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クラスごと異世界転移したモブの俺、ハズレスキル【無限収納】が覚醒したので異世界で無双します  作者: よるねこ
第一章

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第118話 周りから恋愛指南されて少しだけ意識が変わる件


 週末の三日間は、気づけばまるごと甘い匂いと人の熱の中へ溶けていた。


 朝のまだ冷たい空気の中で戸を開け、焼き上がった生地の香りが外へ流れ出す。そこへ客の列が出来る。定番のケーキが動き、アップルパイが消え、新しく定着した持ち帰りの甘味も、今では迷わず手に取られる側へ回っていた。山本さんは火の前で汗をかきながらも前より手を止めず、レイナは軽い声で店の流れを回し、マリナはその全部を乱さないように受け止める。ガルドさんとダインさんは入口と通路を見て、客の流れが詰まらないよう自然に立つ。副官さんは会計台の横で帳面と金を扱いながら全体の減り方まで見ていて、師匠とユウトは奥でひたすら焼き続ける。


 忙しい。


 だが、前みたいにただ慌ただしいだけではなかった。


 店の中の役割が噛み合い、人の動きが少しずつ洗われていく。そういう忙しさだ。


 その三日間の中で、ユウトとマリナの間にも、誰にも言わないほど小さな変化がいくつも重なった。


「黒崎くん、次これお願い」


「はい、先生」


 皿を渡す。受け取る。指先が触れる。前なら一瞬だけどちらかが避けていたのに、今はそのまま流れる。


「先生、こっち終わりました」


「ありがとう」


 目が合う。前より少し長く合う。それだけのことなのに、週末の終わりには、それがもう自然な流れになりかけていた。


 そして月曜の朝、交易都市の空気は週末の熱をきれいに切り離したように静かだった。


 借家の中には休みの日らしい穏やかさがあった。窓から差し込む光はやわらかく、板張りの床の上へ淡い影を落としている。三日間の営業を終えた身体はさすがに重い。だが、その重さも嫌なものではない。よく働いた後にだけ残る、芯のところの疲れだった。


 ユウトが居間へ出ると、もう卓の上には朝食が並び始めていた。


 マリナが皿を置き、レイナが湯気の立つ椀を運ぶ。ダインは壁際に立ったまま、すでに出る準備を整えている。いつも通りと言えばいつも通りだ。けれど、マリナの横顔にだけ、昨日までとは少し違うやわらかさが混じっているように見えた。


「おはようございます、先生」


「おはよう、黒崎くん」


 いつもの返事だ。だが、声の底にかすかな温度がある。


 レイナはそのやり取りを聞いた瞬間、もう笑いそうになっている。


「なんか週末でさらに落ち着きましたよね」


「何がだよ」


「いろいろです」


 意味深な顔で言い切る。ユウトが首を傾げると、レイナはますます楽しそうだった。


 そこへ、隣の自宅側からガルドさんが声をかけた。


「先生、レイナ」


 マリナが戸口へ向く。


「はい」


 ガルドさんは朝の光の中で立ちながら、少しだけ表情を緩めた。


「たまには女同士でゆっくりしたいみたいでな」


 その言い方は、何でもない話のように自然だった。


「うちのに付き合ってやってくれないか」


 マリナは一瞬だけ目を瞬かせ、それからすぐに頷く。


「ええ、もちろんです」


 レイナは横から顔を出して笑う。


「喜んで」


「助かる」


 ガルドさんは短くそう言うと、今度はユウトとダインへ目を向けた。


「ユウト、ダイン」


「お前らは俺に付き合え」


 ダインが低く応じる。


「……ああ」


「出るぞ」


 それだけで充分だった。


 朝食を終え、四人は二つに分かれた。


 マリナとレイナは隣のガルドさんの自宅へ向かう。ユウトはガルドさんとダインと一緒に借家を出た。


 月曜の街は、週末の熱が嘘みたいに穏やかだった。石畳の上を歩く人は多いが、急ぐ者は少ない。店先から流れてくるのは、売り込む匂いではなく暮らしの匂いだ。焼いた肉、干した香草、洗いたての布、湯気の立つパン。どれも落ち着いていて、月曜らしい。


 ガルドさんは歩きながら余計なことを言わなかった。ダインも同じだ。三人で並んでいても、不思議と沈黙は重くならない。そういう大人の空気の中を歩いて、やがて街の一角にある小さな食堂へ入る。


 昼にはまだ少し早い時間だった。店内には炙った肉とスープの匂いが漂い、木の卓には朝の光が斜めに落ちている。派手さはないが、腹を落ち着かせるにはちょうどいい店だった。


 三人は奥の卓へ座った。


 運ばれてきたのは、しっかり焼いた肉に、濃いめのスープ、それに固いパンだった。素朴だが、湯気の立ち方だけでちゃんとうまいと分かる。


 しばらくは本当に何でもない話だった。週末の店のこと。山本さんが前より火の前で落ち着いてきたこと。新しい持ち帰りの甘味が、もう完全に店の柱の一つになったこと。


 だが、肉を半分ほど食べたところで、ガルドさんがナイフを置いた。


「ユウト」


「はい」


「お前の気持ちは、もうみんな分かってる」


 唐突だった。


 だが、唐突だからこそ逃げられない。


 ユウトの手が止まる。


「……え」


 ダインが、横から低く続けた。


「先生の気持ちもだいたいは分かっている」


 ユウトはすぐに返事が出来なかった。


 肉の匂いも、湯気の立つスープも、その一瞬だけ遠くなる。


 自分の気持ちは、そりゃあ分かるだろう。酒を飲めばあそこまで全部口から出るのだから、今さら隠せるとも思っていない。けれど、先生の気持ちまでそこへ並べて言われると、胸の奥が急に落ち着かなくなる。


 ガルドさんが、その沈黙を見ながら静かに言った。


「ここまで来て、何もしない理由はないだろ」


 そこでダインがさらに重ねる。


「動かないのは、ただの先延ばしだ」


 言葉が短いぶん、逃げ場がなかった。


 ユウトは思わず視線を落とす。


 何もしないつもりはない。けれど、何をどうすればいいのかまでは、まだ上手く掴めていない。それを言い訳にしていたところも、たぶんあった。


 ガルドさんはそこで声を少しだけ和らげた。


「どうだ」


「そろそろ一歩進んでみれば」


 ダインはすぐに続ける。


「先生も待っていると思うぞ」


 そこまで言い切られると、冗談では済まない。


 ユウトの中で、ここ最近の小さな変化がいくつも蘇る。週末の店の中で自然に近づいた距離。水曜の静かな朝に言われた「嬉しかったです」。その時の先生の顔。あの時の、少しだけ赤くなった頬。


 ガルドさんが水を一口飲んで、さらに言う。


「気づいてないふりしてるだけなら、もったいないぞ」


 ダインは短く切る。


「逃げる理由はない」


 その二人の言葉は似ているようで違った。


 ガルドさんは前へ押す。ダインは逃げ道を塞ぐ。


 どちらもユウトにはよく効いた。


「……でも」


 ようやく出た声は、少しかすれていた。


「どうしたらいいのか、まだ」


「男はどっしり構えて待つのも必要だ」


 ガルドさんがすぐに言う。


「焦るな」


 その上で、続ける。


「ただし」


「何もしないのは違う」


 ダインがそこで、短く一言だけ足した。


「……ちゃんと見るんだ」


 それだけで十分だった。


 待つことと、鈍いことは違う。どっしり構えることと、何もしないことも違う。先生が見せてくれる変化を、ちゃんと受け取れ。そう言われているのだと分かる。


 ユウトは深く息を吐いた。


「……はい」


 ガルドさんは頷くだけだった。ダインもそれ以上は言わない。必要なことは全部、もう卓の上へ置かれていた。


 一方その頃、隣の自宅ではもっとやわらかい空気の中で別の話が進んでいた。


 ガルドさんの妻は、朝の光がよく入る居間で二人を迎え入れた。煮込みの匂いと洗いたての布の匂いが混ざる、家庭の落ち着いた空気がある。マリナにとってもレイナにとっても、ここはもう気を使いすぎる場所ではなかった。


「いらっしゃい」


「お邪魔します」


 卓を囲んで座り、最初は本当に何でもない話から始まった。週末の店のこと。持ち帰りの商品がすっかり定着したこと。山本さんが前よりずっと店の流れに入ってきたこと。


 レイナは明るく喋り、マリナもその横で自然に笑っている。けれど、ふと話が切れた時、奥さんがマリナをまっすぐ見た。


「先生、最近いい顔してるわね」


 マリナが固まる。


「え……?」


「分かるわよ、その顔」


 やさしい言い方だ。けれど逃げ道はない。レイナはもう、にやにやを隠しもしない。


「来ましたね」


「何がよ」


「本題です」


 レイナが楽しそうに言うと、奥さんがくすっと笑った。


「若い子ってね」


 一拍置く。


「大人がきちんと導いてあげないと、簡単にすれ違うのよ」


 マリナは言葉を失った。


 導く。そんな言い方をされるとは思っていなかったのだろう。レイナも「おお」と小さく声を漏らして面白がっている。


 奥さんは続けた。


「待つだけじゃダメな時もあるの」


「先生の方から動いてもいいと思うわよ」


「……私から?」


 マリナの声が、ほんの少しだけ揺れる。


 奥さんはその反応を責めるでも笑うでもなく、そのまま穏やかに頷いた。


「いいんじゃないですか」


「大人の女から誘っても」


 その一言は、思った以上に強くマリナの胸へ落ちた。


 レイナがすぐに身を乗り出す。


「それですよ先生」


「ちょっとレイナ!」


 マリナの頬がみるみる赤くなる。けれど否定しきれない。火曜の帰り道、自分から抱きついた時のことが、頭の中へそのまま戻ってきたのだろう。仕返しのつもりでもあった。けれど、それだけではなかったと自分でも分かっている。


 奥さんはさらに踏み込んだ。


「あの子、気づいてないわけじゃないわ」


「でも、自分からは踏み出さないタイプよ」


 その言い方に、マリナは反論出来なかった。


 まさにそうだと思う。黒崎くんはちゃんと見ている。感じてもいる。けれど、こちらが思うほどの速度では絶対に来ない。まっすぐで、慎重で、変なところだけ子どもみたいに鈍い。


「無理にとは言わないわ」


 奥さんの声が少しだけやわらかくなる。


「でも、少しぐらい素直になってもいいんじゃない?」


 その言葉に、マリナは小さく息を吸った。


 嬉しい時に嬉しい顔をする。近づきたい時に、少しだけ近づく。それだけのことが、自分は案外出来ていないのかもしれない。


「……そう、かもしれません」


 その返事はとても小さかった。けれど、奥さんはそれで十分だったように微笑んだ。


 午後がゆっくり傾き始める頃、それぞれの時間は静かに終わった。


 ユウトはガルドさんとダインと別れて借家へ戻り、マリナとレイナも隣の自宅から帰ってくる。戸の前でちょうど顔を合わせた時、金曜や土曜の頃よりもさらに自然な空気があった。


「おかえり、黒崎くん」


「ただいま戻りました、先生」


 目が合う。


 今度はすぐに逸らさない。


 そのままほんの一瞬だけ間があって、二人とも少しだけ笑う。たったそれだけの変化なのに、週末の忙しさの中で積み重なったものと、今日それぞれが受け取った言葉が、そこへきれいに重なっているのが分かった。


 レイナだけは、その空気を見逃すわけがなかった。


「へえ」


「何よ」


 マリナが振り向く。


「別に」


 そう言いながらも、楽しそうな顔をまるで隠していない。


 夕方までの時間は、穏やかに過ぎた。


 借家の中で少し休み、身支度を整える。外の光が橙に変わり、板張りの床へ落ちる影も長くなる。月曜の夜へ向かう時間だ。


 その少し前、ユウトがふと口を開いた。


「先生」


「何?」


「今日はどうでしたか」


 問いかけは何でもないようでいて、どこか少しだけ真面目だった。


 マリナは一瞬だけ考えてから、やわらかく答えた。


「……悪くなかったわ」


 その声は、朝よりずっと落ち着いていた。


 ユウトは小さく頷く。


「僕もです」


 その返事に、マリナの口元が自然と緩む。


 隣の自宅からガルドさんの声がする。


「行くか」


 ダインもすでに戻っていて、いつもの無口な顔で立っていた。レイナは最初から楽しそうだ。月曜の夜の酒場を前にしているからか、それとも二人の空気が朝よりずっと自然になっているからか、その両方かもしれない。


 今日それぞれが過ごした時間は、たしかに少しだけ何かを変えた。


 それを確かめるのは、これからの時間だ。

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