第91話 酒場と物流と盗賊の件(九)
橋を離れてしばらくすると、川の音はもう背中の向こうへ沈んでいた。
代わりに耳へ戻ってくるのは、縄で繋いだ盗賊たちの荒い息と、湿った道を踏む足音だ。橋の手前よりも地面は少し乾いていたが、それでも朝のうちに含んだ水気が土の奥に残っていて、靴底にまとわりつく重さは完全には消えない。捕らえた男の一人が歩くたびに鎖骨のあたりで小さく呻き、その声が妙に生々しく空気へ滲んだ。
マリナは前を向いたまま、呼吸だけを整えていた。
さっきの橋での動きは悪くなかった。初手の矢も、草の中の伏兵も、橋板を使った圧も、全部見えた上で崩せた。けれど、そこに安心できる要素はほとんどない。橋の手前、橋の上、橋の向こうと、相手は位置ごとに役割を分けていた。しかも捕らえた男の口ぶりからすると、あれで終わりではない。
木曜で終わるとは、もう言えない。
その現実が、歩くたびに少しずつ形を持ってくる。
「先生」
ユウトがすぐ横から声をかけた。
「何ですか」
「足、平気ですか」
不意の問いに、マリナは一瞬だけ視線を落とした。たしかに橋へ入る手前で、濡れた土に半歩だけ取られた。転ぶほどではなかったし、今も歩けている。けれど、それを見ていたらしい。
「大丈夫です」
「良かったです」
それだけ言って、ユウトはまた前を向く。
相変わらず妙なところで細かい。
レイナがそれを聞いて、少しだけ口元を上げた。
「黒崎くん、先生のことになると本当に見てますね」
「一番大事ですから」
「そういう返しを即答しなくていいです」
マリナが言うと、レイナは堪えきれずに笑った。けれど、その笑いも長くは続かない。今日の橋の感じが、昨日や一昨日より一段重いことは、全員が分かっている。
街門へ戻り着く頃には、日差しはほとんど昼のものになっていた。
石の壁が光を返し、目に白く刺さる。門の影へ入ると、肌へ張りついていた湿気が少しだけ薄まり、その代わりに街の乾いた匂いが肺へ入った。焼かれたパン、干した布、荷車の軋み、通りを行く人々の体温。いつもの街の匂いだ。
だが、いつもの街に、今日も縄で繋いだ盗賊を連れて入る。
その事実の重さは隠せない。
門番は今日もすぐ顔を変えた。
「また出たのか」
「橋を押さえていました」
マリナが答える。
「昨日より配置が良く、数も増えていました」
門番の眉間に皺が寄る。
「ギルドへ回す。急いでくれ」
「はい」
街の中へ入ると、視線が集まる。昨日よりさらに色が違った。好奇心だけではない。不安が混じっている。王都からの流れが止まることが、少しずつ街の誰にとっても他人事ではなくなっているのだろう。
ギルドの扉を開けた時には、もう空気の方が待っていた。
依頼板の前の冒険者たち、受付前の依頼主、奥へ向かう職員。そこに縄の擦れる音が入った途端、会話の端が揃って止まる。
「戻りました」
マリナの声は、三日続けて同じ言葉を言っているとは思えないほど乾いていた。
「川沿いの橋で待ち伏せです。昨日までより、さらに押さえる意図がはっきりしていました」
受付嬢がすぐに立ち上がり、年嵩の職員も奥から出てくる。今日の引き継ぎはさらに早い。もはやこの流れに余計な説明はいらないのだろう。
盗賊たちは奥へ連れていかれ、マリナたちもそのまま別室へ通された。
部屋に入ると、机の上の紙が昨日より増えていた。いくつかの街道、印のついた場所、短く書かれた報告。紙の枚数だけで、今日までの三日が積み上がっているのが分かる。
「聞かせてくれ」
年嵩の職員が椅子へ腰を下ろしながら言う。
マリナは深く息を吸い、それから橋の手前での矢、草に伏せていた二人、土手の三人、橋向こうの弓と近接、濡れた橋板、捕らえた男の言葉、全部を順に話した。言葉を並べるほど、橋という場所を押さえることの意味がはっきりしていく。荷を狙うだけではない。通したくないのだ。遅らせたいのだ。止めたいのだ。
年嵩の職員は途中で一度だけ顔を上げた。
「橋だけじゃない、と言ったんだな」
「はい」
マリナは答える。
「最後までは言わせていません。でも、あの口ぶりなら、まだ別の箇所があります」
部屋の中の空気が重く沈む。
受付嬢が小さく息を吸った。
「ここまで来ると、もう点じゃありませんね」
「線だ」
年嵩の職員が低く言う。
「しかも一本じゃない可能性がある」
ガルドが腕を組んだまま目を細める。
「他の街道も含めて、まとめて詰まらせる気か」
「そこまでは断定しないが、楽観できる段階ではない」
職員の答えは硬かった。
そのあとに来る言葉は、もう予想がついていた。
「明日も動いてほしい」
年嵩の職員が真正面から言う。
「金曜の早朝、川の下流側へ向かう分岐でも、同じように引き返しが出ている。橋を押さえられたなら、渡し場や浅瀬も危ない」
金曜。
その単語が、部屋の中で少しだけ重く響く。
マリナは昨日、そして今朝のやり取りを思い出した。先に話しておいて良かった、とまず思う。今日ここで初めて金曜へ食い込む可能性を知ったなら、話はもっと面倒になっていた。
「こちらからも確認があります」
マリナはそう言ってから、年嵩の職員の目を見た。
「すでに昨日のうちに、金曜以降まで依頼が続く可能性があることは、別件の長期契約先へ伝えてあります」
受付嬢が少しだけ安堵した顔になる。
「助かります」
「ただし、金曜はそちらも営業日です。出来るなら、朝のうちで片づけられる形にしてほしい」
それは希望であって、要求ではない。だが口にしておくべき線だ。
年嵩の職員は頷いた。
「こちらも出来る限りそうしたい。現地確認と、必要なら排除。だが長引くなら、その時点で切り上げてくれていい。継続の要否はこっちで判断する」
「分かりました」
そこまで決まれば十分だ。
ギルドを出た時には、昼の光はもう完全に真上から落ちていた。影が短い。石畳の照り返しが強く、目を細めるだけで頬に熱がたまる。
通りを歩きながら、レイナが息を吐いた。
「やっぱり金曜まで行きましたね」
「ええ」
マリナは短く返す。
「ここまで来ると、そうなると思ってました」
「魔王さんに先に言っておいて正解だったな」
ガルドが言う。
「そうですね」
それが一番大きい。
言っていない負い目を抱えたまま金曜を迎えるのと、もう伝えた上で判断を待つのとでは、気持ちの重さがまるで違う。
ユウトがそこで、静かに口を開いた。
「先生」
「何ですか」
「金曜、朝のうちに終わらせれば、店には行けます」
それは希望だ。だが願望だけの声ではない。橋での動きと同じように、現実として組み立てようとしている声だった。
「そうですね」
マリナも頷く。
「出来るなら、そうしたいです」
「はい」
その返事は短いが、きっぱりしている。
そのまま一度借家へ戻るか、それとも先にもう一度だけ魔王のところへ寄るか。迷ったのはほんの一瞬だった。
「先に行きましょう」
マリナが言う。
「金曜まで行くことになった以上、今日のうちにもう一度だけ話を通しておいた方がいいです」
「賛成です」
レイナもすぐ頷いた。
「向こうも準備を変えるでしょうし」
「だな」
ガルドも異論はない。
魔王のケーキ屋へ向かう道は、昼の街の中でも少しだけ空気が違う。甘い匂いが流れてくる前から、通りの客層や視線の向きで分かる。金曜から日曜にかけてはあの店が街の一つの流れを作る。その準備に入る木曜の昼に、そこで働く者たちが依頼帰りのまま顔を出す意味は軽くない。
扉を開けると、今日は昨日よりもさらに濃い甘さがあった。
乳を煮た香りに、焼き上がる生地の匂いが重なり、そこへ果物の酸味が少しだけ混じる。厨房の奥では火がいくつも動いているらしい。営業日ではないはずなのに、もう店の空気が出来始めていた。
「おう、戻ったか」
魔王がすぐに気づく。
その声の軽さに、マリナの肩の力がほんの少しだけ緩む。
「はい」
一歩進み、頭を下げる。
「今日の依頼報告と、金曜の件で来ました」
副官さんもすぐに帳面を閉じた。昨日よりも動きが早い。すでにこちらが何を言いに来たか、半分は読んでいるのだろう。
「金曜まで延びましたか」
副官さんが問う。
「はい」
マリナは顔を上げて答える。
「明日の早朝、もう一件入ります。朝のうちに切り上げられる可能性はありますが、確約は出来ません」
魔王は一度だけ「ほう」と低く言ってから、腕を組んだ。
怒る顔ではない。考える顔だ。
「なるほどなあ」
少しだけ間を置き、それから口元を緩める。
「せやったら、こっちはこっちで回すわ」
その言葉が、思ったよりまっすぐ胸へ落ちた。
「ユウトがおらん分は、ワシが夜通しでも仕込めばええ。副官もおるし、表は副官と山本でなんとかなるやろ」
当然のように言う。
当然のように言うが、その内容は軽くない。ケーキ作りの負担も、売り場の回し方も、全部を含めた上で引き受けると言っている。
副官さんも頷いた。
「はい。前もって分かっているなら調整できます。山本さんにも今日のうちに動きを整理して伝えておきます」
「ありがとうございます」
マリナは深く頭を下げた。
レイナも隣で息を吐く。
安心したのだろう。それが声にならなくても分かる。
魔王はそこで、ユウトを見た。
「お前、そないな顔すんなや」
少しだけ笑っている声だった。
「金曜に間に合うなら来い。間に合わへんのやったら、そっちはそっちで片付けてこい。どっちに転んでも、中途半端が一番あかん」
「はい」
ユウトの返事は重かった。
軽く受けていない声だ。
「ちゃんと片づけます」
「せや」
魔王は頷く。
「それでええ」
副官さんが視線をマリナへ向ける。
「皆さん、明日の朝に動いて、その時点で見切りをつける形ですね」
「はい」
マリナも頷く。
「昼までに終われば、そのまま店へ向かいます。終わらない場合は、現地で切り上げられるかどうかを見て判断します」
「分かりました」
副官さんは帳面を開き、すぐに何か書きつけた。
「こちらも金曜朝の動きを少し変えておきます。魔王様が仕込みを増やし、私は会計と全体を見ます。山本さんは表に立つ時間を増やし、必要なら私が補助します」
その言葉に、マリナはようやく本当の意味で肩の力を抜いた。
山本さんは新人だ。だが、だからといって何も出来ないわけではない。副官さんが見て、魔王が徹夜も辞さず、山本さんが表で踏ん張る。それだけ言われれば、こちらも迷いを抱えたまま明日へ行かずに済む。
レイナが小さく笑う。
「山本さん、頑張りどころですね」
「頑張ってもらうで」
魔王が言う。
「そもそも、こういう時のために人増やしたんやしな」
その言い方に無理がない。
商売も、戦いも、結局は流れだ。一人が欠けても、全部が止まらないようにしておく。それを魔王は最初から当然のこととして考えているのだろう。
ユウトがそこで、小さく息を吸った。
「師匠」
「ん」
「ありがとうございます」
魔王は片手をひらひらさせる。
「礼は、ちゃんと戻ってきてからでええわ」
それから、少しだけ目を細めた。
「ただし、無茶して潰れるんは許さん。そっち片付けて、こっちもやる。欲張るなら最後まで立っとれ」
冗談の調子ではない。
副官さんも静かに続ける。
「怪我を増やして両方崩すのが一番困ります。そこは忘れないでください」
「はい」
マリナは改めて頷いた。
話が終わった頃には、店の中の甘い匂いがさらに濃くなっていた。火の回った乳と、生地の焼ける香り。営業日の前日らしい、準備の匂いだ。
その匂いの中で借家へ戻る道は、行きよりも少しだけ軽かった。
明日の重さは変わっていない。けれど、背負い方が決まった分だけ違う。迷いの重さが消えたのだ。
途中で、ガルドはまた自然に自宅の方へ別れた。
「じゃあ、俺は戻る」
短い一言だが、その背中の向こうに家族のいる家があることを思うと、やはりそこは崩してはいけない形だと感じる。
「明日の朝、また」
「お願いします」
マリナが言うと、ガルドは頷いて自宅へ向かった。
借家へ入った時、窓の外の光はもう夕方へ差しかかっていた。
明日の朝まで長くはない。だからこそ、今夜は無理に話を広げない方がいい。
そう思っていたのに、卓へ荷を置いたところで、ユウトがぽつりと言った。
「先生」
「何ですか」
「金曜、行けたら嬉しいです」
あまりにも素直な声だった。
マリナはその声を聞いて、思わず返事が一拍遅れた。
「……そうですね」
やっとのことで答える。
「私も、出来るなら行きたいです」
それは本音だった。
依頼を片づけたい。街道も放っておけない。けれど、金曜の店に立ちたい気持ちも本物だ。だからこそ、ここまで動いている。
ユウトはその返事に小さく頷いた。
「なら、頑張ります」
簡単に言う。
だが、その言葉の中身は軽くない。
レイナが横で少しだけ笑う。
「黒崎くん、今のはいいですね」
「何がですか」
「今のはちゃんとしてました」
「いつもちゃんとしてます」
「全部はしてません」
「そうですか」
そんなやり取りに、ようやく借家の中へいつもの空気が戻った。
外では夕方の風が少し強くなっている。戸の隙間から入る空気は昼より冷たく、明日の早さを先取りしているようだった。
木曜の夜が来る。
そして次は、金曜の朝だ。
マリナはその境目を意識しながら、静かに息を整えた。
⸻
(続く)




