第116話 休みの日なのに先生の方が少しおかしくなってる件
水曜の朝は、火曜までの熱を静かに冷ますような空気で始まった。
借家の窓から差し込む光はやわらかく、板張りの床の上へ薄い白を流している。昨夜のうちに消えたはずの疲れが、朝の身体にはまだ鈍く残っていた。肩の裏、腕の付け根、踏み込み続けた脚の筋。どこを動かしても、昨日の訓練で使った場所だけが先に目を覚ます。けれど、その重さは苦痛というより、深いところまで動かした後の確かな手応えに近かった。
ユウトは布団から身を起こし、しばらくぼんやりと自分の手を見た。
右を握る。左を開く。今度は逆にする。
そんなことをしたところで何かが変わるわけではない。分かっているのに、昨日の感覚がまだ身体のどこかに残っていて、つい確かめてしまう。右で通す。左で広く触る。足で起点を合わせる。森の中で何度も崩れ、何度もやり直した流れが、寝起きの頭の中で妙に鮮明だった。
部屋を出ると、もう居間には人がいた。
レイナは水差しを卓へ置き、マリナは朝食の支度の最後をしている。ダインは壁際の椅子へ静かに腰を下ろしていた。借家の朝としてはいつも通りの景色のはずなのに、ユウトが顔を出した瞬間、レイナの目だけが面白そうに細くなった。
「おはようございます、ユウトくん」
「おはよう、レイナ」
「ちゃんと起きられましたね」
「起きるだろ」
「顔はすごいですけど」
そう言ってレイナが笑う。からかわれていると分かるが、言い返す元気まではまだ完全に戻っていなかった。実際、鏡を見なくても少しひどい顔をしている自覚はある。
マリナが器を置きながら振り返る。
「おはよう、黒崎くん」
「おはようございます、先生」
そこで一瞬だけ、空気が止まった。
ユウトにははっきりと理由が分からない。ただ、先生の返事がほんの半拍だけ遅れた気がした。目も合ったのに、すぐ外される。何かがおかしい。けれど、おかしいのが何なのかが分からない。
昨日の帰り道のことなら、ユウトの方はもうほとんど覚えていない。酒場の記憶ほど綺麗には飛んでいないが、森からの帰りに何か変な会話でもしたのだろうか、ぐらいの曖昧さだ。だから、先生の妙なぎこちなさの理由も当然思い当たらない。
レイナだけは、それを面白がるように二人を見比べていた。
「今日は静かですね」
何でもない風を装って放り込まれたその一言に、マリナがすぐ反応する。
「そう?」
「ええ。なんとなくですけど」
レイナはにこにこしている。絶対になんとなくではない顔だ。
ユウトが椅子へ座ると、ダインが短く言った。
「……軽いな」
「え?」
ユウトがそちらを見ると、ダインはそれ以上余計な説明をしない。
「動きだ」
それだけで十分だと言うように、卓の上の湯気が消えかけた椀へ視線を落とした。
軽い。そう言われて、ユウトは無意識に自分の手元を見る。何が違うのか、自分でははっきり分からない。けれど器を引く時、椅子を寄せる時、昨日までより妙に引っかかりが少ない気はしていた。右と左の使い分けを意識しすぎたせいで、日常の動きの中にもその名残が染みているのかもしれない。
朝食が始まると、その違いは自分でも少しだけ見えた。
椀を取る手が、前よりまっすぐ伸びる。箸を取る側、皿を押さえる側、何気ないはずの左右の役割が以前よりはっきりしている。わざとではない。ただ昨日の訓練で、左右を別のものとして扱う時間が長すぎたせいで、身体が少しそちらへ寄っているのだろう。
それを最初に口にしたのはマリナだった。
「黒崎くん」
「はい?」
「手の使い方、少し変わったわね」
ユウトは箸を持ったまま止まる。
「そうですか」
「ええ。大きくじゃないけど、前より迷いが少ない」
そう言われて、レイナまで身を乗り出した。
「え、もう変わってるんですか?」
「たぶん、昨日の整理が少し残ってるのよ」
マリナはそう言いながらも、どこか不思議そうだった。火曜の時点ではまだ崩れてばかりだったのに、一晩置いただけで日常の動きに変化が出ている。それが面白くもあり、少し嬉しくもあるのだろう。
ユウトは素直に驚いていた。
「自分じゃ全然分からないです」
「分からなくていいのかもしれないわね」
マリナが小さく言う。
「休んでる間に勝手に繋がる、って魔王さんが言ってたでしょう」
その言葉で、昨日の森での会話がはっきり蘇る。
明日は来んでええ。
今日教えたもんは二、三日で出来るもんやない。
休んでる間に勝手に繋がる。
師匠の軽い口調の中に、妙に重い実感があったのを思い出す。
「少し動いた方がいい気もするんですけど」
つい口に出した途端、マリナが即座に言った。
「だめ」
速かった。しかもきっぱりしている。
ユウトが目を瞬かせると、マリナは少しだけ言い過ぎたと思ったのか、咳払いをひとつしてから言い直した。
「今日は休む日よ。昨日、魔王さんも副官さんもそう言ってたでしょう」
「はい」
「休むのも修行なんでしょ」
その言い方に、レイナがすぐに笑う。
「先生、そこだけ綺麗に拾いますよね」
「大事なところだからよ」
返しながらも、マリナの頬はほんの少しだけ赤い。昨日のことを意識しているのか、それとも今の自分の言い方が少し強かったのを気にしているのか。たぶん両方だろう。
ダインがそこで短く言った。
「詰めても崩れる」
低く、淡々とした声だ。だが、その一言が一番よく効いた。
森で副官にやられた時の感覚がそのまま背中に戻る。あのまま無理に続けても、出来るようになる前に雑になるだけだろう。昨日の自分なら、それはもう十分に理解出来る。
「分かりました」
ユウトがそう言うと、マリナがようやく小さく息をついた。
朝食の後、借家の中には水曜らしいゆるい時間が流れ始めた。
レイナは洗い物へ向かい、マリナは卓の上を片付ける。ユウトも立ち上がって手伝おうとしたが、マリナに「重いものはいいから、今日は無理に動かない」と止められた。止められたものの、何もしないのも落ち着かない。結局、器を拭いたり、干していた布を畳んだり、軽い作業だけ手伝うことになる。
その何気ない動きの中でも、昨日の名残はたしかにあった。
布を畳む時、右で引き、左で押さえる。水差しを持ち上げる時、支える側と動かす側が自然に分かれている。さらに、床へ置いた籠をまたぐ時の足運びまで少し変わっていた。無意識のうちに重心を考えている。訓練の時ほど露骨ではないが、見ていれば分かる程度には違っている。
マリナはそれを何度か見つけ、そのたびに何も言わずに目だけを細めた。
レイナはもっと分かりやすい。
「本当にちょっと変わってますね」
洗い終わった器を布へ置きながら、にやにやしている。
「昨日だけでそんなになるんですか」
「昨日だけっていうか、ここまでの積み重ねでしょうね」
マリナが答える。
「でも、こういうのは本人が一番気づかないのよ」
「へえ」
レイナは面白がるようにユウトを見る。
「じゃあ、先生がずっと見てないと分からないですね」
その言い方に、マリナの手が止まりかけた。
「……別に、ずっと見る必要はないわよ」
「あるでしょ。パーティの指示役なんですから」
レイナはわざとらしく真面目な顔を作って言う。
それが余計に怪しい。
ユウトが首を傾げる。
「何か変なこと言ってるか?」
「言ってませんよ。私は真面目です」
絶対に真面目ではない顔だった。
そこでダインが立ち上がった。
「……俺は出る」
それだけで、レイナの口元が少しだけ和らぐ。ダインのこの感じを、全員よく知っているのだろう。
「どこ行くんですか、ダインさん」
ユウトが聞くと、ダインは戸口の方へ向かいながら短く答えた。
「装備を見る」
少し間を置いてから、さらに続ける。
「ついでに、細かい物もな」
レイナが小さく笑う。
「ダインさん、ああいうの好きですよね」
ダインは否定しない。ただ戸口で振り返りもせず、低くひとつだけ返した。
「……悪くない」
それだけ言うと、そのまま外へ出て行った。
大人だな、とユウトは思った。休みの日でも、ずっと借家の中にいるわけではない。自分の時間を持ち、自分の見たいものを見に行く。あの無口さのまま、ちゃんと生活をしているのが見える。
ダインがいなくなると、借家の中の空気はさらにやわらいだ。
昼前、三人は軽く外へ出ることにした。といっても遠出ではない。食材と日用品を少し見て、空気を入れ替える程度だ。休む日にわざわざ遠くまで行く理由はない。
交易都市の水曜は、火曜や週末と違って少し落ち着いている。人通りはあるが、急ぐ足音は少ない。店先から漂う匂いも、売るための勢いより生活のための温かさに近かった。
マリナは必要な物を見て回り、レイナはその横で余計な物まで見たがる。ユウトは袋持ちに徹していたが、重い物を取る時だけ無意識に身体の置き方が変わる。そのたびにマリナは少しだけ視線を向ける。気づいている。けれど口にはしない。
その途中で、見覚えのある顔に出会った。
酒場の常連だ。
昨日の帰り道、あの最悪の誤解をして去っていった男である。
向こうもこちらに気づき、一瞬だけ何とも言えない顔になった。からかうより先に、妙に気を遣ったような微妙な表情だ。
「おう」
気まずそうに片手を上げる。
マリナは、それだけで頬が熱くなるのを感じた。
常連は苦笑しながら言った。
「今日も……まあ、その、仲良くて何よりだな」
「ち、違うの!」
マリナが即座に反応する。昨日と同じ流れだ。
「昨日のも今日のも、そういうんじゃないの!」
「分かってるって」
ぜんぜん分かっていない顔で言う。
「若いんだから、そういう時もあるって」
「だから違うのに!」
レイナはもう肩を震わせている。ユウトだけが、ようやくそこまで来て少しずつ状況を繋ぎ始めていた。
「……昨日って、そんな風に見えてたのか」
「なにがあったんです?」
レイナが横から囁く。
常連はこれ以上触れるとまずいと思ったのだろう。気を遣ったつもりの曖昧な笑みを残して、そのまま足早に去っていった。
マリナは去っていく背中を見ながら、小さく肩を落とす。
「違うのに……」
その横顔が本気で困っていて、でも少しだけ可笑しくて、ユウトは思わず笑いそうになった。けれど笑ったら本気で怒られそうな気もして、ぎりぎりで止める。
借家へ戻る頃には、陽は少し傾き始めていた。
買ってきたものを卓へ置き、三人で軽く片付ける。ほどなくして、レイナがわざとらしいほど自然な声で言った。
「私、ちょっと外見てきますね」
マリナが振り返る。
「外ってどこを」
「その辺です」
曖昧すぎる答えを残して、レイナはさっさと戸を抜けていった。絶対に気を利かせたのだ。いや、半分は面白がっているだけかもしれないが。
借家の中が急に静かになる。
窓から差す光はやわらかく、卓の上には午後の落ち着いた影がある。さっきまでレイナの声があったせいで気にならなかった空気が、今になって少しだけ濃くなった。
マリナが先に口を開いた。
「えっと、昨日のことなんだけど」
その言い方に、ユウトは自然と姿勢を正した。
「はい」
返事がやけに真面目になる。
マリナは視線を少しだけ外した。
「その……あまり気にしないで」
言ってから自分でも曖昧だと思ったのか、少しだけ眉を寄せる。
「気にしないで、っていうのも変ね」
ユウトは少しだけ考えた。
昨日の帰り道。ぼんやりとした記憶の中に、先生の距離が近かった感覚だけが残っている。抱きつかれたことも、たぶん本当だ。けれど、からかわれたのか、本気だったのか、そこまでは分からない。
それでも、答えは自然に出た。
「……嬉しかったです」
マリナの動きが止まる。
顔を上げたまま、数秒だけ何も言わない。
ユウトは言った後で、自分でもかなり真っ直ぐな事を口にした気がして、少しだけ視線を逸らした。けれど嘘ではない。からかわれたとしても、嬉しかったのは事実だった。
マリナはようやく小さく息をついた。
「そう」
それだけだ。けれど、その一言は妙に柔らかかった。
しばらく沈黙が続く。
嫌な沈黙ではない。むしろ、何かひとつだけ前より近くなったせいで、どう言葉を置けばいいか分からなくなったような沈黙だった。
やがてユウトが、手を軽く動かした。
右手を上げる。次に左。足を少しだけ引く。何かをするわけではない。昨日までの感覚を確かめるだけの、ごく小さな動きだ。
「少しだけ」
ユウトは自分の手を見ながら言った。
「まとまってきました」
マリナがその手元を見る。
たしかに昨日より自然だ。意識しすぎていたぎこちなさが、少しだけ日常の動きへ馴染んでいる。右と左を別々に捉えていた感覚が、ようやく身体の中で喧嘩せず並び始めたのだろう。
「だから言ったでしょ」
マリナが言う。
「休むのも必要なのよ」
その声には、先生らしい落ち着きが戻っていた。
ユウトは小さく笑う。
「先生、そこはちゃんと拾いますよね」
「当然よ。魔王さんが珍しくまともなことを言ったんだもの」
その言い方に二人とも少しだけ笑う。
窓の外では、傾いた光がゆっくり色を変えていた。水曜の休みは、派手なことは何もない。けれど何もないからこそ、昨日までのものが身体の中で静かに繋がっていく。
明日は木曜だ。店の準備があり、また修行もある。今日ほど静かな時間は、しばらくないかもしれない。
それでも今は、それでよかった。
休んだことで、たしかに何かがまとまり始めている。
それを確かめるのは、明日からでいい。




