第124話 重すぎる話を抱えたまま月曜の酒場に行くことになる件
日曜の夜は、いつもより少し早く終わった。
魔王のケーキ屋を出た後、誰も酒場へ行こうとは言わなかった。営業後なら、軽く腹に入れてから帰ることもある。月曜ほど決まった流れではないにせよ、忙しい週末を終えた夜には、誰かが冗談めかして酒場の名を出すことも珍しくなかった。
けれど、その日は誰も言わなかった。
店の戸が閉まり、甘い匂いが背後に遠ざかる。石畳の上には夕方の名残が薄く残っていて、通りの向こうでは屋台の火が揺れている。焼いた肉の匂いも、酒場から漏れる笑い声も、いつもなら腹の奥を少し浮かせるものだった。
だが、その夜はただ遠かった。
ユウトは、隣を歩くマリナの足音を聞いていた。レイナも黙っている。ガルドさんは少し前を歩き、ダインさんはいつものように後ろ側へ立っている。山本さんは別方向へ帰ったが、最後に頭を下げた時の顔はまだ硬かった。
誰も、それを責められない。
昨日までと同じ街なのに、同じに見えない。目に映る灯りも、人の声も、店先に並んだ品物も、変わっていないはずなのに、耳の奥には別の言葉が残っていた。
知らなかったものを知ってしまった。
それだけで、世界は同じ形をしているのに、色だけが少し変わる。
「……今日はここまでだ」
借家の前で、ガルドさんが短く言った。
その言葉に、誰も反論しなかった。
ガルドさんは隣の自宅へ向かう前に、ユウトたちを一度だけ見た。何か言おうとしているようにも見えたが、結局、口にしたのはそれだけだった。
「寝ろ」
ダインさんが低く続ける。
レイナが小さく頷く。
「……はい」
それで解散になった。
ガルドさんは自宅へ戻る。扉が開き、家の灯りが一瞬だけこぼれる。中から小さな声がして、すぐに扉が閉まった。その声を聞いた瞬間、ユウトは胸の奥が少しだけ詰まった。
何も知らない家族の声だった。
知らないから、いつも通り迎えられる。
それが、妙にありがたくて、少しだけ苦しかった。
借家へ入っても、空気は重いままだった。
いつも通りの居間だ。椅子も卓も、壁に掛けた布も、水差しも変わらない。けれど、誰もすぐには座らない。マリナは一度だけ卓へ手を触れ、何かを確かめるように指先を動かした。レイナは口を開きかけて、やめた。
ユウトも何か言おうとしたが、言葉が出てこない。
眠る支度だけはした。
だが、布団に入っても眠れなかった。
目を閉じると、店の奥で聞いた声が戻ってくる。細かい内容をもう一度考えようとすると、頭の中がすぐに重くなる。だから考えないようにしようとする。けれど、考えないようにすればするほど、逆に輪郭だけが濃く残る。
師匠の顔。
副官さんの横顔。
山本さんの強張った表情。
マリナが黙って頷いた時の目。
レイナが言葉を失った瞬間。
それらが何度も入れ替わりながら浮かんでは消えた。
隣の寝台では、ダインさんも眠っていないようだった。寝返りの音はない。けれど、寝息も聞こえない。ただ静かに、そこにいる。声をかけてこないのが、今はありがたかった。
別室からも、長いあいだ何も聞こえなかった。
やがて、壁越しにレイナの小さな声が漏れた。
「……寝れないです」
マリナの返事は、すぐにはなかった。
少しして、静かに返る。
「ええ」
それだけだった。
その短いやり取りが、その夜のすべてだった。
翌朝、月曜の光は何も知らない顔で借家へ入ってきた。
窓の外では、交易都市が普通に動き出している。月曜はユウトたちにとっては休みの日だが、街全体が休むわけではない。荷車の軋む音が通りを渡り、どこかの店先で戸板を上げる音がする。肉屋の方からは脂の匂いが流れ、パン屋の窓からは焼けた香ばしさがこぼれていた。
いつも通りの朝だ。
そのことが、かえって落ち着かなかった。
卓には朝食が並んでいた。パンとスープ、少しの焼き野菜。湯気が上がり、椀の縁に小さな水滴がついている。食べれば温かい。腹にも入る。身体はちゃんと朝を受け入れようとしている。
けれど、会話は少なかった。
レイナは何度かいつもの調子で口を開きかけたが、途中で止めた。普段なら、昨夜眠れなかったことすら冗談にする。先生も寝不足ですね、とか、ユウトくんは顔に出てますよ、とか、そういう軽口が出るはずだった。
だが、出ない。
マリナはそれに気づいて、無理に笑わせようとはしなかった。
「無理しなくていいわ」
レイナは少しだけ目を伏せる。
「……そうですね」
ユウトは椀を持ったまま、湯気を見ていた。
昨夜はほとんど眠れなかった。考えが同じ場所をぐるぐる回り、出口を見つけられない。
「師匠って」
ぽつりと出た。
マリナが顔を上げる。
ユウトは続けようとして、少し言葉に詰まった。
「すごい人なんだなって、分かってたつもりでした」
「私もよ」
マリナの声は静かだった。
「でも、違ったわね」
それ以上は言わない。
言えないというより、言葉にすると軽くなりそうだった。
レイナも小さく頷く。
「魔王さんって、すごい人なのは分かってたんですけど」
そこで止まる。
「……違いました」
誰も補わない。
そのまま朝食は終わった。
しばらくして、戸が叩かれた。
こつ、こつ。
ガルドさんだった。
隣の自宅から来たのだろう。髪も服も整っている。家族と朝食を取ってきた後の顔だ。けれど、目の奥に少しだけ眠りの浅さが残っていた。
「顔を見れば分かるな」
中へ入るなり、ガルドさんはそう言った。
責めるでも、慰めるでもない。事実を置く声だった。
マリナが椅子を勧めると、ガルドさんは静かに腰を下ろした。
「うちのにも、何かあったかとは聞かれた」
レイナが少し顔を上げる。
「奥さんに、ですか」
「ああ」
ガルドさんは短く頷いた。
「話せんと言ったら、それ以上は聞かれなかった」
その声には、深い信頼の色があった。
「ありがたいものだ」
その一言だけで、ガルドさんが何を抱えてここへ来たのか少し分かった。
家族がいる。隣に帰る場所がある。だからこそ、話せないものを持ち帰る苦しさがある。それでも、聞かないでいてくれる人がいる。それはたぶん、とても大きい。
ダインさんが壁際から低く言った。
「……重いものは、すぐには馴染まん」
全員の視線がそちらへ向く。
ダインさんはいつものように、必要な分だけ言葉を出した。
「無理に飲み込むな」
少し間を置く。
「だが、軽くも扱うな」
それだけだった。
けれど、その言葉は妙に部屋の中に残った。
朝から昼にかけて、時間はひどくゆっくり流れた。
月曜は休みだ。店へ行く必要はない。冒険者活動に出る日でもない。だが、休みだからこそ、考える時間ばかりが増える。ユウトは何度か外へ出ようかと思い、結局立ち上がらなかった。外へ出たところで、何をすればいいのか分からなかったからだ。
レイナも似たようなものだった。
椅子に座っては立ち、窓の外を見て、また戻る。普段ならじっとしていられない時ほど何か喋るのに、今日は言葉が少ない。
マリナは卓の上を何度か片付け直した。片付いているものを、また整える。それが落ち着くための動きだと、ユウトにも分かった。
ガルドさんは昼過ぎまでいた。
自宅へ戻る時間もあったはずなのに、あえて少し長く残っている。何を話すでもない。ただ、そこにいる。家族を持つ大人として、自分の居場所へ戻れる人として、それでも今はここにもいてくれる。そのことがありがたかった。
「……考えすぎて、逆に疲れました」
夕方が近づく頃、レイナがようやく小さく言った。
ユウトも同じ気持ちだった。
「俺もです」
考えても答えは出ない。
けれど考えないことも出来ない。
マリナが窓の外へ目を向ける。
「答えを出す話でもないのかもしれないわ」
ガルドさんが頷く。
「そうだな」
ダインさんも短く言った。
「……すぐに答えは出ん」
そのまま、また沈黙が降りた。
夕方の光が少しずつ橙へ変わる。窓から入る風は、昼より少し冷たくなっていた。外では酒場へ向かう人の声が増えていく。笑い声、足音、どこかで鳴る皿の音。月曜の夜が近づいている。
やがて、レイナがぽつりと言った。
「……行きますか」
何を、とは言わない。
それでも全員に通じた。
酒場。
月曜の夜の、いつもの場所。
重い話を消せるわけではない。忘れられるわけでもない。けれど、このまま借家で黙っていたら、考えが内側で詰まり続けるだけだ。
ガルドさんが立ち上がる。
「行くか」
ダインさんも静かに頷く。
「……ああ」
マリナはユウトを見る。
「黒崎くん」
「はい」
「無理なら、今日はやめてもいいのよ」
ユウトは少し考えてから、首を横に振った。
「行きたいです」
それははっきりした本音だった。
行けば何かが解決するとは思っていない。けれど、行きたかった。いつもの酒場へ。いつもの空気の中へ。何もなかったことにはならないが、何かあったままでも息を吸える場所へ。
五人で外へ出る。
月曜の夜の交易都市は、いつものように灯りを増やしていた。屋台には火が入り、酒場の周辺には早くも人が集まり始めている。焼いた肉の匂い、煮込みの湯気、酒の香り。昨日と同じ街だ。だが昨日とは違う自分たちが、その中を歩いている。
酒場の戸を開けると、熱気が一気に流れてきた。
木の床に染みた酒の匂い。焼けた肉の香ばしさ。人の声。笑い声。粗い椅子を引く音。外の冷えた空気から中へ入った瞬間、身体が少しだけ緩む。
「お、来たな」
「今日は遅いな」
「……なんか静かだな」
常連の一人がそう言った。
ガルドさんは短く返す。
「まあな」
それ以上は言わない。
店主もそれ以上聞いてこなかった。ただ、いつもの席の方へ顎をしゃくる。
「座れ。今日はそっち空いてる」
五人が席へ向かうと、そこにはすでに先客がいた。
魔王と副官さん、そして山本さんだった。
「お、来たか」
師匠がいつも通りに手を上げる。
本当に、いつも通りだった。
昨日、あんな話をした人とは思えないほど、気軽な顔で座っている。卓の上には料理が並び、杯もある。副官さんは隣で静かに座り、山本さんはその向かいにいた。
山本さんの顔は、まだ少し硬い。
けれど、彼女の前には温かい料理と水が置かれていた。取り皿は手を伸ばしやすい位置にあり、山本さんが迷わず食べられるように置かれている。副官さんは何も言わない。ただ、山本さんの皿が空きすぎる前に、自然な動きで料理を少し寄せている。
師匠はそれを特別なことのように扱わなかった。
「遅かったなぁ」
いつもの声。
ユウトは椅子に座りながら答える。
「少しだけ、考え込んでました」
「そらそうやろな」
師匠は軽く笑う。
「まあ食え食え。考えるにも腹はいる」
その言い方があまりにも普通で、ユウトは少しだけ肩の力が抜けた。
副官さんはユウトたちへ視線を向ける。
「座ってください」
声もいつも通りだ。
山本さんが小さく頭を下げる。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです、山本さん」
マリナが柔らかく返す。
レイナは山本さんの隣へ座り、少しだけ声を落とした。
「昨日、寝られました?」
山本さんは困ったように笑う。
「あんまり」
「ですよね」
それだけで終わった。
深く聞かない。
それが今はちょうどよかった。
店主が杯を持ってくる。
「今日は軽めにしとくか」
その口調も、いつもより少しだけ抑えられているように聞こえた。けれど聞きすぎない。構いすぎない。店主は店主で、酒場の空気を知っているのだろう。
ユウトの前にも杯が置かれる。
冷たい縁が指に触れた。
ユウトは一瞬だけそれを見つめた。
いつもなら、飲めばすぐに何もかもが先生への愛で埋まる。気づけば先生を抱きしめ、美しさを語り、魂だとか結婚だとか、翌朝には絶対に覚えていないことを全力で言っているらしい。
今日はどうなるのか、自分でも分からない。
それでも、杯を持ち上げた。
一口。
熱が喉を通る。
頭の奥に火が回る。
いつものように一瞬で世界が変わるはずだった。
だが、この日は少しだけ間があった。
ユウトは杯を置き、ゆっくりと師匠を見た。
「……師匠って」
卓の空気が少しだけ止まる。
魔王はいつも通りの顔で首を傾げた。
「なんや急に」
ユウトは言葉を探した。
酔いは確かに回り始めている。胸の奥が熱くなり、視界の中心が少しずつ狭まっていく。けれど、その中心にいきなり先生だけが来る前に、昨日から残っていたものが一度だけ浮かんだ。
「……すごい人ですね」
言えたのは、それだけだった。
魔王は一瞬だけ目を細めた。
それから、何でもないように笑う。
「今さらやな」
軽い。
本当に軽い。
「ケーキ作るのもうまいしな」
その続け方で、張りかけた空気が少しだけほどけた。
レイナが小さく息を吐く。
山本さんの肩も、わずかに下がる。
師匠は何も説明しない。昨日の話を蒸し返さない。大丈夫だと改まって言わない。けれど、いつも通りに座り、いつも通りに笑って、いつも通りに自分を少し大きく見せる。
それが今は、何よりありがたかった。
ユウトは少しだけ笑った。
「そうですね」
その声の終わりで、視線が動く。
隣に座るマリナへ。
世界が狭まる。
「先生」
マリナが少しだけ身構える。
「黒崎くん」
「先生は綺麗だ」
レイナが即座に言った。
「戻りましたね」
ガルドさんが杯を置く。
「戻ったな」
ダインさんも低く言う。
「……平常だ」
その一言で、常連たちが笑い始めた。
「今日は遅かったな」
「いや、戻れば同じだ」
「先生、構えろ」
マリナが顔を赤くして言い返す。
「構えるって何よ」
ユウトはもう周りを見ていなかった。
「先生」
「はいはい、何?」
「やっぱり俺には先生しかいない」
「いきなりそこまで戻らなくていいのよ!」
レイナが手を打つ。
「急加速ですね」
魔王が楽しそうに乗った。
「ええぞユウト」
「今日はキレてるな」
その声が、いつもの酒場の空気を一気に引き戻した。
ユウトの腕がマリナの肩へ回る。
マリナは一瞬だけ抵抗しようとしたが、今日は少しだけ力が弱かった。昨夜からの重さがまだ胸の奥に残っているせいかもしれない。あるいは、師匠がいつも通りでいてくれたことに、マリナ自身も少し救われているのかもしれない。
「黒崎くん、近い」
「先生、言葉だけでは足りない」
「また始まった……」
「先生が綺麗だから悪い」
「私のせいにしないで」
「先生は俺の人生の中心だ」
「重いわよ」
そのやり取りに、常連たちが笑う。
山本さんも、最初は驚いたように見ていたが、やがて少しだけ笑った。強張っていた頬が、ほんの少しほどける。副官さんはその横で何も言わず、山本さんの水の杯を近くへ寄せた。
師匠は笑いながら言った。
「大丈夫や、おっちゃんに任せとき」
その一言は、軽かった。
軽いのに、妙に大きかった。
誰に向けた言葉なのか、はっきりとは分からない。ユウトに向けたようでもある。マリナに向けたようでもある。レイナや山本さん、ガルドさんやダインさん、あるいはこの場全体へ投げた言葉にも聞こえた。
昨日聞いた秘密の重さ。
胸に残った不安。
どう受け止めればいいか分からない気持ち。
それらを全部、今はとりあえず置いていいと言うような軽さだった。
任せとき。
師匠が言うと、本当に少しだけ任せられる気がした。
ユウトはマリナをさらに抱き寄せた。
「先生」
「今度は何?」
「俺は先生の全てが欲しいんだ」
「またそれ言うの!?」
マリナの顔が一気に赤くなる。
レイナがすかさず反応する。
「出ました、全て」
ガルドさんが短く笑う。
「今日は出ると思った」
ダインさんが低く続ける。
「……重いが、流れている」
「流れているって何ですか!」
マリナが突っ込むと、酒場中に笑いが広がった。
その笑いは、昨日の話を消してくれるものではない。
秘密は消えない。
魔王が背負っているものも、副官さんが選んだものも、山本さんが硬くなっていた理由も、全部そのまま残っている。
けれど、胸の奥に沈んでいたものの周りに、少しだけ空気が入った。
呼吸ができる。
レイナも少しずつ調子を戻していく。
「先生、今日は拒否が弱いですよ」
「そんなことないわよ」
「いつもより声が弱いです」
「うるさい」
「ほら、弱い」
「レイナ」
マリナが睨むと、レイナは楽しそうに笑った。
山本さんも小さく笑う。
それを見た副官さんは、特に何も言わなかった。ただ、山本さんの皿に残っていた料理を見て、もう少しだけ取りやすい位置へ皿を動かした。
魔王は常連に絡まれながら、いつもの調子で笑っている。
「魔王さん、今日は大人しいと思ったら、結局煽るんだな」
「当たり前やろ。ユウトが走り出したら背中押すのが師匠の仕事や」
「それでいいのか?」
「いや、知らんけど」
その適当さに、また笑いが起きる。
ユウトは相変わらずマリナから離れない。
「先生」
「近いって言ってるでしょう」
「近い方がいい」
「よくないわよ」
「先生の声が近い」
「だから何なのよ」
「幸せだ」
その言葉に、マリナの怒る声が止まる。
一瞬だけ、酒場の笑い声が遠くなった。
レイナが小さく目を細める。
ガルドさんは杯へ視線を落とし、ダインさんは何も言わない。
マリナは赤い顔のまま、少しだけ息を吐いた。
「……本当に、酔うと厄介ね」
けれど、押し返す力はなかった。
酒場の夜は、ゆっくり進んだ。
いつものように騒がしく、けれど少しだけ違う夜だった。
ユウトは先生への愛を語り、マリナは恥ずかしがりながら受け止め、レイナはツッコミを入れ、ガルドさんとダインさんは短く場を締める。魔王は笑って煽り、副官さんは静かに座り、山本さんは最初よりずっと楽な顔で料理を口へ運んでいる。
その全部が、昨日までとは違う意味を持っていた。
重いものを忘れるためではない。
重いものを持ったまま、笑うための時間だった。
帰り道、夜風は少し冷たかった。
酒場の熱気から外へ出ると、頬に触れる空気が心地いい。石畳には灯りが滲み、遠くの店先ではまだ笑い声がしている。
ユウトはいつものようにマリナから離れなかった。
足取りは危なっかしいのに、腕だけはしっかり回っている。
「黒崎くん、歩きにくい」
「先生なら大丈夫」
「どういう意味よ」
「先生だから」
「答えになってないわ」
レイナが後ろで笑う。
「でも、今日はちょっと良かったですね」
マリナはすぐには答えなかった。
少し歩いてから、小さく言う。
「……そうね」
その声は、怒っている時のものではなかった。
借家へ戻り、どうにかユウトを寝かせる。
ユウトは布団へ沈む直前まで、マリナの手を離したがらなかった。
「先生」
「何?」
「先生がいる」
「いるわよ」
「よかった」
それだけ言って、眠った。
本当に、一瞬だった。
レイナはその様子を見て、今日はあまり茶化さなかった。
「……寝ましたね」
「ええ」
「今日は、いいです」
何がいいのか、マリナは聞かなかった。
レイナはそのまま自分の部屋へ戻る。ダインさんも無言で部屋へ入り、ガルドさんは隣の自宅へ帰っていった。
居間に残ったマリナは、一人で椅子に腰を下ろした。
灯りが小さく揺れている。
昨日聞いた話は、まだ胸の奥にある。
消えていない。軽くなったわけでもない。理解できたわけでもない。
でも、酒場へ行く前よりは、少しだけ息がしやすかった。
「……少しだけ、楽になったわね」
小さく呟く。
答えは返ってこない。
それでも、静けさは昨夜のものとは違っていた。
抱えたままでも、進める。
忘れないままでも、笑える。
そのことを、魔王はいつも通りの顔で見せていた。
マリナはユウトの眠る部屋の方を一度だけ見た。
困った人だと思う。
酔うと抱きついて、愛を語って、全てが欲しいなどと言い出して、翌朝にはきっとほとんど覚えていない。
けれど今日は、その騒がしさに救われたのも事実だった。
窓の外では、月曜の夜が静かに更けていく。
日常に戻れたわけではない。
けれど、戻れないまま進むための足場を、ほんの少しだけ見つけた気がした。




