第119話 月曜の夜に距離だけ妙に近いまま酒場に行った結果やっぱりこうなる件
月曜の夕方、借家の中には、週の始まりにだけある静けさがゆっくりと満ちていた。
金曜から日曜まで、魔王のケーキ屋はいつも通り忙しかった。朝のうちから客の列が出来て、焼き上がった品は昼前後にはほとんど消え、閉めた後も片付けと仕込みの確認が残る。三日間、甘い匂いと火の熱と人の声の中で動き続けた身体は、休みの月曜になってようやく力を抜いている。
だからと言って、だらりと崩れるような疲れではない。肩の奥と腰のあたりに、まだ芯のように残っている重さがある。よく働いた後にしか出ない、鈍くて静かな疲れだ。水曜を境に妙に変わり始めた手の動きも、今は日常の中へ自然に馴染んでいて、前より少しだけ物を取る手順に迷いがない。
窓の外では、交易都市の夕方が少しずつ色を変えていた。石畳の上を行く人の足音はまだ途切れない。月曜は、ユウトたちにとっては休みでも、街にとっては普通の一日だ。店を閉める音、荷を運ぶ車輪の軋み、遠くから聞こえる呼び声。そういう生活の音が薄く借家の中へ流れ込み、板張りの床の上をやわらかく滑っていく。
その穏やかな空気の中で、ひとつだけ妙にはっきりしているものがあった。
距離だ。
ユウトとマリナの距離が、ここ数日でほんの少しだけ変わっている。
それは、誰かが目に見える形で線を引いたような劇的な変化ではない。触れているわけではない。寄り添っているわけでもない。けれど、並んだ時に以前より少しだけ近い。目が合った時に、すぐに逸らさない。会話の後に残る沈黙が、前よりわずかに長い。
そんな細かな違いを、一番面白がっているのはもちろんレイナだった。
「先生、なんだか今日は落ち着いてますね」
夕方の支度をしながら、レイナがにやにやと笑う。
マリナは鏡代わりに磨かれた金具へ視線を向け、自分の髪を軽く整えてから首を傾げた。
「そうかしら」
「そうですよ。週末の後なのに、妙に機嫌がいいです」
「レイナ」
名前だけを呼ぶ声音は、たしなめるようでいて、本気で怒ってはいない。
それが余計にレイナを喜ばせた。
「ほら、やっぱりそうです」
「何がよ」
「何でもないです」
何でもなくない顔で言い切る。
マリナはそこで小さく息をついた。けれど、レイナの言葉を完全には否定出来ない自分もいる。昼間、ガルドの妻から言われたことがまだ胸の奥に残っているのだ。
待つだけが全部じゃない。
少しぐらい自分からでもいい。
大人の女から誘ってもいい。
思い出すだけで、頬のあたりがまた少し熱くなる。
その時、壁際で軽く肩を回していたユウトが二人の方を向いた。
「先生、そろそろ行きますか」
その呼びかけがあまりにも普段通りだったので、マリナは一瞬だけ救われた気持ちになる。同時に、少しだけずるいとも思う。昼間にあれだけ色々な事を考えたのは、たぶん自分の方だけだ。黒崎くんはきっと、そこまで深くは意識していない。
「ええ」
短く返す。けれど、その一言の間に少しだけやわらかさが混ざる。
レイナはそれを見逃さず、また小さく笑った。
「今日は楽しみですね」
ユウトが振り返る。
「何が」
口調はいつも通りだ。乱暴ではなく、少し呆れたくらいの軽さ。そこに、酔った時の大仰さはまだ一片もない。
レイナは肩をすくめる。
「何でもないです」
「絶対何でもなくないだろ」
「気のせいです」
そうやって言葉を重ねているうちに、三人は外へ出た。
借家の前では、すでにガルドとダインが待っていた。
隣の自宅から出てきたばかりなのだろう。ガルドはいつも通り落ち着いた顔をしていて、ダインは無駄のない姿勢で立っている。二人とも、月曜の酒場へ向かう流れを当たり前のように受け入れている顔だ。
「行くか」
ガルドの一言に、ユウトが頷く。
「はい」
ダインは何も言わない。ただ一度だけマリナとユウトの並びを見て、それから前を向いた。言葉にはしない。だが見ていないわけではない。
五人で歩き出す。
月曜の夕方の街は、日曜の熱気を完全には失っていないが、もう週末の浮つきは薄れていた。酒場へ向かう者もいれば、家路を急ぐ者もいる。店先ではまだ灯りをつけ始めたばかりで、空の色は青から橙へ静かに移っていくところだった。
その中を歩く間、ユウトはごく自然にマリナの隣へ寄っていた。
わざとではない。だが、離れる理由もない。
歩幅が合う。視界の端に先生の姿がある。その位置が心地いい。たったそれだけの事実が、今は妙にはっきりしていた。
マリナもその距離に気づいている。けれど、避けない。避ける方が、今はかえって不自然に思える。
レイナがその並びを見て、とうとう口元を押さえた。
「今日、最初からそれなんですね」
「それって何だ」
ユウトが振り向く。
言い方はいつも通りだ。乱暴ではなく、少しだけ怪訝そうなだけ。
「自覚ないのが一番面白いです」
「面白いって何だよ」
「えー、だって」
レイナは笑いをこらえながら首を振る。
「前よりずっと近いですよ」
そこでユウトはようやく、自分がマリナのかなり近くを歩いていることに気づいたらしい。ちらりと横を見る。マリナも視線を向け、目が合う。
一瞬だけ、時間が止まる。
それから、どちらともなく前を見る。
たったそれだけで、レイナはもう肩を震わせていた。
「ほら」
ガルドが小さく笑う。
「今日は最初から近いな」
「……うむ」
ダインの短い同意が、妙に重い。
ユウトは少しだけ居心地が悪そうにしたが、位置を変えようとはしなかった。結局、そのままの距離で酒場まで歩く。
戸を開けると、熱が流れ出てきた。
焼いた肉の匂い。酒の匂い。人の声。月曜の夜の酒場は、外の落ち着いた空気と違って最初から少しだけ熱を持っている。
「お、来たな」
「今日は早いな」
「先生もいるぞ」
常連たちの声が飛ぶ。
店主が顔を上げ、五人を見て苦笑した。
「席、詰めとけよ。今日は静かに飲めそうにない」
その一言で、あちこちから笑いが起きた。
相沢は今日は来ていないらしい。魔王も副官も山本も不参加だ。だからこそ、酒場の空気は余計に剥き出しだった。いつもの面子と、いつもの常連と、いつもの月曜。そこに、少しだけ変わった二人がいる。
席につく時、ユウトは迷いなくマリナの隣へ座った。
それが自然すぎて、誰も何も言わない。いや、言わないだけで全員見ている。
マリナだけが一瞬だけ息を止めた。
「……近いわよ」
小声だ。
ユウトは少しだけ首を傾げる。
「そうですか?」
「そうよ」
そう返しながらも、本気で離れろとは言わない。
向かいに座ったレイナが、楽しそうに頬杖をついた。
「ユウトくん、今日ちょっと違いますね」
「何がだ」
「距離です」
直球だった。
ユウトはそこでようやくはっきり自覚したらしい。自分とマリナの位置を見る。近い。たしかに近い。だが、それを認めたところで、離れる理由はやはり見つからない。
その反応を見て、ガルドは杯を手に取りながら笑った。
「今日は最初からそういう日か」
「そういう日って何です」
「そのままの意味だ」
ダインは短く言う。
「……分かりやすい」
ユウトが返す前に、店主が杯を押し出した。
「店からだ」
「ありがとうございます」
受け取る。冷たい縁が指先に触れる。
一口、飲む。
熱が喉を通った瞬間、頭の奥で何かが切り替わる。
その変化を一番早く察したのはレイナだった。
「はい、来ました」
宣言するように言う。
ユウトの目が変わる。ぼやけるのではない。むしろ、妙にまっすぐに、ひとつのものだけを捉える目になる。
「先生」
低くなった声に、マリナの肩がわずかに揺れた。
「ちょっと、黒崎くん」
言い終わる前に、ユウトの腕がその腰へ回っていた。
寄せる。
ただ抱きつくのではない。逃げようとすれば、その動きを先回りするように自分の身体を寄せる。座ったままなのに、妙に逃げにくい。酒が入った直後だというのに、今日は最初から抱き方が深かった。
「先生、今日は駄目だ」
「何がよ」
「近いと、余計に分かる」
その一言で、酒場がざわつく。
「今日は違うぞ」
「最初から深いな」
「長くなるなこれは」
ユウトは周りの声など聞こえていないように、マリナだけを見ている。
「先生、やっぱり僕には先生しかいない」
口調は普段のユウトのままなのに、酔いの熱が乗ると妙に真っ直ぐになる。
「理由なんてどうでもいい」
「ちょっと、声大きいから……」
「関係ない」
きっぱり言って、さらに引き寄せる。
レイナが吹き出す。
「はい、今日は本気ですね」
ユウトはそこで一度、マリナの顔をじっと見た。
「言葉だけでは愛は伝わらない!」
酒場の空気が一段熱くなる。
「愛を掴み取るには時に強引な行動も必要なんだ!」
そのまま腕の力が強くなる。
マリナの身体が完全に引き寄せられ、逃げるための間がなくなる。
「ちょっと、待って……」
声は出ている。だが、押し返す力は弱い。
レイナがすぐに突っ込んだ。
「先生、それ本当に止める気あります?」
「あるわよ!」
「ないです」
「あるって言ってるでしょう!」
常連たちはもう笑いながら見守るしかない。
ガルドが低く言う。
「今日は行くな」
ダインが続ける。
「……強い」
その言葉は、抱き方に対してだったのだろう。今日は最初から距離が近かったぶん、ユウトの酔いもまっすぐそこへ落ちている。
「先生は綺麗だ」
ユウトの声は低いまま続く。
「優しい」
「ちゃんと見てる」
「僕のことも、周りのことも、全部見てる」
マリナの頬がみるみる赤くなる。
「だから、余計に欲しくなる」
「何言ってるのよ……」
否定の形を取っているのに、視線は逸らせない。
そのまま、決定的な一言が落ちた。
「俺は先生の全てが欲しいんだ!」
酒場の空気が、一瞬だけ本当に止まった。
杯を持っていた常連まで、動きを止める。
ガルドがゆっくり息を吐く。
「今日は深いな」
ダインが短く言う。
「……逃げ場がない」
レイナはとうとう卓を叩いた。
「過去最高更新です!」
マリナは完全に赤くなっていた。頬だけではない。首筋まで熱い。
「そんなこと……」
言葉がそこで止まる。
否定したい。だが、うまく否定出来ない。
昼間のことが、そこで鮮やかに蘇る。
待つだけじゃなくてもいい。
少しぐらい、自分からでもいい。
その言葉が胸の奥でまだ温かいままだから、真正面からそんなことを言われると、以前みたいに強く押し返せない。
思わず、口から漏れた。
「……そんなこと、言われたら」
言った瞬間、自分で固まる。
ユウトはそこで少しも迷わない。
「先生も同じだ」
「違う!」
「違わない」
「違うわよ!」
「先生は素直じゃないだけだ」
まっすぐ言い切る。
それが一番効いた。
マリナはもう反論の勢いを失っていた。胸の奥が熱くて、言葉が追いつかない。
レイナが楽しそうに言う。
「先生、今日はもう無理ですね」
「うるさい!」
酒場全体に笑いが広がる。
店主は呆れ半分、笑い半分で皿を置いた。
「ほら、壊すなよ今日は」
その後も、ユウトの愛の語りは途切れなかった。
「先生は綺麗だ」
「先生は俺の自慢だ」
「俺の人生の中心だ」
「だから全部欲しい」
断言のたびに、マリナの顔がさらに赤くなる。
レイナは横から「はい出ました」「それ重いです」「でも嫌がってないですね」と好き放題だ。ガルドとダインは必要以上に口を挟まないが、その短い一言一言が余計に逃げ場をなくしていく。
やがて酒がさらに回り、ユウトの声に少しずつとろみが混じり始めた。
それでも今日は、崩れるのが遅い。
最初から距離が近かったぶん、そのまま深く入っている。
「……帰るか」
ようやくガルドが言った。
マリナは本気でほっとした顔をしたが、その瞬間にまたユウトが肩口へ額を寄せる。
「先生……帰ってからも離れたくない」
「それは帰ってから言わないで……!」
「もう言ってる」
「そういう意味じゃなくて!」
レイナはもう笑いが止まらない。
「今日は運ぶの大変そうですね」
酒場を出ると、夜風が頬を撫でた。
中の熱気から急に外へ出たせいで、石畳の冷たさが足元から伝わる。夜の街は昼より静かで、遠くの灯りが少し滲んで見えた。
だがユウトは、その夜風の中でもマリナを離さなかった。
抱き寄せるというより、半ば支えるように身体を預けている。けれど、その預け方すら深い。腕は回ったままだし、歩幅も勝手に合わせてくる。
「重いから……」
マリナが言う。
「先生なら大丈夫」
即答だ。
「意味が分からないわよ」
「先生だからだ」
何の説明にもなっていないのに、妙に真剣だから困る。
レイナが後ろから言う。
「今日は先生の方が弱いですね」
「違う!」
「でも受けてますよね」
「受けてない!」
ガルドが短く言う。
「受けてるな」
ダインが続ける。
「……拒んでいない」
その二人の言葉が、今夜のすべてを言い切っていた。
借家へ戻る頃には、ユウトの足取りもさすがに怪しくなっていた。それでも、マリナから離れる気配だけは最後までない。
どうにか中へ入れ、寝台へ座らせる。
ユウトは半分閉じた目で、なおもマリナを見ていた。
「先生」
「何よ」
「離さない」
子どもみたいに単純で、妙に重い宣言だった。
「……寝なさい」
ようやくそう返すと、ユウトは少しだけ満足したように目を細め、そのまま布団へ沈んでいった。寝息に変わるまで、ほとんど一瞬だった。
レイナはその様子を最後まで見届けてから、にやにやしたまま立ち上がる。
「じゃあ私は寝ますね」
「待ちなさい、その顔やめなさい」
「無理です」
きっぱり言い切って、自分の部屋へ入っていく。
ガルドは戸口まで見届けると、隣の自宅へ戻った。ダインも短く「……寝ろ」とだけ残して自分の部屋へ引く。
居間に残ったのは、灯りと静けさだけだった。
マリナは一人、椅子へ腰を下ろした。
頬に手を当てる。熱い。顔だけではない。胸の奥まで妙に熱を持っている。
「……全てって、何よ」
小さく呟く。
けれど、その言葉を本気で否定する気にはなれなかった。
酔っていた。いつもの酒場の延長だった。なのに、今日は少し違った。最初から距離が近くて、その近さをそのまま抱えたまま、一気にあそこまで来た。
昼間に聞いた言葉のせいもあるのだろう。
少しぐらい自分からでもいい。
そう言われた後で、あんなふうに真正面から全部欲しいと告げられたら、前みたいには押し返せない。
「……もう」
困ったように呟く。
けれど口元は少しだけ緩んでいた。
距離はたしかに変わっている。
ほんの少しではあるが、もう元に戻るだけでは済まないところまで来ていた。




