第90話 酒場と物流と盗賊の件(八)
借家へ戻ったあとは、さすがに大きな話はもう出なかった。
出せるだけの段取りは済ませている。ギルドへの報告も、魔王への連絡も終えた。あとは体を休め、明日の朝に余計な疲れを残さないことの方が大事だった。
夕方の光はゆっくりと壁を滑り、床の上の明るい場所を少しずつ動かしていく。台所ではレイナが水を温め、マリナは明日のための布と小物を手早く整えていた。ユウトとダインは装備を見直し、必要な紐や革の締まりを確かめている。外から聞こえてくるのは、通りを行く人の話し声と、どこかの家の戸が閉まる音くらいだ。
そういう静かな時間の中で、昼の戦闘だけが妙に鮮明に残っている。
斜面を踏み込む足の置き方。湿った土に取られそうになりながらも、腰を落として体勢を崩さなかったユウトの動き。昨日より統制された盗賊たちの配置。揃いの札。王都の名。
考え始めると、頭の奥がまた固くなる。
マリナはそれを振り払うように、手元の布を畳み直した。布地のざらりとした感触が指先に触れ、その小さな現実が少しだけ意識を今へ戻す。
「先生」
呼ばれて顔を上げると、ユウトがこちらを見ていた。
「何ですか」
「明日の水、これで足りますか」
差し出された水袋は二つ。膨らみ具合からして、どちらもきちんと満たされている。
「ええ、大丈夫です」
「先生の分、少し多めに入れてます」
「どうしてですか」
「今日は先生、思ったより喉が乾いてたので」
昨日や今日の戦闘のあと、水を受け取った時の様子でも見ていたのだろう。そういうところだけ妙に細かい。
マリナは一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
「はい」
素直に頷く。
余計なことを言わない時は本当に言わない。その分だけ、たまに放り込まれるまっすぐな一言の威力が高いのだと、最近はもう認めざるを得なかった。
レイナがそのやり取りを聞きながら、鍋の湯気の向こうで口元を持ち上げる。
「先生、今日はわりと素直ですね」
「疲れてるからです」
「便利な理由ですね」
「便利でも何でもいいです」
返しながらも、自分の声に無駄な力が入っていないことに少しだけ驚く。昨日の酒場なら、ここでまた頬が熱くなっていただろう。だが今は、恥ずかしさよりも明日の方が先にある。
夕食は簡単なものになった。
豆の残りを薄く延ばし、少し固くなり始めたパンを浸して食べる。それだけでも空腹には十分だった。温かい汁が胃へ落ちるたび、体の中の張り詰めたものが少しずつほどけていく。食器の触れ合う小さな音と、スープをすする音だけが静かに続き、その間に誰かが無理に口を開くこともなかった。
食べ終えたあとで、ガルドが一度だけ顔を見せに来た。
自宅へ戻って夕餉を済ませたのだろう。昼間よりも少しだけ落ち着いた空気をまとっている。だが、その目はもう明日の朝へ向いていた。
「様子見に来た」
扉のところでそう言って、中へ入る。
「準備は終わってるか」
「だいたいは」
マリナが答えると、ガルドは卓の上の荷を一通り見た。水、布、簡単な食料、縄、予備の紐。確認する目に無駄がない。
「十分だな」
短く言ってから、少しだけ視線を柔らかくする。
「明日は今日より踏み込むことになるかもしれん。だが焦るな。今日ので相手の質が上がったなら、向こうもこっちを見てる」
「はい」
マリナは頷いた。
「分かっています」
「ならいい」
それだけ言って、ガルドは長居せずに戻っていく。
家族のいる自宅へ戻るその背中は、やはりこの人の居場所はあちらなのだと思わせる自然さがある。借家に拠点を置いていても、夜になればそれぞれの場所へ戻る。その形が崩れないことに、マリナは少しだけ安心した。
夜は思ったより深くならなかった。
疲れていたのだろう。寝台へ横になると、背中が布を受けた瞬間に体の重さがすっと沈んだ。窓の外で一度だけ風が鳴り、遠くで酒場の方角から笑い声が小さく流れてきたが、それもすぐに遠のく。目を閉じると、今度は昼の谷ではなく、朝の冷たい空気を思い浮かべながら眠りへ落ちていった。
次に目が覚めた時には、もう木曜の朝だった。
夜明け前の薄青い光が、窓の隙間から床へ細く落ちている。空気は昨日よりも少しだけ乾いていて、頬に触れる冷たさがはっきりしていた。起き上がると、寝ている間に固まった肩が少しだけ軋む。だが、痛むほどではない。体は動く。
隣の寝台では、レイナももう起きていた。
「おはようございます」
「おはよう」
声は低いが、眠気は残っていない。起きた瞬間から今日へ意識を切り替えている顔だ。
支度は静かに進んだ。
顔を洗う水の冷たさが、指先から肘まで走る。髪を整え、上着を着て、腰の位置を確かめる。必要なものを順番に手に取る動作に迷いがない。昨日までの動きがそのまま繋がっているからだろう。
隣の部屋からは、ユウトとダインの気配が聞こえる。
革を締める音。木の卓に何かを置く音。短く交わされる声。生活の音でありながら、そのまま出発前の緊張へ繋がっていく音でもある。
軽い朝食を胃へ入れたあと、四人は借家を出た。
朝の街はまだ起き切っていない。石畳は冷たく、空は白み始めたばかりだ。遠くの屋根の縁に薄い光が乗り、煙突から細い煙が上がっている。歩く人影は少なく、パン屋の前にだけ早い時間の匂いが漂っていた。
ギルドの前には、今日もガルドが先に来ていた。
昨日と同じようでいて、少し違う。今日は弓だけでなく、腰の短剣の位置もいつもよりきちんと決まっている。谷や川沿いの起伏を意識しているのだろう。
「おはようございます」
マリナが声をかける。
「ああ」
ガルドが頷く。
「ギルドはもう開いてる」
「早いですね」
「今日は向こうも早い」
言われて中へ入ると、確かに空気が違った。まだ人は多くない。だが少ないからこそ、張りが目立つ。受付の前には昨夜見た年嵩の職員もいて、こちらを見るなりすぐ手を上げた。
「来てくれたか」
「はい」
「依頼票は出来てる。川沿いの分岐だ」
差し出された紙を受け取る。今日の目的地は、南側の街道からさらに枝分かれした先。川に近く、荷車が橋を渡る前に一度速度を落とす場所。そこでも引き返した商隊が出ているらしい。
マリナは紙を目で追いながら、昨日よりさらに嫌な感覚を覚えた。
地形が、人を止めるために出来ている。
曲がり、川、橋、減速。待ち伏せには十分すぎる。
「これで三つ目ですか」
レイナが小さく言う。
「今見えている範囲では」
受付嬢が答えた。
「ただ、全部が同じ線で繋がるかはまだ断定できません」
「でも可能性は高い」
ガルドが補うように言う。
「そうですね」
マリナは依頼票を畳んだ。
「行きましょう」
そこから先は早かった。
街を抜け、南の道へ入り、昨日より少し長く歩く。朝の空気は冷たいが、歩けばすぐに体が温まる。川に近づくにつれて、土の匂いが少し変わった。湿り気だけではない。水そのものの匂いが混じる。風も、谷より流れがはっきりしている。
やがて道が緩く曲がり、その先に木橋が見えた。
川幅は広くない。だが、流れは思ったより早い。橋の手前で道が少しだけ狭くなり、両脇の草も深い。荷車なら確かに一度足を落とす場所だ。
「嫌な形ですね」
レイナが呟く。
「ええ」
マリナは短く返した。
視界は開けているようで、開けきっていない。橋の向こう側は見える。だが、手前の草と土手の影が、ちょうど人一人二人を伏せさせるには十分な高さだ。
そこで、ユウトの足がわずかに止まった。
「先生」
「はい」
「います」
その一言で全員の気配が変わる。
「どこ」
マリナが小さく問う。
「橋の手前、右の草に二。左の土手に三。向こう側にもいます。弓が二、近いのが四、奥にまだいます」
昨日よりもさらに数が多い。
しかも、最初から橋を使うこちらを待っている配置だ。
「黒崎くん、正面を見すぎないでください。最初は橋に入らない」
「はい」
「ガルドさん、弓を見て。ダインさん、橋の入り口で受けてください。レイナ、足元と川側をお願いします」
返事が重なった、その直後。
草の中から矢が飛んだ。
狙いは足ではない。胸の高さだ。最初から立ち止まらせるつもりではなく、当てに来ている。
「下がって!」
マリナが声を飛ばし、自分も半歩引く。
矢は目の前を裂き、後ろの地面へ刺さった。乾いた土ではなく、少し湿った土を打ったせいで、衝撃の音が鈍い。
だが一射で終わらない。
橋の向こうからも、二本目が来る。
「ガルドさん!」
呼んだ時には、もう矢が返っていた。
ガルドは下がらない。半身のまま弓を引き、最初の射手が二本目を番える前に手首へ通す。悲鳴が上がり、草が大きく揺れた。その揺れた場所へさらにもう一本。隠れ直す余裕を与えない。
その瞬間、左の土手から二人が飛び出した。
一人は槍、一人は剣。橋へ入る前の狭い場所へ押し込むつもりだ。
ダインが正面へ出る。
槍の穂先が胸を狙って伸びる。ダインはそれを面で受けない。盾の縁を少しだけ外へ傾け、穂先を流し、そのまま一歩前へ踏み込む。槍は長い。受け流された瞬間に懐へ入られると、柄を持ち替える時間がいる。だがその時間はない。ダインの盾が槍の男の肩口へ食い込み、上体を起こしたまま押し返す。重心が後ろへ逃げる。後ろ足はまだ前へ出るつもりだった位置にある。そこへ押し戻されれば、足同士がぶつかり、自分で自分を支えられない。槍の男はたたらを踏み、その横へ剣の男まで巻き込まれて体勢を乱した。
ユウトはそのずれを見て、橋ではなく左の土手へ踏み込んだ。
湿った草の上は滑る。だから足を高く上げず、土を擦るように短く刻む。上へ登る側は体を起こしすぎると足が死ぬ。腰を落としたまま、膝と足首だけで傾斜を拾う。そうして間合いに入った時には、剣の男はまだダインに気を取られていた。
ユウトの左手が男の剣腕の外側へ触れ、そのまま肘を内へ折るように押し込む。斬り返しに使う肩の線が潰れ、腕が胸の前で詰まる。そこへ右手の拳ではなく、掌底が顎へ入る。下から突き上げるのではなく、首を真後ろへ押し返す角度だ。足場の悪い土手で頭を後ろへ持っていかれると、人は踏み直す前に腰が浮く。剣の男は踵を滑らせ、そのまま尻から斜面を落ちた。
槍の男が態勢を立て直そうとする。
だがユウトは止まらない。槍の柄を両手で握ったその腕の下へ潜り込み、右肩を脇の下へ差し込む。槍を使う相手は、両腕を前へ出した瞬間に胸が開く。そこへ肩を入れられると、武器と体の線が切れる。ユウトは肩で上体を浮かせたまま、左手で腰帯を掴み、体を半回転させた。斜面の上側から下側へ、重心の向きを変える投げ方だ。槍の男は足の置き場を失い、肩から土手を転がり落ちる。落ちきる前に槍が手を離れ、橋の手前へ乾いた音を立てて落ちた。
橋の向こう側から、今度は三人がまとめて来た。
剣、棍棒、そして短弓持ち。昨日までとは違う。橋を挟んで射手を残したまま、近接を前へ出してくる。前後で圧をかけるつもりだ。
「レイナ!」
マリナが呼ぶ。
「はい!」
返事と同時に、水が橋板の上を薄く走った。
川から汲み上げるような大きな流れではない。橋板の隙間と木の表面だけを濡らす、細く速い水だ。乾いていた板が一瞬で艶を持つ。
そこへ棍棒の男が踏み込む。
板の上で力を入れるつもりだった足が、半歩だけ外へ逃げる。大きく転ぶほどではない。だが、その半歩があるだけで腰は立たない。棍棒は振り下ろしの途中で軌道を失い、橋板を叩いて鈍く跳ねた。
ダインがそこへ入る。
盾を前へ出し、跳ね上がった棍棒の柄ごと男の胸へ押し込む。橋の上では下がる余地がない。後ろへ逃げようとしても、後続の剣士が詰めている。だから押し込まれた力がそのまま後ろへ抜けず、胸骨と肩で詰まる。棍棒の男は息を吐き、後続を巻き込んで橋板へ倒れ込んだ。
その後ろから短弓持ちが矢を放とうとする。
ガルドの矢が先だった。
橋の向こう側、欄干の隙間を抜いた矢が短弓持ちの首元すれすれを裂く。致命ではない。だが狙いを外すには十分だ。矢は空を切り、川面の向こうへ消えた。
残った剣士が踏み越えて来る。
橋板の上での踏み込みは重い。木が鳴る。刃は低く、腹を切りに来る角度だった。足場が濡れている以上、避ける側も流される。良い狙いだ。
だがユウトは橋の上に乗らなかった。
橋板へ入る一歩手前で止め、逆に剣士が橋を下りる瞬間を待つ。橋の上から地面へ降りる時、人の足は必ず段差へ意識を割く。そこへ斬りながら入れば、刃に力を乗せるための腰が一瞬だけ浮く。
その浮いた瞬間に、ユウトは踏み込んだ。
右足を相手の踏み出し足の外へ置き、体を刃の内側へ滑らせる。左手で前腕を押さえ、剣の線を自分の右肩の外へ逃がす。そこで止めず、そのまま体ごと中へ入る。密着した位置では長剣は仕事をしない。相手が肘を引こうとする前に、右拳を鳩尾へ沈める。腕だけではない。踏み込んだ足から腰、背中を通して前へ押し込むから、短い距離でも息が潰れる。剣士の膝が折れたところへ、左手で後頭部を押さえ、下がった自分の膝へ顔面を落とす。骨と骨のぶつかる重い音がして、男はその場に崩れた。
橋の向こうで、まだ一人が走ろうとする。
逃がせば奥の位置が分からなくなる。
「ガルドさん!」
マリナの声に、ガルドは短く「ああ」とだけ返した。
次の矢は脚を狙っていた。膝の少し上を貫かれた男は、橋の途中で片脚を失い、欄干へ肩をぶつけて倒れる。そこへダインが橋へ乗る。濡れた板の上でも、足裏の置き方が変わらない。踏み込みを大きくしない代わりに、体の重さを真っ直ぐ通す。倒れた男の胸へ盾を押し当て、欄干ごと逃げ道を塞いだ。
静かになった。
川の音が、遅れて耳に入る。
さっきまで聞こえなかったわけではない。だが人が動き、木が鳴り、武器がぶつかっている間は、意識の外へ押しやられていたのだろう。今になってようやく、水の流れる細い音が橋の下から上がってくる。
マリナはそこで初めて深く息を吐いた。
胸の中に残っていた張りが、吐息と一緒に少し落ちる。
「……まだいますか」
ユウトへ向けて言う。
「奥に二人。離れてます」
ユウトは橋の向こうを見たまま答えた。
「今は逃げてます」
追えば追えないこともない。だが、ここで深追いすれば相手の庭へ入ることになる。
「追いません」
マリナはすぐに決めた。
「ここまでで十分です。捕らえた者と、配置と、橋を押さえていた事実だけで足ります」
ガルドも頷く。
「妥当だな」
ダインが橋板の濡れを足先で確かめながら言う。
「今日は橋を使った分、向こうも仕掛けを絞ってきてる」
「ええ」
マリナは倒れた男たちを見下ろす。
昨日、今日と積み上がったものが、もう偶然の範囲を超えている。橋を押さえる配置まで出た以上、物流そのものを詰まらせる意志がはっきりしている。
その時、橋の向こうで捕らえた男の一人が、血の混じる唾を吐きながら低く笑った。
「遅いんだよ」
掠れた声だった。
「何がですか」
マリナが冷たく返す。
男は顔を上げる。目だけが妙にぎらついていた。
「橋だけじゃねえ」
そこで咳き込む。
喉の奥で血が鳴る音がした。
「もっと……」
言い切る前に、ダインが肩を掴んで口を閉じさせた。乱暴ではない。だが、それ以上喋るために余計な気勢を保てない押さえ方だった。
マリナはその男を見たまま、ゆっくりと言う。
「ギルドで聞きます」
それで十分だった。
今ここで聞き出したところで、断片が増えるだけだ。だが、相手がこちらへ焦りを混ぜてきたこと自体は大きい。橋だけではない。もっと。つまり、まだ別の箇所がある。
川の匂いが風に乗る。
湿った木橋の上には、濡れた板と倒れた男たちと、飛び散った土が残っている。だが、それ以上に残ったのは、ここがただの街道荒らしの現場ではないという感触だった。
マリナは橋の向こうを見た。
逃げた二人の姿はもう見えない。木立の影と川沿いの草が、その先を飲み込んでいる。
「戻りましょう」
言うと、誰も迷わず動いた。
縄を締め直し、武器を集め、捕縛を確認する。手順はもう三日目のものだった。慣れたくはない。だが、体は確実に覚えている。
橋を渡り返す時、濡れた板が靴裏に冷たかった。
朝の冷たさとは違う、水そのものの冷たさだ。その感触を足裏で確かめながら、マリナは胸の中で一つだけはっきり思っていた。
木曜で終わるとは、もう思えない。
だからこそ、今日の報告は重くなる。
そして、その重さを抱えたままでも、金曜からの約束をどうするかは決めなければならない。
橋を下りた先で、ユウトがこちらを振り向く。
「先生」
「何ですか」
「戻ったら、すぐ報告ですね」
「ええ」
「それで、金曜のことも決めるんですね」
真面目な顔だった。
マリナは小さく頷く。
「そうなります」
「分かりました」
その返事に迷いはない。
たぶん、もうユウトの中でも覚悟は出来ているのだろう。依頼が続くならそちらをやる。だが、ケーキ屋との約束も切らない。その両方を抱えたまま動く覚悟だ。
それはたぶん、マリナも同じだった。
川の音が後ろへ遠ざかる。
五人と、縄で繋がれた盗賊たちの足音が、また街へ向かって重なり始めた。
⸻
(続く)




