第128話 恋愛初心者二人をどうにか前進させたい周囲が作戦会議を始めた件
火曜日の借家は、朝から妙に静かだった。
昨日の酒場の騒ぎが嘘のように、窓から差し込む光は穏やかで、板張りの床には薄い影が伸びている。外では交易都市の朝が普通に始まっていた。荷車の車輪が石畳を軋ませ、店先で戸板を上げる音が聞こえ、どこかの家から朝食の匂いが流れてくる。
けれど、借家の中だけは、普通ではないものを抱えていた。
原因は明らかだった。
ユウトとマリナである。
朝食は終わっている。皿も椀も片付けられ、卓の上には水差しと布巾だけが残っていた。ユウトはいつも通り、椅子に座って収納の中身を思い出すように指を折っている。マリナはその向かいに座っていたが、視線が何度もユウトへ向かっては、すぐに逸れていた。
レイナは、それを見ながら微笑んでいた。
ただの微笑みではない。
何かを決意した人間の顔だった。
「先生」
「何?」
マリナが警戒したように顔を上げる。
昨日の酒場以来、レイナの声には罠が多い。恋人になったばかりの自分を面白がっているのは明らかで、しかもそれを隠す気がまったくない。
「ちょっと私、出かけてきますね」
「え?」
マリナは目を瞬かせた。
「どこへ?」
「少し用事です」
レイナはにこやかに答えた。
その言い方が、あまりにも怪しい。
マリナが眉を寄せる前に、壁際で盾の革紐を見ていたダインが静かに立ち上がった。
「……俺も出る」
「ダインさんも?」
「うむ」
短い返事だった。
さらに、戸口の方でガルドの声がした。
「俺も少し出る」
ちょうど隣の自宅から顔を出していたガルドは、いつもの落ち着いた顔でそう言った。家族との朝を終えた後なのだろう。服も整い、すぐに外へ出られる姿だった。
マリナはゆっくり視線を動かした。
レイナ。
ダイン。
ガルド。
三人とも出る。
つまり、この借家にはユウトと自分だけが残る。
それに気づいた瞬間、マリナの背筋がぴんと伸びた。
「ちょっと待って」
レイナは戸口へ向かいながら振り返る。
「何ですか?」
「何ですかじゃないわよ。どうして三人で出るの?」
「たまたまです」
「たまたまにしては、都合が良すぎるでしょう」
「そういう日もあります」
レイナは平然としている。
ガルドは少しだけ目を逸らした。
ダインは無言だった。
その無言が、何より怪しい。
「黒崎くん」
マリナは助けを求めるようにユウトを見た。
ユウトは困ったように首を傾げる。
「俺は、留守番でいいんですか?」
「そうじゃなくて」
マリナは言いかけて、言葉が止まった。
何を言えばいいのか分からない。
二人きりにしないで、と言うのもおかしい。恋人になったばかりなのに。しかも昨夜の酒場では、あれだけ抱きしめてほしいと言ってしまった。いや、言わされたと言いたいところだが、言ったのは自分だ。
それなのに、素面で二人きりになると、途端にどうしていいか分からなくなる。
レイナは満足そうに頷いた。
「では、行ってきます」
「レイナ」
「大丈夫です。ゆっくりしていてください」
大丈夫の意味が分からない。
マリナが問い詰める前に、三人は外へ出ていった。
戸が閉まる。
足音が遠ざかる。
借家の中に、急な静けさが落ちた。
さっきまで普通だった部屋が、一気に違う場所になる。卓、椅子、水差し、窓から入る光。何も変わっていないのに、ユウトと二人だけだと思うだけで、空気が濃くなった気がした。
ユウトは椅子に座ったまま、マリナを見る。
「先生」
「な、何?」
「どうしますか」
「どうって」
どうするの。
その言葉が胸の中で妙に響いた。
どうする。
二人きり。
恋人。
素面。
静かな借家。
昨日の酒場では、酔ったユウトに抱きしめられて、恥ずかしいのに離れたくなくて、結局レイナに呼吸まで整えられてしまった。あれを思い出した瞬間、マリナの頬が熱くなる。
「えっと」
声が少し裏返った。
「お茶、飲む?」
何を言っているのだろう。
だが、他に言葉が出てこなかった。
ユウトは素直に頷く。
「はい、いただきます」
普通だ。
あまりにも普通だ。
それが逆に困る。
マリナは立ち上がり、茶の支度を始めた。水を注ぎ、火を見て、茶葉を用意する。普段なら何でもない動作が、今日は妙にぎこちない。手元が震えていないか気になり、余計に意識してしまう。
ユウトは静かに待っている。
何も急かさない。
それもまた困る。
茶を入れた椀を卓に置くと、湯気がふわりと立った。二人分。向かい合う席。あまりにも健全で、あまりにも静かで、それなのにマリナの中では全然落ち着かない。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ユウトは椀を受け取り、口元へ運んだ。
「おいしいですね」
「そ、そうね」
会話が終わった。
沈黙。
湯気だけが揺れる。
外からは遠い通りの音がする。誰かの声、荷車の音、店先で人が笑う気配。だが、借家の中は静かだった。
マリナは椀を両手で包みながら、何か話さなければと思った。
恋人って何を話すの。
普通は何をするの。
二人きりになったら、何かするものなの。
いや、何かって何。
そこまで考えた瞬間、自分の思考に顔が熱くなる。
「先生?」
ユウトが心配そうに声をかける。
「顔が赤いです」
「な、何でもないわ」
「本当に大丈夫ですか」
「大丈夫よ」
大丈夫ではない。
けれど、そう言うしかない。
マリナは深く息を吸い、耐えきれずに口を開いた。
「えっと」
「はい」
「二人だけだけど」
「はい」
「その……」
言葉が出てこない。
ユウトは真面目な顔で待っている。
その真面目さが余計に恥ずかしい。
「こ、恋人だけど」
言った瞬間、心臓が跳ねた。
ユウトの顔も少し赤くなる。
「はい」
「だけど」
「はい」
「ダメだからね」
言ってしまった。
ユウトは数秒ほど黙った。
そして、少し困ったように言う。
「はぁ」
完全に分かっていない顔だった。
マリナは椀を握りしめる。
「だから、その……ダメなの」
「何がですか」
「聞かないで!」
「すみません」
ユウトはすぐに謝った。
その素直さがまた困る。
怒っているわけではない。
ただ、自分でも何がダメなのかうまく言えない。勝手に想像して、勝手に恥ずかしくなって、勝手に警戒しているだけだ。ユウトは何もしていない。お茶を飲んでいるだけである。
マリナは、ほとんど泣きたい気持ちになった。
一方その頃。
レイナ、ガルド、ダインの三人は、魔王のケーキ屋へ向かっていた。
火曜日の交易都市は、週末の浮ついた空気が薄れ、いつもの仕事の顔に戻っている。店先では商人が品を並べ、職人が道具を運び、石畳の上を子どもが走っていた。
ガルドは少し前を歩きながら、静かに言った。
「本当に行くのか」
「行きます」
レイナの返事は迷いがなかった。
「ここはそっとしといた方がいいぞ」
「いけません」
即答だった。
ダインが低く言う。
「……二人きりにはした」
「それは第一段階です」
「第一段階」
ガルドが少し眉を動かす。
「その先を、今から相談するのか」
「そうです」
レイナは真剣そのものだった。
「あの二人は、放っておくと永遠に足踏みします」
ガルドとダインは、一瞬だけ互いに視線を交わした。
否定できなかった。
魔王のケーキ屋は、本来なら今日は休みだった。
週の予定でいえば、火曜日は冒険者活動の日であり、ケーキ屋の営業日ではない。店の戸も閉まっている。だが、近づくと中から甘い香りがした。
レイナが戸を叩く前に、中から魔王の声がする。
「開いとるで」
戸を開けると、厨房に魔王がいた。
腕まくりをして、普通に生地を混ぜている。作業台には粉、卵、砂糖、乳が並び、焼き上がりを待つ型がいくつか置かれていた。休みの日の店とは思えないほど、店内には甘く香ばしい空気が満ちている。
「よう」
魔王は木べらを動かしながら顔を上げた。
「今日は休みやで?」
レイナは即座に返した。
「それはこっちのセリフです!」
魔王は笑う。
「鍛錬や鍛錬。ケーキも作らな腕が鈍るやろ」
「休みの日にケーキ作ってるんですか」
「作りたい時に作るんが一番うまなるんや」
悪びれた様子がまったくない。
奥では副官さんが帳面を開いていた。休みの日だというのに、材料の残りや次の仕込み予定を確認している。姿勢も服装も乱れがなく、いつも通りきっちりしていた。
副官さんは顔を上げる。
「どうしました?」
レイナは一歩前へ出た。
「お二人にもご相談が!」
その気迫に、魔王は木べらを止めた。
「何なんよ急に」
ガルドは小さく息を吐く。
「俺は止めた」
ダインも頷く。
「……うむ」
「止めなくていいんです」
レイナは二人を振り返った。
「むしろ協力してください」
魔王は生地の入った器を作業台へ置き、布で手を拭いた。
「で、何の話や」
レイナは深く息を吸う。
「ユウトくんと先生のことです」
副官さんの目がわずかに動いた。
魔王は「ああ」と言いたげな顔をする。
レイナは続けた。
「昨夜、ついに告白が成立しました」
「へえ」
「名前呼びもしました」
「ほう」
「両想いになりました」
「……」
魔王が一瞬だけ止まった。
そして、少しだけ目を細める。
「まだ、なってなかったんや」
副官さんも静かに言う。
「遅すぎますね」
レイナは勢いよく頷いた。
「そうなんです!」
声が大きくなる。
「やっとなんです!」
「長かったんです!」
「こっちはずっと見守ってきたんです!」
ガルドが少し引いた顔をした。
ダインも無言で半歩後ろに下がる。
レイナは止まらない。
「あの二人、恋愛レベルが小学生なんです!」
ガルドが首を傾げる。
「小学生?」
魔王が笑う。
「まあ、お子ちゃまってことやな」
「そうです」
レイナは力強く頷く。
「しかも、二人とも自分から動けないタイプなんです」
副官さんがすぐに頷いた。
「そうですね」
魔王も腕を組む。
「ああ、だいたい想像できるなぁ」
「今も二人っきりにしてきました」
レイナは胸を張る。
「でも、絶対にもじもじしてるだけです」
ガルドが低く呟いた。
「確信犯か」
ダインも言う。
「恐ろしいな」
「必要な措置です」
レイナは全く悪びれない。
場面は借家へ戻る。
ユウトとマリナは、本当にお茶を飲みながらもじもじしているだけだった。
椀の茶は少し冷めてきている。湯気もさっきより薄い。けれど、二人の距離は変わらない。向かい合ったまま、時々視線が合い、すぐに逸れる。
「お茶、冷めてきましたね」
ユウトが言う。
「そ、そうね」
マリナは椀を持ち直した。
会話が終わる。
また沈黙。
マリナは心の中で頭を抱えていた。
何か話して。
いや、自分から話すべき。
でも何を。
恋人らしい会話って何。
天気の話は違う。冒険者依頼の話も違う。ケーキ屋の話ならできるが、それではいつも通りだ。いつも通りではなく、今は恋人として話すべきなのではないか。
恋人として話すとは何なのか。
考えれば考えるほど分からない。
ユウトはユウトで、マリナを困らせないようにしていた。
昨日、名前で呼んだ。
愛していると言った。
先生も返してくれた。
それだけで胸がいっぱいで、今も隣にいるだけで嬉しい。けれど、先生は緊張している。自分が何かすると困らせるかもしれない。なら、急がない方がいい。
そう考えて、結果として何もしない。
完全に膠着していた。
再び、魔王のケーキ屋。
レイナの説明を聞いた魔王は、しばらく腕を組んでいた。
「いやでもやな」
魔王は大人の顔で言う。
「健康な両想いの男女が二人っきりなんやろ?」
レイナが警戒する。
「はい」
「なんかあるのが普通やで」
副官さんも静かに頷いた。
「そうですね」
「キスぐらいは期待できるのでは?」
レイナは即座に首を振った。
「絶対にありません!」
断言だった。
「手を握れたら褒めてあげるつもりです!」
魔王が少し引いた。
「そうなんや」
副官さんも珍しく間を置く。
「そうなんですね」
ガルドとダインも微妙な顔をした。
レイナは全員を見回す。
「分かってください。あの二人は、周囲が後押ししない限り永遠にもじもじしてるだけなんです」
ガルドは少し考えた。
「じゃあ、ユウトに酒を飲ませるか」
ダインが頷く。
「うむ」
レイナの目が一気に鋭くなった。
「絶対にダメに決まってるでしょう!」
声が厨房に響いた。
副官さんも即座に同意する。
「そうですね。絶対にダメです」
魔王は首を傾げる。
「そうなんか?」
ガルドとダインは、先ほどの提案を撤回するように黙った。
レイナは両手を腰に当てる。
「これだから男は」
副官さんが淡々と続けた。
「分かっていませんね」
ガルドが少し姿勢を正す。
「な、なるほどな」
ダインも低く応じる。
「う、うむ」
レイナは熱を込めて言った。
「初めてが酒の勢いなんてありえません」
「段階が必要なんです」
「雰囲気も必要です」
「心の準備も必要です」
「積み重ねが大事なんです」
副官さんは深く頷く。
「その通りです」
魔王は苦笑した。
「いや、でもな」
全員が魔王を見る。
「素面のユウトが先生に手を出すか?」
少し間。
「ありえへんのちゃう?」
それは全員が一瞬黙るほどの説得力だった。
ユウトは真面目だ。
相手が嫌がることはしない。特にマリナ相手ならなおさらだ。素面なら、緊張しているマリナを前にして、踏み込むどころか一歩下がる可能性が高い。
レイナは力強く頷いた。
「だからこそ、後押しするんですよ!」
副官さんは納得したように言う。
「なるほど」
女性陣の意見は固まった。
魔王は肩をすくめる。
「せやけど、どうするんや?」
レイナは待ってましたとばかりに胸を張った。
「まずは二人っきりに慣れさせます」
副官さんが頷く。
「その状態を日常化するんですね」
「はい」
魔王は生地の器を軽く持ち上げ、別の型へ移しながら言った。
「いや、それだけやったら進まんやろ」
ガルドも頷く。
「確かにな」
ダインも短く続ける。
「……止まる」
「もちろん、これは第一段階です」
レイナは真剣だった。
魔王が問う。
「それからどうするん?」
「そこで皆さんのお知恵を拝借したいのです」
魔王は思わず笑った。
「何や、古い言い方するなぁ、自分」
副官さんは静かに言う。
「協力は惜しみません」
レイナは満足そうに頷いた。
「では、まず確認です」
魔王と副官さんを見る。
「お二人は普段、どういったデートをしてるんです?」
厨房が静かになった。
魔王の手が止まる。
副官さんの指も帳面の上で止まった。
ガルドとダインも、何かを察して黙る。
レイナは首を傾げた。
「恥ずかしがらずに教えてください」
沈黙。
長い沈黙。
魔王がゆっくり口を開いた。
「そういえば」
副官さんが続ける。
「そういえば、ですね」
魔王は少し遠い目をした。
「デートなんかしたことないなぁ」
副官さんも静かに頷いた。
「そういえば、そうですね」
レイナは一秒だけ固まった。
そして、容赦なく言った。
「役立たず!」
魔王が笑った。
「ひどない?」
「ひどくありません。恋愛作戦会議で一番大人そうな二人が、まさか実績ゼロとは思いませんでした」
副官さんは少しだけ眉を動かす。
「実績ゼロという言い方はどうかと思います」
「では、デート経験なしです」
「それもどうかと思います」
魔王は楽しそうに笑っている。
「いやあ、言われてみたら盲点やな」
「魔王さん、笑ってる場合じゃありません」
「でも、俺らは俺らで長い付き合いやしな」
「それなのにデートしてないんですか」
「してへんなぁ」
副官さんは少し考えるように視線を落とした。
「必要を感じていませんでした」
レイナは頭を抱えた。
「駄目だ。この人たち、別方向に強すぎる」
ガルドが静かに言う。
「だから言っただろう。そっとしといた方がいい」
「ここまで来て引けません」
レイナは顔を上げた。
「むしろ分かりました。大人だから恋愛が進んでいるとは限らないんですね」
魔王が笑う。
「それ、俺らも巻き込まれとる?」
「巻き込まれてます」
副官さんは帳面を閉じた。
「では、改めて考えましょう」
その声は、会議の始まりを告げるように落ち着いていた。
「二人きりに慣れさせる」
「はい」
「酒は使わない」
「絶対に使いません」
「無理に接触させない」
「はい」
「しかし、何もしなければ進まない」
「そうなんです」
副官さんは少しだけ考えた。
「ならば、目的のある外出がよいのでは」
レイナの目が光る。
「目的のある外出」
「はい。ただ歩くだけでは緊張します。けれど、何かを見る、何かを買う、何かを食べるという目的があれば、会話が生まれます」
レイナがぽんと手を打つ。
「それです」
魔王も頷いた。
「なるほどな。デートいうより買い物とか食事に寄せるんか」
「そうです」
ガルドが腕を組む。
「それなら自然だな」
ダインも言う。
「……警戒されにくい」
レイナは真剣に頷く。
「では、第二段階は目的ありの外出です」
魔王がにやりと笑う。
「それ、ケーキ屋で新作の材料買いに行かせたらええんちゃう?」
「それは仕事になります」
「仕事のふりしたデートや」
レイナは少し考えた。
「悪くないです」
副官さんも頷く。
「黒崎くんも動きやすいでしょう」
「先生も、仕事なら逃げにくいです」
「逃げにくいって言うな」
ガルドがぼそりと言う。
レイナは完全に聞かなかったことにした。
一方、借家では。
ユウトとマリナのお茶は、すっかり冷めていた。
「先生」
「な、何?」
「お茶、入れ直しましょうか」
「え?」
「冷めてしまったので」
ユウトはごく普通にそう言った。
マリナは冷めた椀を見る。
本当に冷めていた。
二人きりになってから、何も進んでいない。お茶が冷めるくらいの時間、ただ向かい合っていた。
レイナの予測は完全に当たっていた。
「そうね」
マリナは少しだけ笑った。
「お願いしてもいい?」
「はい」
ユウトは立ち上がり、お茶を入れ直しに行く。
その背中を見ながら、マリナは小さく息を吐いた。
何も起きない。
それが少し寂しいような、安心するような、複雑な気持ちだった。
けれど、こうして二人でいる時間は嫌ではない。
ユウトが新しい茶を持って戻ってくる。
「どうぞ」
「ありがとう」
椀を受け取る時、指先が少し触れた。
マリナの肩が小さく跳ねる。
ユウトも一瞬だけ止まる。
お互いに、すぐに手を引いた。
「……熱いので、気をつけてください」
「ええ」
たったそれだけ。
けれど、先ほどより少しだけ空気が柔らかくなっていた。
魔王のケーキ屋では、作戦会議がまだ続いていた。
レイナは真剣に案をまとめている。ガルドとダインは半分呆れながらも、意見を求められれば短く答える。魔王は生地を焼きながら面白がり、副官さんはなぜか会議進行まで整え始めていた。
「まず、今日の結果を見ましょう」
副官さんが言う。
「二人きりにした効果がどの程度あったか」
「絶対にもじもじしてるだけです」
レイナが断言する。
「でも、それが必要です」
「どういう意味や」
魔王が聞く。
「今は、二人きりで緊張する段階です。そこを越えないと、次に進めません」
副官さんは静かに頷いた。
「慣熟ですね」
「そうです」
魔王が笑う。
「恋愛を訓練みたいに言うなぁ」
「訓練です」
レイナは真剣だった。
「先生は恋愛初心者です。ユウトくんも恋愛初心者です。しかも二人とも真面目で、相手を大事にしすぎるんです」
ガルドが少しだけ目を細める。
「悪いことではない」
「悪くありません」
レイナは頷く。
「でも、進まないんです」
ダインが低く言う。
「……分かる」
その一言には、なぜか妙な説得力があった。
魔王は焼き上がった試作品を取り出し、台の上に置いた。
「ほな、結局どうするんや」
レイナは指を一本立てた。
「第一段階。二人きりに慣れさせる」
二本目。
「第二段階。仕事を口実に一緒に外出させる」
三本目。
「第三段階。そこで自然に手を繋げるか確認する」
魔王は大げさに頷いた。
「壮大やなぁ」
副官さんは真面目に言った。
「現実的です」
レイナは副官さんへ感謝の視線を向けた。
「ありがとうございます。副官さんだけが分かってくれます」
「いえ。段階を踏むことは重要です」
魔王は少し笑った。
「初めてのデートしたことない人が言うと説得力あるんかないんか分からんな」
副官さんの視線が静かに魔王へ向く。
「魔王さま」
「すんません」
即座に引いた。
ガルドが息を吐く。
「で、俺たちはどうする」
「見守ります」
レイナは即答した。
「ただし、必要な時だけ押します」
ダインが問う。
「……押しすぎるな」
「分かってます」
レイナは頷く。
「昨日の先生を見る限り、押しすぎると逆に逃げます」
「面倒やな」
魔王が言うと、レイナはきっぱり答えた。
「恋愛中の先生は面倒なんです」
全員が一瞬だけ黙った。
否定する者はいなかった。
その頃、借家では。
マリナがようやく少し落ち着きを取り戻していた。
二杯目の茶は温かく、さっきよりおいしく感じた。ユウトは向かいに座り、少しだけ嬉しそうにしている。何も起きていない。けれど、さっきより沈黙が苦しくない。
「黒崎くん」
「はい」
「その……さっきの、ダメっていうのは」
「はい」
「嫌って意味じゃないの」
言ってから、マリナはまた赤くなる。
でも、言わなければ伝わらない。
ユウトは真剣に聞いていた。
「はい」
「ただ、まだ慣れてなくて」
「はい」
「驚くというか、緊張するというか」
「はい」
「だから、その」
言葉が詰まる。
ユウトは急かさない。
マリナは視線を落として、小さく続けた。
「ゆっくりでお願い」
ユウトはすぐに頷いた。
「分かりました」
あまりにも自然な返事だった。
マリナは少しだけ顔を上げる。
「本当に分かってる?」
「はい」
ユウトはまっすぐ言った。
「先生が嫌じゃないなら、俺は待てます」
胸がじんとした。
ユウトはさらに続ける。
「でも、嫌な時はちゃんと言ってください」
「うん」
「俺、先生を困らせたくないので」
その言葉に、マリナは少しだけ笑った。
「もう十分困ってるわ」
「すみません」
「謝らなくていいの」
困っている。
けれど、嫌ではない。
この面倒な違いを、ユウトはきっと少しずつ覚えてくれる。自分も、少しずつ伝えられるようになればいい。
その時、外から足音が近づいた。
マリナは一瞬で顔を上げる。
ユウトも戸口を見る。
戸が開き、レイナたちが戻ってきた。
「ただいま戻りました」
レイナはやたらと満足そうな顔をしていた。
ガルドは少し疲れた顔をしている。
ダインはいつも通り無言だが、どこか遠い目をしていた。
マリナは目を細める。
「どこへ行っていたの?」
「魔王さんのケーキ屋です」
「なぜ?」
「相談です」
「何の?」
「色々です」
その曖昧さが怪しすぎる。
マリナがさらに問い詰めようとした時、レイナは卓の上の椀に目を向けた。
「あ、お茶飲んでたんですね」
「ええ」
「二杯目ですか?」
マリナの表情が固まる。
「どうして分かるの」
「一杯目なら、そんな落ち着いた顔してないと思ったので」
マリナは返す言葉を失った。
レイナは満足そうに頷く。
「手は握れました?」
「握ってないわよ!」
即答だった。
レイナは少し残念そうにする。
「惜しいですね」
「何が惜しいのよ」
ガルドが小さく言った。
「本当に当たっていたな」
ダインも低く続ける。
「……手前だった」
マリナが二人を見る。
「何の話ですか」
二人は揃って視線を逸らした。
ユウトはよく分かっていない顔で首を傾げている。
レイナはそんな二人を見て、胸の奥でひそかに拳を握った。
第一段階は成功。
たぶん。
少なくとも、二人きりでお茶を二杯飲めた。
今はそれで十分だ。
魔王のケーキ屋で、散々役立たずだのデート経験なしだの言ったが、それでも作戦会議は無駄ではなかった。次は、目的ありの外出。仕事を口実にした、ほとんどデートの何か。それをどう仕掛けるか。
レイナはユウトとマリナを見比べた。
二人とも、まだ隣に座っているわけではない。
手も繋いでいない。
キスなど夢のまた夢だ。
けれど、朝より少しだけ空気が柔らかい。
マリナの頬にはまだ赤みが残り、ユウトはどこか嬉しそうだった。
「先生」
「何よ」
「一歩前進ですね」
「何が」
「色々です」
「レイナ」
「はい」
返事だけは素直だった。
その日の借家は、結局たいした事件も起きなかった。
ただ、二人きりでお茶を飲み、意味もなく緊張し、少しだけ言葉を交わした。
それだけだ。
けれど、恋愛初心者の二人にとっては、それだけでも十分に大事件だった。
そしてその裏で、周囲の大人たちと一名の同級生が、真剣に、そしてだいぶ失礼に、二人の恋愛進行をどうにかしようと作戦会議をしていた。
なお、会議に参加した魔王と副官は、自分たちがデート経験なしだったことにその日初めて気づいた。
レイナの「役立たず」という一言は、しばらく魔王のケーキ屋の奥で語り草になった。




