第132話 ウェディングケーキ完成直前で色々犠牲になっていく件
魔王のケーキ屋には、ここ数日ずっと甘い匂いが染みついていた。
朝、戸を開けた瞬間にふわりと漂うのは、焼いたスポンジの香ばしさと、煮詰めた果実の甘酸っぱい香り。営業日の賑わいが残っていない時間でも、店の奥にはどこか温かい気配がある。作業台には磨き上げられた型が並び、布をかけられた粉袋の横には、山本さんが何度も書き直した配合の紙が置かれていた。
相沢と高田さんの結婚式に出すウェディングケーキ。
その一言だけで、店の中にいる全員の動きが少しだけ変わっていた。
普段の営業なら、魔王は軽口を叩きながらも手は一切緩めない。ユウトはその横で必死についていき、山本さんは見習いとして火と生地に向き合う。マリナとレイナは接客へ回り、ガルドとダインは店の空気を見守る。
けれど、今は違う。
営業が終わった後、片付けが済んでも、誰もすぐ帰ろうとしなかった。
水で洗われた床の上に、昼間の熱が少しだけ残っている。窓の外は夕方の色に傾き、店の中では作業台の上だけが妙に明るい。魔王が腕を組み、焼き上がったスポンジの断面をじっと見ている。その隣でユウトが薄く切った一枚を皿へ乗せ、山本さんが小さな帳面へ焼き時間と配合を書き込んでいた。
「前のより、少ししっとりしてますね」
ユウトが真剣な声で言う。
魔王は断面を指で軽く押した。
「せやな。ただ、これにクリーム重ねたら沈むかもしれん。祝いの席で傾くんはあかん」
「なら、もう少しだけ固めますか?」
「固くしすぎたら食べにくい。高田さんが食べて笑えるもんにせな意味ないやろ」
その言葉に、山本さんの手が止まった。
少し疲れた顔をしていたのに、目だけはすぐに明るくなる。
「そうですよね。きれいでも、食べて美味しくないと」
「せや」
魔王は軽く笑う。
「見て驚いて、食べて笑う。そこまでやって祝いのケーキや」
ユウトは静かに頷いた。
「もう一回焼きます」
「おう」
その声に迷いはなかった。
営業後で疲れているはずなのに、ユウトはもう次の粉へ手を伸ばしている。山本さんも眠そうな目をこすりながら立ち上がった。魔王は笑っているが、その目は真剣だった。
マリナは少し離れた場所で、その様子を見ていた。
甘い匂い。薄く積もった粉。夕方の光。疲れているのに帰ろうとしない背中。
相沢と高田さんのために、みんなが本気になっている。
そう思うと、胸の奥が柔らかくなる。
けれど、その柔らかさとは別に、現実的な問題もあった。
試食である。
「レイナ、次の試食よ」
マリナが皿を差し出すと、レイナは椅子の上でほんの少し固まった。
「……まだあります?」
「あるわ」
「ですよね」
レイナは両手で皿を受け取った。皿の上には、小さく切り分けられたスポンジと、別添えのクリームが乗っている。ほんの一口分だ。普通なら喜んで食べる量である。
だが、今日何度目かは数えたくなかった。
レイナは真剣な顔で口へ運ぶ。甘さは控えめで、果実の酸味がちゃんと残っている。美味しい。間違いなく美味しい。けれど、朝から何度も甘いものを食べている身体には、幸せと危機感が同時に押し寄せてくる。
「……美味しいです」
「その間が怖いな」
魔王が笑う。
「美味しいんです。本当に美味しいんです」
レイナは皿を置き、自分の腰回りにそっと手を当てた。
「ただ、なんかこう、積み重なってる気がするんです」
山本さんが火の前からびくっと振り返る。
「言わないでください。私も分かってますから」
マリナは苦笑しながら、自分の上着を軽く押さえた。
「味見は必要よ」
「分かってます」
レイナは深く頷いた。
「分かってますけど、ウエディングケーキの完成に向かって、私たちの何かが犠牲になってる気がします」
「気のせいじゃないかもしれないわね」
「先生、そこは否定してください」
「嘘はよくないわ」
「優しさも大事です」
そう言いながらも、レイナはまた次の皿へ手を伸ばす。
誰も本気で嫌がってはいなかった。
相沢と高田さんを祝うためのケーキだ。食べる側も、真剣に味を見る。甘い、重い、酸味が少し強い、香りが残る、食べた後に口が軽い。そうした小さな感想を積み上げて、ケーキは少しずつ完成へ近づいていった。
営業日は営業日に徹した。
金曜、土曜、日曜。
開店前にはいつも通り準備を整え、客が来れば全員が持ち場に集中する。ウェディングケーキの試作は、営業中には一切触れない。客に出すケーキは客のためのもので、祝いのケーキは祝いのためのものだ。そこを混ぜる者は、この店にはいなかった。
だからこそ、営業が終わった後の店には、妙な熱が残った。
完売の札を出し、最後の客を見送り、床を拭き、皿を洗い、売上を確認する。その後で、魔王が奥の作業台に手を置く。
「ほな、やるか」
それだけで、疲れていた空気がもう一度立ち上がる。
山本さんは火を入れ直し、ユウトは材料を並べる。副官さんは帳面を開き、試作の記録を淡々と確認する。レイナは椅子に座りながら少し遠い目をしていたが、それでも皿が来るとちゃんと背筋を伸ばした。
ある夜、外はもう暗かった。
店の窓に映る自分たちの姿が、少し疲れて見える。けれど作業台の上には、きれいに焼けたスポンジが三枚並んでいた。魔王が薄く切り、ユウトがクリームを乗せ、山本さんが果実を少量添える。
レイナはそれを見つめて、静かに息を吸った。
「これ、たぶんこれまでの中で一番いいやつですよね」
「分かるのか?」
魔王が聞く。
「匂いが違います」
レイナは少しだけ笑った。
「もう私、ケーキの匂いだけで違いが分かるようになってきました」
「成長したなぁ」
「嬉しくない成長です」
それでも食べた。
口の中でスポンジがほどける。クリームは甘すぎず、果実の酸味が後から追いかけてくる。重くない。けれど祝いの席に出しても寂しくない華やかさがある。
レイナは目を瞬かせた。
「……これ、好きです」
マリナも続けて食べ、静かに頷く。
「ええ。これなら最後まで食べられるわ」
ガルドも一口食べた後、少しだけ考えてから言う。
「甘すぎん。酒場でも出しやすいな」
ダインは黙って食べ、低く呟いた。
「……祝いの味だ」
その言葉に、山本さんの目が少し潤んだ。
「もう一回だけ、同じ配合で焼いてみます」
魔王が頷く。
「その一回が大事や」
中盤を越えた頃、店の中には、疲労と高揚が同じ濃さで満ちていた。
試作の皿は重ねられ、洗い場には甘い香りのする水が流れ、床には拭いても拭いても落ちきらない粉の気配がある。ユウトの袖にはクリームが少しつき、山本さんの髪には粉が一筋残っていた。
マリナはそれを見て、ふと微笑んだ。
文化祭の前みたいだと思った。
けれど、ここは異世界で、彼らはもうただの生徒ではない。誰かの結婚を祝うために、自分たちの手で何かを作ろうとしている。そう考えると、胸の奥が不思議と熱くなった。
「先生」
ユウトが声をかける。
「何?」
「疲れてませんか」
「黒崎くんの方こそ」
「俺は大丈夫です」
「そう言うと思った」
マリナは少し笑う。
「でも、無理はしすぎないでね」
「はい」
ユウトが素直に頷く。
その返事が妙に嬉しくて、マリナはすぐに視線を逸らした。
レイナがそれを見ていたが、今はからかわなかった。
からかう気力が少し足りなかったのかもしれない。
ただ、自分のウエストを押さえて小さく唸る。
「うっ……どんどんウエストが……」
山本さんも隣で小さく頷く。
「分かります……」
マリナは上着の前を軽く押さえた。
「私も少しきついわ」
レイナはじっとマリナを見る。
「どこがですか」
「上着」
「場所が違う」
「何の話よ」
レイナは小声で呟いた。
「ズルい」
マリナは露骨に視線を逸らした。
今はまだ、完成が先だった。
そして月曜日。
結婚式当日の朝。
魔王のケーキ屋は、今までで一番静かだった。
店は開けない。
客も入れない。
作業台の上には、完成を待つ三段のケーキがあった。
白いクリームは、朝の光を受けて柔らかく輝いている。側面は滑らかで、山本さんが何度も練習した飾りが細かく並んでいた。赤い果実は中央から上段へ向かって流れるように配置され、ところどころに薄く切った果実が花のように添えられている。
大きい。
けれど重苦しくない。
華やかで、優しくて、食べる人を待っているようなケーキだった。
魔王はいつもの軽い笑みを浮かべていたが、目は最後の確認に集中している。ユウトは息を詰めるようにして、最後の飾りを手渡している。山本さんの指先は少し震えていた。それでも、飾りを置く位置は間違えなかった。
副官さんが一歩近づいた。
傾き、土台、飾りの位置、運ぶ時の安定。ひとつずつ目で追っていく。その横顔はいつも通り冷静で、だからこそ彼女が黙っている時間は長く感じられた。
やがて、副官さんが静かに頷く。
「いい出来です」
その一言で、店内の空気がほどけた。
レイナが息を吐く。
「すごい……」
マリナも、目を離せなかった。
「きれい……」
魔王が胸を張る。
「当たり前やん」
ユウトは肩から力が抜けたように笑った。
「やりましたね」
山本さんは両手を胸の前で握りしめている。
「がんばりました……」
その声は少し震えていた。
何度も焼いた。
何度も失敗しかけた。
何度も食べた。
何度も悩んだ。
それが今、目の前に形になっている。
マリナは、ふと相沢と高田さんの顔を思い浮かべた。二人がこのケーキを見る瞬間を想像すると、胸の奥が温かくなる。
それは、誰かを祝うためにみんなで作ったものだけが持つ温かさだった。
「じゃあ、収納するで」
魔王の声に、店内が少し緊張する。
搬入のためには収納する必要がある。ユウトの無限収納でも品質維持はできるが、今回は魔王が担当することになっていた。経験と安定性を考えれば、その方が確実だった。
ユウトが真剣な顔で頭を下げる。
「師匠、お願いします」
「任せとき」
魔王はケーキへ手を向けた。
何度見ても不思議な光景だった。
巨大なウェディングケーキが、崩れることも、揺れることもなく、静かに消えていく。そこにあった甘い存在感だけが、店の中に少し残った。
山本さんが胸を押さえる。
「ここまで来て崩れたら泣きます」
レイナが即座に振り返る。
「フラグになるから言っちゃダメ!」
魔王も真顔になった。
「怖い事言わんでくれ」
副官さんが淡々と告げる。
「ありえませんから乗らないでください」
「すんません」
魔王が素直に引いたので、少しだけ笑いが起きた。
張り詰めていた空気がほどけ、ようやく式へ向かう準備に移る。
ユウトは預かっていた着替えを収納から取り出していった。畳まれた服が次々と卓の上へ並ぶ。結婚式に出席するための、いつもより整った服だ。
男性陣は店の奥側へ、女性陣は別の部屋へ分かれた。
そこで、数日間蓄積されてきた現実が、ついに姿を現した。
「……あれ?」
レイナの声が、妙に細かった。
マリナが振り返ると、レイナは鏡の前で服のウエスト部分を押さえていた。
「どうしたの?」
「閉まりません」
山本さんも隣で固まっている。
「私もです……」
マリナは自分の上着へ視線を落とした。
前のボタンが、少しきつい。
「あら……」
レイナがすぐに叫んだ。
「大変です、ユウトくん! 無限収納の中で服が縮んでます!」
壁の向こうからユウトの即答が返る。
「絶対無いから」
声に迷いがなかった。
レイナは悔しそうに唇を噛む。
「言い切られた……」
「実際ないわよ」
マリナは上着の前を整えながら言った。
「式が終わったら、がんばりましょう」
「先生はがんばる必要あんま無いような?」
「あるわよ」
マリナは反射的に答えたが、視線は横へ逸れていた。
それを見逃すレイナではない。
「先生」
「何?」
「絶対先生の体おかしいです」
「そんな事ないわよ」
マリナは少し顔を赤くした。
「私もちゃんとお尻キツいもん」
その瞬間、空気が変わった。
山本さんが真顔になる。
「なんで栄養の全てが胸とお尻に行くんです?」
レイナも深く頷いた。
「それなんですよ!」
「知らないわよそんなの!」
マリナは一歩下がる。
レイナの目が妙に真剣になった。
「……解剖する?」
山本さんが即答した。
「解剖しましょう」
マリナは本気で引いた。
「その目やめなさい。本気で怖いから」
その時、すでに着替え終わっていた副官さんが静かにこちらを見た。
無駄のない姿勢。乱れのない服。試食を重ねたはずなのに、どこにも余計な変化は見えない。完璧と言っていいほど整った立ち姿だった。
レイナと山本さんは、思わずその体型を見てしまう。
細い。
引き締まっている。
美しい。
しかし、その胸元は……。
残念ながら、自分たちが欲しがっていた方向ではない。
副官さんの視線が冷たくなった。
レイナが遠い目をする。
「現実ってツラい」
山本さんも小さく頷いた。
「そんなにうまい話なんてありませんよね……」
「ちょ、ちょっと二人とも」
マリナが慌てるが、副官さんの視線はもう静かに鋭い。
レイナは即座にマリナを指差した。
「悪いのは先生です!」
「私!?」
山本さんも頷く。
「先生です!」
「どうしてそうなるのよ!」
抗議しながらも、マリナは少しだけ視線を逸らした。
この流れで正面から反論できるほど、今の自分は強くなかった。
壁の向こうの男性陣も、決して無傷ではなかった。
ユウトはすでに着替え終わっているらしい。布を整える音もほとんどせず、あっさり準備を済ませた気配がする。
一方で、魔王の声が少し低かった。
「……式終わったら、ちょっとがんばろ」
ガルドが短く答える。
「そうだな」
ダインも静かに続いた。
「うむ」
副官さんの声が、壁越しにもよく通る。
「鍛錬不足です」
三人の返事はなかった。
それが、何よりも雄弁だった。
やがて全員が店の表へ戻ってきた。
いつもと違う服を着た一同は、少しだけぎこちない。ガルドは普段より落ち着いた色の上着を着ており、ダインも無骨だがきちんとした装いになっている。魔王は相変わらずどこか飄々としているが、細部はきちんと整っていた。副官さんは完璧で、山本さんは少し恥ずかしそうに服の裾を直している。
ユウトはマリナを見た。
そして、少しだけ目を見開いた。
「先生、きれいです」
まっすぐな声だった。
マリナの頬が一瞬で熱くなる。
「……ありがとう」
レイナが横からにやりとしたが、すぐに自分のウエストを思い出したのか黙った。
店の外は、夕方の光に染まり始めていた。
交易都市の通りには灯りがともり、酒場の方角から人の声が聞こえてくる。普段の月曜の夜とは違う。今日は相沢と高田さんの結婚式だ。酒場はきっと、もう祝いの空気で満ちている。
魔王が戸を閉める。
その手つきは普段と変わらない。けれど、いつもの営業後とは違う静かな満足感があった。
ユウトは少しだけ背筋を伸ばした。
マリナもそれに合わせるように歩き出す。
完成したウェディングケーキは魔王の収納の中にある。みんなの疲れも、笑いも、甘い匂いも、少しきつくなった服の現実も、全部そのケーキに繋がっている気がした。
「ほな、行こか」
魔王の声に、全員が頷いた。
相沢と高田さんを祝うために。
甘くて、重くて、少しだけ犠牲の大きかった数日間を抱えて、彼らは酒場へ向かって歩き出した。




