第129話 恋人になった二人を周囲が必死に進展させようとしている件
水曜日の朝。
借家の食卓には、焼いたパンと卵料理、それに昨夜の残りを温め直したスープが並んでいた。
窓から差し込む朝日が卓を照らし、木製の椅子の影を長く伸ばしている。外からは荷車の音や、開店準備を始めた店の声が微かに聞こえてきた。
いつもの朝。
けれど、以前と同じではなかった。
「はい、先生」
ユウトが自然に皿を差し出す。
「ありがとう」
マリナも、ごく自然に受け取った。
以前なら、こんな短いやり取りだけでも妙に意識してしまっていた。だが今は違う。もちろん緊張が消えたわけではない。むしろ以前より意識している。
それでも。
目が合うたび、慌てて逸らさなくなった。
今も、皿を受け取る時に視線が合う。
ユウトが少し笑う。
つられるように、マリナも笑ってしまう。
その空気を見ていたレイナが、にやりとした。
「なんだかラブラブですね」
マリナの肩がびくっと跳ねた。
「な、何言ってるのよ」
「だって、自然に笑い合ってるじゃないですか」
「普通でしょう」
「恋人同士としては普通ですね」
その言葉に、マリナの頬がまた熱くなる。
恋人同士。
まだ、その響きに慣れない。
この間の夜、自分から散歩へ誘って。
自分から、名前で呼んでほしいと言って。
愛していると返した。
そこまでしたのに、朝になるとまだ胸が落ち着かない。
隣を見る。
ユウトはいつも通り、真面目に朝食を食べていた。
でも、時々ちらりとこちらを見る。
視線が合う。
また笑う。
そのたびに、胸の奥がむず痒くなった。
「先生」
レイナが面白そうに身を乗り出す。
「今、完全に新婚さんみたいでしたよ」
「違うわよ!」
「でも、先生嬉しそうです」
「そ、それは……」
言葉に詰まる。
ユウトが隣で少し首を傾げた。
「先生、嫌でしたか?」
「嫌じゃない!」
反射的に答えてしまった。
しまった、と思った時には遅い。
レイナが卓へ突っ伏した。
「はい両想い!」
「前から両想いでしょうが!」
「でも最近、先生の方が隠さなくなってきました」
マリナはもう返す言葉がない。
隣でユウトが少しだけ嬉しそうにしているのが、さらに恥ずかしかった。
■
昼前。
マリナとレイナは買い物籠を持って街へ出ていた。
石畳の通りは平日らしい落ち着いた賑わいを見せている。商人の呼び声、道端で野菜を並べる老婆、布屋の軒先で揺れる色鮮やかな布。
週末の喧騒とは違う、生活の音が街に流れていた。
「先生、そろそろシャンプーとトリートメント無くなりそうなんですよ」
「ああ、そういえばそうね」
マリナも思い出したように頷く。
最近はケーキ屋の準備や営業が忙しく、細かな買い物を後回しにしていた。
「じゃあ今日まとめて買っちゃいましょう」
「そうね」
二人は女性向けの香油や洗浄剤を扱う店へ入る。
木製の棚には小瓶が並び、花や果実を混ぜた甘い香りが漂っていた。
レイナが慣れた様子で瓶を手に取る。
「先生これどうです?」
「んー、ちょっと甘すぎるかも」
「じゃあこっち?」
栓を開ける。
柑橘系の香りがふわりと広がった。
「……あ、これ好きかも」
「ですよね!」
レイナは嬉しそうに頷く。
二人であれこれ試しながら瓶を選んでいく。
その途中。
「あっ」
レイナの声が弾んだ。
「先生、見てください!」
棚の奥に、見慣れない瓶が並んでいる。
「ボディソープだ」
マリナも少し驚いた。
透明感のある液体が瓶に入っている。最近、魔王国から新しく入ってきた商品なのだろう。
店主が得意げに説明する。
「魔王国の職人が作った新商品ですよ。香りが長持ちするって評判でして」
レイナがすぐに栓を開ける。
「わ、いい匂い」
花と果実を混ぜたような香りが広がった。
マリナも少し目を丸くする。
「けっこういい匂いね」
「買っちゃいましょうよ」
「そうね」
結局、予定よりかなり買い込むことになった。
帰り道。
籠は想像以上に重い。
「うぅ……ちょっと重かったですね」
レイナが腕を入れ替えながら言う。
「買いすぎたかしら」
「ボディソープ二本はやりすぎでしたね」
「だっていい匂いだったんだもの」
レイナがにやりと笑う。
「ユウトくんも連れて来ちゃえば良かったですね」
その瞬間。
マリナの頭に、ユウトが荷物を持って隣を歩く姿が浮かんだ。
自然に荷物を持ってくれそうだ。
名前を呼ばれて。
隣を歩いて。
その光景を想像しただけで、また頬が熱くなる。
「……そうね」
ぽつりと漏れた本音に、レイナは満足そうだった。
■その夜。
借家の裏にある風呂場には、湯気が立ち込めていた。
石を削った浴槽に肩まで浸かり、マリナは大きく息を吐く。
「はぁ……」
「先生」
隣のレイナがじっと胸元を見ていた。
「また胸おっきくなってません?」
「なってないわよ、たぶん」
「そっかなぁ?」
疑わしそうな目。
次の瞬間。
むに。
「きゃっ!」
マリナの身体が跳ねた。
「やっぱりおっきくなってますよ!」
「勝手に揉むんじゃないの!」
湯が大きく揺れる。
レイナは楽しそうだった。
「先生ズルい!」
「何がよ!」
「食べた物が全部胸にいってる!」
「いってません!」
浴場に騒がしい声が響く。
一方その頃。
壁一枚向こうの男湯。
ユウトは静かに湯へ浸かっていた。
聞こえない。
聞こえない。
そう念じている。
だが、普通に聞こえる。
「やっぱりおっきくなってます!」
「揉むなって言ってるでしょう!」
ユウトはそっと湯へ深く沈んだ。
隣でダインが静かに目を閉じている。
ガルドは少し遠い目をしていた。
「……若いな」
ぽつりと呟く。
ユウトは答えなかった。
いや、答えられなかった。
■木曜日。
朝から魔王のケーキ屋は慌ただしかった。
営業日前日の準備日。
厨房では粉が舞い、甘い香りが漂っている。
山本さんが卵を割りながら声を上げた。
「今日ちょっと多くないですか?」
「週末分やからなぁ」
魔王は生地を混ぜながら答える。
副官さんは帳面を見ながら材料を確認していた。
マリナとレイナは店内の掃除。
ガルドとダインは戸や棚の確認。
ユウトは生地作りの補助に入っている。
いつもの準備風景。
そのはずだった。
「あっ」
突然、魔王が声を上げた。
「しもた」
全員の視線が向く。
魔王は顎に手を当てた。
「え〜、粉がちょっと足りへんかもしれんなぁ」
棒読みだった。
あまりにも棒読みだった。
レイナの眉がぴくっと動く。
副官さんが自然に続ける。
「そうですね。少し足りないかもしれません」
こちらは自然だった。
だが隣の魔王が怪しすぎる。
魔王はちらちらとユウトとマリナを見る。
「困ったなぁ」
棒読み。
「誰か買って来てくれへんやろか?」
レイナは心の中で叫んだ。
魔王さん演技下手くそ!
なのに本人は妙に胸を張っていた。
どうやら本気で自然な演技だと思っているらしい。
副官さんが小さくため息をつく。
マリナは完全に察していた。
じとっとした目で魔王を見る。
一方。
ユウトだけが本気で理解していない。
「それなら」
普通に立ち上がる。
「師匠、買って来ますね」
魔王が慌てた。
「いや!」
声が裏返る。
「重いやろ!? 一人やと大変やろ!?」
ユウトはきょとんとする。
「いえ、無限収納がありますから」
「……」
一瞬詰まる魔王。
レイナが額を押さえた。
魔王は必死に続ける。
「えっと、ほれ、あ〜……粉の見極めとかあるやん?」
完全に後付けだった。
マリナはまだじとっと見ている。
魔王はさらに焦った。
「あっ、先生と一緒やったら安心やなぁ!」
苦しい。
あまりにも苦しい。
レイナ、ガルド、ダイン、副官。
全員がこっそりため息をついた。
レイナはそっと副官さんへ寄る。
「魔王さん甘やかしすぎじゃないですか」
副官さんは静かに返した。
「申し訳ありません」
本当に申し訳なさそうだった。
マリナはしばらく魔王を見ていた。
そして、ふう、と息を吐く。
「分かりました」
半分諦めた声だった。
「一緒に粉を買って来ます」
魔王の顔がぱっと明るくなる。
「おお、助かるわぁ!」
絶対に助かった顔ではない。
成功した顔だ。
「行くわよ、黒崎くん」
「はい」
ユウトは素直に頷く。
二人が戸口へ向かう。
その直前。
マリナが振り返った。
にっこり笑う。
「レイナ」
「はい?」
「後でお説教ね」
レイナの笑顔が固まった。
「えっ」
戸が閉まる。
二人が出ていった。
静かになった店内。
次の瞬間。
「役立たず!」
レイナの叫びが響いた。
魔王がびくっと肩を揺らす。
「何でや!?」
「演技下手すぎます!」
「ちゃんと二人っきりで送り出せたやろ!」
「不自然すぎです!」
ガルドが腕を組む。
「俺でも分かった」
ダインも頷く。
「……見え見えだった」
副官さんは静かに額を押さえていた。
魔王だけが納得していない。
「えぇ……?」
首を傾げる魔王。
「俺、昔は演技派って褒められた事あるで?」
そう言って、ちらりと副官さんを見る。
一瞬の間。
副官さんはゆっくり目を閉じた。
「……本当に申し訳ありません」
レイナが即座に突っ込む。
「副官さんだったんですか!?」
ガルドが吹き出す。
ダインも珍しく肩を震わせた。




