ひつじ雲と迷子のいのち
投稿遅れました。よろしくお願いします。
「やあ、アイラ。この間はありがとね。おかげで無事に麦の種まきができたよ」
そう言って恰幅の良い中年の女はアイラの家に野菜と少しのお金を持ってきた。
「えっ、こんなに、貰えないです」
「なーに言ってんだい!」
バン! と彼女はアイラの背中を叩くと、「痛っ」とアイラは前につんのめった。
「これもれっきとした『仕事』だろう! 相応の報酬ってのがあるんだよ。いいかい、空読みってのは、重要なんだ。なんせ、うちらの生活もかかってんだからね。それをただの無償でやってたら、アイラの生活だって立ち行かなくなるんだ。それに――」
彼女はアイラの首に巻きついているソルをチラッと見た。ぴゃっ。ソルは小さく体を震わせ、ますますアイラに巻きつく。
「アイラ、あんたは女の子だろう? 女は色々入り用だからね。そこの使い魔様のの世話もいいけど、ちゃんと自分のことも世話するんだよ!」
「は、はい。ありがとうございます」
女はにこにこと笑って家を出ていった。残されたのはカゴいっぱいの野菜と少しばかりのお金。
「……」
アイラとソルは顔を見合わせる。
「ソ……ソル……!」
アイラの声は震えていた。
「どうしよう! お金! お金もらっちゃった!」
「やったな、アイラ! これこそ空読みの魔女の初仕事、成功ってわけだ!」
きゃー! とアイラとソルはぴょんぴょん跳ねながら、しばらく玄関の前でくるくると踊っていた。
ソルは、太陽の上位精霊である。初代空読みの魔女がまだうら若き乙女(?)だった頃、とある事件をやらかし、世界の抑止力により本来の姿を封じられた。力が出なくてヘロヘロと倒れていたところ、魔女に拾われた。その時の第一声は「なんだい、このモフモフは!」であった。
今は太陽の魔力が高まる一時的にしか元の人型に戻れない。
(この時期は数週間にちょっぴりとか、くそぅ……。夏になれば……)
もう少し人型の時間が長ければ、家の屋根の修理とか、アイラの手の届かないところの掃除とかできるのに。
(いや、違う違う!)
自分は太陽の上位精霊だぞ? 貴重なその力を人間のために使ってどうする。
(……でも)
ソルは洗濯物を干しているアイラをちらりと見上げた。彼女は、ぱん、ぱんと小気味のよい音を立ててしわを伸ばしている。物干しがアイラの背よりも少し高いところにあるから、いつも背伸びをして大変そうだ。
(先週なんて、やっぱりアイラちっさいままだったし)
春一番の風にあおられて転びそうになったアイラは、ソルの腕の中にすっぽりとはまってしまうくらい小さかった。
もう彼女は大きくならないのだろうか。この家に来た時は、まだ赤ん坊にほんの毛が生えたくらいだったはずなんだけど。
シーツを干しているアイラのかかとがピョコピョコと上下している。
(あー、ほら、届いてねえ。オレが人型なら、一番高い所にだってヒョイッと掛けてやれるのに。なんで南風だけ魔力がバグるんだよ。北風で戻ってもいいだろ、神様のけち!)
キツネの短い手足ではどんなに飛び跳ねてもロープには一ミリも届かない。ソルが世界のことわりに心の中で毒づいていると――。
「おい! 空読みの魔女はいるか!?」
一人の男がアイラの家へ大きな声を上げているのが聞こえた。バタバタと足音が大きい。かなり焦っているようだ。
「……空読みの魔女は『私』ですけど……」
生成りのエプロンを引っ張ってかたちを整え、アイラが男に向かってなけなしの声を上げる。男は隣村の人のようだ。先代が亡くなったのは知らなかったのだろうか。彼はアイラを見て訝しげな目をした。
「なんだって? 君が? ……大丈夫かよ……」
ぴく。ソルの大きな耳が最後に呟かれた言葉を拾った。
(……見とけよ、アイラの実力をよ……!)
男は渋々、けれど切羽詰まったように口を開く。
「今羊の腹が膨れてて、もうじき出産期に入る。来週羊舎に入れようと思って、今朝放牧してきたばかりなんだが、今何頭かソワソワし始めた奴が出てきて、下手したら今夜あたり産気付いちまう! この間の強風で羊舎の屋根が飛んじまって、今急いで直してるんだが、天気はどうなんだ? 嵐が来て寒くなったりでもしたら、生まれた子羊が死んじまう! 全滅でもなったら、我が家はおしまいだ!」
羊の出産期は初春ころ、まだ寒い時期に始まる。冬から出産シーズンが終わるまで、普通は羊舎に入れて厳重に管理する。なぜなら、生まれたての子どもは寒さにとても弱いからだ。羊飼いはその時期になると火を焚いて寝ずの世話をつづけるのだ。
なぜか。
羊というものはとても貴重な財産であるからだ。
羊毛は暮らしを支える毛織物に。糞は畑の肥料に。乳はチーズなどの栄養価に。皮は高級な記録媒体である羊皮紙に。
余すところなく、彼らの生活を支える重要な家畜、それが羊であった。
アイラは話を聞いて考えた。
(羊の出産は低気圧が来ると起こりやすくなるって、ばっちゃんが言ってたっけ)
空を見なければ。
男を見上げていた視線をさらに上、空へと向ける。
春先特有の、少しぼんやりとした青い空が広がっている。その中に、白くぽこぽことした塊の雲が、まるで羊の群れのようにいくつも浮かんでいた。
(あの雲は……)
アイラは空を見上げたまま、手を伸ばして人さし指をかざした。
(雲は、指よりも太い。……だから、あれはうろこ雲じゃなくて、「ひつじ雲」!)
比較的低い位置にある雲は、上空に湿った空気が流れ込んできている証拠。ひつじ雲が出たら、半日以降に雨が降る予報。けれど、まだ雲の隙間から青空は見えている。これがどんよりと暗くなってきたらもうすぐ雨が降るけれど。
「これから雨は降ります。でも、今すぐじゃない。屋根の修理は終わりそうですか?」
尋ねると、男は頷いた。
「あ、ああ。今日の昼で終わる予定だ」
じゃあ、まだ時間はある!
「今、空に出ているのはひつじ雲。あれは、これから天気が崩れることを示しています。でも、まだ青空は見えるし、風も冷たくない。本格的に荒れてくるのは、今夜、遅くなってから。だから、今のうちに羊を羊舎に戻せば、荒れる前に間に合うよ、おじさん!」
男は不安げにアイラを見ている。この娘を信じてもいいのだろうか、そんな気持ちが透けて見えた。
「おいおい、空読みの魔女の言葉を信じないってのか? そっちが頼って来たんだろ? なら、少しでも言う事聞くってのが道理ってもんじゃねえの? ま、子羊が凍えて死のうが、オレたちには関係ないことだけどな!」
ソルが一歩前に出て、牙を見せながら男に向かって毒を吐いた。アイラは慌ててソルを抱き上げて口をふさいだ。
「ちょっと、ソル! そんな言い方しちゃだめ! ……仕方ないよ、ばっちゃんの凄さは……。私なんて……」
「年齢がなんだ! アイラはあの魔女の後を継いだんだ。その言葉すべてが魔女の言霊になる。おいおっさん! こいつの言葉は単なる予想じゃあねえ。雲の動き、風の匂い、肌に感じる温度すべてを読み取ってんだ! 信じるのか、信じねえのか、どっちなんだ?」
ソルのその勢いに、男は「ヒエッ」と小さく悲鳴を上げた。
「わ、わかった、信じる! あ、ありがとうな、お嬢ちゃん!」
そう言って彼は走って放牧地へと向かっていった。
アイラは腕の中のソルを見下ろしてため息をつく。
「ソル。そんな脅すような……」
「アイラ。自信持てよ。お前の空読みを一番近くで見てきたのはオレだ。あの魔女の、経験すべてを頭ン中に詰め込んだ、空読みの魔女アイラ。……だろ?」
「!」
ソルの青い瞳がアイラを見上げてくる。その真っ直ぐな瞳に、何も言い返す言葉は見つからなかった。
(私、自信持っていいの?)
自信満々に言い切ることはまだ難しいけれど。
空は、徐々に表情を変えていった。
白くぽっかりと群れをなしていた雲は、やがて隙間なく詰まっていき、暗くどんよりとしたものに変わる。
「雨、降りそう……。お願い、夜までもって……!」
湿った風が肌寒く顔を撫でる夕方。バタバタとまた男がやって来た。
「お嬢ちゃん! 疑って悪かった! 本当に寒くて雨が降りそうだ! なんとか羊を羊舎に入れることができたんだが、一頭だけ見つからないんだ!」
「ええっ!?」
「アイツは腹もデカいし、今夜あたり危ないかもしれない。どうか、魔女の勘でアイツの場所、分からないか!?」
そんなことを言われても。実を言えばアイラは魔女ではない。れっきとした人間だ。ばっちゃんは魔女だったかもしれないけれど。
アイラは、ただ空を見て天気を読むだけの、小娘だ。
「わ、私……」
その時、ソルが顔を上げ、するんとアイラの腕から降りて走り出した。
「おい、こっちだ!」
「ソル!?」
ソルの白い体が薄暗くなってきた景色にぼんやりと光る。彼は地面を滑るように走っていった。
「おじさん、ソルについて行こう! 何か見つけたんだ!」
「わ、分かった!」
アイラはふと思い立ってシーツを引っ掴んで胸に抱え、わたわたとソルを追いかけた。
隣村へ続く道は土がでこぼこして足元が悪い。アイラは何度も石に足を取られながらもソルを追いかけた。だんだん暗くなってきた。まだ、まだソルの白は見えるけど。
(雨降ってきそう……! お願い、神様……!)
放牧地の山のふもと、羊舎へは少し遠い場所。
ひゅう、と冷たい風が彼らの頬を撫でる。そして、ついにポツ、と一粒、雫が落ちてきた。
(降ってきちゃった!)
アイラの予報通り、雨が降り始めてきてしまった。冷たい北風は遮るものがない山の斜面を吹き抜けていく。ぶる、とアイラは腕をさすった。
ソルは迷いなく走っていく。彼の目には、太陽のように燃える新しい命を宿した赤い気配が見える。それは今にも分かたれてこの世に命が生まれようとしている。
「近いぞ! こっちだ!」
斜面の窪地、風がなんとか遮られそうな大きな岩陰に飛び込んだ。
「メェェ……メェ……」
明らかに苦しそうな羊の声。
お腹をパンパンに膨らませて、羊は落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返している。
「いた! アイツだ!」
男が指さす。しかし、その場所にたどり着くと、困ったように頭を掻きむしった。
「産気づいちまってる! 羊舎に動かすのも無理だ。……仕方がねえ、ここでなんとか……」
「ベェェェ〜」
羊は苦しそうに横たわる。アイラはオロオロと男と羊とを見た。
「わ、私、どうしたらいい? おじさん!」
彼は口元に指を当て、「静かに」と示した。アイラも口を手で覆う。
「……いいか、お嬢ちゃん。コイツはそろそろ本格的に陣痛が始まっちまった。横たわってるだろ、もうじき破水して、生まれようと子どもが頑張ってるんだ。親の集中を乱さないように、少し距離を取って静かにしててくれ。生まれたら、その布で体を温めてくれるかい?」
「……はい!」
ソルは体をぶるりと震わせ、魔力を総動員させた。ぽ、と火が灯ったように周囲の寒さが少し和らぐ。
雨は岩陰でなんとかしのげている。もっと雨足が強まったら大変かも。
羊はやがて横たわったまま脚をぴんと伸ばし、苦しげに声を上げた。いきんでいる。そのうち「バシャ」と音とともに水が出て、小さな脚が見えてきた。
「……生まれるぞ……!」
男の声に、アイラも息を呑んだ。初めて見る、羊の出産。命の熱と鼓動がすぐ近くで感じられるようで、どこか神秘的だ。
そして。
つるん、と膜に包まれた子羊が産み落とされた。母羊はすぐに膜を舐め取っていく。子羊は小さいながらも「メェェ……!」と産声を上げた。
傍らに立つ男は、ほ、と安堵の息をついている。けれど、まだ安心はできない。これから雨足が強まる予報なのだ。
アイラは空を見上げた。もう暗くなって雲は見えない。けれど、北風は本格的に荒れることを教えてくれた。
「おじさん! これ使って!」
アイラは抱えてきたシーツを男に差し出した。ずっと胸に抱えられていたそれは、雨にほとんど濡れておらずほんのりと温かい。
「助かる! よし、俺が子羊を抱えるから、親はこの子の声でついてくるはずだ。嬢ちゃん、本当にありがとう!」
男は布で子羊を覆い、抱き上げた。子羊は「メェェ……」と不安げな声を上げると、母羊もまたふらつく足取りで子どもを追っていく。
その姿が見えなくなると、アイラは、その場にへたり込んだ。ソルはそんな彼女に向かって怒鳴る。
「アイラ、おい、馬鹿野郎! そろそろ本格的に雨が降るぞ! オレたちも帰るんだ! ヘタってる場合じゃねえ、風邪ひくぞ!」
「あっ、そうだった!」
なんとか立ち上がって走る帰り道。雨で濡れた道に足を滑らせて何回か転ぶ。泥だらけになって家の中に入った時、雨は本格的にバラバラと音を立てて降ってきた。
(間に合った……?)
「空読みの魔女、予報通りだな」
ブルブルと体についた水滴を落としてソルはアイラを見上げた。
確かに、本格的に荒れると言ったのは、今夜遅くなってから。アイラの言葉通りだ。
「ほら、だから自信持てって言ったろ? ちゃーんと、空読みの魔女だぜ?」
ソルは青い瞳を細める。その青を見て、アイラはじわじわと嬉しさがこみ上げてきたのを感じた。
「……うん」
アイラはソルを抱き上げようと身をかがめた。――が。
「おい! 泥をまず落とせ! オレまで泥だらけになっちまう!」
ぴょん、とソルは嫌な顔をして飛び上がった。
「えー」
いいじゃない、とアイラは笑った。その笑顔には、夕方まで張り詰めていた不安はもう感じられない。
新米の空読みの魔女。けれど確かに、魔女として歩み始めた合図である。
本当は羊の出産が終わるまで外に出さないらしいですが、まあ、これは創作なのでお許しください。
羊雲は指の太さで分けるそうです。太かったら羊雲。それが空を覆い尽くして雲が増えていったら雨。




