第86話 酒場と物流と盗賊の件(四)
借家の戸を開けた瞬間、昼の熱が少しだけ和らいだ。
外の石畳はもう陽に温められていたが、屋内の空気はまだ朝の冷たさを壁の奥に残している。木の床を踏むと、靴底から乾いた感触が返る。戦闘のあとで張っていた足の裏が、その平らな硬さに触れた途端、ようやく街へ戻ってきたのだと実感した。
「はあ……」
最初に息を吐いたのはレイナだった。
気を抜いたというより、抜けた、に近い。肩の高さが目に見えて少し落ちる。
「さすがに疲れました」
「そうですね」
マリナも答えながら、玄関先で足元を整えて中へ入った。ふくらはぎの奥に残っていた重さが、そこで少しだけほどける。街道で立ち続け、見続け、考え続けていた分の疲れが、今になって脛から膝へ遅れて上がってきた。
ユウトは黙って先に荷を片づけていた。
剣でも槍でもない。街道で使わなかった細かな荷物や、水袋や、依頼票をしまうための袋だ。そういうところの手が止まらないのは助かる。助かるのだが、その姿があまりにもいつも通りなので、ついさっきまで人を叩き伏せていた同じ手だというのが、妙に現実味を失う。
「黒崎くん」
「はい」
「体、どこか打ってませんか」
訊くと、ユウトは自分の肩や腕を一度見下ろした。
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい。少し土がついたくらいです」
答えながら自分の袖を軽く払う。乾いた砂が床へ落ち、小さな粒が陽の差し込む場所で白く光った。
ガルドはその横を通りながら、短く言う。
「見た感じも問題ないな」
「息も乱れてなかった」
ダインが続けた。
「十分だ」
評価は短い。だが、それで足りる。
ユウトは二人の言葉に少しだけ目を丸くし、それから素直に頷いた。
「ありがとうございます」
その受け答えの自然さに、マリナは胸の奥で小さく息を吐いた。戦闘の時の緊張がまだ完全には抜けていないのに、日常のやり取りがもう始まっている。その切り替わりに置いていかれないよう、自分の呼吸も整えなければならない。
「私は水を汲んできます」
レイナがそう言って立ち上がる。
「手も顔も砂っぽいですし」
「じゃあ、俺も外の様子を見てくる」
ガルドが言った。
「ギルドから何か回ってきてないか、ついでに近所も見てくる」
ダインも頷く。
「俺も行く」
ガルドとダインが連れ立って出ていく。ガルドはこのあと家へ戻るだろうが、その前に一度街の空気を見ておくつもりなのだろう。こういう時の二人は言葉が少ない分、動きに無駄がない。
戸が閉まり、借家の中に残るのはマリナとユウト、それに水桶を持って裏手へ回ったレイナの気配だけになる。
静かだ。
さっきまでの街道の風の音とも、ギルドのざわめきとも違う。家の中の静けさは、物音が無いのではなく、音の一つ一つが近い。木の軋み、水の跳ねる音、服が擦れる気配、呼吸の長さまで分かる。
マリナは椅子に腰を下ろした。
座った途端、背中に残っていた張りが分かる。肩甲骨の内側が少し重い。戦っていなくても、戦闘中はどうしてもそこに力が入る。
ユウトは、少し離れた位置で立ったままこちらを見ていた。
その視線に気づいて、マリナは眉を寄せる。
「何ですか」
「先生、疲れてます」
「疲れますよ、さすがに」
するとユウトは何か言い返すでもなく、台所の方へ歩いていった。棚から木の杯を取り出し、水差しの水を注ぐ。水音が静かな室内で思ったより大きく響いた。
「はい」
差し出された杯を受け取ると、手のひらにひやりとした感触が残る。唇をつけて一口飲む。冷えた水が喉を通るだけで、胸の奥に残っていた乾きが少し和らいだ。
「ありがとうございます」
「先生が疲れているので」
それだけ言う。
真顔だった。
その真面目さがまた困る。街道の真ん中で男を沈めていた時と、今の表情が大きく違わないからだ。
マリナは杯を膝の上で両手に包んだまま、少しだけ視線を落とした。
「黒崎くん」
「はい」
「……今日は、本当に危なげなく動けてましたね」
言ってから、自分で少し驚いた。褒めるつもりで言ったわけではない。ただ、見たままを口にしただけだ。だが、その言葉を受けたユウトの顔が目に見えて明るくなる。
「先生が見ていてくれたので」
「そういうことじゃなくて」
すぐに切り返したのに、もう遅い。
「先生に見られていると、ちゃんとしないとと思います」
真っ直ぐすぎる。
マリナは思わず額に手を当てる。熱は上がっていないはずなのに、こういう時だけ昨日の酒場の余韻が皮膚の下から戻ってくるようで困る。
「今はそういう話じゃありません」
「ちゃんと戦う話です」
「……そうですか」
否定しきれない形で返されると、余計に厄介だ。
そこへ裏口の方からレイナが戻ってきた。桶の水が揺れる音と一緒に、楽しそうな気配も戻ってくる。
「先生、顔赤いですけど、まだ疲れてます?」
「違います」
「黒崎くん、何か言いました?」
「先生が俺を褒めてくれました」
「言ってません」
「言ってました」
返答が早い。
レイナが吹き出しそうになるのを堪えながら、桶を置いた。
「もうそれでいいじゃないですか」
「よくありません」
「でも事実としては近いですよね」
「近くても今それを広げないでください」
水で絞った布を受け取る。顔に当てると、ひやりとした感触が額から頬へ広がり、ようやく頭の中の熱が少し引く。冷たさに息が細くなり、その息が落ち着いたところで、玄関の戸がまた開いた。
戻ってきたのはガルドとダインだった。
二人ともさっきより少しだけ外の空気をまとっている。日の匂いと、人通りの多い通りの埃が、服の表面に薄く乗っていた。
「どうでしたか」
マリナが訊く。
ガルドは椅子へ腰を下ろす前に一度だけ顎をしゃくった。
「もう噂は回ってる」
「早いですね」
「街門からギルドまであの人数で連れて歩いたからな。隠せる話じゃない」
それはそうだ。
「ただ、細かいところまではまだ回ってない」
ガルドは続ける。
「街道で盗賊を捕まえた、ってところまでだ。王都がどうこうってのは出てない」
マリナは小さく頷いた。そこが一番大事だった。
「それならいいです」
「ギルド側も、その辺りは締めるつもりだろう」
ダインが言う。
「軽く広がる話じゃない」
借家の中に、また少し重い空気が戻る。
さっきまでの街道の話が、今度は街の内側の話になっている。同じ言葉でも意味が違う。外で剣を抜く話ではなく、どこまで知るか、誰が知るかの話だ。
マリナは濡れ布を畳み、膝の上に置いた。
「しばらくは、こちらから余計なことは言わない方がいいですね」
「そうだな」
ガルドが頷く。
「相沢にも最低限でいい。あいつは数字で追うだろうし、こっちが余計な名前を乗せる必要はない」
「ええ」
そこまでは一致している。
そのあと、少しだけ沈黙が落ちた。
疲れのせいでもある。張っていたものが一段緩んだあとで、誰もが次の手を頭のどこかで探しているのだろう。
その沈黙を破ったのは、またしてもレイナだった。
「でも、これで流れは少し戻りますよね」
視線がマリナに向く。
分かっている顔だった。
「何の流れですか」
「先生が困ってた流れです」
「それは今まとめなくていいです」
「大事ですよ」
「知ってます」
思わず返すと、ガルドが低く笑った。
「認めたな」
「違います」
「いや、今のは認めただろう」
「違います!」
ダインまで短く息を吐く。
「困ってた」
「ダインさんまで」
真顔で重ねてくるから、反論しづらい。
その時だった。
ユウトが、今まで黙っていたのに、そこでだけはっきりと口を開いた。
「先生が困っていたのは、俺も知っています」
部屋が一瞬だけ静かになる。
マリナは嫌な予感しかしなかった。
「黒崎くん」
「はい」
「余計なことは言わないでください」
「余計じゃありません」
言い切る。
「先生が困るのは良くないです」
そういう方向へ行くのか、と少しだけ安心しかけた次の瞬間。
「だから王都からの流れは大事です。先生の綺麗なものが来なくなるのは困ります」
完全に逃がしてくれなかった。
マリナは両手で顔を覆いたくなるのを堪えた。昼間だ。家だ。昨日みたいに酒は入っていない。それでも、こういうところだけは本当に容赦がない。
「綺麗なものって何ですか」
「先生に似合うものです」
「ぼかしても駄目です」
「ぼかしてないですよね、今」
レイナが笑いながら言う。
「全然ぼかしてないです」
ガルドは肩を揺らし、ダインはまた短く息を吐いた。
「黒崎くん」
マリナはできるだけ低く呼んだ。
「はい」
「そういうことを真顔で言うのをやめてください」
「真顔の方が伝わると思って」
「伝わらなくていいです」
「先生にはちゃんと伝えたいです」
だめだ。
今のはだめだ。
マリナは自分の呼吸が乱れかけるのを感じて、一度大きく息を吐いた。肺の中の空気を入れ替えるようにゆっくりと。疲れている時にこういうやり取りをされると、普段より心臓がうるさい。
レイナが、その様子を見ながら少しだけ笑いを収める。
「でも、今日はこのくらいでいいんじゃないですか」
「何がですか」
「先生がまた真っ赤になる前に、話を戻すってことです」
助け舟の形をしているが、最後の一言で台無しだった。
それでも、マリナはその助け舟に乗ることにした。
「……そうですね」
咳払いを一つしてから、座り直す。
「ギルドから追加で呼ばれない限り、今日はここまでです。明日以降も街道絡みの依頼が増えるかもしれません。しばらくは動けるようにしておきましょう」
言葉にすると、場がやっと整う。
ガルドが頷き、ダインも同意する。
「食って休むか」
「そうですね」
レイナが立ち上がる。
「何か簡単に作ります」
借家の中の空気が、ようやく普通の昼へ戻っていく。台所で水が鳴り、戸棚が開く音がして、包丁の柄が木に触れる音が続く。街道の土と血の匂いはもうない。代わりに、豆と乾燥肉の匂いが少しずつ部屋へ広がってくる。
マリナはその匂いを吸い込みながら、ようやく背中を椅子へ預けた。
疲れている。
本当に。
体も、頭も。
けれど、嫌な疲れではない。やるべきことをやったあとの疲れだ。そのことだけは、はっきりしている。
そして、そのはっきりした疲れの横に、まだ別のものが座っている。
「先生」
また呼ばれる。
「今度は何ですか」
「今日は本当に、先生が綺麗でした」
「今その話に戻るんですか!?」
思わず声が上がり、台所のレイナが吹き出した。ガルドは腹を押さえ、ダインは目を逸らしたまま肩を一つ揺らす。
ユウトは、まったく悪気のない顔でこちらを見ていた。
「戦ってる時も、その後も」
真面目に言う。
「ずっと綺麗でした」
マリナは、もう反論の言葉を探す気力がなくなった。
疲れているからだ。
本当に。
それでも、頬の奥にまたじわりと熱が戻るのが分かる。冷やしたはずなのに、こういう時だけきちんと戻ってくる。
「……もういいです」
それだけ言って視線を逸らすと、ユウトは少しだけ考えるような間を置いてから、素直に頷いた。
「分かりました」
全然分かっていない返事だった。
けれど、その返事にまた部屋の中が小さく揺れる。笑いというほど大きくはない。だが、重すぎず、軽すぎず、今日一日の終わりにちょうどいいくらいの揺れだった。
窓の外では、昼の光が少しずつ傾き始めている。
街道で盗賊を倒し、ギルドへ報告し、相沢へ伝え、家へ戻った。やったことを並べれば多い。だが、その一つ一つがまだ途中だ。流れは戻りきっていないし、王都という言葉の重さも消えていない。
それでも今は、ひとまずこの家の中で息をつける。
マリナはそう思いながら、膝の上に置いた手を静かに組んだ。
窓から入る風は少しぬるくなっていて、昼の匂いを薄く運んでくる。その風の中で、台所から煮える音が聞こえ、ユウトの気配がすぐ近くにあり、ガルドとダインが低い声で何か話している。
守るべきものは、こういうところにあるのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥の疲れが少しだけやわらいだ。
(続く)




