第120話 師匠たちが急に帰ると言い出してちょっとだけ空気が変わる件
火曜の朝、借家の中には月曜の夜の名残がまだ薄く残っていた。
戸の隙間から入る朝の光は白く、昨夜よりずっと容赦なく部屋の中を照らしている。卓の上には朝食の支度が整いかけていて、湯気の立つ椀からは穀のやわらかな匂いが上っていた。いつも通りの朝だ。そう見えるのに、空気のどこかだけが少しぎこちない。
理由は、たぶん一つしかない。
「ユウトくん、顔がひどいです」
レイナが椀を置きながら、遠慮なく言った。
ユウトは卓に肘をつく寸前で思い直し、額を押さえる。
「自覚はある」
「覚えてます?」
「覚えてない」
「でしょうね」
レイナは楽しそうに笑う。その横でマリナは茶を注いでいたが、その手がわずかに止まった。
「朝からその話はしないで」
落ち着いた声を作ってはいる。けれど、作れていない。頬のあたりにまだ昨夜の熱が残っているような顔だった。
月曜の酒場。店主の「店からだ」で始まり、いつものように酔ったユウトが愛を語り始めたまではよかった。よかったというのも変だが、とにかくそれはいつも通りの範囲に収まっていた。問題は、その先だ。
近かった。
最初から距離が近かったせいで、抱き寄せ方も言葉もいつもよりずっと深かった。
言葉だけでは愛は伝わらない。
愛を掴み取るには時に強引な行動も必要なんだ。
そして、あの一言。
俺は先生の全てが欲しいんだ!
思い出した瞬間、マリナの耳まで熱くなる。
ユウトの方は、そのあたりの記憶がきれいに抜け落ちているらしい。だから今も平然と、いや平然ではないが、単なる二日酔いの顔で椀を見ている。その普通さが、少しだけずるい。
ダインは壁際で腕を組んだまま短く言った。
「……深かったな」
その一言で、マリナがぴたりと固まる。
「ダインさんまで朝からやめてください」
「事実だ」
「だからって言わなくていいんです」
レイナが横からすぐに混ぜ返す。
「でも先生、昨日は完全に受け止めてましたよね」
「受け止めてないわよ!」
「受け止めてました」
「違うって言ってるでしょう」
マリナは言い返しながらも、自分で声が少し上ずっているのが分かっていた。
その時だった。
戸が叩かれる。
こつ、こつ、と二回。迷いのない、けれど強すぎない音だ。
全員の動きが一瞬だけ止まる。
この時間に訪ねてくる相手は限られているが、思い当たる顔はひとつではない。マリナが戸口へ向かい、開けた瞬間に少しだけ目を見開いた。
「魔王さん」
そこに立っていたのは魔王と副官だった。
朝の空気の中で見る二人は、店にいる時とも訓練の時とも少し違う。魔王はいつも通り気楽そうな顔をしているが、どこかだけ仕事の匂いをまとっている。副官は相変わらず無駄のない姿勢で、視線の先だけが冷静に全体を見ていた。
「朝早くからすみません」
副官がまず言う。
「大事なお話があります」
その響きに、借家の中の空気が少しだけ締まる。
ユウトが椅子から立ち上がった。
「師匠、どうしたんですか」
「いや、ちょっとな」
魔王はいつもと変わらない調子で言う。だが、その軽さだけに頼っている感じでもない。
「本国で会議や」
短く、それだけ。
ユウトは一瞬だけ意味を飲み込めずにいた。
「会議……ですか」
「緊急事態ではありません」
副官が横から静かに補う。
「ですが、重要な会議です。出席しないわけにはいきません」
マリナが戸口の近くに立ったまま、少し真面目な顔になる。
「今日、戻られるんですか?」
「そうや」
魔王が頷く。
「今日中に一回帰らなあかん」
その言い方に、レイナも表情を改めた。火曜の朝にこうして二人が直接来るのは珍しい。遊びではないのだと、さすがに分かる。
ユウトは少し身を乗り出す。
「どのくらいかかるんですか」
魔王は少しだけ肩をすくめた。
「数日やな」
それから、少しだけ笑う。
「まあ、なんとか木曜には戻るつもりやけどな」
その軽い言い方は、場の空気を必要以上に重くしないためのものだと分かった。だが同時に、それが確約ではないこともすぐに伝わる。
副官はその横で、現実をきっちり置き直した。
「戻る努力はします」
「ですが、会議の内容次第では延びる可能性があります」
やはりこういうところは副官らしい。魔王がやわらかく崩した空気を、必要な分だけ現実へ戻す。
ユウトは思わず背筋を伸ばしていた。
「……分かりました」
魔王はそこで、ようやく少しだけいつもの顔になった。
「そんな固くなるな」
「別に、今日から何か全部変わるわけやない」
そう言って借家の中を見回す。
「店は止めへん」
その一言に、全員の意識が自然とそちらへ向く。
「回るようにはしとる」
「けど、ちょっとだけお前らの負担は増える」
副官がすぐに帳面を開いた。
「仕込み量は少し抑えます」
「売れ筋は維持しますが、新しい試作は一旦止めます」
「会計は簡略化してあります。こちらにまとめました」
そこから先の話は、いつもの副官そのものだった。
どの材料がどこまで持つか。何を優先して焼くか。誰がどこを見れば混乱しないか。会計のまとめ方。仕入れの確認。ひとつひとつは細かいが、聞いていくうちに二人が本当に今日からいないのだという実感がじわじわと湧いてくる。
ユウトはその説明を聞きながら、胸の奥に少しだけ重いものが落ちるのを感じていた。
師匠と副官がいない。
それだけで、店の空気はかなり変わる。今まで自分たちは支えられる側だったのだと、こういう時に分かる。
魔王がそんなユウトの顔を見て、ふっと笑った。
「焦るなよ」
その一言が、思った以上に胸へ入る。
「修行は帰ってからや」
「今は店を回すことだけ考えろ」
副官も頷いた。
「勝手に危険なことはしないでください」
「私がいない間に、新しいことを試そうとは思わないように」
その言い方があまりにも副官らしくて、レイナが思わず小さく笑う。
「釘が太いですね」
「必要です」
副官は迷いなく言い切った。
その後で、視線がマリナへ向いた。
「先生」
「はい」
「ユウトをお願いします」
言われた瞬間、マリナの表情が少しだけ引き締まる。
ただの頼みではない。店の中でも、店の外でも、これまで以上にユウトの近くにいる役目を託されたのだと分かる。
「……分かりました」
答える声は静かだったが、はっきりしていた。
副官はそれで充分だというように、わずかに頷く。
次に視線はレイナへ移る。
「レイナはいつも通りでお願いします」
魔王がそこで口を挟んだ。
「レイナはいつも通りや」
「雑ですね」
レイナがすぐ返す。
魔王は笑った。
「でも信用しとるで」
それは冗談みたいな言い方なのに、ちゃんと本音だと分かる声だった。レイナも一瞬だけ目を丸くして、それから少しだけ照れたように笑う。
「そう言われると弱いんですよね」
そのやり取りの途中で、再び戸口の方に気配がした。
隣の自宅から出てきたガルドと、少し遅れて外から戻ってきたダインだ。
「話は聞こえた」
ガルドが借家の中へ半歩だけ顔を入れる。
「本国に戻るんだな」
「ああ」
魔王が頷く。
「ちょっとな」
ガルドはそれ以上詮索しなかった。必要なことだけ確認すればいいという顔で、短く言う。
「任せろ」
ダインも、いつもの低い声で続けた。
「……問題ない」
その二人の短さが、不思議と場を落ち着かせた。
魔王はそこで、ようやく本当に出発する顔になる。
「ほな、行ってくるわ」
言いながら、最後にユウトを見る。
「店、頼むで」
軽く言った。だが、その軽さの奥にある重さは、今までで一番はっきりしていた。
ユウトはまっすぐ頷く。
「はい」
短い返事だった。だが、それで十分だった。
副官も最後に一度だけ全員を見た。
「無茶はしないでください」
「戻った時に余計な問題が増えているのは困ります」
レイナが小さく肩を揺らす。
「最後まで副官さんですね」
「当然です」
その返しに、ささやかな笑いが起きる。
やがて二人は本当に去っていった。
朝の街へ向かって歩き出す背中を、借家の前から見送る。石畳を踏む足音はそれほど大きくないのに、二人の姿が見えなくなるまでの時間だけが妙に長く感じられた。
静けさが戻る。
さっきまでそこにいた二人の気配だけが、まだ薄く残っているような気がした。
最初に口を開いたのはレイナだった。
「なんか急に責任増えましたね」
笑ってはいるが、その声には少しだけ本音も混じっている。
ガルドは腕を組んで、朝の通りを見たまま言う。
「そういうもんだ」
「いつまでも頼ってばかりはいられん」
ダインが低く続ける。
「……やるだけだ」
それだけの言葉なのに、妙にしっくりきた。
ユウトは、師匠たちの消えた方角をもう一度だけ見た。
数日。
なんとか木曜には戻るつもり。そう言っていた。けれど、それまでの時間を自分たちで回すのは変わらない。
不安がないわけではない。けれど、それ以上に、任されたという感覚が胸の奥で静かに重くなっていた。
マリナがそんなユウトを横から見て、やわらかく言う。
「黒崎くん」
「はい」
「大丈夫よ」
その一言に、ユウトは少しだけ肩の力を抜く。
「先生がそう言うなら」
「そういう時だけ素直ね」
マリナは小さく笑った。
朝の空気はもうすっかり日常へ戻っている。店は開き、人は動き、石畳の上を荷車が通る。
けれど、その日からの数日間は、たぶん昨日までと同じではない。
ユウトは、もう一度だけ胸の奥でその重さを確かめた。
師匠たちがいない時間が始まる。
それでも、進むしかないのだ。




