第131話 相沢の結婚祝いがいつの間にか街ぐるみになっていく件
月曜日の朝、借家の中にはいつもより少し浮ついた空気が残っていた。
昨日、魔王のケーキ屋で相沢から結婚の報告を受けた。相手は高田さん。しかも、すでに新しい命が宿っているという。驚きと祝福が一度に押し寄せて、店の中はしばらく甘い匂いとは別の温かさで満ちていた。
マリナは朝食の席でスープを口に運びながら、ふとユウトを見た。
ユウトはいつも通り、真面目な顔でパンを千切っている。昨日の話を聞いた時も、彼はまっすぐ相沢を祝福していた。妙に照れたり、変に茶化したりしない。結婚する親友を、本当に嬉しそうに見ていた。
その横顔を見ていると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
相沢と高田さんは、もうそこまで進んでいる。
結婚。
子ども。
家庭。
それは以前なら、遠くにある言葉だった。けれど今は、知っている元生徒の現実として目の前に来ている。自分たちはゆっくりいく。昨日、そう言った。言った時は半分照れ隠しだったが、口にしてみると、不思議と胸に馴染んだ。
ゆっくりでいい。
けれど、止まっているわけではない。
「先生」
ユウトに声をかけられ、マリナは我に返った。
「何?」
「スープ、冷めますよ」
「あ、ええ。ありがとう」
何でもないやり取りなのに、レイナが向かいでにやにやしている。
「先生、朝から見てましたね」
「見てないわよ」
「見てました」
「レイナ」
「はい」
返事だけは素直だった。
ダインは静かに食事を続けている。ガルドは隣の自宅で家族と朝を過ごしている頃だろう。月曜日は休みの日で、急ぐ予定はない。だが、夕方にはいつもの酒場へ行く流れになることは、誰も言わなくても分かっていた。
なにしろ、今度の酒場は相沢と高田さんの結婚式会場になる。
祝福の空気は、もう借家の中だけでは収まらなかった。
夕方、五人が酒場へ向かう頃には、通りの灯りが少しずつ増え始めていた。
月曜の交易都市は、日中の仕事を終えた人々が酒場へ流れていく時間になる。石畳には足音が重なり、屋台からは焼いた肉の匂いが漂っている。遠くから笑い声が聞こえ、いつもの酒場の扉からは暖かな光が漏れていた。
戸を開ける前から、中の騒がしさが分かる。
マリナは少しだけ息を整えた。
ユウトが隣で首を傾げる。
「先生、大丈夫ですか」
「大丈夫よ」
「顔が少し赤いです」
「酒場が近いからよ」
ユウトは納得していない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
戸を開けると、一気に声が押し寄せてきた。
「おう、来たな!」
「待ってたぞ!」
「相沢の結婚式、盛り上げようぜ!」
常連たちはすでにかなり浮かれていた。店主はいつも通りの顔をしているが、席の配置や料理の量が明らかに普段と違う。カウンターの後ろには酒樽が余分に並び、壁際の卓も少し動かされている。
結婚式当日のことを考えているのだろう。
本人は何も言わないが、張り切っているのが丸分かりだった。
「店主さん、気合入ってますね」
レイナが小声で言う。
マリナも苦笑した。
「厚意は本物だと思うわよ。たぶん」
「たぶんなんですね」
奥の席には相沢もいた。
いつもの彼らしい落ち着いた顔をしているが、常連に声をかけられるたび、少しだけ目元が緩む。照れているのだ。本人は隠しているつもりだろうが、隠しきれていない。
「相沢!」
ユウトが声をかける。
相沢は少しだけ手を上げた。
「来たか」
「おめでとう」
「昨日も聞いた」
「何回でも言う。おめでとう」
まっすぐな言葉に、相沢は少し目を伏せた。
「……ありがとう」
その短い返事に、酒場の空気がまた温かくなる。
店主がユウトの前に杯を置いた。
「今日は祝いだ。店からだ」
「ありがとうございます」
マリナはその杯を見て、少しだけ身構えた。
来る。
いつもの流れだ。
ユウトは一口飲んだ。
そして、すぐに立ち上がった。
「俺は親友の結婚が嬉しい!」
酒場中が沸いた。
「おお!」
「いいぞ、ユウト!」
「祝ってやれ!」
ユウトは胸を張り、相沢へ向かって拳を握る。
「相沢! 愛する人を幸せにしろ!」
相沢は呆れたような顔をしたが、耳が少し赤い。
「言われなくてもそのつもりだ」
その一言に、常連たちが一斉に拍手した。
マリナも思わず笑ってしまう。
酔っているユウトは相変わらず大げさだ。けれど、今日の大げささは嫌ではなかった。祝福が大きくなって、酒場全体を包んでいる。
だが、そこで終わるユウトではなかった。
彼は振り返り、今度はマリナをまっすぐ見た。
「俺も結婚がしたいんだ!」
一瞬、酒場が止まった。
次の瞬間、爆発したような歓声が上がる。
「先生! 聞いたか!」
「次はお前らだな!」
「祝儀の準備しとくか!」
「酒場、二連続で祝いか!」
マリナは顔を真っ赤にした。
「勝手に決めないでください!」
だが、声に以前ほどの鋭さはなかった。
女性客たちはそれを見逃さない。
「あら、否定弱いわね」
「これは近いわ」
「やっぱり相沢さんの下着、効果あるんじゃない?」
その一言で、酒場の隅にいた女性客たちの目が一斉に相沢へ向いた。
相沢は即座に商人の顔になった。
「効果を保証する商品ではありませんが、気持ちを整える助けにはなります」
「じゃあ予約追加で」
「私も見たいわ」
「結婚祝いのついでに買っていこうかしら」
レイナが呆れた顔になる。
「相沢くん、自分の結婚祝いの場でも商売するんですね」
相沢は平然としていた。
「結婚には金がかかる」
マリナは思わず頷きかけた。
レイナがすぐに突っ込む。
「先生、そこ納得しないでください」
「でも、現実的な話ではあるわよ」
「急に生活感出さないでください」
ユウトはいつの間にかマリナを抱きしめていた。
「マリナ!」
「今日は相沢くんのお祝いでしょう!」
「もちろんだ! 相沢の愛も祝う! でも俺の愛も伝えたい!」
「今は伝えなくていいの!」
「愛は今伝えるべきなんだ!」
常連たちは大笑いし、女性客たちは黄色い声を上げ、店主は料理を運びながら肩を震わせていた。
祝いの夜は、いつもの月曜よりずっと騒がしかった。
けれど、その騒がしさは不思議と嫌なものではない。相沢は何度も祝福され、そのたびに照れくさそうに礼を返した。高田さんの名が出ると、表情がわずかに柔らかくなる。それを見て、レイナが何度も笑い、マリナも胸の奥が温かくなった。
相沢は、静かに恋を育てていた。
そして今、騒がしい酒場に祝われている。
愛は賑やかでもいいが、恋は静かにゆっくり進めた方がいい。
昨日の相沢の言葉が、マリナの中でまた静かに響いた。
火曜日の朝から、魔王のケーキ屋は営業日ではないにもかかわらず、甘い匂いで満ちていた。
開店はしない。
だが厨房は完全に動いている。
魔王、ユウト、山本さんが中心になり、ウェディングケーキの試作が始まったのだ。
作業台の上には粉、卵、乳、砂糖、果実、香り付けの材料が並んでいる。山本さんはいつも以上に目を輝かせていた。相沢と高田さんのためのケーキ。その言葉だけで、彼女の気合いは十分すぎるほど入っている。
「白いクリーム多めがいいですよね。でも甘すぎると高田さんが食べにくいかも」
山本さんは小さな帳面に何かを書きつけている。
「果物は赤系を入れたいです。祝いっぽいですし、見た目も明るいです」
ユウトも真面目に頷いた。
「食べやすさは大事ですね。切り分けやすい形も考えた方がいいと思います」
魔王は腕を組んで笑っていた。
「祝いの席やからな。見た目も味もいる。せやけど一番は本人らが笑って食えることや」
その言葉に、厨房の空気が引き締まる。
ただ甘いものを作るのではない。
相沢と高田さんを祝うためのケーキだ。
最初の試作品が焼き上がると、甘い香りが店内へ広がった。営業日ではない店の中に、ふんわりとした生地の匂いが満ちる。マリナ、レイナ、ガルド、ダイン、副官さんは試食係として並んでいた。
最初のうちは、全員が素直に楽しんでいた。
「おいしいです!」
レイナが目を輝かせる。
「これ、少し酸味があっていいわね」
マリナも頷いた。
ガルドは小さく切ったケーキを口に運び、短く言う。
「甘すぎん方が食べやすいかもな」
ダインは黙って食べていたが、しばらくして低く言った。
「……柔らかい」
それは褒め言葉だった。
副官さんは小さく頷き、帳面に簡単な評価を書いている。
「食感はよいです。ただし、式の場で切り分けるなら、もう少し形を保つ必要があります」
「なるほど」
山本さんが真剣にメモを取る。
そこまではよかった。
そこまでは。
試作は一度で終わらなかった。
二度目、三度目、四度目。
生地の甘さを変える。
果実の量を変える。
クリームを変える。
形を変える。
魔王は楽しそうに次々と案を出し、ユウトは真面目に手を動かし、山本さんは熱心に試作を重ねていく。作る側の熱は下がらない。
だが、食べる側には限界がある。
昼を過ぎる頃には、レイナの表情が少しずつ引きつっていた。
「なんか、朝からずっとケーキばっか食べてるような?」
マリナは皿の上の新しい試作品を見つめながら、落ち着いた声で答えた。
「大丈夫。気のせいじゃないから」
「やっぱり!」
レイナは自分の下腹を押さえた。
「あっ、下腹が! なんかパンツきついし!」
「それは気のせいにしときましょ」
マリナの返事は早かった。
山本さんが青ざめたように自分の下腹を見下ろす。
「えっ、私もですか?」
レイナは副官さんを見た。
「なんで副官さん下腹出ないんです?」
副官さんは少しだけ視線を落とし、それから淡々と言った。
「ユウトも出てませんよ」
一瞬、空気が止まった。
レイナとマリナの視線が同時にユウトへ向く。
ユウトは試作品の皿を持ったまま固まった。
「……いや、意味分かんないし」
完全に巻き込まれ事故だった。
レイナはじっとユウトを見る。
「なんでです?」
「知らないですよ」
「腹筋あるのムカつくんですけど」
「普段、鍛えてるから」
「正論が腹立つ!」
マリナは文句を言おうとして、ふとユウトの腕を見てしまった。
皿を持つ腕には、薄く筋が浮いている。指先は粉で少し白くなっていて、真面目に作業していたことが分かる。その腕を見た瞬間、昨夜の酒場で抱きしめられた感触を思い出してしまい、マリナは言葉を失った。
「先生?」
「な、何でもないわ」
レイナは今度はマリナをじっと見た。
「あっ」
「何よ」
「なんか先生、下腹より胸が出てる」
一瞬、空気が止まった。
マリナは自分の胸元を見る。
「……知らないわよ」
山本さんが即座に反応した。
「ズルい〜」
「なんで私が責められるのよ!」
「ズルいです!」
レイナも深く頷く。
「食べたものが胸にいってる!」
「いってません!」
その騒ぎの横で、魔王がそっと後ろを向いた。
ガルドも無言で視線を逸らす。
ダインも静かに壁側へ向いた。
三人とも、何事もない顔で自分の下腹へ手を当てる。
数秒。
誰も声を出さない。
やがて、三人は静かに頷いた。
大丈夫。
まだ、セーフ。
レイナが振り返る。
「何やってるんですか」
魔王が即答した。
「何もしてへんで」
ガルドも真顔で言う。
「聞き間違いだ」
ダインも短く続ける。
「……気のせいだ」
「絶対なんか確認してましたよね」
魔王は笑って手を振る。
「大丈夫や。レイナはまだ若いんやし」
レイナが即座に振り返った。
「その油断が命取りなんです!」
真剣だった。
あまりにも真剣だった。
魔王が少し引く。
「そ、そうなん?」
「そうなんです! こういうのは気づいた時にはもう遅いんです!」
山本さんも青ざめながら頷く。
「分かる気がします……!」
マリナは額を押さえた。
「何の共感してるのよ……」
副官さんが静かに口を開いた。
「なんならトレーニングメニューを考えますよ?」
レイナの動きが止まる。
「うっ」
山本さんもびくっと肩を震わせた。
副官さんは冗談を言っている顔ではなかった。
「現在の摂取量なら、運動量を増やした方が効率的です」
レイナが弱々しく反論する。
「で、でも結婚式でも絶対食べるし……」
「食べますね」
副官さんは即答した。
山本さんがおずおずと手を上げる。
「お、終わってからでお願いします……」
「分かりました」
副官さんは素直に頷いた。
だが、その直後に言った。
「ちなみに短期集中コースと長期継続コース、どちらにします?」
空気が止まった。
レイナが青ざめる。
「もうコース決まってる!?」
山本さんも引きつった笑みになる。
「選択制なんですね……」
魔王が腹を抱えて笑った。
「お前、本気やん」
副官さんは涼しい顔で答える。
「当然です」
そして静かに続けた。
「魔王様。女性の美に対する執念を甘く見ると国が滅びますよ」
店内が一瞬で静かになった。
魔王だけが妙に素直に背筋を伸ばす。
「あっ、はい。気をつけます」
ガルドがぼそりと呟く。
「……経験ある顔だな」
ダインも静かに頷いた。
「……逆らわない方がいいやつだ」
ユウトはまだ不思議そうだった。
「俺は別に構わないんだけど?」
その瞬間、女性陣の空気が変わった。
マリナが即座に振り返る。
「ダメ!」
レイナも机を叩く。
「ダメです!」
山本さんまで真剣な顔で頷いた。
「その通りです!」
ユウトが少し引く。
「え、なんで」
マリナは真っ赤になりながら言った。
「それは優しさじゃないの!」
「そうです!」
レイナが力強く続ける。
「そうやって甘えると取り返せないんです!」
山本さんも必死に頷く。
「分かります!」
副官さんも静かに頷いた。
「女性心理としては正しい反応です」
そこで、ガルドがぽつりと呟く。
「……妻も似たような事言ってたな」
一瞬、女性陣の視線が集まった。
ガルドは少しだけ遠い目になる。
「『大丈夫』って言葉が一番危ない、とか何とか」
レイナが勢いよく頷いた。
「そう! それです!」
山本さんも続く。
「分かってる旦那さんですね!」
ガルドは少し困ったように頭を掻いた。
「いや、分かるまでかなり怒られた」
ダインが静かに目を閉じる。
「……勉強になる」
ユウトはまだ納得していなかった。
「いや、でも健康的でいいような……」
レイナが頭を抱えた。
「ああ、もう! 分かってない!」
山本さんも頷く。
「分かってないです……!」
マリナは顔を覆っている。
副官さんは静かに目を閉じた。
「重症ですね」
レイナが勢いよく魔王を指差す。
「これは魔王さんの責任です!」
魔王が目を丸くした。
「なんでやねん」
「だって魔王さん、ユウトくんの師匠でしょう!」
山本さんも真顔で頷く。
「連帯責任ですね」
副官さんも静かに頷いた。
「連帯責任。いい言葉です」
魔王が両手を上げる。
「なんでやねん!」
ガルドが吹き出した。
「完全に巻き込まれてるな」
ダインも小さく息を吐く。
「……理不尽だ」
ユウトだけが本気で困惑している。
「え、俺そんな変なこと言いました?」
マリナは小さく息を吐いた。
それから、少しだけ照れながらユウトを見る。
「えっとね、黒崎くん」
「はい?」
「女性は、好きな人のためにいつまでもきれいでいたい生き物なの」
店内が少し静かになった。
レイナが勢いよく頷く。
「さすが先生!」
山本さんも真剣な顔だった。
「分かってます!」
副官さんも静かに頷く。
「その通りです」
ユウトは少し目を丸くした。
「そ、そうなんですね」
マリナはそんなユウトを見て、少しだけ困ったように笑う。
だがユウトはまだ考え込んでいた。
「でも、食べても運動すればチャラに……」
魔王が即座に叫んだ。
「言うな!」
ガルドも真顔になる。
「危険すぎるぞ」
ダインも低い声で続ける。
「……死にたいのか?」
ユウトがびくっと肩を震わせる。
「えっ」
レイナが机に突っ伏した。
「もうダメだこの人!」
山本さんも頭を抱える。
「ユウトくん、それは禁句です……!」
マリナは顔を赤くしたまま額を押さえていた。
「黒崎くん……そういう問題じゃないの……」
副官さんだけは冷静だった。
「発想としては合理的ですが、女性に対して口に出してはいけません」
ユウトは本気で困惑していた。
「む、難しい……」
魔王が深く頷く。
「せや。女心はな、下手な魔物より怖いんや」
ユウトはまだ真面目に考え込んでいた。
そして、ぱっと顔を上げる。
「あっ」
全員が嫌な予感を覚えた。
「ノンカロリーケーキとかいいかもしれませんね、師匠」
一瞬、空気が止まる。
レイナがゆっくり顔を覆った。
山本さんは遠い目になる。
マリナは額を押さえたまま固まっている。
副官さんだけは少し考える顔になった。
「理論上は可能かもしれません」
魔王が片手を上げた。
「うん、ええかもしれんけど」
そしてユウトを見る。
「ちょっと黙ろか、ユウト」
「えっ」
ガルドが肩を震わせる。
「危なかったな……」
ダインも静かに頷いた。
「……あと一歩だった」
魔王はそっとマリナへ顔を寄せた。
「先生、ユウトにちゃんと女心教えな」
マリナはすぐに言い返す。
「魔王さんこそ師匠なんですから教えてあげてください」
その瞬間、副官さんが静かに口を開いた。
「魔王様には無理ですよ」
沈黙。
魔王が固まる。
ガルドが視線を逸らす。
ダインが静かに目を閉じる。
レイナが真顔になる。
山本さんまで頷きかけて止まった。
誰も否定できなかった。
魔王だけが不服そうに眉を寄せる。
「……お前ら、ちょっと酷ない?」
副官さんは静かに答える。
「事実です」
魔王は少し考えた。
それから隣のユウトを見る。
「いや、これよりはマシやけど?」
全員の視線がユウトへ集まる。
ユウトはきょとんとしていた。
「?」
副官さんが静かに口を開く。
「……ギリギリですね」
魔王が振り返る。
「ひどない?」
レイナが頭を抱えた。
「比較対象が終わってるんですよ!」
山本さんも吹き出す。
「基準が低すぎます……!」
ガルドが肩を震わせた。
「確かに間違ってはないが」
ダインも静かに頷く。
「……説得力があるのが困る」
ユウトだけが、本気で何の話なのか分かっていなかった。
そんな騒ぎの間にも、試作は進んでいた。
魔王は笑いながらも、味の調整には一切手を抜かない。ユウトも、さっきまで怒られていたことを少し気にしながら、それでも真剣に生地を見ている。山本さんは試作の記録を書き込み、マリナたちは腹を押さえながらも次の一口に向き合う。
祝うための準備は、甘く、騒がしく、少し苦しかった。
水曜日には、さらに店の外から祝いの空気がやってきた。
いつもの酒場の常連たちが、魔王のケーキ屋へ顔を出したのだ。営業日ではないため戸は閉まっていたが、彼らは遠慮がちに外から声をかけてきた。
「ちょっといいか?」
魔王が戸を開ける。
「なんや、今日は営業日ちゃうで」
「分かってるって」
常連の一人が頭を掻く。
「相沢たちに俺らも何か贈りたいんだけどよ。いい商品とか知らないか?」
別の男も頷く。
「あいつには世話になってるしな」
「酒場で商売もしてるし」
「まあ、何だ。めでたいしよ」
皆、照れくさそうだった。
普段は酒を飲んで騒いでいる彼らが、相沢と高田さんのために何かしたいと言っている。その姿を見て、マリナの胸がまた温かくなる。
「あっ」
ふと、思い出した。
「こないだの依頼の旦那さん」
レイナもすぐに気づく。
「ああ、宝飾店勤務の!」
以前の浮気調査で関わった夫。妻への贈り物を内緒で用意していた、あの宝飾店の店員だ。
マリナは常連たちへ向き直る。
「あの方なら、結婚祝いに合う品を相談できるかもしれません」
常連たちが少しざわつく。
「宝飾店か」
「高いかな?」
「いいさ。少しくらいなら」
別の常連が真顔で言った。
「少しじゃなかったら?」
沈黙。
全員が黙った。
「……」
「……相談だけならただだろ」
「たぶんな」
レイナが笑う。
「皆さん、すごく現実的ですね」
ガルドも少し笑った。
「無理のない範囲で選べばいい」
ダインが短く続ける。
「……祝いは気持ちだ」
常連たちは頷いた。
「そうだな」
「でもちょっと見栄も張りたいよな」
「分かる」
魔王が笑って送り出す。
「ほな、行ってこい。若い二人に似合うもん選んだれ」
常連たちは妙に張り切った顔で通りへ出ていった。
その背中を見送りながら、マリナは店の中へ戻る。
厨房では、また新しい試作品が焼けていた。甘い香りが店の奥から流れてくる。外では常連たちが贈り物を探し、酒場では店主が会場準備を進め、ここではウェディングケーキが形になろうとしている。
相沢と高田さんの結婚は、いつの間にか仲間内だけではなく、街の小さな一角全体を巻き込む祝い事になっていた。
マリナは、作業台の前で真剣にケーキの仕上げを考えているユウトを見る。
ユウトはまだ少し女心を分かっていない。
いや、かなり分かっていない。
けれど、誰かを祝うことには真っ直ぐだ。
その横顔を見ていると、焦らなくていいと思える。
でも、いつか自分たちもどこかへ進んでいくのだろう。
その時、周りはこんなふうに笑ってくれるのだろうか。
ユウトが顔を上げる。
「先生?」
視線が合った。
マリナは少しだけ笑う。
「何でもないわ」
魔王が焼き上がった試作品を置きながら、ぽつりと言った。
「祝い事はええなぁ。甘いもんが、いつもより甘くなる」
その言葉に、誰もすぐには返さなかった。
ただ、店の中にはまた新しいケーキの香りが広がっていく。
甘く、温かく、少しだけ食べ過ぎで苦しい。
それでも誰も手を止めない。
相沢と高田さんのための祝いの日へ向けて、魔王のケーキ屋は今日も全力で甘いものを焼いていた。




