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クラスごと異世界転移したモブの俺、ハズレスキル【無限収納】が覚醒したので異世界で無双します  作者: よるねこ
第一章

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第126話 数日悩んだ末に黒崎くんを結婚相手として見てしまった件


 浮気調査の依頼が終わってから、マリナは数日ほど、妙に落ち着かない時間を過ごしていた。


 依頼そのものは、悪い形では終わらなかった。


 夫は浮気をしていたわけではない。妻に内緒で贈り物を用意していただけだった。帰りが遅くなっていたのも、持ち帰るお金が少し減っていたのも、そのためだ。奥さんは不安に押し潰されかけていたが、最後には夫を信じると決めた。


 それは、いい話だった。


 だからこそ、妙に胸に残った。


 夫婦。


 信じること。


 待つこと。


 誰かのために、内緒で何かを用意すること。


 愛しているのに不安になること。


 不安になっても、それでも信じたいと思うこと。


 その全部が、依頼を終えた後も、マリナの中で静かに残り続けていた。


 最初は、依頼の余韻だと思った。


 人の家庭に関わる依頼だったから、少し感情を引きずっているだけ。そう思おうとした。けれど、水曜日、木曜日と日が過ぎ、金曜日のケーキ屋営業が始まっても、その感覚は消えなかった。


 むしろ、悪化した。


 なぜなら、目の前に黒崎くんがいるからだ。


「先生、こっちの皿、足りますか」


「ええ、ありがとう」


 金曜の朝、魔王のケーキ屋の中は、開店前から忙しかった。


 作業台の向こうでは魔王さんと黒崎くんが生地を作っている。山本さんは火の前で下準備をしていて、副官さんは帳面を確認している。レイナは接客用の布や皿を整え、ガルドさんとダインさんは店の入口と通路を見ていた。


 いつもの店だ。


 いつもの役割。


 いつもの忙しさ。


 その中で、マリナはふと黒崎くんを見てしまう。


 彼は真面目に働いていた。


 師匠の指示にすぐ反応し、粉の袋を持ち上げ、型を並べ、山本さんが少し迷えば横から声をかける。自分が前に出すぎるのではなく、必要な時に必要な分だけ手を伸ばす。その動きが、以前よりずっと自然になっていた。


 ケーキ屋で働いている。


 冒険者としても働いている。


 真面目。


 努力家。


 優しい。


 マリナはそこで、自分が何を考えているのかに気づいて、手元の皿を落としそうになった。


「先生?」


 レイナが横から覗き込む。


「何でもないわ」


「本当ですか?」


「本当よ」


「今、ユウトくん見てませんでした?」


「見てないわ」


「見てました」


 レイナは断言した。


 マリナは皿を布で拭きながら、努めて平静な声を作る。


「仕事中よ」


「だから目立つんです」


「レイナ」


「はい」


 返事だけは素直だった。


 けれど、その顔は完全に何かを察している顔だった。


 土曜日になっても、マリナの中の妙な意識は消えなかった。


 客の列が出来る。注文が入る。持ち帰りの甘味が売れる。新しく来た客が、奥で作業する黒崎くんをちらりと見る。マリナは接客しながら、その視線に気づいてしまう。


 黒崎くんは、見た目も悪くない。


 本人にはその自覚が薄い。けれど、真面目に働いている時の横顔は、十分に人目を引く。背筋も以前より伸びた。動きに無駄も減った。魔王さんの隣で働いていても、完全に埋もれているわけではない。


 しかも、浮気はしなさそう。


 マリナは、客へ包みを渡しながら、そんなことを考えてしまった。


 酒癖はひどい。


 それは間違いない。


 一口で酔う。抱きつく。愛を語る。プロポーズを連発する。店ではなく酒場の名物になるくらいにはひどい。


 でも、暴力的ではない。


 他の女性に触れるわけでもない。


 むしろ、酔っても自分だけを見ている。


 それは恥ずかしい。


 ものすごく恥ずかしい。


 けれど、愛してくれていることだけは疑いようがない。


 そこまで考えて、マリナはまた顔が熱くなった。


「先生、包み逆です」


 レイナの声で我に返る。


「あ」


 マリナは慌てて包みを直した。


「ありがとう」


「いえ」


 レイナはにこにこしている。


「今日も見てますね」


「見てない」


「見てます」


「仕事中よ」


「だから目立つんです」


「昨日も聞いたわよ、それ」


「今日も同じだからです」


 言い返せなかった。


 日曜日の営業は、週末の締めらしく最初から忙しかった。


 朝から客が並び、昼前には売り切れが見え始める。山本さんは火の前で汗をかきながらも、以前よりずっと落ち着いて動いている。魔王さんはいつも通り軽い調子で全体を回し、副官さんは帳面と会計を見ながら無駄を削る。


 黒崎くんは、奥で作業を続けていた。


「山本さん、そっち焦げる前に一回外してください」


「はい!」


「レイナ、包み紙足りるか?」


「足ります。ユウトくん、次の分ください」


「分かった」


 声が飛ぶ。


 動きが繋がる。


 黒崎くんは、誰かのために自然に動けるようになっていた。


 一緒に暮らすなら。


 結婚するなら。


 子どもが生まれたら。


 そこまで考えて、マリナは内心で悲鳴を上げた。


 子ども。


 いや、子どもを持つには、その前に色々ある。


 色々。


 色々という言葉で自分をごまかそうとして、余計に顔が熱くなる。


 マリナは接客台の前で、布を握りしめたまま固まった。


「先生」


 レイナが横から声をかける。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫よ」


「顔が赤いです」


「火の近くにいたから」


「先生、ずっと接客側ですよ」


「……そうね」


 ごまかしきれなかった。


 レイナは笑いをこらえながら、小声で言う。


「相談した方がいいですよ」


「誰に」


「経験者に」


 その一言で、マリナはすぐに一人の顔を思い浮かべた。


 ガルドさんの奥さん。


 何度も会っている。気安く話せる。家庭を持っていて、娘もいる。マリナがこういう話を相談する相手として、これ以上ない人だった。


 日曜の営業は昼過ぎに終わり、片付けも夕方前には形になった。


 いつもなら少し休んでから借家へ戻る。けれど、その日のマリナは、片付けが終わっても落ち着かなかった。レイナがすぐ横に来る。


「行きます?」


「……行くわ」


「はい」


「レイナも来るの?」


「当然です」


「当然なのね」


「当然です」


 マリナは反論する気力を失った。


 魔王のケーキ屋を出る時、黒崎くんがこちらを見た。


「先生、どこか行くんですか」


「少し、ガルドさんの家に」


「そうですか」


 黒崎くんは素直に頷く。


「気をつけてください」


 その普通の一言に、また胸が少し揺れた。


 こういうところだ。


 特別な言葉ではない。けれど、自然に気遣う。そういうことが出来る。


 結婚相手として見ると、かなり条件がいい。


 マリナは自分の考えにまた赤くなりそうになり、急いで顔を逸らした。


 ガルドの自宅は、借家のすぐ隣にある。


 戸を叩くと、すぐに奥さんが出てきた。夕方の家の匂いがする。煮込みの香り、温かい布の匂い、どこかで娘が動く小さな気配。ケーキ屋とも酒場とも違う、家庭の匂いだった。


 奥さんはマリナの顔を見た瞬間、何かを察したように目を細めた。


「あら」


 それだけで、マリナはもう逃げられない気がした。


 奥ではガルドさんが娘と何かを片付けていた。奥さんは振り返り、穏やかな声で言った。


「ガルド、あなたは娘とお隣に行っていて」


 ガルドさんは一瞬だけこちらを見た。


 そして、余計なことは聞かなかった。


「……分かった」


 娘に声をかけ、外へ出る支度を始める。


 レイナが小さく感心したように言う。


「理解が早いですね」


「長く夫婦をやっていると、聞かない方がいい時も分かるものよ」


 奥さんは微笑んだ。


 ガルドさんは娘を連れて借家の方へ向かう。きっと黒崎くんとダインさんのところへ行くのだろう。マリナはそれを見送ってから、奥さんに案内されて居間へ入った。


 当然のように、レイナもついてくる。


「レイナも残るの?」


「もちろんです」


「なぜ」


「先生が逃げないように」


「逃げないわよ」


 言いながら、自信はなかった。


 奥さんはくすりと笑い、茶を用意してくれた。卓の上に置かれた椀から、やわらかな香りが立つ。その香りだけで、少し肩の力が抜けた。


「それで」


 奥さんは向かいに座る。


「今日は、黒崎くんの話かしら」


 マリナは椀を持ったまま固まった。


 レイナが即座に笑う。


「早いですね」


「顔に書いてありましたよ」


 奥さんの声は優しい。けれど逃がしてくれる気はなさそうだった。


 マリナはしばらく視線を落としていた。


 だが、ここまで来て何も言わずに帰るわけにはいかない。


「……前回の依頼で」


 ようやく口を開く。


「夫婦の話を、近くで見たでしょう」


「ええ」


「奥さんが不安になって、でも旦那さんは奥さんのために贈り物を用意していて」


 言葉にすると、また胸の中が少し揺れた。


「それで、なんだか、考えてしまって」


 奥さんは黙って聞いている。


 レイナも茶化さない。


 マリナは少しずつ、言葉を続けた。


「私も年齢的には、そろそろ考えてもおかしくないのかなって」


「結婚とか、子どもとか」


 子ども、という言葉を自分の口で出した瞬間、頬が熱くなる。


「もちろん、その前に色々あるのは分かってますけど」


 レイナが少し口を開きかけたので、マリナは先に睨んだ。


「レイナ」


「まだ何も言ってません」


「顔が言ってる」


「すみません」


 奥さんは楽しそうに目を細めた。


「それで、黒崎くんを結婚相手として見てしまったんですね」


 マリナは完全に固まった。


「……そんな、はっきり言わなくても」


「相談に来たのでしょう?」


「そうですけど」


「なら、はっきりさせた方がいいわ」


 奥さんの声は穏やかだったが、核心から逃がさない強さがあった。


 マリナは深く息を吸う。


「黒崎くんは、真面目です」


「ええ」


「努力家です」


「そうですね」


「優しいです」


「はい」


「ケーキ屋でもちゃんと働いているし、冒険者としても働いています」


 言いながら、自分の中で整理されていく。


「ギャンブルもしない。無駄遣いもしない。浮気もしなさそうです」


「酒癖は?」


 奥さんが少し笑う。


 マリナは顔を赤くした。


「ひどいです」


「でしょうね」


「でも、暴力的ではありません。誰かに乱暴するわけでもないし、他の女性に触れるわけでもないです」


 そこまで言って、さらに小さな声になる。


「……私に抱きつくだけです」


 レイナが耐えきれずに笑いそうになる。


 マリナは睨んだ。


「笑わない」


「すみません。でも、事実確認として重要です」


「そういう言い方やめて」


 奥さんは茶を一口飲んでから、ゆっくり言った。


「黒崎くんは、かなり良い相手だと思いますよ」


 その一言で、マリナの胸が一度強く鳴った。


「真面目で、働き者で、あなたを大事にしている」


 奥さんの声は落ち着いている。


「それに、あの子はあなたを見ています。酔った時だけではなく、普段から」


 マリナは返事が出来なかった。


 それは自分でも分かっている。


 黒崎くんは、見ている。


 困っている時、迷っている時、疲れている時。いつもすぐに気づくわけではないが、一度気づけばちゃんと寄り添おうとしてくれる。


 だからこそ、怖い。


「でも」


 マリナは小さく言った。


「年齢差もありますし」


「ええ」


「一応、教師と生徒だった関係です」


「そうですね」


「でも、ここは異世界で、日本の学校制度とは違っていて」


「はい」


「もう一緒に戦って、働いて、暮らしていて」


 言葉が揺れる。


「それでも、私の中で線引きが簡単に消えないんです」


 奥さんは責めなかった。


 ただ、静かに聞いていた。


 マリナはさらに視線を落とす。


「それに」


 言葉が止まる。


 レイナが少しだけ首を傾げる。


「それに?」


 マリナは椀を握る指に力を込めた。


「私、ちゃんと男性とお付き合いしたことがないんです」


 言った瞬間、顔が熱くなる。


 沈黙。


 レイナが小さく「あ」と声を漏らした。


 奥さんは驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。


「そうでしたか」


「悪いですか」


 マリナは半ば反射的に言った。


 奥さんは首を横に振る。


「悪いわけがありません」


 レイナもすぐに言う。


「むしろユウトくんが聞いたら喜びそうです」


「どうしてそうなるのよ」


「先生の初めての相手になれるからです」


「レイナ」


「はい」


 奥さんはそこで、少し身を乗り出した。


「先生、怖いなら、怖いと伝えればいいんです」


 マリナは顔を上げる。


「大人だから平気、なんてことはありません」


 声は静かで、温かかった。


「初めてなら、初めてだと言っていいんですよ。迷っているなら、迷っていると伝えていいんです」


「でも」


「黒崎くんは、待てる子でしょう?」


 その言葉に、マリナは黙った。


 待てる。


 たぶん、待てる。


 黒崎くんは、たぶん自分が思っているよりずっと待てる人だ。焦るところはある。酔うと暴走する。けれど、本当に大事なことでは、相手を置いていく人ではない。


 レイナが軽く言う。


「先生、それこそ案ずるより産むが易しでは?」


 マリナは即座に赤くなった。


「レイナ、その言い方は今すごくやめて」


「普通の意味で言いました」


「今は普通の意味に聞こえないの」


「先生が意識しすぎなんです」


「あなたの言い方が悪いの」


 奥さんが小さく笑う。


「でも、レイナの言うことも少し分かります」


「奥さんまで」


「考え続けるだけでは、怖さは膨らむものです」


 奥さんはマリナをまっすぐ見る。


「話してみたら、思っていたより簡単にほどけることもありますよ」


 マリナは、長く息を吐いた。


 話す。


 黒崎くんに。


 自分が怖いこと。


 迷っていること。


 付き合った経験がないこと。


 でも、大事に思っていること。


 それを話す。


「……分かりました」


 その返事は小さかったが、自分の中ではっきり何かが決まる音がした。


 その後。


 借家へ戻ると、ユウトとダインさん、そしてガルドさんの娘と遊んでいたらしいガルドさんがいた。ガルドさんはマリナたちが戻ったのを見ると、娘を連れて自宅へ帰った。余計なことは聞かない。けれど、奥さんから何か聞くだろうという顔でもなかった。


 夕食はいつも通りだった。


 けれど、マリナの胸の中はまったくいつも通りではなかった。


 黒崎くんが普通に食事をしている。


 レイナがいつも通り話している。


 ダインさんが静かに椀を持っている。


 それだけの光景なのに、マリナは何度も言い出す機会を探してしまう。


 食事が終わり、片付けも済んだ頃。


 マリナはようやく声を出した。


「黒崎くん」


「はい」


「少し、歩かない?」


 ユウトは少し驚いた顔をした。


 けれど、すぐに頷く。


「はい」


 レイナがその瞬間、目を輝かせた。


 マリナは先に言う。


「レイナは来ないで」


「まだ何も言ってません」


「顔が言ってるの」


「少しだけでも」


「だめ」


「遠くから」


「だめ」


 レイナはしぶしぶ肩を落とした。


「分かりました」


 その返事が素直すぎて、逆に怪しかった。


 だが、今はそこまで気にしていられなかった。


 ユウトとマリナは、二人で夜の通りへ出た。


 交易都市の夜は、酒場へ向かう人の声で少しだけ賑わっていた。けれど二人はそちらへは向かわない。少し静かな道を選んで歩く。石畳には灯りが落ち、夜風が頬を撫でる。昼間の熱が引いた街は、少し冷たく、少しだけ優しかった。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 ユウトは急かさない。


 それがありがたくて、余計に胸が詰まる。


「黒崎くん」


「はい」


 マリナは足を止めた。


 通りの端、少し人目の少ない場所だった。


「私、ちゃんと男の人と付き合ったことがないの」


 言った。


 言ってしまった。


 心臓が痛いくらい鳴っている。


 ユウトは驚いたように目を開いたが、すぐには何も言わなかった。


 マリナは視線を逸らしながら続ける。


「だから、こういうことがよく分からないの」


「年齢的には私の方が上なのに、恥ずかしいけど」


「怖いとか、迷うとか、そういうのがあるの」


 言葉にするほど、自分がどれだけ怖がっていたのか分かってしまう。


「黒崎くんのことは、大事に思ってる」


 そこまで言うと、声が少し震えた。


「でも、どう進めればいいのか分からなくて」


 夜風が二人の間を通った。


 ユウトは少しだけ黙っていた。


 そして、ゆっくりと言った。


「俺は、嬉しいです」


 マリナは思わず顔を上げる。


「嬉しい?」


「はい」


 ユウトはまっすぐマリナを見ていた。


「先生の初めて付き合う相手になれるなら、すごく嬉しいです」


 予想していなかった返事だった。


 からかわれるとは思っていない。けれど、困らせるかもしれないとは思っていた。重いと思われるかもしれないとも思っていた。


 なのに、嬉しいと言われた。


 そのことに、胸の奥がふっと軽くなる。


「怖いなら、ゆっくりでいいです」


 ユウトは続ける。


「俺は待てます」


「でも、先生を大事にしたい気持ちは変わりません」


 マリナは、言葉を失った。


 黒崎くんは、こういうところで真っ直ぐだ。


 酔っていない。


 酒も飲んでいない。


 それなのに、酔っている時と同じくらい、まっすぐに愛情を向けてくる。


「先生」


 ユウトが言う。


「愛しています」


 その呼び方が、今だけ少し遠く感じた。


 マリナは勇気を出した。


「ちゃんと名前で呼んで」


 ユウトが止まる。


 一瞬、何を言われたのか分からなかったような顔をした。


 それから、少しだけ緊張したように口を開く。


「……マリナさん」


 胸の奥が熱くなる。


 今まで何度も名前は聞いているはずなのに、黒崎くんの口から自分に向けて呼ばれると、まるで違う言葉のようだった。


 ユウトは息を整える。


「マリナさん、愛しています」


 マリナは、目を逸らさなかった。


 ゆっくり息を吸う。


「はい」


 一拍。


「私も、愛しています」


 言えた。


 言ってしまった。


 ユウトは完全に言葉を失っていた。


 マリナも真っ赤だった。


 二人の間に、今までとは違う静かな空気が流れる。酒場の騒ぎも、店の忙しさも、仲間たちの視線もない。夜の通りの片隅で、ただ二人だけの言葉が残っていた。


 その時だった。


 物陰から、小さな声が漏れた。


「……やった」


 マリナは振り返った。


「レイナ!」


 レイナが、建物の影から出てきた。


 両手を胸の前で握り、目を輝かせている。


「すみません。でもこれは見届けるべきだと思って」


「思わなくていいの!」


 すると、別の影が動いた。


 ガルドの奥さんが出てくる。


「ごめんなさいね。気になってしまって」


 さらに、ガルドさんもいた。


 無言で出てくる。


 その後ろにダインさんまでいる。


 マリナは完全に固まった。


「全員いるじゃない!」


 ガルドさんが短く言う。


「俺は止めた」


 奥さんがすぐに微笑む。


「止まってなかったわよ」


 ダインさんは低く言った。


「……見届けた」


「見届けなくていいです!」


 レイナは感動した顔のままだった。


「最高でした」


「最低よ!」


 マリナは真っ赤になって怒った。


 怒っている。


 怒っているはずなのに、顔はどうしても幸せそうになってしまう。


 ユウトがそっと声をかける。


「マリナさん」


「今は呼ばないで。恥ずかしさで死ぬから」


「はい」


 ユウトは素直に頷いた。


 少し間が空く。


 マリナは顔を逸らしたまま、小さく言う。


「……でも、後でならいいわ」


 レイナが声にならない歓喜で跳ねかけた。


 奥さんは満足そうに微笑んでいる。ガルドさんは短く息を吐き、ダインさんは小さく頷いた。


 夜風がまた通りを抜ける。


 マリナは恥ずかしさで何度も顔を覆いたくなった。


 けれど、胸の奥は今までになく温かかった。


 先生ではなく、名前で呼ばれた夜。


 そして、自分も初めてきちんと愛を返した夜。


 それは、からかわれて、覗かれて、怒って、恥ずかしくて仕方のない夜だった。


 けれどたぶん、これから先、何度思い出しても、マリナはその温かさまで忘れられないだろう。

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