第127話 恋人になった直後の先生が想像以上に面倒くさかった件
月曜日の朝、マリナは目を覚ました瞬間から落ち着かなかった。
窓の外は、いつも通りの交易都市の朝だった。荷車の車輪が石畳をゆっくり軋ませ、遠くの店先では戸板を上げる音がする。借家の中には朝の冷えが少し残っていて、床へ足を下ろすと、板の硬さと冷たさが素足に伝わってきた。
何も変わっていない。
なのに、何もかも少し違って見える。
昨夜のことを思い出すだけで、頬が熱くなる。
黒崎くんに、名前で呼ばれた。
マリナさん。
たったそれだけのはずなのに、胸の奥がまだ揺れている。しかも、自分も言ってしまった。私も愛しています、と。あの夜の通りで、しかもレイナたちに覗かれていたせいで、恥ずかしさまでまとめて鮮明に残っている。
それでも、嫌ではなかった。
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
けれど、嬉しい。
その二つが胸の中でずっと混ざっていて、顔を洗っても、髪を整えても、なかなか落ち着かなかった。
居間へ出ると、ユウトはもう起きていた。
いつも通り、卓のそばで椀を並べている。特別なことはしていない。けれど、マリナの目には、妙に眩しく映った。
「おはようございます、先生」
いつもの呼び方だった。
それだけで、少しほっとする。
同時に、少し物足りない。
マリナは自分の感情の扱いに困りながら、どうにか普段の声を作った。
「おはよう、黒崎くん」
言ったあとで、昨日の夜の「マリナさん」が頭をよぎる。
朝から名前で呼ばれたら困る。
でも、呼ばれないと少し寂しい。
そんな自分が面倒くさくて、マリナは椅子を引きながらひそかに息を吐いた。
レイナは、もちろん見逃さなかった。
「先生」
「何?」
「今日はユウトくんの隣で食べたらどうです?」
マリナの手が止まった。
ユウトも椀を持ったまま顔を上げる。
「俺の隣ですか」
「そうです。昨日から正式にそういう感じになったんですし」
「レイナ」
マリナは低めの声で名前を呼んだが、レイナはまったく引かない。
「恋人なんですから、朝食ぐらい隣同士でいいじゃないですか」
「こ、恋人って」
「違うんですか?」
真正面から聞かれて、マリナは言葉に詰まった。
違わない。
昨日、自分で言った。愛していると。名前で呼んでほしいとも言った。だから違うとは言えない。けれど、朝食の席でいきなり恋人と言われると、受け止める準備ができていない。
その間に、ユウトが静かに椅子を動かした。
「失礼します」
妙に丁寧な声で、マリナの隣へ座る。
「誰も駄目とは言ってないけど」
マリナは小さく言った。
けれど、離れろとは言えなかった。
肩が近い。
近いだけで、昨日までと違う。
椀を取る手が少し触れそうになる。ユウトが水差しを取ってくれる。パンの皿をこちらへ寄せてくれる。その一つ一つがやたらと意識に引っかかった。
「先生、これ取りますか」
「ええ、ありがとう」
普段なら何でもないやり取りだ。
だが今は、声を返すだけで少し鼓動が速くなる。
レイナは向かいでにこにこしていた。
「なんだか新婚夫婦みたいですね」
「レイナ!」
マリナの声が跳ねた。
ユウトは嬉しそうに笑っている。
「そう見えますか」
「ユウトくん、否定しないんですね」
「嫌ではないので」
まっすぐ言われて、マリナは顔を押さえたくなった。
「黒崎くんも乗らないで」
「すみません。でも、嬉しいです」
「そういうところよ」
叱るように言っても、声が柔らかくなってしまう。
壁際で静かに朝食を取っていたダインが、椀を置いた。
「……近いな」
「ダインさんまで」
「事実だ」
短い一言で、さらに逃げ場がなくなる。
レイナは満足そうに頷いた。
「朝からいいもの見ました」
「見なくていいの」
「でも見えます」
マリナは赤くなりながら食事を続けた。
朝食の味は、いつもよりよく分からなかった。
けれど、ユウトが隣にいることだけは、やけにはっきり分かった。
月曜日は、ユウトたちにとって休みの日だ。
昼間は特に大きな予定もなく、洗濯や道具の手入れ、軽い買い物で過ぎていった。ガルドは自宅で家族と過ごし、夕方前に少しだけ借家へ顔を出した。ダインは盾の革紐を確認し、ユウトは収納の中身を整理していた。
マリナはその間も、何度もユウトを見てしまった。
昨日までと同じ人なのに、少し違って見える。
背中。
手。
横顔。
少し伏せた睫毛。
何かを持ち上げた時に浮く腕の筋。
そこまで見てしまってから、自分で慌てて視線を逸らす。
どうかしている。
本当にどうかしている。
レイナは何度もそれに気づいたが、昼間はあえてあまり突っ込んでこなかった。たぶん、夜を楽しみにしているのだろう。その方が怖かった。
夕方になると、いつもの流れで酒場へ向かうことになった。
月曜の夜。
ガルド行きつけの、借家の近くの酒場。
ユウトの酒癖が名物になり、常連たちが愛の劇場と呼び、相沢がそれを商売に利用している場所。
前までは、それを恥ずかしいと思いながらも、どこかで少し距離を置いて見ていられた。
けれど、今夜は違う。
恋人になった。
名前で呼ばれた。
自分も愛していると言った。
その状態で、酔った黒崎くんに抱きしめられる。
想像しただけで、マリナは足元が少し危うくなる。
酒場の戸を開けると、いつもの熱気が流れ出してきた。
焼いた肉の匂い、酒の香り、人の声。粗い木の椅子が床を擦る音。常連たちの笑い声。月曜の夜らしい騒がしさの中へ入った瞬間、何人かがこちらを見た。
「お、来たな」
「今日は遅くないな」
「……ん?」
常連の一人が目を細める。
「何だ、今日は妙に近いな」
別の男が笑った。
「おっ、何だかいつもより仲いいな」
マリナは反射的に言い返しかけた。
けれど、完全には否定できない。
なぜなら、実際に近い。
ユウトも自然にマリナの隣に立っているし、マリナもそれを避けていない。
「もう……」
小さく呟いた声が、自分でも甘く聞こえてしまい、さらに顔が熱くなった。
レイナが横で笑っている。
ガルドは短く息を吐き、ダインは黙って席へ向かう。
店主は卓を拭きながら、にやりと笑った。
「今日は始まる前から空気が違うな」
「何も違いません」
マリナが答えると、店主はまったく信じていない顔で酒を並べた。
「はいはい」
奥の席には、相沢もいた。
彼は最近、この酒場の愛の劇場を完全に商売へ組み込んでいる。高級下着のフィッティング予約、予約済み商品の受け渡し、女性客へのさりげない紹介。ユウトが酔って愛を語り、マリナが照れる。その熱気を利用して、店の隅では別の商売が静かに動いている。
相沢はユウトとマリナを見た瞬間、商人の顔になった。
「これは今日、かなり伸びるな」
レイナが聞き逃さない。
「相沢くん、声に出てるよ」
「おっと」
相沢は笑ってごまかした。
「でも、今日の空気は期待できますよ。女性客の目がもう違います」
実際、酒場の隅には何人かの女性客がいて、こちらをちらちら見ていた。いつもの愛の劇場を楽しみにしている顔だ。中には相沢の客らしき女性もいる。
マリナは椅子へ座りながら、ますます落ち着かなくなった。
ユウトが隣に座る。
近い。
朝より近い気がする。
いや、同じかもしれない。
自分が意識しすぎているだけだ。
「先生、大丈夫ですか」
ユウトが小さく聞いてくる。
普通の声だ。
酔っていない、素面の声。
それだけでマリナの胸がまた跳ねる。
「だ、大丈夫よ」
「顔が赤いです」
「酒場が暑いの」
「まだ飲んでませんよ」
「分かってるわよ」
なぜこんなに一つ一つが効くのか。
昨日までも、黒崎くんは黒崎くんだった。
けれど今日は、かっこよく見える。
いつもかっこいいとは思っていた。けれど今日は、ずっと近く、ずっと具体的に見える。顎のライン。まつ毛。肌。手。腕。隣に座った時の体温。今まで見ていたはずなのに、見ないようにしていたものが一気に目に入ってくる。
店主が杯を置く。
「店からだ」
「ありがとうございます」
ユウトが受け取った。
マリナの胸が一気に緊張する。
来る。
いつものように一口で酔う。
そして抱きついてくる。
分かっている。
何度も経験している。
なのに、今日は待つのが怖い。
ユウトが一口飲んだ。
すぐに目が変わった。
「マリナ」
呼び方が、もう違う。
先生ではなく、マリナ。
それだけで、マリナの背筋がぞくりとした。
ユウトの腕が伸びる。
いつもなら、照れながらも受け止める。周りが笑い、レイナが突っ込み、ガルドとダインが観察する。そういう流れだ。
けれど、今日は身体が先に反応した。
「ちょ、ちょっと離れて」
マリナはユウトの胸を押した。
声が思ったより本気になった。
「お願い」
ユウトの腕が止まる。
酔っていても、その本気の抵抗は伝わったらしい。
彼はすぐに手を離した。
「マリナ……」
見るからにしょんぼりした。
酒場の空気が一瞬だけ揺れる。
ユウトは両手を下ろし、深い絶望を背負ったような顔で言った。
「先生……いや、マリナのいない世界など暗黒だ」
常連たちがざわつく。
「始まったぞ」
「いや、今日は違うぞ」
ユウトは続ける。
「俺はおしまいだ」
「この世から光は失われた」
「この先、俺はどう生きればいいんだ」
言葉だけ聞けば大げさすぎる。
だが本人は本気でしょんぼりしている。
マリナは慌てた。
嫌だったわけではない。
ただ、恥ずかしすぎたのだ。
近すぎた。
具体的に意識しすぎた。
それだけなのに、拒絶したみたいになってしまった。
「レイナ、ちょっと来て」
マリナはレイナの腕をつかみ、酒場の端へ移動した。
レイナは目を丸くしている。
「先生、どうしたんですか。さっきまでデレデレだったのに」
「デレデレしてない」
「してました」
そこへ相沢も慌てて駆けつけた。
「先生、困ります。今日はかなり期待値が高いんです。ここで止まると、女性客の空気が」
「そんなこと知らないわよ」
「いや、私の商売にも関わるので」
「知らないって言ってるでしょう」
相沢はそこで少しだけ真面目な顔になる。
「でも、本当にどうしたんですか。いつもの先生なら、怒りながらも受け止めるじゃないですか」
マリナは真っ赤になった。
言いたくない。
けれど、このままだとユウトが酒場中央で世界の終わりを嘆き続ける。
実際、背後から声が聞こえていた。
「マリナ、俺の全て」
「マリナ、俺の愛の炎」
「マリナ、俺の女神」
常連たちは完全に盛り上がっている。
「これはこれで面白いな」
「新展開だ」
「先生、焦らすなあ」
マリナは両手で顔を押さえた。
そして、つい本音を漏らした。
「だって、黒崎くんかっこいいんだもの」
レイナと相沢が同時に固まった。
「……はい?」
「今、なんて?」
マリナはもう止まらなかった。
「いつもかっこいいけど、今日はいつもよりずっとかっこいいんだもん」
レイナがゆっくり口元を押さえる。
「砂を吐くって、こういうことなんですね」
相沢は真顔で言った。
「いや、黒崎はいつも通りですよ」
「違うの」
マリナは真剣だった。
「今日は違うの」
「どこがですか」
レイナが聞くと、マリナはますます赤くなりながらも、なぜか具体的に語り始めた。
「お肌もきめ細かいし」
「はい」
「顎のラインも綺麗だし」
「はい」
「まつ毛長いの」
レイナが少し引いた。
「なんか生々しいですね」
「それに、いつもより体温高いし」
マリナは自分でも何を言っているのか分かっていなかった。
「腕の血管も綺麗だし」
「先生」
相沢が止めようとする。
「ぎゅっとされると腹筋まで分かるの」
相沢が顔をそむけた。
「あの、先生。あまり具体的にはちょっと」
相沢まで照れていた。
レイナは半分呆れ、半分楽しそうに言う。
「先生、完全に恋する女の人になってます」
「悪い?」
「悪くないですけど、面倒くさいです」
相沢も小声で呟いた。
「本気でめんどくさいな、この人」
「聞こえてるわよ」
「失礼しました」
その間にも、ユウトは中央で叫んでいた。
「マリナ、あなたのいない世界に意味はない」
「マリナ、俺の魂の帰る場所」
「マリナ、俺の女神」
常連たちは笑い、女性客たちは頬を赤くし、店主は肩を震わせている。
レイナは相沢へ昨夜のことを手短に説明した。
名前で呼ばれたこと。
マリナが愛していると返したこと。
二人が、ようやくはっきり両想いになったこと。
相沢は聞き終えると、真顔で言った。
「いや、それなら両想いで解決じゃないですか。問題ないでしょう」
「違うんですよ」
レイナは首を振る。
「今までは先生って立場で誤魔化せてたんです」
「なるほど」
「でも今は、具体的に恋人になっちゃったから、先生は具体的に照れてるんです」
相沢は一拍置いて呟いた。
「……めんどくさ」
「本音漏れてるよ」
「おっと失礼」
だが相沢は商売人だった。
すぐに店内を見回し、女性客の視線と常連の盛り上がりを確認する。
「しかし、この流れを潰すと商売にも差し支えるしな」
「また本音漏れてるよ」
「重ねて失礼」
相沢は少し考えてから提案した。
「それなら、抱きしめるのは禁止で、手を繋ぐくらいにしたらどうですか」
マリナは即答した。
「えっ、ヤダ」
相沢が固まる。
マリナは真っ赤な顔で続けた。
「抱きしめてほしいもん」
相沢は本気で額を押さえた。
「本気でめんどくさいな、この人」
「だから聞こえてるって」
レイナはマリナの肩に手を置いた。
「はい先生、ゆっくり呼吸して」
「す、すう」
「吐いて」
「はあ」
「もう一回」
「すう、はあ」
「大丈夫ですよ」
レイナの声が妙に優しい。
「先生は、ただじっと目を閉じていればいいんです」
「目を閉じるの?」
「はい。後は全部ユウトくんに任せましょ」
「任せる……」
「先生、抱きしめてほしいんですよね」
マリナは真っ赤な顔のまま、小さく頷く。
「……うん」
「なら大丈夫です。怖いんじゃなくて、恥ずかしいだけです」
「そうかも」
「はい。では戻りましょう」
マリナは深呼吸をもう一度して、ゆっくり頷いた。
レイナと相沢に連れられるように、酒場の中央へ戻る。
ユウトはまだしょんぼりしながらも、マリナを見た瞬間に目を輝かせた。
「マリナ」
その声だけで、マリナの心臓が跳ねる。
けれど、今度は逃げなかった。
レイナが小声で囁く。
「目を閉じて」
マリナはそっと目を閉じた。
次の瞬間、ユウトの腕が回った。
「マリナ、我が女神」
ぎゅっと抱きしめられる。
「あんっ」
声が漏れて、マリナは自分でさらに赤くなった。
酒場が爆発したように盛り上がる。
「戻ったぞ」
「先生、耐えた」
「いや、喜んでるだろ」
ユウトはマリナを抱きしめたまま、熱のこもった声で言った。
「マリナ、あなたのすべてを愛している」
「は、はい」
「あなたの笑顔も、声も、優しさも、照れて逃げそうになるところも、全部愛している」
「もう、分かったから」
「分かっていない」
「分かってるわよ」
「愛は何度でも伝えるべきなんだ」
「それはもう聞いたわ」
それでも、マリナは離れなかった。
恥ずかしい。
熱い。
近い。
具体的に分かってしまう。
けれど、もう嫌ではない。
女性客たちの熱も戻っていた。
「ああ、甘い」
「でもいい」
「先生、幸せそう」
「相沢さん、例の予約、追加できる?」
相沢がすかさず営業顔に戻る。
「もちろんです」
そして、レイナへ小声で言った。
「助かったよ」
レイナはユウトとマリナを見ながら、少しだけ笑う。
「先生、恋愛レベルちょっとだけアップしたかな」
ガルドは杯を持ちながら短く言った。
「手間がかかるな」
ダインは静かに頷く。
「……進んではいる」
酒場の中央では、ユウトがなおも愛を語り続けていた。
「マリナ、俺の愛は永遠だ」
「はいはい」
「返事が軽い」
「重く返したら私がもたないの」
「なら俺が支える」
「そういうところよ」
マリナは真っ赤になりながらも、ユウトの腕の中にいた。
もう抵抗はしていない。
ただ恥ずかしさに耐えている。
そして、少しだけ幸せそうだった。
それが常連たちにも、レイナにも、相沢にも、ガルドにもダインにも、はっきり伝わっていた。
月曜の酒場は、今日も騒がしい。
ただし、今夜の主役は酔ったユウトだけではなかった。
恋人になったばかりで、具体的に照れすぎて面倒くさいマリナもまた、間違いなく主役だった。




