第130話 祝福とウェディングケーキの件
週末の魔王のケーキ屋は、いつも通り朝から甘い匂いに包まれていた。
金曜日の開店前、厨房では焼き上がった生地の香ばしさと、果実を煮詰める甘酸っぱい香りが重なっている。窓から差し込む朝の光は作業台の上を白く照らし、粉を払った木の板には細かな跡が残っていた。
ユウトは魔王の隣で手を動かしていた。
型に生地を流し、焼き上がったものを冷ます位置へ移し、次の材料へ手を伸ばす。以前よりも迷いが少ない。魔王の声が飛ぶ前に、次に必要なものを探せることも増えた。
「ユウト、そっちの果実もう少し細かくな」
「はい、師匠」
返事をして、ユウトは手元の果実を刻む。
その横顔を、接客台の方からマリナが見ていた。
ほんの一瞬だ。
仕事中だから、すぐに視線を戻す。皿を並べ、布を整え、開店前の確認をする。けれど、また少しすると自然に視線が向いてしまう。
目が合った。
ユウトが少しだけ笑う。
マリナも、以前なら慌てて顔を逸らしていた。今も恥ずかしさはある。胸の奥が小さく跳ねる。でも、逃げるほどではなかった。
小さく笑い返す。
それだけで、厨房の空気が少し柔らかくなる。
レイナはそれを見逃さなかった。
「先生、今また笑いましたね」
「仕事中よ」
「仕事中でも笑ってました」
「レイナ」
「はい」
返事だけは素直だが、顔は楽しそうだった。
山本さんも火の前で鍋を見ながら、ちらりとこちらを見ている。からかうようなことは言わない。ただ、口元が少し緩んでいた。
ガルドは入口付近で客の列を確認しながら、短く息を吐く。
「落ち着いてきたな」
ダインも棚の横で頷いた。
「……いい流れだ」
何が、とは言わない。
だが、マリナには分かってしまう。
ユウトとのことだ。
最近、周囲が全員それを見ている気がする。いや、実際に見ている。しかも隠す気がない。けれど、不思議と以前ほど嫌ではなかった。
恥ずかしい。
もちろん恥ずかしい。
でも、ユウトと並んでいることを否定したくない気持ちが、少しずつ強くなっていた。
開店すると、店はすぐに客で埋まった。
週末のケーキ屋は、もう交易都市でも評判になっている。店先には開店前から客が並び、甘い匂いに誘われて通りかかった者も足を止める。魔王の作るケーキと、ユウトが手伝う焼き菓子。山本さんが火を見て、マリナとレイナが接客し、ガルドとダインが警備に立つ。
その流れは、以前よりずっと整っていた。
マリナが客の注文を受けると、レイナが包みを用意する。ユウトが奥から追加を持ってきて、マリナの手元へそっと置く。何も言わなくても、足りないものが届く。
「ありがとう、黒崎くん」
「はい、先生」
短いやり取り。
それだけなのに、前より空気が甘い。
常連の女性客たちは当然気づいた。
「ねえねえ、二人なんかあったの?」
ケーキを受け取りながら、女性客の一人がにやにや笑う。
マリナの肩が小さく跳ねた。
「な、何のことですか?」
「だって前よりずっと雰囲気甘いもの」
「そうそう、なんか距離近いし」
「目も合いすぎ」
次々に飛んでくる言葉に、マリナの頬がみるみる赤くなる。
以前なら、すぐに否定していただろう。
違います。
何もありません。
そう言って、強引に流していた。
けれど今は、完全には否定できなかった。
ユウトが隣にいる。
視線を向けると、彼は不思議そうに首を傾げていた。自分が話題の中心にいることを分かっていない顔だ。その素直さに、マリナは少しだけ困って、少しだけ笑いたくなった。
小さく咳払いする。
「……ええ、まぁ、少しだけですけど」
その瞬間、女性客たちが一気に盛り上がった。
「きゃあ!」
「やっぱり!」
「がんばってね!」
「応援してるわ!」
マリナはさらに真っ赤になる。
一方ユウトは、よく分かっていない顔のまま言った。
「先生、応援されてますね」
「黒崎くんはもう少し状況を理解して!」
店内に笑いが広がった。
魔王が厨房の奥でにやにやしている。
「ええ感じやなぁ」
副官さんは帳面を開いたまま、静かに言った。
「作業速度は落とさないでください」
「はい!」
ユウトが真面目に返事をしたので、また少し笑いが起きた。
金曜、土曜と店は盛況のまま過ぎていった。
ユウトとマリナの距離は、まだぎこちなさを残している。けれど、以前のように互いの気持ちを隠そうとする硬さは薄れていた。ユウトは自然にマリナを気遣い、マリナもそれを受け取る。レイナはそれを見てはニヤニヤし、山本さんは嬉しそうに笑い、ガルドとダインは必要以上に触れず、短い言葉だけで見守っていた。
日曜日の営業も、昼過ぎには完売した。
最後の客が包みを抱えて店を出ていくと、店内に残ったのは甘い香りと、熱の引いた厨房の空気だった。作業台には使い終えた型が並び、水場では山本さんが布を洗っている。レイナは接客台の上を拭き、マリナは空になった皿を重ねていた。
「今週もよく売れましたね」
山本さんが額の汗を拭いながら言う。
魔王は腕を伸ばして笑った。
「そらまあ、うちの店やしな」
「魔王さん、それ毎週言ってません?」
レイナが返すと、魔王は悪びれもせず笑う。
「毎週ほんまのこと言うてるだけや」
副官さんは帳面を閉じながら淡々と言った。
「売上は良好です。ただし、果実の仕入れは次回少し調整が必要です」
「はいはい、また細かい話や」
「細かい話が店を支えています」
「ごもっとも」
いつものやり取りに、店内の空気が少し緩む。
片付けをしながら一休みしていた時だった。
戸が開いた。
この時間に客が来ることはほとんどない。全員がそちらへ視線を向ける。
入ってきたのは相沢だった。
いつものように整った服装で、商人らしく身だしなみはきちんとしている。だが、表情が少し違った。普段なら軽く笑って、余裕のある調子で入ってくる。今日はどこか固い。
「珍しいな」
ガルドが言う。
相沢は軽く頭を下げた。
「営業後にすみません。少し相談があるんです」
その声に、店内の空気が変わる。
レイナが目を細めた。
「相沢くんがそんな顔で相談って、嫌な予感しかしないんだけど」
「悪い話じゃない」
相沢はそう言って、少しだけ間を置いた。
いつもの相沢なら、こういう間は作らない。商談の時も、冗談を言う時も、言葉の置き方が滑らかだ。だからこそ、今の間が妙に目立った。
やがて、相沢は言った。
「実は結婚する」
店内が止まった。
レイナが最初に声を上げる。
「えっ! 全然知らなかった!」
「言うと騒ぐからな」
相沢はちらりとレイナを見た。
「私ですか!?」
レイナが目を丸くする。
相沢は何も言わない。
ただ、無言で見返した。
それだけで十分だった。
「……くっ」
レイナが言葉に詰まる。
マリナは隣で少し困ったように笑った。相沢の視線は一瞬だけマリナにも向いたが、すぐに戻る。その視線には、マリナは恋愛相談相手としては少し頼りない、という判断が透けていた。
マリナはそれに気づき、ほんの少しだけ眉を寄せる。
けれど反論はしなかった。
出来なかった。
相沢は小さく息を吐いた。
「愛は賑やかでもいいが、恋は静かにゆっくり進めた方がいいんだ」
その言葉に、マリナは思わず相沢を見た。
ユウトも静かに聞いている。
相沢はユウトへ強く言ったわけではない。けれど、その言葉は確かにユウトの方へも向いていた。酒場で毎週のように愛を爆発させるユウトと、少しずつ静かに関係を育ててきた相沢。その差が、言葉の奥にあった。
マリナは胸の中で深く頷いた。
口には出さない。
ただ、少しだけ目を伏せる。
レイナがそれを見て、にやりと笑いかけたが、今はそれどころではなかった。
「相手は?」
レイナが身を乗り出す。
「誰なんです?」
相沢は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「高田さんだ」
「えっ!」
マリナが声を上げた。
高田さん。
服飾関係のスキルを持つ同級生。
相沢と組んで仕事をしていて、酒場で売られている高級下着のデザインにも関わっている人物だ。それは何度も聞いていたし、関わりが深いことも知っていた。けれど、結婚まで進んでいるとは思っていなかった。
レイナは目を丸くしてから、すぐににやけた。
「同級生カップルがもう結婚かぁ」
そして、マリナを見る。
「先生、負けてますね」
「うるさい!」
これは反射だった。
だが、店内に笑いが広がる。
相沢はいつものように皮肉を返すかと思われたが、今日は少し違った。どこか歯切れが悪い。
「ああ、うん。まぁ、なんだ」
レイナがぴんときた顔をする。
「もしかして?」
相沢は観念したように頷いた。
「ああ。今、妊娠してる」
再び、店内が止まった。
今度はさっきより深い沈黙だった。
最初に息を呑んだのは山本さんだった。
「妊娠……」
マリナも、言葉がすぐには出てこなかった。
結婚。
妊娠。
家庭。
前に浮気調査で夫婦のことを考えた時にも胸の奥でぼんやり浮かんだ言葉が、今度は同級生の現実として目の前に置かれている。
「すごい……」
マリナの声は自然と小さくなった。
祝福の気持ちがある。
同時に、少しだけ胸がざわつく。
レイナはその表情を見て、少し茶化すように言った。
「先生、完全に負けてますよ」
マリナは一瞬だけ言葉に詰まった。
さっきのように反射で怒鳴ることも出来た。
けれど、今回はそうしなかった。
マリナは少しだけ視線を落とし、それからユウトを一瞬だけ見た。
ユウトは真面目な顔で相沢を見ている。
その横顔を見て、マリナの胸が少し落ち着いた。
「……いいの。私たちはゆっくりいくの」
言った後で、自分でも少し驚いた。
私たち。
自然にそう言っていた。
レイナもそれに気づいたらしい。
にやにやしようとして、けれど今は祝福の空気の方を優先したのか、少しだけ柔らかく笑った。
「そうですね」
ガルドが静かに頷く。
「めでたいな」
ダインも短く言った。
「……祝うべきだ」
山本さんは少し目を潤ませている。
「すごいですね。おめでとうございます」
「ありがとう」
相沢は照れくさそうに頭を掻いた。
表情は大きく変わらない。だが、いつもの余裕が少しだけ崩れている。嬉しいのだ。たぶん、とても嬉しい。隠そうとしているだけで、隠しきれていない。
魔王が腕を組み、にやりと笑った。
「めでたいけど、報告だけやないやろ?」
相沢は少し姿勢を正した。
「はい」
そして、魔王へ向かって頭を下げる。
「出来ればなんですが、ウェディングケーキをお願い出来ないかと思って」
魔王の目が面白そうに細くなる。
「ほう」
一拍。
「おもろいやん」
厨房の空気が一気に明るくなった。
さっきまでの驚きが、祝福の熱に変わっていく。ケーキ屋の中に、また甘い匂いとは違う温かさが満ちた。
「ウェディングケーキですか」
山本さんがぱっと顔を上げる。
「私、ちゃんと作るところ見たことないです」
「俺もです」
ユウトも真剣な顔になる。
魔王は楽しそうに笑う。
「ほな、ええ機会やな」
相沢は少しだけほっとしたようだった。
「普通の式で出るケーキは、保存性重視であまり美味しくないことも多いんですよね」
山本さんが考え込むように言う。
「飾ること優先だったり、日持ち優先だったり」
「そうなんだ」
ユウトが驚く。
相沢は頷いた。
「だから、可能ならちゃんと食べられるケーキを頼みたい。高田さんにも食べてほしいから」
高田さん、と言った時の相沢の声が少しだけ柔らかくなった。
それだけで、また店内の空気が温かくなる。
レイナが口元を押さえた。
「相沢くんが普通にデレてる」
「デレてない」
「表情変わってないのにデレてますよ」
山本さんも小さく頷く。
「はい。表情は変わってないけど、すごくデレデレです」
相沢は少しだけ目を逸らした。
「……話を進めてもいいか」
魔王は笑いながら、相沢の肩を軽く叩いた。
「ええやん。めでたい席や。中途半端なもんは出されへんな」
それから、少し真面目な声になる。
「つわりとかはどうなん?」
相沢はすぐに答えた。
「今は大丈夫です。食事も普通に取れています」
「なら、早めの方がええわな」
魔王の視線は優しかった。
「妊娠が進むと、食べられんもんが出るかもしれん。せっかく作るなら、本人が笑って食える時がええ」
相沢の表情が、ほんの少し緩む。
「はい」
マリナはそのやり取りを見て、胸の奥がじんわり温かくなった。
高田さんのことを考えている相沢。
相沢の言葉を受けて、食べる人の体調まで考える魔王。
その周りで自然に祝おうとしている仲間たち。
結婚とは、こういうものなのかもしれない。
一人と一人だけの話ではなく、周囲の人たちも少しずつ巻き込んで、温かいものが広がっていく。
レイナが身を乗り出した。
「ちなみに、結婚式はいつの予定なの?」
マリナも、思わず相沢を見る。
相沢は少し照れくさそうに言った。
「皆さんの都合もあるでしょうから、出来れば来週の月曜日に」
「来週の月曜日」
山本さんが驚いた顔をする。
「私たちも出席していいんですか?」
「もちろん」
相沢はすぐに頷く。
「ぜひ出席してほしい。高田さんも、皆さんに来てほしいと言っていた」
その言葉で、山本さんの顔がぱっと明るくなる。
「行きます。絶対行きます」
レイナも嬉しそうに笑った。
「もしかして会場はあそこ?」
「ああ」
相沢は苦笑した。
「いつもの酒場の店主のご厚意でね」
その瞬間、レイナ、マリナ、山本さんの三人が微妙な顔で視線を交わした。
少し離れた場所で、レイナが小声になる。
「絶対ただの厚意じゃないですよね」
マリナも小さく頷く。
「まぁ、厚意もちゃんとあると思うわよ。たぶん」
「たぶんって」
山本さんが控えめに言う。
「店主さん、かなり楽しみにしてそうですね」
「相沢くんもそれに気づかないって、相当のぼせてますね」
レイナの言葉に、マリナは苦笑した。
確かに、普段の相沢なら絶対に気づいている。
酒場で結婚式をすれば、常連が盛り上がる。店の評判にもなる。相沢の商売にも繋がるかもしれない。店主の厚意は本物でも、それだけではないはずだ。
だが、相沢は今、そのあたりを深く疑っていない。
高田さんとの結婚で、それどころではないのだろう。
山本さんが小声で言った。
「表情は変わってないけど、やっぱりデレデレです」
レイナが頷く。
「ですね」
厨房側では、魔王がすでに段取りを考え始めていた。
「うーん、月曜日の朝から作って、夕方に酒場へ搬入やな」
作業台の上に指を置き、頭の中で組み立てている顔だ。
「飾りすぎるより、食べてうまい方を優先や。けど祝いの席やから見た目もいる。果実は赤いの入れたいな」
「高田さん、苺は好きですか?」
ユウトが真面目に相沢へ聞く。
相沢は少しだけ照れたように答えた。
「好きだな」
それだけの返事で、店内がまた少し柔らかくなる。
レイナがすかさず言う。
「今の声、完全に旦那さんでした」
「まだ式前だ」
「もうほぼ旦那さんです」
相沢は否定しきれず、軽く咳払いした。
山本さんは帳面を開き、目を輝かせている。
「フルーツの飾り、考えたいです。あと、白いクリーム多めの方が式っぽいですよね。甘さは少し控えめにして、高田さんが食べやすいようにして」
「ええな」
魔王が笑う。
「山本さん、気合入っとるな」
「入りますよ!」
山本さんは力強く言った。
「同級生の結婚式ですよ。しかも赤ちゃんもいて、そんなの全力で祝いたいじゃないですか」
その言葉に、相沢が少しだけ目を伏せた。
「ありがとう」
短い言葉だったが、照れも感謝も混ざっていた。
ユウトも頷く。
「俺も手伝います。できることは何でもやります」
マリナはその横顔を見る。
真面目で、優しい。
誰かの幸せを、自分のことのように受け止められる人だ。
そのユウトと視線が合った。
彼は少しだけ笑う。
マリナも笑い返した。
レイナはそれを見て、また何か言いたそうにしたが、今は祝福の空気を壊さずに黙っていた。
魔王が大きく手を叩く。
「よし」
厨房に乾いた音が響いた。
「当たり前やけど、これは手ぇ抜けへんで」
その声に、全員の視線が集まる。
「相沢と高田さんの祝いの席や。みんなで全力で作るで」
「はい!」
ユウトと山本さんが同時に返事をした。
レイナも笑顔で頷く。
「接客側でも準備できることありますよね」
「花や飾りの相談なら手伝えるわ」
マリナも自然に言っていた。
ガルドが腕を組む。
「搬入なら手伝う」
ダインも低く続ける。
「……警備もいるだろう」
相沢は一瞬だけ言葉を失ったように見えた。
いつもなら、すぐに礼を言う。商人らしく、場を整え、言葉を選ぶ。だが今日は少し違った。目の前で自分と高田さんのために皆が動こうとしている。その温かさを、うまく受け止めきれていないようだった。
それでも、相沢は深く頭を下げた。
「お願いします」
魔王は笑った。
「任せとき」
甘い香りの残る店の中で、祝福の話はどんどん膨らんでいった。
苺を使うか。
白いクリームをどれくらいにするか。
大きく一つにするか、小さく分けて食べやすくするか。
誰が運ぶか。
酒場のどこに置くか。
細かな段取りの話をしているはずなのに、店内に流れているのは説明ではなく、祝うための熱だった。
相沢が高田さんの好みをぽつりぽつりと答えるたび、レイナが冷やかし、山本さんが目を輝かせ、魔王が面白そうに頷く。ユウトは真面目に聞き、マリナはその横で少し未来のことを考える。
同級生が結婚する。
子どもが生まれる。
家庭を作る。
それは遠い話ではない。
この世界で生きていくということは、そういう未来も自分の手の届く場所にあるということだった。
マリナは無意識にユウトを見た。
ユウトもそれに気づいて、静かに微笑む。
今はまだ、ゆっくりでいい。
その言葉が、胸の奥で温かく残っていた。
店の外では、日曜の午後の光が少しずつ傾き始めていた。
魔王のケーキ屋の中では、次の週の月曜日へ向けて、甘くて温かい準備が始まっていた。




