第87話 酒場と物流と盗賊の件(五)
鍋の中で豆がやわらかく煮える音は、思っていたより心を落ち着かせた。
乾燥肉の脂が溶けて、湯気に薄い塩気の匂いが混じる。刻んだ野菜の甘さもそこへ重なり、借家の中に昼の食卓らしい温かさが満ちていく。ついさっきまで街道の土と汗と血の気配をまとっていた空気が、少しずつ別のものへ塗り替わっていくのが分かった。
レイナが木杓子で鍋をかき混ぜるたび、表面の泡が端へ寄り、また静かに戻る。
「もう少しで出来ますよ」
その声も、さっきまでよりずっと柔らかい。
マリナは椅子に腰掛けたまま、膝の上で指を組んでいた。腹は空いている。だが疲れが先に来ていて、空腹の感覚が少し遅れている。体がようやく、緊張をほどき始めているのだろう。
向かいではユウトが黙ってパンを切っていた。刃を入れるたび、硬い皮が小さく鳴る。力任せではなく、手首の角度を少しずつ変えながら均等に分けていく切り方だった。
その手元を見ていると、マリナはまた妙な気分になる。
街道で男の腕を払い、体勢を崩し、地面へ沈めていた手と、今こうして昼食の準備をしている手が同じものだという事実が、簡単には重ならない。
「先生」
不意にユウトが顔を上げた。
「何ですか」
「パン、これくらいでいいですか」
差し出された木皿には、食べやすい大きさに切られたパンが並んでいる。端の欠け方まできれいだった。
「ええ、大丈夫です」
「良かったです」
その返事に変な含みはない。ただ本当に確認しただけなのだろう。だからこそ油断する。油断したところへ余計なことを言われるのが常なので、マリナは自分でも少しだけ構えていたのだが、今回はそのまま次の作業に戻っていった。
ガルドがその様子を見て、低く笑う。
「さっきより静かだな」
「今は昼飯の準備をしています」
ユウトが真面目に答える。
「そりゃ見りゃ分かる」
「大事なことです」
「そうだな」
ガルドはそこで否定しなかった。
ダインは壁際に背を預けたまま、短く言う。
「食える時に食うのは大事だ」
「それもそうですね」
レイナが鍋の蓋を少しずらし、湯気を逃がした。立ちのぼった熱が頬を撫で、部屋の中の空気をさらに温める。
そうしてようやく、昼食が卓に並んだ。
木椀に盛られた豆の煮込みは見た目より重い。持ち上げると、具の詰まった重みが手首へ沈む。パンを浸して口へ運ぶと、塩気と豆の甘さが舌の上でゆっくり広がった。乾燥肉の旨味が後から追いかけてきて、空腹だったことを体が思い出す。
「生き返りますね」
レイナが素直に言う。
「分かる」
ガルドも頷いた。
「街道のあとだと余計にな」
ダインは言葉を足さないが、椀を持つ手が普段より少しだけ早い。
マリナも一口ごとに、自分の呼吸が整っていくのを感じていた。温かいものが腹へ落ちるだけで、人はこんなにも考えやすくなるのかと思う。
だからだろう。
食事が半ばを過ぎた頃、戸を叩く音がした時も、誰もすぐには立たなかった。
強い音ではない。二度、間を置いて三度目。急かす音ではなく、用件を持ってきた者の叩き方だった。
ガルドが顔を上げる。
「俺が出る」
椀を置き、立ち上がる足取りに無駄がない。戸口へ向かい、開ける。
外に立っていたのはギルドの若い職員だった。まだ息が少し上がっている。急いで来たのだろう。戸の外の光が背中から差し込み、足元に短い影を落としていた。
「すみません、食事中に」
「構わない。何か出たか」
ガルドが問うと、職員は頷く。
「はい。追加で分かったことがあって、出来れば今日のうちに話を聞きたいと」
その言葉に、卓の空気が変わる。
マリナは椀を置いた。中の煮込みの表面が、わずかに揺れて静まる。
「こちらで伺います」
席を立ちながら言うと、職員は少しだけ安堵した顔になった。
「助かります。捕らえた連中のうち二人が、少しだけ口を割りました」
少しだけ。
その言い方がかえって嫌な重さを持つ。
マリナは視線を上げた。
「すぐ行きます。少しだけ待っていてください」
職員が戸口の外へ下がる。
ガルドが戸を閉めたところで、室内にはさっきまでの食事の匂いがまだ残っているのに、空気の質だけがもう別のものになっていた。
「また動きますか」
レイナが言う。
「行く」
ダインが短く返す。
「当然ですね」
マリナも頷いた。
せっかく緩んだ疲れが、また静かに背中へ戻ってくる。だが嫌ではない。今日のうちに拾えるものは拾っておくべきだ。今しか繋がらない話もある。
ユウトが立ち上がる。
「先生」
「はい」
「行きましょう」
その声音は、昼食の前とも、戦闘の最中とも違った。静かで、だが迷いがない。今この瞬間に必要な形へ、自分の気配を合わせてきている。
「ええ」
マリナは短く返し、上着を整えた。
外へ出ると、昼の光は少しだけ傾き始めていた。
空はまだ明るいが、真上から刺していた光が少し斜めになっている。通りのざわめきも、昼食時の緩さから午後の忙しさへ変わりかけている。人の流れは絶えない。荷車が石畳を軋ませ、店の呼び込みが声を張り、どこかで子どもの笑い声が跳ねる。
その中を、五人はギルドへ向かった。
今度は朝とは違う意味で目立つ。すでに盗賊を捕らえた噂が広がっているせいか、道ですれ違う視線に遠慮がある。興味はある。だが気安く声をかける空気ではない。
ギルドへ入ると、職員がすぐに奥へ案内した。
表の喧騒から半歩だけ切り離された部屋は、昼の明るさが窓から差し込んでいるぶん、朝よりも紙の白さがきつい。机の上には新しい羊皮紙が増えていた。報告が整理され始めているのだろう。
受付嬢のほかに、もう一人年嵩の職員がいる。その表情の固さを見ただけで、軽い話ではないと分かった。
「お呼び立てしてすみません」
受付嬢が先に言う。
「いえ」
マリナが腰を下ろす。
「何が分かったんですか」
年嵩の職員が、机の上の紙へ手を置いた。
「捕らえた者のうち二人が、別々に似たことを言いました」
声は落ち着いているが、選んでいる言葉の端が硬い。
「王都側の人間から依頼を受けて、共和国へ向かう物流を狙っていたこと。狙いは荷そのものだけではなく、遅延と不足を広げること。そのために、街道全体で複数の小集団が動いていた可能性があります」
部屋の空気が重く沈む。
マリナは視線を落とさなかった。
「複数、ですか」
「はい」
受付嬢が続ける。
「今日皆さんが捕らえた一団だけではないかもしれません。まだ確定とは言えませんが、別の街道でも似た手口の遅延が出ているという報告が届き始めています」
ガルドが低く息を吐く。
「一つ潰して終わりじゃなかったか」
「そういうことになります」
年嵩の職員が頷く。
「それで、頼みたいことがあります」
そこで紙が一枚、マリナの前へ差し出された。
「明日の朝、もう一度出てもらえませんか」
新しい依頼票だった。
「今日とは別の地点です。こちらも王都からの街道ですが、もう少し南へ寄った場所になります。商隊が途中で引き返したという報告があり、現地の確認と、必要であれば排除をお願いしたい」
マリナは依頼票を手に取った。
紙のざらつきが指先に残る。昼の乾いた空気を吸って、朝より少しだけ硬い。
「受けます」
言葉は自然に出た。
レイナも、ガルドも、ダインも何も反対しない。ユウトも横で静かに頷いている。
「助かります」
受付嬢の声に、少しだけ張り詰めていたものが混じる。
「それと」
年嵩の職員が加える。
「今日の件は、しばらく公には街道の盗賊被害として扱います。王都の名が出たことは、こちらで止めます」
「分かりました」
マリナが答える。
その判断は妥当だ。今ここで広がれば、街の不安だけが先に膨らむ。
「ただ、皆さんも気をつけてください」
受付嬢が言った。
「今日の一団は、皆さんを止められませんでした。でも、相手もそれで終わりとは思わないはずです」
その言葉に、マリナは一度だけ深く息を吸った。
窓の外からは、表のギルドのざわめきが薄く届いている。普通の依頼を探す声、報酬の話、武器の手入れの相談。そういう当たり前の音の向こうで、今自分たちは別の層の話をしている。
「明日、朝一番で出ます」
マリナは依頼票を畳んだ。
「現地を見て、必要ならその場で対処します」
部屋を出た後、しばらく誰もすぐには口を開かなかった。
表のギルドの空気はいつもと同じように見える。だが、その同じ空気の中を歩きながら、胸の中では次の依頼の地図がもう形を取り始めている。
外へ出ると、午後の光はさらに柔らかくなっていた。
風が少し出ている。通りに張られた布が揺れ、乾いた匂いが流れる。
「面倒だな」
ガルドがぽつりと言う。
口調は荒くない。ただ、実感がそのまま落ちた声だった。
「ええ」
マリナも頷く。
「でも、ここで放っておくわけにもいきません」
「まあな」
ガルドは空を見上げ、それから息を吐く。
「明日も朝からだ。今日は本当に休んだ方がいい」
「そうですね」
レイナが返す。
「今度は移動も長くなりそうですし」
ダインが道の先を見たまま言う。
「現地で消耗する前に、疲れは落としておくべきだ」
その通りだった。
借家へ戻る道すがら、マリナは頭の中で明日の段取りを組み直していた。位置、時間、移動、食事、水、森沿いなら視界はどうなるか、街道の幅、荷車が止まりやすい場所。そういうものを一つずつ並べていくと、不思議と心は落ち着いていく。
けれど、その横でユウトが静かすぎると、逆に少しだけ気になる。
「黒崎くん」
「はい」
「考え事ですか」
「しています」
「何を」
訊くと、ユウトは少しだけ考える間を置いた。
「明日、先生に余計な心配をかけないように動こうと思って」
真っ直ぐだった。
夕方の光の中で聞くには、あまりに真っ直ぐだ。
マリナは歩きながら視線を前へ戻す。
「……そうですね。そこは期待しています」
返してから、自分で少し驚く。
期待している。
もう、それを否定する段階ではないらしい。
ユウトの足音が一瞬だけ軽くなる。言葉はない。だが、それだけで十分伝わる。
レイナが横でにやりとした気配がしたが、今は何も言わなかった。たぶん、言えばまたマリナの頬が熱くなると分かっているのだろう。あるいは、今はそれより明日の話を優先したのかもしれない。
借家の戸が見えてきた頃には、空の色が少しだけ変わっていた。
昼の白さが抜け、夕方の薄い金色が屋根の端へ乗っている。街道の先で起きていることとは無関係に、街の一日はいつものように傾いていく。
その当たり前が続くように。
マリナは戸口の前で一度だけ足を止め、静かに息を吐いた。
明日は、もう一段深いところへ踏み込むことになる。
そう思いながら、戸を開けた。
⸻
(続く)




