第117話 先生と二人にされすぎて逆にぎこちなくなる件
木曜の朝、魔王のケーキ屋には営業日の喧騒とは違う忙しさが満ちていた。
戸を開けた瞬間、甘い匂いと粉の乾いた匂いが一緒に鼻へ入ってくる。焼き上がった菓子の残り香、朝のうちに温めた乳のやわらかい匂い、果実を煮た鍋の甘い気配。それらがまだ静かな店の空気に薄く溶けていて、金曜から始まる三日間のための準備日らしい張りを作っていた。
ユウトは作業台の横で布を畳みながら、無意識に右手を先に動かしていた。押さえる手と引く手が、前より少しだけはっきり分かれている。水曜に休んだことで、火曜までの訓練が身体の中で静かに整理されたのだろう。考える前に手が動き、足の置き方まで少し変わっている。
その少し先では、マリナが皿を拭いていた。
いつも通りに見える。だが、ユウトが近くを通るたび、ほんのわずかに動きが慎重になる。皿を渡す時、指先が触れそうになると少しだけ避ける。避けるのに、完全には遠ざからない。その曖昧な距離が、昨日までより妙に目についた。
レイナはそれを面白がるように見ている。
接客用の包み紙を整えながら、時々にやりと笑っては視線を逸らす。山本さんはまだそこまで余裕がないのか、火加減の確認と見習い仕事に集中しているが、それでも店の空気がどこか少し違うことには気づいているようだった。
「……なんやあれ」
作業台の向こうで、魔王がぽつりと呟いた。
声は小さかったが、副官には十分届いたらしい。帳面を見ていた視線をそのままユウトとマリナの方へ流す。
「距離が変わっていますね」
「せやろ」
魔王は生地を混ぜる手を止めないまま、少しだけ目を細めた。
「変わっとるのに、なんか妙や」
ちょうどその時、ユウトが高い棚から型を取ろうとして手を伸ばし、マリナが同じ棚の下段へ手を伸ばす。肩が近い。空気も近い。なのに二人とも一瞬だけ固まって、それから必要以上に丁寧に離れた。
レイナがそれを見て、とうとう吹き出した。
「先生、今の露骨すぎません?」
「何がよ」
「避けましたよね」
「避けてないわよ」
「避けてました」
ユウトはというと、自分が何を避けられたのかもよく分かっていない顔で首を傾げている。それが余計にマリナを落ち着かなくさせるのだろう。頬がほんの少しだけ赤い。
魔王はその一連を見て、ますます面白そうな顔になった。
「レイナ、ちょっと来い」
「はーい」
呼ばれる前から待っていたような返事だった。レイナは包み紙を揃えたまま魔王と副官の近くへ寄る。
魔王が声を潜める。
「どうなっとるんや、あの二人」
レイナは一瞬だけ目をぱちぱちさせ、それから楽しそうに笑った。
「進展してますよ?」
「しとるようには見える」
副官が淡々と続ける。
「ですが、思ったより進んでいませんね」
「そうなんですよ」
レイナがすぐに頷く。
「先生はかなり意識してるんですけど、ユウトくんが普通すぎるんです」
魔王が眉を上げる。
「なんでや」
「たぶん、ほとんど覚えてないからです」
その答えに、魔王も副官も一瞬だけ黙った。
副官が小さく息をつく。
「なるほど」
レイナはそこで、待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「なので」
一拍。
「もっと後押ししていきましょう」
魔王は即座に乗った。
「ええやんそれ」
副官が横から低く言う。
「……やりすぎなければ」
だがその忠告は、魔王の耳に半分しか入っていない顔だった。
そこからの魔王は、分かりやすすぎるほど分かりやすかった。
「ユウト」
「はい、師匠」
「先生と一緒に裏の在庫見てきて」
「はい」
何でもないように言う。だが言われたユウトとマリナの方は、ほんの少しだけ動きが止まる。
「先生、行ってきて」
レイナまで横から後押しする。
「え、ええ」
マリナは落ち着いた声を作ろうとしているが、わずかに上ずっていた。
二人で裏へ回る。
在庫の確認など本来なら一人でも出来る。けれど師匠は、しばらくするとまた別の用事を作る。
「ユウト、表の棚の高さ見てきて。先生も一緒にな」
「師匠、それ別に二人でなくても」
「ええから行ってこい」
ユウトが素直に従えば従うほど、マリナの方だけが意識してしまう。
さらにしばらくして、魔王は完全に調子に乗り始めた。
「先生、その紙束ユウトに持たせ」
「黒崎くん、お願い」
「はい」
「先生、重くないか。ユウト、もっと近う寄れ」
「師匠、それは」
「危ないやろ」
何が危ないのかは誰にも分からない。けれど押しつけるように二人を一緒へ寄せる。
最初はレイナも楽しそうだった。山本さんも途中から何かを察したらしく、作業しながらちらちら見ている。ガルドは入口側から一度だけその様子を見て、小さく肩を揺らした。ダインは棚を動かしながら無言のままだが、見ていないわけではない。
だが、すぐにおかしくなった。
二人きりにされる回数が増えるほど、逆に会話が減っていく。
裏の棚の確認へ行けば、必要最低限の言葉しか出ない。
「これでいいですか、先生」
「ええ」
それだけだ。
紙束を運べば、指先が触れそうになるたびどちらかが妙に慎重になる。
「重くないですか」
「大丈夫よ」
会話は普通だ。だが普通すぎて、逆にぎこちない。
魔王はそれを見て首を傾げ始めた。
「……あれ?」
最初に思ったほど、面白い方向へ転がらない。むしろ固くなっている。
副官が帳面を閉じながら、小さく言った。
「言いましたよ」
「そんなもんかいな……」
魔王が本気で不思議そうな顔をする。
副官はため息混じりに続けた。
「やりすぎです」
「距離を詰めさせようとすると、逆に引きます」
「せやけど、ちょっとぐらい押した方がええやろ」
「ちょっとなら」
副官の声は静かだった。
「今はちょっとではありません」
その言い方があまりにもきっぱりしていて、レイナが横で肩を震わせる。
「副官さん、すごい正論ですね」
「事実です」
副官は視線だけでユウトとマリナの方を示した。
ちょうどその時、二人は同じ布を取ろうとして、また微妙に譲り合っていた。譲り合う必要などないのに、近づきすぎないようにしているのが丸分かりだ。
「今はもう、触れさせようとするほど不自然になります」
副官のその一言で、魔王もようやく観念したらしい。
「ほな、普通に戻すか」
そこから先は、逆に露骨な後押しをやめた。
誰がどこへ行くかも、何を一緒にやるかも、いつも通りへ戻す。ユウトはユウトの仕事へ、マリナはマリナの仕事へ、それぞれ自然に散る。そうなると不思議なもので、さっきまでのぎこちなさが少しずつほどけていった。
無理に二人きりにされない。
無理に近づけられない。
ただ同じ店の中で、それぞれの役割をこなす。
その方が、かえって視線も言葉も自然になる。
ユウトが材料を運び、マリナが受け取る。
「ありがとう、黒崎くん」
「はい」
それだけのやり取りなのに、さっきまでよりずっと落ち着いていた。
マリナ自身も、それに気づいていた。
照れる。意識する。けれど無理に向き合わせられると、それがそのまま動きの固さになる。今みたいに普段通りの流れの中で交わる方が、ずっと自然だ。
そう思うと、少しだけ胸の奥が落ち着く。照れは消えない。昨日までのことを思い出せば、まだ顔が熱くなる瞬間もある。けれど、その熱は嫌なものではない。むしろ、今は少しだけ嬉しい方が勝っている。
レイナはその変化も見逃さなかった。
包みを整えながら、小声で笑う。
「先生、今の方がいい顔してますよ」
「何のことかしら」
「さあ」
絶対に分かっている顔で言う。
山本さんは火加減を見ながら、状況を半分だけ理解しているような困った顔になっていた。ガルドは入口の様子を見ながら一度だけ「まあ、ああいうもんだ」とでも言いたげに短く頷き、ダインは黙って棚の位置を直している。その無言のまま空気を締める感じが、妙に店全体を落ち着かせていた。
午後に入る頃には、準備はかなり形になっていた。
生地の仕込み、包みの確認、棚の整え、在庫の点検。木曜にやるべきことは多い。だが今日は、店の中の空気に妙な柔らかさがあった。
魔王は結局最後まで完全には諦めていなかったが、副官に何度か視線だけで制されるたびに大人しくなった。
「まあええか」
作業台の向こうで、魔王が肩をすくめる。
「時間かけた方が面白いしな」
「そうしてください」
副官が即座に返す。
「今の二人に必要なのは、露骨な誘導ではなく慣れです」
「副官さん、先生みたいなこと言いますね」
レイナが笑うと、副官は一拍だけ黙ってから答えた。
「当然です。見るべきところは見ています」
その返事があまりに真面目で、レイナがまた吹き出す。
その頃には、ユウトもようやく店の流れへ完全に戻っていた。右と左の感覚はまだ身体のどこかに残っている。けれどそれはもう、ぎこちなさではなく小さな整理として染み始めている。準備の仕事の中でも無駄な動きが少し減り、必要な物へ手が先に伸びる。
マリナはその様子を見て、また少しだけ目を細めた。
休んだことで変わった。けれどそれを確認するのは、訓練の場だけではない。こうして普段の流れの中で見える変化の方が、もしかすると大きいのかもしれない。
夕方が近づき、店の中へ傾いた光が差し込む頃には、木曜の準備日はほぼ終わっていた。
棚の上は整い、明日からの動きも見えている。忙しい一日だったのに、妙な疲れ方はしていない。むしろ、朝より空気は軽かった。
マリナが最後の布を畳み終えたところで、ふとユウトの方を見る。
目が合う。
今度は、すぐに逸らさなかった。
「黒崎くん」
「はい、先生」
「今日は……その」
少しだけ言葉を探してから、口元をやわらかくする。
「悪くなかったわね」
「準備ですか?」
「それもあるけど」
そこでほんの少しだけ頬が赤くなる。
「全部よ」
ユウトはその意味を完全には掴み切れなかった。けれど、先生の声がやわらかかったから、それで十分な気がした。
「はい」
そう返すと、マリナはわずかに笑った。
店の奥では、魔王がそのやり取りを見て満足そうに頷いている。
副官はその横で、見ていないふりをしながらも口元だけ少しゆるめていた。レイナは言うまでもない。楽しそうに全部見ている。
「やっぱり普通でええやん」
魔王が小さく呟く。
副官が静かに返す。
「最初からそう申し上げています」
「まあまあ」
レイナが横から口を挟む。
「でも、ちょっとは押しますけどね」
「お前が一番ややこしいわ」
魔王のその返しに、店の空気が少しだけ和らいだ。
準備は順調だ。関係も、たぶん順調なのだろう。
無理に詰めなくてもいい。無理に引き寄せなくてもいい。
すでに少しずつ変わっている。
それが分かるだけで、この木曜は十分だった。




