第92話 酒場と物流と盗賊の件(十)
木曜の夜は、長くはならなかった。
借家の中へ戻った時にはまだ少し会話が残っていたが、食事を済ませ、明日の荷をもう一度だけ確かめ、戸締まりの音が一通り終わる頃には、全員の気配が自然と静かな方へ沈んでいった。無理に言葉を重ねる必要がない。そういう疲れ方をしていた。
窓の外では、夜の街がゆっくりと深くなっていく。
酒場の方角から一度だけ笑い声が流れたが、それも長くは続かない。風が変わるたびに、遠くの犬の鳴き声や、どこかの家の戸板が閉まる音が薄く届く。部屋の中は暗く、布団に入ると一日の重さが背中から沈んだ。
マリナは横になってからも、すぐには眠れなかった。
頭の中で、今日の橋が何度も形を変える。草の陰、濡れた板、橋の向こうの弓、最後に口を開いた男の顔。橋だけじゃない。その言葉の先に、まだ見えていない場所がある。金曜の朝に向かう依頼は、その先の一つだ。
けれど同時に、魔王の店のことも頭にある。
早めに伝えてある。魔王は引き受けてくれた。副官さんも山本さんも動くと言ってくれた。それでも、金曜の朝は本来ならあの店にいるはずの時間だ。そのはずの自分たちが、明日は街道に出る。
胸の中で二つの流れが重なり合い、どちらも捨てたくないまま夜が深くなる。
「先生」
暗い中で、隣の寝台からレイナの声がした。
眠気を含んではいるが、起きている声だ。
「起きてますか」
「ええ」
「明日、終わらせたいですね」
その一言に、マリナは目を閉じたまま小さく頷いた。
「そうですね」
「終わらせて、店にも行きたいです」
レイナの言い方に、少しだけ笑いそうになる。真剣なのに、少しだけ欲が見える。けれど、その欲は自分にもある。
「ええ」
今度ははっきり声に出した。
「出来るなら、そうしましょう」
それで会話は終わった。
静かになった部屋の中で、マリナは呼吸を整え、ようやく眠りへ落ちていった。
次に目を開けた時には、外はまだ真夜中に近い暗さを残していた。
だが夜明け前の色はすでに混じっている。窓の縁の向こうに、ごく薄い灰色が浮いていた。起き上がると、冷たい空気が首筋へ触れ、その冷たさで一気に意識が澄む。
金曜の朝だ。
支度は静かで、速かった。
顔を洗う水が冷たい。指先から額まで、その冷たさが一息で走る。寝起きの重さを残したままにはしてくれない水だ。上着を着て、腰紐を締め、水袋を確かめる。金具が触れる小さな音が、まだ眠っている街の中ではやけに近く聞こえた。
ユウトとダインも、すでに起きていた。
隣の部屋から出てきたユウトは、昨日の夜と同じく余計な言葉を挟まない。表情は静かだが、その静けさの奥に金曜の朝だという意識が強く入っているのが分かる。
「黒崎くん」
「はい」
「眠いですか」
「大丈夫です」
即答だった。
「先生は」
「大丈夫です」
聞かれる前に返すと、ユウトは少しだけ口元を緩める。
その変化が分かるくらいには、もうこちらもこのやり取りに慣れてきていた。
借家を出ると、朝の空気が胸へ真っ直ぐ入った。
木曜の朝よりさらに冷たい気がする。空が高いせいか、風が少しだけ鋭い。石畳はまだ夜の温度を残していて、踏むたびに硬く冷たい感触が靴底へ返る。
通りは静かだ。人影はほとんどない。パン屋の奥で火を入れる音がして、煙だけが細く上がっている。まだ眠っている家々の窓の向こうで、今日の一日が少しずつ起き始めている気配がある。
ギルドの前には、今日もガルドが先にいた。
暗い中で立っているその姿は、いつもより輪郭が硬く見える。弓も短剣も、朝のわずかな光を受けて鈍く光っていた。
「おはようございます」
マリナが声をかける。
「ああ」
ガルドが短く返す。
「今日は早いな」
「そちらも」
「今日はな」
それ以上の言葉はいらなかった。
金曜の朝だということを、全員が分かっている。ここで長引けば店の方へも影響する。だからこそ、普段よりも少しだけ無駄が少ない。
ギルドへ入ると、夜番から朝番へ切り替わる狭間のような空気があった。
受付には昨日の受付嬢がすでに立っていて、こちらを見るなりすぐ奥へ声をかける。依頼票はもう用意されていた。話は昨日のうちに通っている。今朝は迷う時間を削るための朝だ。
「下流側の渡し場です」
受付嬢が地図を机に広げた。
「橋ではなく、浅瀬を挟んで荷車を渡す場所になります。ここ二日で、向こう側へ渡れず引き返した商隊が三件」
「橋を押さえられたなら、次はそこですね」
レイナが言う。
受付嬢は頷いた。
「はい。まだ被害そのものは確認できていませんが、現地で人の気配が消えている時間帯があるそうです」
「消えている」
ダインが低く繰り返す。
「人を止めてるな」
「そう見ています」
年嵩の職員も奥から出てきた。目の下に少し疲れがある。昨日の夜から詰めていたのだろう。
「今日で切りたい」
開口一番にそう言った。
「向こうもそれを分かってくるだろう。だから一番厄介な形で待つはずだ」
その言葉を聞いて、マリナは余計に意識を絞った。
一番厄介な形。
橋よりも、渡し場の方が動きは読みにくい。荷車も人も、浅瀬で足を取られる。水音があるから気配も散る。木立がなくても、石と岸の高低差だけで隠れる場所はいくらでも出来る。
「行きます」
マリナは依頼票を受け取り、そのまま畳んだ。
「昼までに戻れるよう、最初から切りに行きます」
それは意気込みではなく、確認だった。
ギルドを出て街を抜けると、空は少しずつ明るくなってきた。今日向かう道はこれまでと違い、途中から街道を外れて河原へ寄る。土の匂いが変わる。乾いた街道の匂いから、石と水と湿った草の匂いへ。足元も硬い土から小石混じりへ変わり、踏みしめるたびに靴底で小さく石が鳴る。
やがて、渡し場が見えた。
川幅は橋の時より広い。流れは浅いが、そこそこある。荷車が渡るために石がいくつか並べられ、岸には車輪の深い跡が残っていた。いつもなら朝のうちに何台かは通っていていい場所だ。だが今は、鳥の声と水音しかない。
「静かすぎますね」
レイナが言う。
「ええ」
マリナは川の向こう岸まで視線を走らせる。
視界は開けている。木立も橋ほど近くない。けれど、開けているから安全とは限らない。むしろ、隠れるものが少ないぶん、潜む側は低い位置を選んでいるはずだ。
「黒崎くん」
「はい」
「見えますか」
ユウトは少しだけ目を細めた。
「います」
その一言で全員の呼吸が揃う。
「どこ」
「向こう岸の石の影に三。手前の岸の草に二。少し離れた下流に弓が二。あと、もっと遠くにいます」
「遠く」
「向こう岸の高いところです。多分、見てるだけじゃないです」
指揮役か。
マリナは川と岸を見比べた。ここで渡るつもりなら、水に入った瞬間に遅くなる。それを両岸から挟む形だ。橋より面倒だ。
「渡りません」
すぐに決める。
「相手に水へ入るところを使わせる必要はありません。ガルドさん、下流の弓を先に。レイナ、手前の草を炙るように水を。ダインさんは正面から来るのを止めて。黒崎くん、向こう岸へ行けますか」
「はい」
「でも渡る時は、最短じゃなく斜めに。流れを正面で受けないでください」
「分かりました」
そこまで決まった瞬間、下流から矢が飛んだ。
狙いはマリナではなく、レイナの足元だった。動きを止めるための一射だ。
「レイナ!」
「大丈夫!」
矢が小石を弾き、鋭い音を立てる。石片が足首に当たり、痛みが小さく走ったはずだが、レイナは止まらなかった。足元へ走らせた水を草むらの前へ一気に押し出す。水はただ濡らすだけではない。草の根元の土を崩し、隠れていた二人の膝下を冷たくさらう。伏せたまま耐えるには流れが強い。草が揺れ、その向こうから短剣の男が顔を出した。
そこへガルドの矢が通る。
下流の弓手へ向けて放った一本が、相手の矢を番える手を抜く。さらに続けてもう一本。今度は河原の石に隠れようとした肩へ深く刺さり、弓が地面へ落ちた。
その間に、ユウトは川へ踏み込んでいた。
水は浅いが流れがある。膝下を洗う冷たさが足の感覚を鈍らせる。だから、足を高く上げて渡ると逆に流れへ取られる。ユウトは水を切らず、むしろ下へ押すように踏み、石の上へ体重を短く乗せていく。斜め上流へ向けて歩くことで、流れを真正面から受けずに済む。最短距離ではないが、そのぶん重心が流れない。
向こう岸の石陰から槍の男が立ち上がる。
狙いは川を上がる瞬間だ。足場が変わる場所、人が一番体勢を崩しやすい場所を待っていたのだろう。
だがユウトは岸へ上がる前に動いた。
片足がまだ水の中にあるうちに、右手で川石を蹴るように水を上げる。飛沫そのものに威力はない。だが、視界を切るには十分だ。槍の男が一瞬だけ目を細めた、その瞬間にユウトは一歩で岸へ上がる。濡れた足裏のまま土を踏むと滑る。だから上がり切る前に膝を深く入れ、腰を低く落として重心を下で受ける。これなら足が流れても、上体が先に倒れない。
槍が出る。
横薙ぎだ。岸へ上がるところを払う形。悪くない。
ユウトは下がらず、その槍の内側へ頭を差し込む。穂先が最も仕事をするのは先端だ。なら、その先端の外ではなく、柄に近いところへ入る。左前腕で柄を押し上げ、右肩を相手の胸へ当てる。川際は足場が緩い。そこへ胸を押されれば、下がろうとしても踵が沈む。槍の男の重心が後ろへ逃げたところで、ユウトの右拳が喉の下、鎖骨の間へめり込む。拳そのものではなく、踏み込んだ脚の力が背中を通って前へ抜けるから、短い距離でも体幹が揺れる。男は槍を手放し、後ろへ倒れた。
石陰から剣士が出る。
水際での戦いを見越していたのか、足元の低い位置を狙う斬撃だった。岸の土を斜めに削りながら、すねを断ちに来る軌道だ。
ユウトはその刃を飛び越えない。飛べば着地で死ぬ。代わりに、斬撃へ合わせて左足を引き、右足だけを軸に腰を回す。刃は足先をかすめて土を切る。その空いた脇へ、ユウトの左手が相手の手首を掴み、右肘が頬骨の横へ突き刺さる。岸際の剣士は足場を広く取れない。だから頭が揺れると、すぐ膝が外へ逃げる。剣士は半歩分よろけ、その半歩を取り戻す前に、ユウトの足が相手の足首の外を払った。払うというより、置き場を消した。支点を失った体はそのまま川へ横倒しに落ち、水を派手に散らして沈む。
向こう岸の三人目がようやく後ろへ引こうとする。
だがその前に、ダインがこちら側から川へ入っていた。盾を前へ出し、流れを切りながら進む。水を割る重い音が一歩ごとに鳴る。真正面からぶつかるわけではない。ユウトが正面を崩した隙に、斜め下流から寄って退路を塞ぐ形だ。
逃げようとした男は、前にユウト、横にダインを見る形になる。
そこで迷った。
その迷いが致命だった。
ユウトは一歩だけ前へ出て、男の胸倉ではなく肩の縫い目を掴む。服の強い場所を持てば、上半身ごと動かせる。引き寄せるのではない。横へひねる。逃げようと後ろへ乗っていた重心が、急に横へずれれば足はついてこない。男の腰が浮き、そこへダインの盾の縁が脇腹へ入る。面で押すのではなく、縁で芯をずらす当て方だ。男はそのまま浅瀬へ膝をつき、呼吸を吐いて動かなくなった。
こちら岸の草から出てきた二人は、すでにレイナの水とガルドの矢で位置を失っていた。
一人は足を取られたところへガルドの矢が腿を抜き、もう一人は短剣を握ったまま飛び出してきたところをマリナ自身が迎えた。
相手は低い。草を抜ける勢いをそのまま使って腹を刺しに来る角度だ。
マリナは後ろへ下がらず、半歩だけ左へ開いた。短剣の線を真正面で外すのではなく、肩幅一つ分だけずらす。刃が服の前を抜ける。そのまま男の手首へ自分の左手をかけ、右の掌で顎を押し上げる。殴るのではない。視線を上へ切り、首を反らせる。前へ出ていた足と上へ逃がされた頭は一緒に立たない。男の膝が伸び切ったところへ、マリナは自分の足を相手のかかとの後ろへ差し込み、肩で胸を押す。支えを失った男は後ろへ倒れ、短剣を離した。
最後の一人は、逃げようとしたところをレイナの水に足を取られた。
河原の小石は乾いていれば踏ん張れる。だが、その上を薄く濡らされるだけで裏切る。男は足首から滑って腰を落とし、立て直す前にガルドの矢が肩へ入った。
静かになった。
今度は水の音が最初から聞こえていた。
川幅の広いぶん、橋の時より音が散る。細い流れではなく、面で流れている音だ。その上に、自分たちの荒い呼吸が重なっている。
マリナは一度だけ目を閉じ、肺の中の空気を全部吐いた。それからゆっくり吸い直す。水の匂いと、濡れた石の冷たさが、息と一緒に胸へ入る。
「……全員、無事ですか」
「大丈夫です」
レイナが先に返す。
「こっちも問題ない」
ガルドも弓を下ろしながら言う。
「終わった」
ダインが短く続けた。
ユウトは岸から上がり、水を軽く払っている。服の裾は濡れているが、顔色は変わっていない。
「先生」
「はい」
「向こう岸、もういません」
「分かりました」
追わない。
その判断はもう、全員の中で共有されていた。今日の目的は、渡し場を押さえていた連中を崩し、情報を持ち帰ることだ。逃げた者がいても、ここで河原の奥まで追えばこちらが散る。
倒れた連中をまとめ、縄を掛ける。濡れた服が重い。縄も水を吸って少しだけ扱いづらい。それでも手順は崩れない。もう四日目だ。慣れたくないほど慣れてしまった手際で、全員が動く。
その最中、向こう岸で捕らえた男の一人が、歯を食いしばったまま低く呟いた。
「もう……」
声がかすれている。
「何ですか」
マリナが問うと、男は笑ったのか咳いたのか分からない息を漏らした。
「止まらねえよ」
それだけだった。
だが、その短い言葉がやけに重い。
止まらない。
何が。どこまで。
考える余地を残す言い方だった。
マリナは男を見下ろしたまま、低く返す。
「止めます」
感情ではなく、判断として言った。
男はそれ以上何も言わなかった。
河原を離れる時、濡れた靴の中が少しだけ重かった。
水を吸った布が足首へ張りつき、歩くたびに冷たさが遅れて上がってくる。その不快さが、今日の現場の性質をいつまでも体に残す。
だが街へ向かいながら、マリナの頭の中にはもう次のことがあった。
報告。
そして、金曜の店だ。
今の時刻なら、まだ昼前には届く。ギルドでの引き継ぎが長引きすぎなければ、そのまま向かえる。魔王の言葉が胸の中で繰り返される。朝のうちに終わるなら来い。間に合わへんのやったら、そっちはそっちで片付けてこい。
なら、今は急ぐだけだ。
街門が見えた時、マリナは自分の歩幅が自然と少しだけ広くなっていることに気づいた。疲れている。足も重い。けれど、それでも前へ出る足は止まらない。
「先生」
ユウトが横から声をかける。
「急いでますね」
「分かりますか」
「分かります」
少しだけ口元を緩めて言う。
「先生も、行きたいんですね」
マリナは一瞬だけ返事に詰まった。
だが、隠す意味もない。
「ええ」
素直に認める。
「出来るなら、行きたいです」
「俺もです」
短い返事だった。
その短さが、妙に胸へ残る。
街へ入ると、昼前の通りはもう動いていた。人の数が増え、荷車が軋み、店先からは呼び声が飛ぶ。その流れの中へ、今日もまた縄で繋いだ盗賊を連れて入る。
けれど今日の足取りは、昨日までより少しだけ速かった。
終わらせたからだ。
少なくとも、今見えている一本は、ここで切った。
その感触だけを胸に、五人はギルドの扉へ向かった。
⸻
(続く)




