空のお布団、夜明けの炎
遅くなりました。遅刻遅刻!
「ほら、嬢ちゃん、こないだの礼だ!」
受け取ってくれ、と羊飼いの男は羊の乳で作ったチーズを持ってきた。
「わ、こんなに?」
「やっと乳量がのってきてな。フレッシュチーズだ。日持ちしないから、早く食べな。食べ盛りだろ、そこの神獣様と分けろよ」
両手に抱えるほどの木桶いっぱいのチーズ。アイラはありがたくいただいた。
羊飼いの男は、秋にグリーン・チーズを持ってくることを約束して、村へと戻っていった。
スプーンで少し掬って味見してみる。少し酸味のある、濃厚な味がする。
「美味しい……!」
ソルも食べる? とアイラはソルにスプーンを差し出した。あむ、とチーズを口に含んだソルはくねくねと踊り出す。
「ああー、うめぇ!」
チーズは貴重なタンパク源だ。脂質もあるし栄養も豊富。まだ畑は収穫までいかないし、そろそろ冬の蓄えも尽きてきた。どうしようと思っていたところだったのでありがたい。
(今日はチーズのスープにしようかな)
芽吹いてきたハーブと、少し大きくなって間引いたキャベツ。暖かくなって植物が目を覚まし始めると途端に視界は鮮やかになる。少しうきうきとしながらアイラは空を見上げた。
ぽかぽかとした五月の日差しと、穏やかな風、雲が少ない青空。
(……)
村の麦畑は綺麗に筋状に緑の線が引かれ、夏になる頃には黄金色に変わることだろう。今はブドウがつるを伸ばし、葉を大きく広げる時期。もう少ししたら花が咲く。
(何だろう。少し、ざわざわする)
穏やかな天気。その中に一滴、一抹の不安。
ちょろり。アイラの肩に白いキツネが登ってきた。ソルだ。
「ソル」
「どうした? 今日はいい天気だな。雲もないし」
「!」
そうだ、雲がないんだ。アイラはハッとしてもう一度空を見上げた。青空が広がる、雲もなくて風も穏やかな、五月。
「……遅霜!」
叫んだ。肩の上でソルもまた息を呑んだのが分かった。
どうしよう。慌てて駆け出す。
アイラは自分の部屋の引き出し、ばっちゃんの遺産、空読みに関する知識がびっしりと書かれた羊皮紙を取り出した。
「遅霜、遅霜……!」
冬に関する空読み。初春。もう少し後! 文字を指で辿っていくと、「五月の好天は要注意」と書かれた一文を見つける。
「あった……!」
その文を読んでいく。そして、文字を辿っていた指を震わせたまま、今度は顔を上げた。
「知らせなきゃ……!」
「……はあ? 霜が降りる? こんな天気がいいのに?」
村人は怪訝そうに空を見上げた。アイラは今、肩を激しく上下させてぶどう畑にいる。普段おっとりしているアイラが全力疾走(本人なりに)した結果、息も絶え絶えだ。
「こ、この空……。雲が、ないでしょう? これが、夜も続くと、この……あった、かいのが……」
「アイラ、まずは息を整えろ」
息が上がってうまく言葉が出ないアイラを見かねて、ソルが口を挟んだ。深呼吸を繰り返す。三回ほど繰り返してなんとか落ち着いた。
「……えっとね、今日、とっても空が綺麗でしょう? 雲もないし、よく晴れてる。そんな日は、夜とても冷えるの。そして、明け方、一番寒くなって、霜が降りる」
まだ村人は怪訝そうな顔をしている。
「雲は、実は空のお布団なの。昼間温められた地面の熱を、夜もちゃんと保温してくれる。だけど、今日はそんな『布団』がない。ほら、私たちだって、布団がなければ体を冷やしちゃうでしょう? 今、ぶどうは花芽がついてる時期よね? そんな時、凍るほど寒くなったら?」
それを聞いて村人の顔が青ざめていく。
「もし、そうなったら、今年のぶどうは全滅だ……!」
でも、と彼は向こうの麦畑を見る。
「他の農作物はどうなんだ? ぶどうだけじゃなく、ほかの作物もやられたら、俺たちの生活はもう……」
アイラはばっちゃんのメモを思い出す。そこには――。
「大麦はもともと寒さに強くて、霜はなんとか乗り越えられると思うの。少し葉っぱの先が枯れるかもしれないけど、新しい葉っぱが出てくるから大丈夫。春野菜も、結構寒さに強いから、そこまで心配しなくていい。でも、一番危ないのはぶどうよ。おじさんが言った通り、ぶどうの花は寒さにとても弱いの。下手したら全滅しちゃう……!」
どうしたらいいんだ、と彼は頭を抱えた。
「村の人総出でやれば、なんとかなるかもしれないわ……!」
燃焼法。ぶどう畑のあちこちで小さな火を焚くことで、その上へと向かう空気を利用して対流を起こし、上空にある温かい空気を引きずり下ろして気温の低下を抑える方法。
藁や剪定枝をあちこちに配置し、夜中から明け方に掛けて火を焚き続ける、過酷な方法でもある。
(でも、他に方法がない……!)
小さいものなら布を掛けるとか、軒下に移動させるとかできる。しかし、何十本もある、移動できないぶどうの木。布だってそんなにない。風を起こすのだって無理。水を花芽に掛け続けて逆に凍らせて花芽を守る方法も無くはないけど。
(水を掛けるって、それこそどうやるの……!?)
火が一番手っ取り早い。村人は顔を真っ青にして村長のところへ行き、アイラとともに先ほどの説明をしたところ、村長も顔を青くしてその方法に頷いた。
「大きな火はいらないの! 小さな火を、あちこちに。木を温めるんじゃなくて、空気を循環させるだけだから!」
ソルはぶどう畑を縦横無尽に駆け、燃やすものの配置を確認していく。その間に小精霊どもに命令することを忘れない。
(いいか、燃え移らない程度に、風を起こせ。空気を温めろ)
上位精霊の言葉に、チビどもは怖ごわ頷いていった。
日が落ちると、星がありえないほど明るく瞬いていく。昼間の太陽の熱が嘘だったのかと思うほど、鳥肌が立つくらい冷え込んできた。
は、と息を吐くと、白い気がする。村人たちは枝に火を灯し始めた。ぱち、とオレンジ色の明かりが微かに灯り、煙を出しながら畑のあちこちでゆらゆらと小さな火が燃え出した。
(夜明けまでが勝負……!)
火を絶やさぬように、熱を出して。空気を回せ、凍るな、ぶどうの花芽。
藁からはモクモクと煙も出ている。少しでも布団の代わりになりますように。アイラはその煙を祈るように見つめた。
かじかむ手を燃やしている枝の近くで擦る。きん、と冷える空気。ソルはひょいとアイラの首に巻きついた。
「ソル」
「寒いんだろ、黙って巻かれてろ」
「……うん」
心まであったかいや。
声を掛け合いながら、枝が無くなりそうになれば足す。
「アイラちゃん! 火の大きさはこのくらい!?」
「うん!」
「アイラ! 藁が無くなりそうだ!」
「そっちに燃やすもの持っていってください!」
ぶどう畑だけ、周囲よりも数度温かい風がくるくると舞う。
(おら! そこのチビ! 遊んでんじゃねえ!)
ソルが怒鳴りつけると、ぴゃっ! と、ろうそくの火のようなチビが慌てて燃える火の中に戻っていく。
(そろそろ夜明けだな)
ソルは東の空に目を向けた。地平は紫色に染まってきている。風はない。太陽が顔を見せる瞬間、一番冷え込んで霜が降りる。
耳が痛くなるほどの静寂。聞こえるのはパチパチと爆ぜる音だけだ。
ぐ……ん、と一気に冷え込む。太陽が昇り始めたのだ。
(お願い……! 凍らないで……!)
アイラはかじかむ両手を握りしめた。すり、と頬に温かな毛並みが擦り寄った。
「――大丈夫だ。アイラ、大丈夫だ」
ぶどう畑の周りは微かな風が吹いている。枝や藁を燃やしたおかげで空気はゆっくりと動いている。
畑の外、道端の草は太陽が顔を出す瞬間、葉先についていた水滴がみるみるうちに白く、そして氷の花を咲かせて凍りついていった。ぶどうの花芽にはそれは見られない。
太陽が昇った。東の空は黄金のまばゆい光が差し込んで、暗闇に慣れていた目に突き刺さる。
「おいお前ら! 脅威は去ったぞ!」
ソルが鬨の声を上げた。じわじわと温まっていく空気。困惑気味に見ていた村人たちは一人、また一人と歓声を上げていった。
わあっ! と喜びの声が畑の空に響き渡る。
「アイラちゃん! ありがとう!」
「立派な『魔女』だよ!」
「さすが、ババ様の跡継ぎだ!」
そんな声を聞きながら、アイラはもじもじとエプロンを握って俯いた。
「で、でも、これは皆が私の話を信じてくれたから……」
「なーに言ってんだ!」
首元に巻きついているソルがアイラの顔を覗き込んだ。
「お前は空読みをして、村を助けるためにアイツらを説得したんだ。ただ『霜が降りる』って言っただけじゃ、村人は動かなかった。お前の言葉が、アイツらを動かしたんだ」
自信持て、と彼はそう言って、尻尾でパタパタとアイラの肩を叩いた。
「そうだよ、アイラちゃん! あたしら、『霜が降りる』って信じられなかったもんさ。でも、雲がまさか布団になるなんてねぇ……。確かに、布団がないと寒いもんねぇ!」
女はからからと笑い、アイラの背中をポンと叩く。 その勢いによろけながらも、アイラもまた、笑ったのだった。
道端に生えている草は、朝露がキラキラと輝いている。一度咲いた霜の花が太陽の熱で溶けたのだ。この子たちは一度しおれるだろう。露で靴を濡らしながらそこまで考えて、アイラは「あ」と声を上げた。
「どうした、アイラ?」
体を朝露で濡らすのを嫌がったソルは肩の上にいる。声は耳元から。
「うちの畑……」
ぶどうのことばかり考えていて、家の畑のことをすっかり忘れていた。春野菜とハーブだから、多分ちょっと大丈夫なはず。布でも掛けてくればよかった。しょんぼりする。
「あー……」
ソルは首を動かして麦畑を見た。青々とした麦の線はあちこちに朝露を反射し、緑の光がキラキラと目に入ってくる。アイツらは大丈夫。次に春野菜がまかれた畑。同じく光を反射している。ま、大丈夫と見た。
「ほら、うちの畑も春野菜だろ? 大丈夫、大丈夫! ……多分」
「仕方ないかぁ……」
太陽の光を全身に浴びながら、アイラは諦めたように大きく伸びをした。
「あれ……?」
家に帰って畑を見ると、そこかしこにあった朝露が畑の作物には見当たらない。ハーブもだ。
「乾いちゃったのかなあ?」
足元の雑草は濡れているのに。首を傾げるアイラを遠くから見る小精霊ども。それらは「イシシ」と笑っている。
「……」
ソルはチビどもを無言で見つめ、やれやれと息をついた。
「アイラー、ねみーけど、腹減った!」
「あ、そうだね、ご飯にしよっか。チーズ、いっぱい食べていいよ!」
「よっしゃ!」
ふわ、と風が吹き出した。
本日は晴天。お洗濯が終わったら、ちょっとだけお昼寝でもしようかな。
仕事で失敗しました。落ち込む……。




