇跡と呼びながら、救えなかった一人については、なぜ聖女の力が届かなかったのかと尋ねる。その問いに、リゼリアは答えることができない。だから、もっと努力しなければならないと自分に言い聞かせる。自分が休んでいる間にも苦しむ人がいるのなら、少しでも長く祈り続けるべきなのだと。
「……リゼリア様。聞いていらっしゃいますか?」
不意に声をかけられ、リゼリアは弾かれたように顔を上げた。大聖堂の奥にある私室には、午後の柔らかな陽光が差し込んでいる。開け放たれた窓から秋の風が入り込み、机の上に積まれた手紙の端をパタパタと揺らしていた。その手紙を片づけながら、栗色の髪をした少女が、じっとこちらを見つめ返してくる。
修道女マリア、十七歳。少し丸みのある頬と大きな瞳が印象的な少女で、普段は人懐っこく笑うのだが、リゼリアの生活態度についてだけは、年長の神官たちよりもずっと厳しい目を向けてくる。
「今朝、私が何と言ったか覚えてますか?」
「……えっと、今日はあまり無理をしないでね、だったかな」
「その通りです。じゃあ、さっきまで何をなさっていたんですか?」
「ちょっとだけ、施療院で治療を……」
「十二人ですよ! ちょっとだけ、なんて数じゃありません!」
マリアは呆れ果てたように、大きくため息をついた。
「しかも、最後の方は顔が真っ青だったじゃないですか。あのまま続けていたら、患者さんより先にリゼリア様が倒れてしまいますよ」
「でも、遠くの村からわざわざ来てくださった方もいたから……」
「その人たちを大事にするのと、ご自分の体を粗末にするのは全くの別問題です!」
ぴしゃりと言い切られ、リゼリアは小さく肩をすくめる。そんな彼女を見て、マリアはようやく表情を緩め、机の上に温かなお茶を置き、持ってきた籠から小さな焼き菓子を取り出した。
「厨房のエマさんが焼いてくれたんです。今日はリゼリア様のために、蜂蜜が多めらしいですよ」
「ふふ、それってマリアがお願いしてくれたんじゃないの?」
「……どうして分かったんですか?」
「だって、マリアは蜂蜜のお菓子が大好きでしょう」
リゼリアが笑うと、マリアは照れ隠しに少し頬を膨らませる。
「リゼリア様にも、甘いものを食べてほしかったんです。私が食べたかっただけじゃありませんからね」
「うん。ありがとう、マリア」
菓子を一口食べると、優しい甘さが口いっぱいに広がる。思えば、こうして落ち着いてお茶を飲むのは何日ぶりのことだろう。窓の外からは庭師たちの穏やかな話し声が聞こえ、遠くで大聖堂の鐘が静かに鳴っている。何も起こらない、ただ穏やかな午後。
マリアが大聖堂へ来たのは、二年前のことだ。彼女の弟は幼い頃に重い病を患い、リゼリアの治療によって一命を取り留めた。その出来事をきっかけに、マリアは修道女になることを決意したのだという。最初の頃は、リゼリアを前にするだけでひどく緊張していて、言葉遣いもぎこちなく、お茶を運ぶ手が震えていたこともある。けれど、いつの間にか彼女は、誰よりも遠慮なくリゼリアを叱るようになっていた。食事を抜けば怒り、夜更かしをすれば強引に灯りを消しに来て、仕事を抱え込みすぎれば、勝手に予定を整理してしまうことさえある。そんなマリアの前でだけ、リゼリアは自分が『聖女』であることを忘れられた。
「あ、そうでした」
マリアは何かを思い出したように、修道服のポケットをゴソゴソと探る。
「今日は、リゼリア様に見てほしいものがあるんです」
取り出したのは、四つ折りにされた一枚の紙だった。広げられた紙には、一面の青い湖が描かれている。岸辺には白い花が咲き乱れ、遠くには緩やかな山並みが連なる。決して上手な絵とは言えないが、花の一輪一輪まで丁寧に色を塗ろうとした一生懸命さが、ひしひしと伝わってくる。
「ルミエ湖です。春になると、岸辺いっぱいにこの白い花が咲き誇るらしいんですよ」
「すごく綺麗だね。これ、マリアが描いたの?」
「はい。図書室で絵の本を借りて、何度も何度も描き直したんです」
マリアは誇らしげに、少し照れくさそうに笑う。
「それで……来年の春、二人で行きませんか?」
リゼリアは驚いて瞬きをする。
「私と、二人で?」
「もちろん、リゼリア様と私です。春の大祭が終わった後なら、少しはお休みもらえるでしょう? 湖の近くには、可愛い小さな宿もあるそうです。そこで美味しいものをたくさん食べて、花を見ながらゆっくり散歩するんです」
マリアは目を輝かせて話す。湖の畔には焼き菓子を売る素敵なお店があること、朝は水面が鏡のように澄んでいること、春先には珍しい渡り鳥が訪れること。まだ一度も行ったことのない場所について、まるで何度も訪れたかのように語って聞かせる。リゼリアは、その横顔をじっと見つめている。誰かと旅行に行く約束をする。それが、こんなにも心が弾むことだとは知らなかった。
「……私が二日も休んで、本当にいいのかな」
思わず漏れた言葉に、マリアは不思議そうに首を傾げる。
「どうしてですか?」
「私が休んでいる間にも、どこかで苦しんでいる人はいるでしょう?」
「いますよ。きっと、世界のどこかには」
マリアは一切の迷いなく答える。それから、リゼリアの手に自分の手を重ねた。
「でも、それを全部リゼリア様一人で救おうとしたら、いつまで経っても休めません」
「……そうかもしれないけど」
「私は、『聖女様』とお出かけしたいんじゃないんです」
マリアはまっすぐにリゼリアの瞳を見つめ返す。
「私は、リゼリア様と一緒に遊びたいんです」
その真っ直ぐな言葉が、胸の奥に静かに、深く染み込んでいく。聖女だからではなく、誰かを救える特別な力があるからでもなく、ただ、自分と一緒にいたいと言ってくれる。リゼリアは目を伏せ、しばらく何も言葉を返せなかった。
「……うん」
やがて、小さく頷く。
「行きたいな。マリアと一緒に、湖を見に行きたい」
マリアの顔が、ぱっと花が咲いたように明るくなる。
「本当ですか!?」
「うん、本当」
「約束ですよ?」
差し出された小指に、リゼリアは笑いながら自分の指を絡めた。窓の外では、秋の風が庭木を優しく揺らしている。来年の春には、きっとあの湖へ行こう。白い花の咲く岸辺を歩いて、マリアの好きな焼き菓子を一緒に食べよう。そんなささやかな未来を思い描くことが、リゼリアには何よりも幸せだった。




