朝霧の迷宮、チビどもの風に消ゆ
放置しすぎて申し訳ありません!
結局、ソルと一緒にぶどう踏みはできなかった。残り三日ほどかけて、ワイン作りは終了した。一ヶ月ほどでブクブクと樽の中で発酵し、秋が深まる頃に新酒が出来上がる。その時、一年のねぎらいも込めて領主様からごちそうが振る舞われ、飲めや歌えのお祭り騒ぎになる。アイラも自分が踏んだぶどうがお酒になるのも、新酒の味も今から楽しみだ。
「寒……」
夏の日差しが暑いと言っていた時が懐かしい。今日は珍しくキンと冷えた朝が広がっていた。アイラのベッドには毛布に包まるソルがぬくぬくと寝ている。
窓の外を見ると、雲の中にいるように白い。霧が出たのだ。
アイラはベッドから降り、スモックの上からワンピースを被った。これは少し厚手で温かい。冬物にそろそろ衣替えかしら。
ぼや、と窓の霧を見つめていると、ダンダン! と戸を激しく叩く音でビクリと肩を跳ねさせた。
「アイラちゃん! いるか!?」
慌てて戸を開けると、憔悴した様子の男が立っていた。麦農家の、四人の子どもがいる人だ。
「おじさん、どうしたの? こんな朝早く……」
「娘が、娘がいなくなったんだ!」
「……え?」
彼の娘は九歳、六歳、五歳の三人。彼女たちは羊を見に行くと言って日が昇る前に家を出たという。昨日から羊は隣村の山に放牧されている。大麦跡地にはいない。それを思い出したのは子どもたちが出て行って少し経ってから。
しかし、家を出たら真っ白で、まさしく一寸先も見えやしない。何とか手探りで大麦畑にたどり着いたものの、誰一人いなかった。
パニックになった男は今度はアイラの家に来た。空読みの魔女に助けを求めに来たらしい。
「……でも、霧なんて、私……」
どうにもできないんだけど!?
「……うるせぇなぁ……。あ? なんだ、人が来てたのか……」
ちょうどその時、ソルが部屋から出てきた。まだ眠いのか、目は半分閉じている。彼は大きく伸びてあくびをした。
「ソル! どうしよう、霧のなかに子どもたちが消えちゃったんだって!」
「……はぁ?」
秋の霧。これは放射霧である。またの名を、地霧。
雲のない夜、昼間の熱が空に逃げ、空気が冷える。そして、地表付近の湿った空気もまた冷やされ、小さな水滴、つまり霧となってもやもやと視界を悪くするのだ。
風が吹けば霧はあっという間に飛ばされてなくなるけれど、今日は風はなく穏やか。
さらに、霧が出る日は晴れる日と、相場が決まっている。
(だけど、霧が晴れるのは昼近くになってから。それまで待っていたら、あの子たち、ケガしちゃうんじゃ……!?)
話をじっと、ソルは聞いていた。クッションに丸まって、耳だけをこちらに向けるという不遜な態度だったけど。
「ふん。霧、ねぇ……」
「アイラちゃん、まじないとか、ねえか? 白さまを人にしたような、まじないをババ様から聞いてねえか?」
「そ、そんな……」
ソルが精霊など、誰も知らない。普通、精霊は目に見えないししゃべることもできない存在。そもそも、精霊がいることすら眉唾ものだ。アイラだって、ソルが精霊だと教えられて初めて、精霊が存在していることを知ったくらいだ。
ソルを人型にしているのはアイラのまじないだと村人は信じている。決して、そんな事ないんだけど!
「霧は、風があればすぐに消えっけど、今は力が足りねえよ」
ふむ、とソルはその前足を組んだ(と言っても可愛さが増しただけ)。アイラは不安げにソルを見る。
霧が消えるためには風が必要。風を起こすには、地面が太陽で温められなければならない。温められた空気は上へ向かう上昇気流となって、霧を散らすのだ。
けれど、濃い霧は太陽の熱を遮る力を持つ。地面が温まるまで、時間がかかってしまう。ソルの力もまた、霧に阻まれて届かないようだ。
「ソルぅ……」
どうしよう。
ソルは丸まっていたクッションからストンと降りた。そして、トコトコと外へ続く扉へ向かう。
「そ、ソル……?」
「白さま……?」
彼は外に出て空を見上げている。霧が濃くてソルの姿も消えてしまいそう。
「んー、こっちっぽい。ついてこい」
そう言って、彼は背を向けて歩き出した。
「あっ、待って! おじさん、行こう!」
「あ、ああ!」
(おい、チビども、本当にこっちなんだろうな?)
ぽちゃぽちゃと水の小精霊が喚いた。霧によって水の精霊の力が増している。そんな彼らを問いただしたところ、三人の人間のチビが隣村に続く道を通ったらしい。
(風のチビども。風はテメエらで起こせねえのか?)
ひゅるひゅる。彼らもまた、熱がなければ動けないらしい。使えない。
(土。早く温まるよう、全力出しやがれ)
ぺちぺち。首を振るチビども。はあ。ソルはため息をついた。
(本当にお前ら、使えねえな。水のは、まあ、たまには役に立つな)
きいきい! チビどもは抗議する。ソルは無視した。
ふわふわとしたソルの尻尾が、霧の白に紛れながら揺れる。見失わないよう、必死に歩く道。
距離が開けば、彼は立ち止まって後ろを振り返る。青い瞳だけが、光るように霧の中でも見えた。
「こっちだ」
白くて視界が悪くてよく見えないけれど、多分隣村に続く道だ。体は霧に浸されて、じっとりと濡れていった。
たまにソルは止まり、何かを探すようにきょろりと辺りを見回す。そして、誰かと話すように表情を変える。
(誰と、何を話してるんだろう)
やっぱり、精霊はもっといるのかなあ? ソルしか見たことないから、どうなんだろう。
(ああ? 山に行っただと!?)
ぽちゃん。水のチビは焦ったように飛沫を飛ばしている。山といえば、羊の放牧地であるけれど、斜面がきつい場所もある。滑り落ちたらただでは済まない。
はっきり言って、人間の子どもたちがどうなろうがソルは知ったこっちゃない。勝手に営んで勝手に消えていくのが人間だ。その辺で生まれて時が来れば死んでいく。虫や動物と同等のもの。それがソルにとっての人間であった。――数十年前までは。
力を抑えられ、キツネの姿になって魔女に拾われ。人の営みの中に放り込まれて、一歩引いた目線ではあったけれど、すぐ近くでその生活を見てきた。特にアイラ。彼女はソルの「名」を許し、一番近くで見てきた人間である。魔女が死んで、より人間の営みがアイラを通して近くなった。情もさすがに湧く。
(ったく、困った子どもたちだぜ)
早く見つけてやるからな。
「ねえ、おじさん。この道って、隣村の、山に行く道だよね?」
「あ、ああ。だとすると、あの子たちは山に行ったってのかい! ああ……神様……!」
男は両手を祈るように組んだ。アイラもまた、心の中で祈る。
(お願い……! 早く、出てきて……!)
すぐ近くの足元だけが見える。霧のもやもやとした視界は、時間が経っても悪くて、走り出そうものならその悪い足場で転んでしまいそう。
ぴたり、とソルが立ち止まる。彼の瞳は半眼だ。少し苛ついているようにも見える。どうしたんだろう。
(うるせええええ! 一匹ずつ話せ! 消されてえのか!)
ぽちゃぽちゃ。ひゅるひゅる。ぺちんぺちん。ソルの耳元でわちゃわちゃと精霊たちが集まってきて、何やら喚いている。ついでに火の精霊まで出てきて、ぼっぼっ言い始めた。
だん! と足を踏み鳴らすと一瞬静かになった。一瞬だ。
断片的な話をつなぎ合わせると、羊の放牧地に向かっていた子どもたちは、この悪い視界と足場の中で一番小さい子が走ってしまい、斜面を転げたらしい。怪我は、足をひねった? 泣いてる? 痛いからな。他の二人の子どもたちは、どうしていいか分からず、同じく泣いているらしい。
はぁ、とソルは焦燥に駆られている男を振り返った。
「山の中腹、羊の放牧地より少し下。その斜面に一番下が落ちた」
「なっ……!」
「足を捻ったらしい。三人まとめて泣いてる。泣き声をたどれ」
それはまるで、神の啓示のような、どこか神秘的なものだった。
(でも、私たちも焦ったら、斜面を滑る)
男も同じことを考えたのか、顔は青いまま、少しだけ歩調が速くなっただけだった。
耳を澄ます。霧に覆われた、静かな山。そこに、微かな「え……ん」という子どもの声。
「聞こえた! おじさん!」
「あああ……無事でいてくれよ……」
山道は霧に濡れた草で足場が悪い。ソルはまた何か考えていた。太陽は昇ってきたけれど、霧に隠れて白くもやもやとしている。
「おい、アイラ。燃えそうなもん持ってねえ?」
「ええ? 持ってきてるわけないでしょう?」
だよな、と苦笑する。
「何に使うの?」
「……ちょっとな」
仕方がない。
(火の。お前、頑張って土と風のを温めろ。土、ここの地面温めろ。風、温まったら風を起こせ)
キイキイ。キューキュー! 無理無理、と言わんばかりにわちゃわちゃといる小精霊たちは一斉に抗議した。チビどもは自然の事象に群がるだけの、ちっぽけな力を持つ存在だ。燃えるもんがあれば、少し元気になったかもしれないのに。
(オレだって、太陽がイマイチで力が出ねーんだよ!)
山は霧が消えるのが下より遅い。ちっとソルは舌打ちをした。
「白さま、燃えるもんって言ったか?」
男は遠慮がちに口を挟む。腰にぶら下げていたものを取り外した。それは、火種を入れた角。触るとほんのり温かい。角の中には、茸を乾燥させた、炭のようにじわじわと燃え続ける物が入っていた。
「おっ、良いもん持ってんじゃねえか」
アイラとは大違いだぜ、と言うと、アイラは口を尖らせて無言で草を集め、少し掘った土の上に置いた。
アイラも家の中では火種は絶やさないけれど、たまに消して隣に火種をもらいに走ったりしてる。
赤く燃える茸を草の上に置き、ふうふうと息をかけると、それはちろちろと燃え始めた。
「白さま、これでいいか? 俺、子どもら探してくるからな!」
ソルは目を細めて頷いた。
「ああ」
「そ、ソル! 私も行ってくるね! 寒かったの、ごめんね!」
違うんだけど、と言い出せず、ソルは複雑な面持ちで慌てて男を追いかけるアイラを見送ったのだった。
『ま、仕方ねえ。おいお前ら、これで遠慮なくやれるな? あ? 文句言うんじゃねえ。オレはお前らだからこそできると思って言ってんだけど?』
キイキイ文句を言っていたチビどもが、その言葉にピタリと口を閉じた。代わりに、ウズウズとした、きらきらとソルを見上げるまなざしが集まる。
「そう。それでいい。報酬は……そうだな、アイラのスープ。どうだ?」
きゃああ! 歓声が上がる。すっかりチビどもはやる気満々だ。
まず、ぼぼ……と燃える火に火のチビどもが集まった。彼らは火の力を得て少し体を大きくする。
次に、風と土のチビどもをボンボンと温めていく。気持ちいいのか、彼らは目を細めている。じんわりと土が温められ、風のチビも温度差から少し大きくなる。ひゅるり、と一度高らかに声を上げると、そよそよと風が吹き出した。
そよ風はソルの頭上の霧をゆっくりと飛ばしていき、少し経って、きら、と太陽が霧の間から顔を出した。その光を浴びて、ソルは人型に戻っていく。
「よっしゃ、読み通り。チビども、オマケだ!」
ぽあぽあと彼は太陽の力をチビどもに振り注いだ。きゃらきゃらと小精霊たちはソルの力に群がって、さらに体を大きくする。火の精霊が地面を温めて、土の精霊が地面を震わす。そして風の精霊がその上昇気流を起こした。水の精霊は体を小さくして、霧が消えるのをじっと見ていた。
湿った空気の中、アイラは白い海を泳ぐ。泣き声は徐々に大きくなっていく。
「おーい!」
男は姉妹の名前を呼ぶと、その声に気がついたのか、泣き声が「おとうちゃん!」という声に変わる。一人だけ、一番下の子だろうか、えんえんと泣いている。
そよ、と風が一筋、アイラの髪の毛を動かした。
(風が吹いてきた……! もしかしたら、霧も動くかも……!)
ぶわ……っとそよ風から一変、一度強い風が吹いた。アイラのエプロンがバタバタとはためく。
(わっ!? 何で!?)
けれど、そのおかげか、霧がみるみるうちに吹き飛ばされて、太陽が顔を出した。じわじわと温まる空気。
白く染まっていた視界が、すうっと色づいてはっきりとしていく。
少し先の道に、目を真っ赤にした姉妹が手を繋いで座り込んでいるのが見えた。男が駆け寄っていく。
「こんの、馬鹿者が! おーい! 今行くからな!」
男は一度姉妹を怒鳴り、斜面にいる子どもに声をかけた。
子どもたちと手を繋ぎ、アイラはもと来た道を降りていく。足を捻った子は父親に抱きかかえられている。
「ソル」
火種を角に仕舞い、足で土をかけて火を消している人型のソルがいた。
「晴れたね。体、温まった? 帰ったら温かいの作るからね」
「おう。腹減ったわ。『多めに』、な」
いつもふわふわしているソルの髪の毛も今日は霧に濡れてしっとりしている。
「あいらちゃん、わたしもおなかすいた」
六歳の女の子がアイラを見上げた。「私も」と九歳の姉も声を合わせる。
「お前らは母ちゃんからまず説教だ。……まったく、おてんば娘どもめ」
ようやく安堵の息をつきながら、男はやれやれと肩の力を抜いていた。
霧が消えたら、その日は快晴。
晴れやかな青空に、しっとりとした体は乾いていった。
家族と別れ、アイラとソルもゆったりとした気持ちで家へと向かう。
「……ソル、火を起こして何してたの?」
「ん、ぬくってた」
「ええ……」
嘘のなかにほんの少しの事実を混ぜて、ソルはアイラの頭に手を置いた。
「ま、これを学んだら、アイラも火種持ち歩けよな」
「的確すぎて言い返せない!」
からからとソルの笑い声が空へと響いた。
仕事、仕事が……!




